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 その日の空は灰色で、昨日とは打って変わって肌をちくちく刺すような冷たい風が、依良の髪をなでていった。
 どこか不安をかきたてるその風は、日常を取り戻したはずの彼女の心を荒波だてる。疑念を振り払うように視線は隣の葵に向けられた。
 何、と視線に気づいた葵が小首をかしげる。何でもないのだと目だけで応えると、依良は再び窓の外へ顔を向けた。

 これ以上ないというほど親しい関係にある友人だった。
 二人の間に、意図的に隠そうとする秘密ごとなど、思い返すかぎり無いといってよかった。
 葵は一馬について、あれから何も言ってこない。
 ほのめかしてもこないということは、彼女の答えはただ一つ。
 依良が言うまで待つ、ということだ。
 あの疑惑だらけの「留学生」について、言うも言わないも全て依良の判断に任せるということである。
 長い付き合いの依良には、葵の考えていることは大体分かった。だが、いまだにどうするか決めかねていた。
 話すことによって、自分たち二人の関係がどうこうなるとは微塵も思わない。ただ、問題の渦中にこの友人を巻き込むことが果たして得策かどうかだけが気になっているのだ。
 ただでさえ一度死にかけているのである。
 これからもたびたび問題は起こるだろうし、この自分以上に強情な友人の性格上、危ないからじっとしておけと言っても首を突っ込むのは必至だろう。
 だからといって隠し事をするのも面倒くさくてしょうがない。
 どうしたものか。即断即決の彼女にしては珍しく一日中悩み続け、気付けば放課後になっていた。

 我に返ったのは、両手に雑巾を持ち窓枠を拭いている時だ。
 いつ授業が終わったのかも定かではない。ぼんやりした頭のまま、惰性で動かしている手を止め窓の外を見やる。どこかに一馬がいるはずだった。見つけようと思ったわけではないが、無意識のうちに目が探してしまう。
 どちらかと言えば「田舎」と呼ばれる部類にはいるこの土地だ。それなりに敷地は広いし、校庭や中庭は無駄に大きい。今彼女が見下ろしている裏庭にいたっては手入れが不十分で草も木も伸び放題になっていた。そのどれかに一馬がいるのだろう。
 知らず知らずのうちに彼の姿を探している自分が嫌で、よせばいいのにありったけの力でぶんぶんと頭を振った。そのたびに黒く長い髪がはためく。
「………あ」
 急に消えた手の中の感触。慌てて下を見下ろした依良の視界に、風にさらわれて落ちていく雑巾が映った。
「や、やばっ!」
 落下地点にだいたいの目処をつけるや否や、少女は駆け足で教室を後にした。



「確かこの辺なはずなんだけど……出て来いっつーの」
 文句は途切れることがない。ぶつぶつと愚痴をこぼしながら雑巾を探す彼女の背後で、枯葉を踏む乾いた音が上がった。反射的に振り向いた依良の目が、人懐こそうに笑う少女を捉える。
 何も言えずにいる依良の目の前に細い手が差し出され、
「これ、お姉さんの? 上から落ちてきたんだけど?」
「え、あ……そう! それ私の…って、落ちてきたってあなたの上に?」
「そうだよ。その様子だとこれはやっぱりハンカチじゃなくて雑巾らしいね」
 依良は、怒るでもなく平坦に言葉をつむぐ少女の手から雑巾を受け取って、
「ごめんね、まさか下に人がいるとは思わなかった。でも、この雑巾、今日は床拭いてないからまだマシよ」
 よく分からない慰めの言葉に、少女は声を立てて笑った。
 そこで依良は改めて少女を見る。どう見ても小学生の高学年程度にしか見えない女の子だった。黒い髪は高いところで一つにくくられ、くくった赤い紐がやけに印象的に揺れている。
 しかし何より服装が異常だった。剣道着のような袴をはいて構内をうろついている小学生など、今まで見たことがない。
 冷静に考えろ、と自分に言い聞かせる。
 自分は今、「異常」に敏感にならねばならない立場なのだ。そして、この状況は今までの経験をふまえて判断するに、結構な異常事態であった。
 一歩、無意識に後退する。無害にしか思えない少女を、信用できない自分が嫌だった。
 感心するように軽く目を見開いた相手は、次の瞬間少女のあどけなさを捨てて笑う。ぞっとするような残酷な笑みだった。

「遅いよ。阿古屋の人形師」
「―――…ッ!?」

 チクリとした痛みが全身を襲う。驚いて反射的にかばおうとした手が、すでに全く動かなかった。
 足が地面から浮いている。混乱する依良の視界に、キラリと一瞬なにかが光ったのが見えた。それは細い細い線となって、よく見れば体中に巻きついて一向にほどける様子がない。
 まるで蜘蛛の巣に引っかかった虫の気分だった。
「なに……これ…」
「見て分からない? 糸さ。どう見てもね」
 呆れを滲ませた少女の声。依良の眉間にしわがよる。
「そんなこと分かるわよ! ……あんた、何なの」
「身動きできないっていうのに、ずいぶんと威勢が良いね。でも時と場合を考えた方がいい。そんなことじゃ早死にするよ? それに、……殺すなとは言われたけど、傷つけるなとは言われてないんだよね」
 一方的にそう告げると、少女は小首をかしげてみせた。にっこりと可愛らしく笑ってみせる。圧倒的なその様子は、反論することで気持ちを奮い立たせていた依良を事も無げにくじいてみせる。それでも何か、と開きかけた口からは虚勢の一言さえ生まれず、そこで初めて己の無力さに愕然となった。
「そうそう、黙ってればなかなか可愛いじゃない。キジも鳴かずば撃たれまいってね」
 少女は嬉々とした表情で唇を舐めた。
「さて、どう傷つけてやるのが一番効果的か――……っ!?」
 言い終わる前に、少女は依良の前からこつ然と姿を消した。一瞬遅れて彼女が元いた地面が大きく陥没する。砂ぼこりが舞い上がるその中で、黒い影がむくりと体を起こした。

「無事に帰れると思うな」

 声は押し殺してあるがゆえに、滲む怒気もいつもの倍以上で。もし身動きできていれば、たとえ依良でも数歩後ずさっていただろう。
「………一馬」
「なんだ、もう僕の糸から脱出したってわけ?」
 予期せぬ耳元からの声に依良の表情が硬くなる。振り向こうとするより早く、首すじにかすかな痛みが走り、ぷつりと薄皮を一枚破る嫌な音がした。
「それ以上近寄らないでよ?一馬。この針は刺されても死にはしないらしいけど、正確に血管に刺せば三日三晩死ぬほどの苦痛を与えるんだって」
 一馬は黙って答えない。しかし目だけは異様に光って見えた。
「前から一度、ちゃんと話してみたいと思ってたんだ。わが主もそれを――」
 少女はそこでいったん言葉を切った。
 一馬が少し驚いたように目を見開く。背後で何が起こったかみたくとも動けない依良は、不安と苛立ちに歯噛みした。再び口を開いた少女は苦々しそうに言う。
「……歳、お前は裏切ると思ったよ」
 呼ばれた名が誰のものだったか分からない。
 思い至る前に首すじの痛みも、体の拘束もほどけ、倒れそうになった彼女を一馬が片手で抱え上げた。
「………桐谷」
 身をよじって振り返った先にいたのはあの人形で。
 もう二度と姿を見ることはないかも知れないと思っていた彼の出現に、依良の頭は混乱した。
 桐谷はといえば相変わらずの無表情でそこに立っており、細長い針を持った少女の手をひねり上げているところで。少女は少し眉をしかめていたが、示した反応といえばそれだけだった。
「初めてお前を見たときから、こうなることを僕は分かってた。もちろん、あの方だって……。お前の帰る場所はもうないよ、歳。それじゃ、」
 瞬間、目にもとまらぬ敏捷さで少女は飛び上がる。
「またね、阿古屋の人形師」
 一度木の枝を踏み台にして、小さな影は姿を消した。
 最後にちらと見えた彼女の片腕は不自然にぶらぶらと揺れていた。桐谷に拘束された手を、間接をどうこうして抜け出したのだろう。
 地面に立たされながら依良は一言も発せずにいた。
 何もできなかった、と。ただどうしようもない無力感だけが渦巻いて、心の中をざわつかせるだけだった。
 意識がはっきりし出した時にはすでにその言葉は放たれていた。

「ねえ、私には何かできないの?」

 力があるといわれても、実際に力を持っていても……
 使えなければ意味がないのだ。






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