からりと憎らしいほどに晴れた空は、窓際の席の依良に容赦なく日の光を浴びせていた。
もうすぐ冬になるというのに、この暑さはないだろう。
心の中で毒づく依良の横では、早くも葵が安らかな寝息を立てている。
午後の教室にやる気というものは感じられない。緩みきった空気の中で、依良は自分が睡魔に襲われていないという事実に改めて驚く。
普段なら、こんな天気の日は真っ先に机に伏せっていると言うのに、今日の彼女の頭は冴えわたっていた。
昨日の一馬の話が頭から離れない。
空白の時間に、ふと思い出しては何とも言えない気分になる。もやもやしたものが彼女の体の中を巡り、一日経っても消える気配を見せず、ともすれば授業中だというのに机を蹴り飛ばしてしまいそうだった。
その衝動を握りこぶしの中に必死で抑え込むと、視線を前方の少年、桐谷に向ける。
『晶の婚約者、それが――……桐谷だ』
そう告げられた時の衝撃はまだ彼女の中で新しい。思い出してまた衝動がよみがえってくる。
彼の背中に突き刺すような視線を浴びせてから、依良はゆっくり目を閉じた。
放課後までの辛抱だ。
しかし、あと一時間近く我慢が続くかは、疑問の残るところであった。
「あの馬鹿が……」
黄色く紅葉しはじめた葉は、青年の悪態をのみ込んで風に揺れていた。
もう少し経てば、この場所も彼の身を隠せなくなるだろう。舞い落ちる葉が日増しに増え、枝に座る彼の体を少しずつ顕わにしている。
一馬の眉間には幾本ものしわが刻まれていた。彼の不機嫌さをそのまま表したそれは、少女と出会った日から休むことなく刻まれ続けている。
いつか消えなくなるのではないか、と優子が心配そうに呟いたのは記憶に新しい。
「……ったく、なんであいつが怒るんだよ。意味が分かんねぇ」
ぼやきつつも視線はずっと少女に向けられ、それが揺らぐことはなかった。
彼の瞳に小さく映る少女は、なぜか昨日、一馬の話を聞いてからというもの最悪の機嫌を保ち続けている。
苛立たせる原因は自分のした話にあるとしか思えなかったが、どこをどうすれば彼女が怒るのか分からなかった。
いつものように反発しあうことさえできず、一馬は自身の戸惑いを誤魔化すしかない。
もやもやとした感情に任せて手当たり次第に力を振るえば、さぞやいいストレス発散になるだろう。だが今回、どうにも暴れる気が起こらなかった。
昨晩から途切れることのなかった緊張を無理やりほぐすと、青年は力なく幹に背を預けた。深く深く息を吐き、気だるそうに窓際の少女を見やる。
「分かんねえ女……」
小さく呟くと、それに応えるかのように周りの葉が揺れ、乾いた音を立てた。
冬の音だった。
その日、授業の終わりを告げるチャイムがなると同時に依良は席を立った。
一直線に桐谷のもとへ向かおうとした彼女を、同じく立ち上がったクラスメイトたちが邪魔をする。さすがに押しのけるわけにはいかない。かいくぐって進もうとする彼女の先で、桐谷は教室を後にしようとしていた。
逃がしてたまるかとばかりに駆ける。途中何人かにぶつかったが気づく余裕もなかった。
「待ちなさいよ!」
桐谷の足が、屋上へ続く階段の途中で止まる。
見上げるかたちになった依良だが、その瞳には一欠けらの逡巡も含まれていない。それでもやはり居心地は悪かったのか、睨むように少年を見上げながらゆっくり段を上って彼と並んだ。
「あんたが一馬を憎むのは違うでしょ!?」
唐突に投げられた言葉を噛み砕くのに、少年には少しの時間が必要だった。やがて理解したのかしないのか、眉間にしわを寄せちょうど同じところにある依良の目を見やる。
そのとき初めて少年の瞳をちゃんと見ることが出来た。澄んだ、どこまでも澄み切った瞳は、その奥に感情があるなど嘘のようで。あまりに綺麗なガラス細工は、一馬のそれより格段に人形じみていた。
どれくらいそうしていたのかは知れない。時間にすれば数秒のことだろう。
次の瞬間つかまれた手首の痛さに、依良の思考が呼び戻されたときはもう遅い。
瞬きして再び見た少年の瞳には明らかな怒りの感情があって。戸惑いを感じるより先に力任せに引っ張られて階段を上るしかなかった。
屋上への扉の前。他の生徒の話し声は遠くに聞こえ、日常から遮断されたそこは少し薄暗い。
少女の手首を握る手はそのままに、桐谷が初めて口を開いた。押し殺したような声だった。
「何を聞いた」
「………放してよ。手、痛いんだけど」
「何を聞いた。あいつから、何を聞いた」
鬼気迫る桐谷の瞳から、もう目をそらせない。
しかし少女は怯むどころかさらに上をいく迫力で睨み返した。
湧き上がるこの感情に名前なんて付けられない。
ひどく偏った見方しかしていないのも分かっていた。
それでも衝動は止められなかった。
「一馬を憎むのはお門違いだって言ってんのよ!!」
思わず大声で叫んでいた。
人に聞かれるとか、騒ぎになるだとかいうことはすでに考えてさえいなかった。
「あいつは自分を呼び覚ました人形師一人を優先しなくちゃいけないし、そのとき守ってたのは晶さんじゃなかった。だけど守ろうとしてたんじゃない。……だれが悪いとか、だれが間違ってたとか、そんなの分かんないし……分かんないけど、でもあんたが一馬を憎むのは違うでしょ!? あいつは、晶さんを見殺しにしたんじゃない。ちゃんと守ろうとしてたのよ、だけど――」
「だが、それが真実だったところで、晶が戻ってくるわけではない」
「じゃあ、どうすれば晶さんがもどってくるわけ!?」
依良の空いている左手が桐谷の胸倉をつかんだ。ボタンがはじけ飛ぶのも構わずに、ぐいっと引き寄せ、
「あいつを、一馬をどうすれば晶さんが戻ってくるわけ?」
静かな言葉は虚空に漂う。
空白の時を裂いて、少年の掠れた声が落とされる。
「……お前に何がわかる」
「私に何かがわかると思ってんの? バカ」
間髪いれずに返された言葉は理不尽極まりないものだったが、桐谷は表情を変えなかった。
「わかる訳ないじゃない。その場にいないんだし、晶さんなんて会ったことないし」
「ならば――」
言いかけた桐谷の言葉を、少女は無造作に切って捨てる。
「そうね。分かってることといえば、一人遺した婚約者に、自分のことを守ってくれなかった一馬を憎んで、殺してもらって……そんで喜ぶような女が晶さんってことくらい?」
「貴様!!晶はそんなことで喜ぶはずが――」
「ないなら、なんで、あんたはこんなことしてんのよ!!」
「………………ッ」
言葉に詰まった彼を待つ気は依良にはなかった。胸倉をつかむ手に自然に力が入る。
「私がその晶さんだったら、こんなバカらしいことやめにしてもらいたいわね。押し付けがましいっつーの!! このジメジメ男! 八十六年もジメジメジメジメしてんじゃないわよ! 自分の悔しさは自分で何とかしなさいよッ!!」
「その辺にしとけ」
妙に落ち着いた声とともに、少年の胸倉をつかんでいた依良の手が外される。
彼女の手首をつかんでいた手は既に解かれていて。一回り大きな手が依良の手を握ると同時に、桐谷は力なく壁に寄りかかった。
一気に気が抜けてしまった依良も、ゆるい動作で自分の手を握る腕をたどる。それが一馬だと確認しても、しばらく無言で彼を見つめていた。
「さっきのお前、晶に似てる」
「…………え」
絡まりあった思考を解すのは至難のわざで、言われた言葉は依良を混乱させる。
妙に落ち着いている一馬の気配が不思議で。無表情なのに今にも微笑しそうに思える彼の顔から目が離せなかった。
心ここにあらずで、それでもやっとで切り替えす。
「……晶さんって、おしとやかな――」
「馬鹿言え。おしとやかとは対極の位置にいる奴だ。さっきお前が言ってたようなこと、平気で言うやつだよ」
「………………」
想像していた、病弱な雨の中の少女が崩れていく。すっかり閉口してしまった依良から、一馬は視線を移した。
「悪かった」
視線の先には半ば放心状態の桐谷がいて。
伏した目に感情はうかがえない。一馬の言葉にも反応を返さず、少年は黙って床を見つめていた。
「あいつの、晶の名前……思い出せなくて悪かったな。一つ言っとくが、名前は思い出せなかったが、忘れたことねえからな」
そこまで言ってから、言いにくそうに眉を寄せる。依良の手を握る力が少し強くなった。
「ずっと、お前に言わなきゃならないことがあった。あいつが最期にお前に言った言葉だ」
俯いていた少年の顔が、緩慢な動作ながらも持ち上がる。
一呼吸おいて、一馬は言う。
八十六年の間行き場のなかった一つの言葉が、想いが、あるべき場所へ還っていく。
行くぞ、とぶっきらぼうに言って一馬は依良を引いて階段を下りていった。
取り残された少年は今度こそ力を失い、ずるずると座り込む。そのまま顔をうずめると、声も立てずに静かに涙をこぼした。
「ねえ、」
「…………」
「ねえったら、ちょっと、放してよ……」
後から歩く依良のことを忘れてしまったかのように、一馬はずんずん先を急ぐ。途中何人かの生徒に呼び止められたが応える間もなく、引かれるままに校舎を出て裏庭でやっと青年は立ち止まった。
「な、何とか言ったらどうなのよ……」
不機嫌なのとは違う。
いつもとは違う彼の様子に依良の調子まで狂っていた。
「お前、酷いやつだな」
「…………は?」
期待していただけに反応は遅れる。どこか笑っているような、初めて聴く声だった。
「あそこまで暴言吐くやつは初めて見た。見直した」
「ぜっんぜん褒められてない気がするんだけど」
やはり思い過ごしだったのだ。一馬がいつもと違うなんて。
そう思い直すと依良の反応は早かった。全くいつもの通りになった少女は眉を寄せて反論する。
「だいたい今回もあんた来るの遅くなかった?」
「うっせーよ。……帰るぞ」
「荷物まだ教室」
「何ぐずぐずしてんだよ馬鹿」
「あんたが! あんたが勝手に引っ張って来たんでしょ!?」
「あー…はいはい。早く取って来いよ」
少女はまだ何か言い募っていたが、最後に「バカ」と一言言うと校舎の中へ駆けていった。
再び静かになった裏庭で一馬は一人佇んでいた。秋の風が髪を撫でていく。
湧き上がるこの感情をどう扱っていいか解からずに、青年はただ佇んでいた。