目次  


 体育祭の振替休日で、その日、依良と一馬は何をするでもなく居間に陣取っていた。
 隆久は朝から隣りの神社で神主としての仕事をこなしている。優子は普段どおりに会社へと出勤していった。
 雨がしとしとと降っている休日の午後ほど気だるいものはない。
 依良は今朝の朝刊を見るともなしにめくりながら、テーブルの向こうの一馬をうかがった。
 ソファにごろりとくつろいだ彼は、テレビのリモコン片手にさっきからチャンネルを絶え間なく変えている。しょせん平日の午後、二時を過ぎた頃である。彼を満足させられるような番組がやっているはずもない。
 ころころと変わる画面にいい加減苛立ち、依良が制止をかけようとした時である。

『あきらさんっ! あなただったのですか……!?』

 ビクッと一馬の手が止まる。画面にはちょうど、平日の午後にふさわしい殺人事件の犯人と、彼女に迫る男が映っていた。
『あきらさん、あなたは、あなただけは……こんなことをする人じゃ――』
『村里さん、女は誰だって…他人には見せない裏の顔があるものよ』
 詰め寄る男、村里から、真犯人であろう女は一歩身を引く。
 背後は切り立った崖だった。おそらくあと三分ほどで殺人の動機が明かされ、女は飛び降りようとするのだろう。村里はそれを止め、「あなたは生きて罪を償わなくてはいけない」などと諭し、泣き崩れる女を抱きしめる。そこへパトカーのサイレンが聞こえてきて……というお決まりのパターンに違いない。
 まさか一馬がそんな話に興味を示したとは思えなかった。おそらく「晶」という名だ。
 その名は依良もしっかり覚えていた。昨日、桐谷が口にした名だ。
 一馬は心当たりがないらしいが、本来ならば覚えていてしかるべき名のようだった。

『うるさいわね! 一人にしてちょうだい! どうせ私なんかより花屋のあの子が大事なんでしょう!?』

 突然犯人の女が叫んだ。
 ちゃんと見ていたわけではないが、どこを探したら容疑者である人物を一人崖の上に残して立ち去る探偵役がいるだろう。ドラマの構成に呆れを感じる依良だったが、一馬は違った。
 あ、と小さく呟いてリモコンを取り落とした彼に、依良は怪訝そうな顔になる。
「………なに?」
 不信もあらわな声でたずねる少女に、一馬は答えなかった。代わりに考え込むように視線を伏せる。整った顔をしているが、その眉間に幾本ものしわが刻まれるのを少女が見逃すはずはなかった。
「どうしたわけ?」
 逆らいがたい声音に、一馬はとうとう顔を上げる。見たこともない青年の顔に、依良は眉をひそめる。
 なんとも言えない表情だった。彼に限ってはあり得ない気もするが、あえていうなら「困った顔」だ。
 目が合ったまま一向に口を開く気配のないことに、少女は焦れた。
「言いなさいよ、気になるでしょ!? ……もしかして、『晶』って人のこと?」
 明らかに一馬に動揺が走る。いまさら否定した所でもはや何の意味もなかった。
 依良にしてみればここまでうろたえている彼を見たのは初めてで、笑う顔をどうにもできなかった。椅子から立ち上がりソファへと向う。一馬は彼女を見ようとしなかった。
「思い出したんでしょ、晶さんのこと」
「……違うって」
 吐き出すように言う一馬。その横で依良は大仰に手を広げて見せた。
「あーっ、怖かった! 誰かさんは『命に代えても必ず守る』なんて言っときながら来るの遅いし、その上狙われたのもその誰かさんのせいだったんだもの! あぁ本当に怖かった。昨日は怖くて眠れなかったし、せっかく体育祭優勝したのに喜びも半減だわ!」
「……嘘言え。昨日は爆睡したうえ今日は起きたのついさっきだろ。それに死ぬほど喜んでたし、あれで半減だって言うなら本当に喜んだら興奮しすぎで血管切れて死ぬぜ。あと俺は『命に代えても』なんて言ってねえし」
「どうでも良いからさっさと言いなさいよこのバカ。危険にさらされた私には聞く権利があるでしょうが、晶さんってあんたの何!?」
「……………」
「早く!」
 嫌そうに目をそらす一馬を押しやり、依良はソファに腰掛ける。

『村里さん! 私、私……もうお豆腐屋には――』

 憔悴しきった女の声が途切れた。依良が足で床に落ちたリモコンのスイッチを押したのだ。
 黒くなった画面に、少女と青年の姿が映りこむ。少女の無言のさいそくに根負けしたのか、一馬はゆっくりと、静かに口を開いた。



 あの日も、こんな風に音もなく雨は降っていた。
 辺りは軽く靄のかかった状態で、決まってこんな天気の日は一馬に「憂鬱」というものしか運んではこなかった。
 彼が意思をもって自由に身動きがとれるということはすなわち、契約の名のもとに守ると誓った阿古屋の人間がいる時である。力を持った人間、つまり人形師と接触して初めて、一馬は自らでものを考え、行動する術を手にできる。そうでなければただの動かぬ人形でしかない。
 当時、彼の守っていた人形師はまだ若い女性で。力を持った多くの阿古屋と同じように、自分の未来に不安しか抱えてはいなかった。いや、不安などという生優しいものではない。それはほとんど恐怖に近かった。
 なにしろ阿古屋の力を与えられた者は、そのほとんどが三十歳になる前に死を迎えるからだ。まれに永く生きる場合もあるが、どれだけ命を永らえさせたとしても「死」を間近に感じながらではとても幸せとは言えない。
 だから阿古屋の人間にとって十六歳の誕生日は「お祝い」ではない。天国か地獄か、その境目のようなものだった。
 力がないからといって一概に安全というわけにはいかないが、格段に恐怖は減る。

 「敵」が狙うのは阿古屋の力であり、阿古屋の人間ではない。
 この場合「敵」とは「阿古屋以外の人間全て」に置き換えられた。
 大げさなと笑うものもいるかもしれない。しかしとうの阿古屋たちは大真面目だった。徹底的に他者を排除した結果、広大な屋敷に暮らすのは上から下まで――女中から庭師の一人に至るまで全て阿古屋の人間。
 今でこそ各地にちりぢりになって居場所もわからぬ阿古屋だが、ほんの六十年前まではちょっとした勢力だった。
 一馬が守っていた人形師は自らの不幸を嘆き、呪い、泣き伏しながら毎日を過ごす―― 一馬にとっては一番苦手の類の女だった。

 阿古屋に正当なる主はいない。一つの村のような一族の敷地で、みながそれぞれに生活している。
 完全なる自活はさすがに無理で、食料その他の取引は多少あった。生計のほとんどは阿古屋の不思議の力だった。
 それを用い、命を与えられた人形は数こそ少ないが、馬鹿のような値段で貴族や金持ちの物好きが買っていく。ゆえに人形師は閉鎖的な一族の中でも確かな地位を約束された。が、それを喜ぶ人形師はいない。
 高い塀で外界を拒絶した屋敷中、一族中にはいつも鬱々とした暗々たる空気が流れており、皆が皆まるで病にでもかかっているようだった。
 その中にあって、それでもなお光を失わない者は確かにいた。

「それが晶だった」

 感情の見えない顔を少しうつむけて一馬は言う。依良は黙って先をうながした。
「………あいつは本当に、なんていうか変わってる奴で、辛気臭い連中に囲まれてるわりに……いやつまり、変な奴だったんだ」
「そこまで覚えてるくせに、なんで名前言われてピンとこないのよ」
 依良の鋭い問いに、一馬は言葉を詰まらせた。
「……名前で、呼んだことが、なかったんだから仕方ねえだろ」
「なんて呼んでたの?」
「…………………チビ」
 押し出すような声で言った一馬の顔は不機嫌そうに見える。
「………で、そのチビさんは一体何なの?」
「こいつも人形師だった」
 え、と重ねて問おうとする少女を目だけで制し、一馬は続けた。

 人形師は何も一度に一人と決まっているわけではない。素質のある者ならば誰でも、またどこで何をしていようが生まれて十六年が経ったその日に力が与えられる。
 多いときは同時に十人、少ない時は一人二人、全くいない場合もあるのだ。
 当時は三人。
「俺を呼び覚ました女に、晶に……男が一人だ」
「あんたは一人で三人を守るわけ?」
 たった一人で三人を、しかも一度に十人も人形師が存在する時もあるというのだから、一馬の負担も大きかったろうという意味だったが、青年はこれには首を振った。
「俺が守るのは俺を目覚めさせた一人だけだ」
「……晶って人は?」
「管轄外だな」
 あっさり言ってのけた一馬に、少女の視線は険しくなる。無言の非難を一心に受けつつ、
「でも、できれば守ってやりたかった」
「…………………」

 守れなかったのか、とはとても聞けなかった。






←十場  目次↑  十二場→