無知だ馬鹿だと言われてこの時の私はひどく腹を立てていたけれど、後にして思えば多分本当に「無知で馬鹿」だったんだろうと思う。
心のどこかで、全てが最後には上手くいくと思っていたから。
物語の主人公みたいに。
もちろん悲劇の主人公じゃなく。
「一体全体、なんでこんな変な状況になってるのか、ぜひ知りたいわ」
阿古屋依良はげんなりした表情で腰に手を当てた。
彼女の目の前にはいつも通りの食卓、いつも通りの朝の風景が広がっている。
そう、違うのは、そこに座る者がいつの間にか一人増えているというだけ。少し前までは父と母と三人だったはずなのにだ。
依良は当たり前のように茶碗を持っている桐谷歳三を見下ろして、これみよがしに大きな溜め息をつく。
もう最近では色んなことに驚き疲れた。というより、驚き慣れてしまった。
この間、なにかの授業で「いつも新鮮な気持ちで、色々な物事に感動しなさい」と言っていた教師がいたが、自分と同じ状況に置かれてなお同じことが言えたら一生尊敬してやると思う。
「父さんも母さんも、あんまりほいほい知らない奴を家に上げたら駄目よ」
諭すように言ってから、山盛りのご飯をぱくりとほお張る。やはり朝は和食に限る。
「あら、知らない子じゃなくて、依良のクラスメイトでしょう?」
「でも、こいつは……」
言いかけて、依良は隣りで黙って箸を動かす一馬をうかがった。どういう話になっているのか訊ねる気持ちだったのだが、彼はちらりと少女を見やって、
「……飯が服についてんぞ」
と一言呟いて再び箸を口に運ぶ。
依良は制服の襟についた米粒をむしり取るように手にとって口へ放り込んだ。
こんな奴に助言を求めた自分を心底後悔しながら、少女は乱暴に桐谷を指さした。隆久が「失礼だよ」と小声でたしなめるが、彼女は聞いちゃいなかった。
「こいつは人形なの! この前話してた奴がこいつなの!……っていうか桐谷っ、あんたはなんでここにいるのよ!?」
「……致し方ない事情があったのだ。それよりも阿古屋の娘、お主、もう少し静かに食べたらどうなのだ。女人がそのように騒いでいると嫁の貰い手がつかなくなるぞ」
「………………ごちそうさま!!」
怒鳴るように言って席を立つと、少女は荒々しい音を立てて家を出て行った。
一瞬で静まり返った居間で、隆久が居心地悪そうに「ごちそうさま」と呟く。それからふと、思い出したように桐谷を振り返って、
「部屋は、二階の端っこが空いてるから、帰ってくるまでに片付けておく。狭いけど、自由に使ってくれて構わない。……君は、食べないと駄目だろう?」
「かたじけない。ご厚意に感謝する。食事は出来れば共にさせてもらえると非常に助かる」
「ああ、気にしなくていいよ。こっちもお世話になるし……」
「安心しろ。あの娘が学校にいる間は責任持って守る」
「助かるよ」
目の前で律儀な会話を繰り広げる隆久と桐谷を遠い目で眺めながら、一馬は「ごちそうさま」と口を動かす。慣れない言葉は声にするには抵抗があって、どうしても言うことが出来ないのだ。
黙って依良のあとを追おうとした一馬の背中に、桐谷の平坦な声が掛かる。
「私が行くから、お主はいいぞ」
居間の戸にかけた手を止め、一馬は振り返らず言った。
「向こうに行っている間はお前の力を借りてもいい。行くまでは、俺の領分だ」
そう言い捨てると彼は少女の後を追って家を出た。残された三人の間に気まずい空気が流れる。
「なかなか美味かった」
あくまでもマイペースな少年の(見てくれは)声に、隆久はこれからの生活に一抹どころか二抹も三抹も不安を感じずにはいられなかった。
依良はぐいぐいと先へ進みながら、ふんと鼻を鳴らした。鞄の持ち手に力がこもる。
「なんで私がこんなイライラしなくちゃいけないのよ」
「シャレか?」
「うるさい黙れ」
不意に後ろから掛けられた声にも、依良は全く動じない。
一馬は足音も立てずに少女の後についてくる。
「だいたい、あんたはなんだって何も言わないわけ?」
「……はっきり言ってあいつは苦手だ」
一拍置いて返ってきた答えはちょっと意外で、いつもは憎らしいほど自信に満ちた声に苦いものが混じる。依良は振り返らずに続けた。
「負い目があるんでしょ」
「……お前、ずけずけもの言う癖、直した方が身のためだぞ」
「あんたにだけは言われたくない」
普段なら間髪入れず言い返してくるのに、今日の彼は大人しい。ここら辺で許してやるか、と依良は寛大な気持ちで口を閉じた。
道にはちらほらと人の姿が見えるが、学校に遠いここでは生徒は見当たらない。まあたとえ知り合いに遭遇しても、体育祭の時に一馬の姿は既にしっかりと見られてしまっているから今さら隠しても意味はない。
「奴らが裏切り者を放っておくはずがない」
不意に、いやに冷たい低い声が聞こえて、依良は思わず立ち止まった。
「連中は絶対桐谷を処分しに来る。やつはそれを知ってて、お前の傍を選んだんだろう」
「……私の、傍にいれば……返って目立つんじゃないの?」
「あいつが求めてるのは死に場所だ」
言葉には何の感情も含まれていなくて、逆にそれが妙に哀しくて痛々しくて。依良は振り切るように歩き出した。
「俺と同じだ」
吐息に混じって吐き捨てられた呟きは、冬の風に煽られ少女の耳に届くことはなかった。
「あら、今日葵は休み?」
誰に言うでもなく、依良は隣りの空席を見る。
「そういや、いねえなあ」
金平が振り向いて答える。「平和でいいや」と、本人が聞いたら何と言われるか分からぬことを言って、彼は前へ向き直った。
佐々木葵がいない。あの憎まれ口が聞けないとなると、今日という日は退屈な一日になるだろう。依良は頬杖をついてぼんやりと外を見る。
「風邪かしら」
彼女に限って、病気に弱り伏せっている姿は想像できなかったが、もしそうなら帰りに寄ってからかってみるのも悪くない。そう考えて少し笑う。
この日私は、最悪なミスを犯したのだ。