青年は湧きかえる憤りをつとめて抑えつつ、雨にぬれるのも構わないで目的地へと急いだ。別段時間に追われているわけではなかったが、やり場のない怒りが――いや怒りとも呼べない抑圧された衝動がとにかく彼を先へと促す。
人は多くいるはずなのに、その気配はまるでない。平素から彼が「陰気くさい」と言ってはばからない阿古屋の屋敷は、外敵から身を守るため迷路のような構造になっている。しかし彼にとっては意味のないことだった。
まるで怖がっているように、萎縮しているように寄り集まっている建物の屋根から屋根へ、黒い髪をたなびかせ彼は急ぐ。入り組んだ道など関係なく、ただ目的の屋根だけを目指して。
やがて流れるような動作で音もなく地面に飛び降りた彼の背に、軽やかな女の声がかかった。
「……おや、一馬。また逃げ出してきたのか?」
「うるさい、チビ。……お前こそまた一人で外に出やがって、そのうち小うるさい婆あどもに屋敷の奥に閉じ込められるぞ」
呆れと安堵を半々にしたようなため息を一つついて、青年は少女の座る縁側へ自分も腰を下ろす。軒があるとはいえ降りしきる雨から完全に身を守ることなどできず、いつからここにいたのか知れないが、少女の羽織る着物には細かい水滴がびっしりと付いていた。
断りもなく自らの隣へ腰かけた一馬を、少女もまた当然のように受け入れる。視線を再び白く靄(のかかる雨の中へと移して、静かに彼女は口を開いた。しっとりとした雨の日に馴染む、少し掠れた低い声。
「一馬こそ、弥矢(殿をお一人にしてこんな所へ……」
苦笑を浮かべる少女の言葉に、一馬はふんと鼻をならし、
「俺は確かにあいつを守るとは誓約したが、あいつの子守をするとは言ってない。こう毎度毎度、顔を合わすたびめそめそ泣かれて恨み言を聞かされる筋合いはねえよ」
「……弥矢殿は不安でいらっしゃるのだよ。人形師は、阿古屋の力を我が物にと企む者たちから絶えず狙われているのだ。たとえこの屋敷が大勢の人形に守られていようと、年頃の娘ならば不安に決まっておる」
そう諭す少女の横で青年がまたかすかに息を漏らすが、それには多分に気楽さが含まれていた。
「ならお前は何なんだよ」
少女はかすかに笑う。
「私は神経の図太い女だからな。私などと一緒にされては弥矢殿が気の毒だ」
屈託のない彼女の笑い声は気鬱な雰囲気を吹き飛ばす。雨の湿気も、晴れない心も嘘のように。
一馬もつられて口元を緩めたが、しかしふと真顔になって訊ねた。
「………おいチビ、体は?」
笑顔をのせたままの顔で少女は答える。
「至って健康。百歳まで生きるつもりだったのだから、人形の一つや二つに力を与えたところで、どうということはないわ」
そうか、と呟いた一馬の声は雨の音にまぎれて消えた。
虚勢だということは嫌というほど分かっていた。
華のような笑顔はなるほど少女らしいものだが、その体は年頃の女のものではない。本来瑞々しさに溢れているはずの、生気に満ちているはずの少女のものではない。十九になるというのに背は低く、柔らかさもとうになく、細い、少し力を入れれば容易く折れてしまいそうな、悲しくなるほど頼りない手首が着物からのぞいていた。
それでも一馬は重ねて問うことはせず、再び黙って屋敷を滑る雨に視線を移す。
「なあ一馬」
空白の一馬の思考に、少女の言葉はすぐには浸透しない。鈍い動作で一馬は振り返る。
やや遅れて脳へ到達した少女の呼びかけは、今までの明るい調子とはどこか異なる、真剣な響きをはらんでいた。
「結婚しようと思う」
さらりと言ってのけた少女は、見れば満面の笑みを浮かべている。一馬は知らずつめていた息を一気に吐きだし、
「あの堅物男とか……」
声に呆れが混じるのをどうにもできない。少女は小さくうなずいた。
「そうだ。堅物同士、うまくいくと思うんだ」
「反対されるのは承知の上か」
「承知の上だ」
最後の言葉をしばし吟味するような沈黙を落とした後、「なら、いい」とぼそりと落とされた一馬の呟きを最後に、それきり二人とも何も言わなかった。ただ、細い雨が地面に吸い込まれていく音を、聞くともなしに聞いていた。
訳もなく変化を嫌う、というより恐怖さえする一族にあっては、そんなことは許されないだろう。彼女とて百も承知のはずの事実。その上での、決意。
空は暗い。
それ以上に、ここにいる人間の心は暗い。永遠の闇に閉ざされているように。それでも――
「おいチビ、……言っちゃあなんだが、あいつのどこがそんなに――……」
眉を寄せて珍しく口ごもった一馬のすぐ横で、からからと元気の良い笑い声が響く。
重くのしかかったありとあらゆるしがらみを全て忘れさせるような。無造作にほどいて捨ててしまうような。どこにでもいる溌剌(とした少女のように、彼女は笑った。
「たった今、お前、『なら良い』と言ったばかりではないか! ……まったく、失礼なやつだな。あ奴のどこが、か。はて、どこが良いのだろうな」
「……そっちも十分失礼だろうが」
むすっと呟いて、さらに重ねてどこが良いのか問おうとした一馬の耳に、この場にひどく不似合いな音が届いた。
外界から隔絶された無音の地に、場違いなほどの音は、すでに轟音と形容できる。
甲高い耳障りなその金属音は一定の間隔でもって鳴り続けている。
他者との交わりを極端に拒んだ阿古屋の人間がこれを鳴らすのは、この地に敵という名の侵入者を許した時。どうしようもなくおびえた獣があげる悲痛な叫びだった。
一馬の全身に緊張よりも先に殺気がほとばしる。
同時に少女が素早く立ち上がり、そして言い放った。
「一馬!? 何をしている、さっさと弥矢殿の所へお戻り!」
つい先ほどまでのあの柔和な雰囲気は微塵も残ってはいなかった。
一馬の黒い瞳に、厳しい表情で見下ろしてくる彼女が映る。小さな体が今は一人前の女のように大きく見え、堂々としたその姿に少女らしさは感じられない。
警報が間断なく濃霧を切り裂く。
それでも変わらず阿古屋の人間は静かだ。ただ屋敷の奥で震える無力な気配が色濃くあふれ出しているだけ。
「早く!」
鋭い一喝に弾かれて一馬の体は霧の中へ飛び出し、一瞬で乳白色の空気にまぎれ見えなくなる。
しばらく彼が消えたあたりを睨むようにしていた彼女が縁側に背を向けたときだった。
死と危険と隣り合わせの人生の中で、否応なく鍛えられた感覚が警報を鳴らしたときはもう遅い。
振り返った彼女の目の前には、かつて自らが作り顔も知らない人の手に渡った……見覚えのある人形の顔があった。
必死に取りすがってくる女を鬱陶(しそうに払いのけたその手で、襲いくる塊にいとも簡単に穴を開ける。
ちっ、という小さな舌打ちは誰にも聞こえない。すでに本人にも届くことなく打撃音に呑まれてしまう。
人の形を模したそれに流れる血があったならば、彼が立つ畳は一面真っ赤に彩られていたはずだ。しかし今床を覆っているのは砕け散った木片、侵入者を模(っていたもの。完全に「人」になりきれるほどの知能を持たない人形たちは、虚ろな瞳を閉じることさえ出来ずに倒れている。
自らと同じ存在であるそれらの成れの果てに感慨を覚える様子もなく、ひたすら纏(わり付いてくる人形に力を振るう。圧倒的な力の差は改めて比べるまでもなく。組み立てられたままの木の肌に一馬の拳が食い込む。衝撃はとうてい防ぎきれるものではなかったらしく、殴られた少年の背丈ほどの人形はそのまま障子ごと外の地面に飛ばされた。
背後に迫った気配を振り向きざまに蹴り上げる。潰れた人形は一切の力を失って、先にあった人形の上へガシャリと音を立てて倒れこんだ。
それが最後の襲撃者だった。
「…くそっ、一体どっからこんなに湧いて出た!」
希少価値の阿古屋の人形がこれだけの量集まっているなどあり得ない。あってはいけないことだ。部屋に散らばる数体の木組みを見下ろして一馬は毒づいた。さっと辺りを見渡して、もうそれ以上の侵入者がいないことを確かめる。気配も全く感じられない。
「おい、さっさと出てこい」
襖(の隙間からのぞいていた目が動揺に揺れた。待ちきれないというように荒々しく一馬の手が襖を蹴破る。
「この女つれて奥に隠れてろ。俺はもう行く」
ひっ、と喉を鳴らす老婆に、足にしがみついて震えている女を押し付けた。老婆は両手で女を抱きかかえるが、とうの彼女の手が一馬を放さない。忌々しそうに眉を寄せ、さらに強く一馬は女の着物を引っ張った。
「放せ、弥矢。もう敵はいねぇんだ。お前が襲われたならあいつも危な――」
その瞬間、女の手が信じられないほどの力で一馬の足をつかんだ。伸びた爪が人にそっくりの一馬の皮膚をぎりぎりと締め付ける。彼が人形でなければ血が滲むほどの力だった。それでも一馬は眉一つ動かさない。見上げる女の瞳は哀れで惨めに光っていた。
「―――ッ!! か、一馬一馬一馬一馬ぁぁぁっ!! 嫌だ嫌だ行くなっ! 行かないで! かず…一馬、嫌だ、まだ来るまたきっと襲われる一人にしないで怖い怖い怖い一馬一馬あんな女など放って――」
「……っるせぇんだよ!!」
びくりと一つ身を揺らし、女は口を開けたまま黙る。
「そんなに置いていかれたくなきゃ一緒に来いよ。俺は行く」
怒鳴られ、女がしばし我を忘れたその隙に、一馬は静かに病的にか細い手からおのれの足を引き抜いた。
「――か、一馬………」
「じゃあ後は頼む」
がっしりと女を抱えている老婆に一言そう残すと、
「一馬ぁぁぁぁぁっ!!!」
背中に響く狂った絶叫を振り切って彼は外へ飛び出す。
さっきより一層激しくなった雨が全身を打ち付け、確かにある彼の木組みの部分に染み込んでいった。
「……無茶したな」
「――……か、ずま………」
半ば呆然と落とされた呟き。返されたのは吐息に混じった弱々しい声。
一拍置いて一馬の足が踏み出される。地面に力なく横たわっている少女へ駆け寄ってすぐさま抱き起こした。
「なんで……っ、嘘だろおい…」
こんなはずじゃなかったと、かかえる腕に生暖かい液体を感じながら思った。一体どこで判断を誤ったのか。
いつだって一馬の優先順位は自分を呼び起こした人形師が第一で。連れて行かなかったのも弥矢を最優先に考えたから。それでも彼女を見捨てるつもりなどなかったのに。
侵入者の目的は人形師の殺害ではなく誘拐だったはずだから。そんな侵入者に遅れをとるような少女ではなかったから。
現に弥矢を襲った人形たちは彼女を傷つけようとはしてなかったのだ。それがなぜ、同じ人形師であるこの少女には牙を剥いたのか。
「ちょっと待て、今誰か呼んでくる」
冷たい雨が無情にも打ち付ける。でも、少女の体が冷たいのは、その雨のせいではない。
軽い体をおいて立ち上がろうとした彼の腕がかすかな、しかし無視できない力で引きとめられた。
「待て……もう遅い。手遅れだ。……そんな顔を、するな」
苦しそうに掠れた声をしておきながら、それでもなお笑顔を浮かべる。見えない力に縫い付けられたように、一馬はそれ以上動けなかった。立ち尽くす彼をじっと見つめる瞳から、輝きが少しずつ失われていく。
少女は短く嘆息して、「あいつに……」雨音にかき消されるほど小さな声で呟く。「あいつに、どう…言い訳しようか」
「おい……待てよ。呼んでくる、あいつ呼んで――」
「一馬……ひ、とつ…頼まれ……」
「何だよ!? 早く言え!!」
腕の中でついえていく命。守れなかった命。幸せな未来が、いま一緒に崩れていく。
少女の口が動いたが、すでにそこから音は生まれず。慌てて一馬は耳を寄せた。
吐息とともに吐き出された最期の言葉。それを確かに受け取った直後に、泣き笑い一つを残して少女は息を引き取った。
一体どこで判断を誤ったのか。
雨が容赦なく彼と、彼の腕の中で眠る少女に打ち付ける。腕の中に熱はなく、彼自身にもまた熱などなく。これだけの騒ぎがあったのに屋敷は依然として沈黙を守り、その静寂を破る一つの足音に一馬はゆるゆると顔を上げた。
足音はすぐ傍でぴたりと止まる。上げた視線の先にいたのは一人の青年。
その顔からは一切の表情が消え去って、ただ黒い瞳に一馬に抱きかかえられた少女が映っているだけ。
伝えなくてはならないことがあった。
託された言葉を伝えなくてはならなかった。だからもう二度と開かないのではと思えるほど重い口を開く。
「チビが、お前に……」
「……晶」
感情の抜け落ちた呟きは重く、続くはずの言葉を一馬から奪った。
「なんで……」
青年の視界に一馬など入っていない。仕方なく「おい」と呼びかけ、注意を向けさせようとしたその刹那。
「―――ッ!?」
ドクン、とあるはずのない心臓が震える。
体中が電撃が走りぬけたごとくに震え、たまらず一馬は少女を地面に横たえた。
この感覚は覚えている。嫌というほど知っている。
ああ……
「……み、や………?」
伝えなくてはならないことがある。それなのに思考は真っ黒に染まっていく。
視界の端に、呆然とたたずむ青年がちらつく。
人形師が死んだのだ。
彼を呼び起こした人形師が。弥矢という守るべき存在を亡くした一馬に、存在理由などもう無かった。
まだだ、まだ伝えなくてはいけないことが……。そう考えることさえままならない。浮かんだ端から消えていく思考を必死で引き寄せるその間にも、視界は闇に閉ざされていった。
「待っ………お前に―――」
最後に見たのは青年の、憎悪に染まった二つの瞳。