「下の階の連中よりは、楽しませてもらえると思っていいのかしら?」
腕を組んで小首を傾げ、戸口の魔女は可愛らしく微笑んだ。くせのある赤茶の髪がそれに合わせて揺れる。口には笑みが浮かんでいるのに、その瞳は驚くほど鋭かった。
赤褐色の瞳に射抜かれたように、一課の人間の時が止まる。呪縛からいち早く立ち直ったのは青い髪の青年だった。
「あなたが、今回の騒動を引き起こした魔女ですか……」
「わざわざ確かめる必要がある?向かって来るなら相手が誰であろうと関係ないでしょ。剣を抜きなさい、無抵抗の者には危害を加えないなんていうセオリーは踏まないわよ」
「僕も、女の子には手を出さないなんていう聖人じゃないですよ」
「ふーん……、優男にしか見えないけどねぇ」
一瞬で凍った室内の空気に鳥肌が立つ。
レイチェルが慌てて止めに入ろうとした時には、既にサリアスと魔女シルヴィーが同時に床を蹴っていた。
「サリアス!」
彼女の声が狭い室内にこだます。ふと、シルヴィーは宙に体を浮かせたまま静止した。意表をつかれたサリアスが体勢を崩し、つまづく。
次に来る攻撃を想定し、彼はさっと横に避けた。だが空中の魔女は片手を口に当て、査定するかのように室内をじっと見ているだけ。
「…犬小屋みたい……」
「余計なお世話だ!!」
ボソッと小さく呟かれた余りに酷い一言に、レイチェル達が揃って抗議する。
「場所、変えましょう?」
周囲の反応を全く無視して、シルヴィーはパチンと指を鳴らした。
「わぁっ!?」
「きゃっ…」
不意に床の感触が消え、辺りの景色が変わった。落下しているのか浮上しているのか分からない不安感を抱え、一課の面々は周りを見る。
どこまでも薄暗闇が続いていた。所々に何か宝石のようなものがきらめいているのが見える。まるで星空の中に浮いているようだったが、今はそんな叙情的な気分になっている余裕はなかった。「下」がどっちなのか分からず、もはや重力をどう体に受けているのかも判断できない。
何か硬質なものが肩に当たったのを感じ、エリックはこわごわ後ろを振り返った。
「………って、うわぁぁぁっ!!??」
振り返ったエリックの首がそのまま大きくのけ反る。肩に当たったのは人の手。だが彼(もしくは彼女)は既に天に召されたようで、干からびて骨だけになったそれを、彼は力任せに引き剥がした。
「大丈夫か…?」
「だっ、駄目…。俺もう立ち直れないかも」
「たかが骸骨じゃないですか」
「違うんだ……。俺…骸骨とキスしちまった……。死にたい」
「……じゃあ死んでしまえ」
クレメンスが心配して損したとばかりに、大きな溜め息をついた。血が出るのではないかと思うほど、エリックは自分の口をごしごしと拭っている。引き剥がされた骸骨は遥か眼下に小さく見えるだけになっていた。
「男のくせに、ごちゃごちゃ言うんじゃないわよ。うるさいなぁ」
突然頭上から声が降ってくる。仰ぎ見れば、辺りに溶け込むような黒い服の、不機嫌そうな魔女がいた。その赤茶の髪だけが、暗闇で一層くっきり映えている。
「ちょっと空間移動してるだけなんだから、大人しく待ってて。はぐれないでよ? さっきの骸骨みたいになりたくなかったら」
「あぁ、それなんですが。既に課長の姿が見えないんですけどね」
横からサリアスが穏やかな口調で言った。一斉に他の3人が暗闇に目を凝らす。だが、いないものは見つからない。
「あらま。お悔やみ申し上げるわ」
「嘘!?」
レイチェル、クレメンス、そしてエリックの声が重なる。サリアスは両手を合わして静かに黙祷し始めた。
「ちょっと、新しい課長に天下りの公務員とか嫌よ、私」
「っていうかこれを機会にうち潰されるかも」
「参ったな。まだ今月の給料が……」
「……部下に恵まれない上司ってやつだわね」
少なからず彼に同情を抱きつつ、シルヴィーはある一点で視線を止めた。視線の先の、光っている石の一つに手を当てて少し笑うと、前触れもなくパチンとまた指をならす。
「うわぁぁっ!?」
「きゃぁっ……っ!」
無重力に似た浮遊感が急に消え、ある者は上に、ある者は下に重力を感じ、そのまま地面に落下した。
頭から地面に落下したエリックの上に、クレメンス、サリアス、レイチェルが重なる。瀕死の蛙のような声がエリックの口から漏れた。
「着いたわよ」
「言うのが遅いですよ…」
1人だけ優雅に地面に降り立ったシルヴィーを恨めしそうに見上げ、サリアスは苦笑を浮かべる。顔を上げてみれば見渡す限りの草原で、遥か向こうの地平線を遮るものが何もない。穏やかな風が頬をくすぐる。
ほのぼのとし始めたサリアスを、ヒキガエルを潰したような「どいてくれ」というエリックの声が現実に引き戻した。
「そうよ、さっさとして頂戴。早いトコ魔王を召喚したいんだから!」
早々に間合いをとって戦闘体制に入った魔女が、焦れったそうに両手を腰に当てて叫ぶ。思い切りエリックを地面に押し付け、サリアスはゆっくり立ち上がった。
「その物言いは納得がいきませんね。最初から僕に勝つつもりですか」
「当たり前じゃない。あんたみたいなひ弱な軟弱男に、私が負けるはずないもの」
「ひ弱と軟弱は同じ意味ですよ」
「う…うるさいわね! 小さい事にいちいち突っ込まないで!」
言い終わると同時にパチンと指を思いっきり鳴らす。淡い光が瞬く間に収束し、光の矢が宙に現れる。シルヴィーがくいっと人差し指をサリアスに向けた途端、彼目掛けて正に光のごとくの速さで突き進んだ。
臆する様子もなく、サリアスは腰の剣を抜き、正確に自分に向かって飛んできた光の矢を剣で薙ぎ払う。
その光景に魔女は小さく舌打ちして、自分の体とサリアスを除いた一課の3人を宙に浮かせる。驚く彼らを無視して、素早く指を鳴らす。
たちまち轟音が辺りを支配し、地面が大きく揺れ始めた。地上に残されたサリアスは、それでも何とか立っている。
「ちょっ、何したんですか!?」
「あんたそれ魔剣でしょ? 実体のない魔法じゃ斬られちゃうから、物理的な攻撃に転換したの」
「だからってこれは、卑怯じゃないですか! 降りてき………うわぁっ!」
いよいよ揺れが酷くなり、サリアスは地面に片手をついた。そのまま手が地に沈んでいく。慌てて引き抜こうとしたが、まるで地面全体が意志をもったようにサリアスを引っ張る。体を支えようにも手を付いた所からどんどん沈んでいって話にならない。
「うわぁー……、いくらあいつでもこうなったら駄目だな」
エリックが妙な感心を含めた口調で呟く。
「アーテル王国異種格闘技戦の優勝者なのにね…」
「まぁ、負けるのも良い経験だろ。あいつには」
レイチェルとクレメンスは既に空中での快適な過ごし方を習得したらしく、人事のように同僚が地面に飲み込まれていく光景を眺めている。
エリックはというと、自由が利かない空中で必死に手をこぎながらシルヴィーの方へ突き進んでいた。
「魔女さん、俺はエリック。君の名前は?」
「………シルヴィー」
怪訝そうに声を掛けてきた男を見返し、嫌々ながら彼女が答える。エリックは嬉しそうに笑ったが、他の2人は意外そうに魔女を見る。レイチェルが不思議そうに首をかしげた。
「良いの? 魔女がそう簡単に人に名前を教えて」
「あら、これは真の名じゃないわ、もちろん」
あからさまにエリックが肩を落としてうな垂れた。それを見てシルヴィーがぎょっとする。
「おっ、教えるわけないじゃない! 真の名なんて! 自分の命を差し出すようなもんなんだから!!」
一般的にはあまり知られてないが、魔女には真の名と呼ばれる名前がある。生まれつき与えられたその名は、ある日突然分かる日が来るのだそうで、自分の真の名を知った魔女は一人前と認められる。
名前は魔女を縛る。心無い者に名前が利用されるのを避けるため、魔女達は真の名を簡単には明かさず、普段は仮の名を名乗る。
「私は……真の名を忘れちゃったから」
ぼそっと呟いた少女は、辛そうに眉を歪めていた。泣くのではないかと慌てたエリックが手を伸ばすより早く、シルヴィーが顔を上げる。上げた頭がエリックのあごにヒットしたのと、彼女が魔法を解いたのは同時だった。レイチェルとクレメンスが静かに着地する横で、派手な音を立ててエリックが地面にめり込む。誰も彼を見てはいなかった。
いつの間にか地響きは止んでおり、見渡す限りの草原は、この場所だけ地肌が見えていて汚い。
「私の勝ちね?」
地面から出ている白い手に向けて魔女が問いかける。満足そうな笑みはまだあどけない。
「それはどうでしょう?」
反射的に飛びずさろうとしたシルヴィーの首に、鋭い刃が当てられる。冷やりとした感触が、彼女をそのまま硬直させた。
「……手を一本捨ててきたのかしら?」
「まさか。あれはいつも持ってる玩具の手ですよ。良く見れば分かったはずです」
確かに。良く見てみれば、地面から生えている手には継ぎ目が見える。悔しそうに少女は唇を噛んだ。
「おっ、おいサリアス!相手はまだ子供だぜ?」
ただならないサリアスの様子に、エリックが不安に駆られて思わず声を掛ける。口には出さないものの、レイチェルとクレメンスも同じ事を考えていたに違いない。
その魔女は今回の事件の犯人に間違いないだろう。だが、事件の規模に比べて死者は一人も出ていないし、今だってレイチェル達3人に危害が及ばないように気を使ってくれた。そこまで悪い魔女ではない。捕まえるにしても、あまり傷つけて欲しくはなかった。
ちらりとエリックを横目で見て、サリアスが「分かってます」と言いかけた時だった。
その光景に黒衣の魔女以外の全員が目を見張った。
少女は微動だにしてはいない。今までの様子から察するに、魔法が発動するには何らかのアクションを起こさなければならないようだったから油断した。
彼女は全く動いてない。だが現に今も、サリアスをどす黒い空気がうなりをあげながら取り巻き始めていた。その上から黒い結界の様なものが彼を囲んでいる。
どさっと足元で音がした。視線を落とせば、彼の剣が隆起した土にめり込んでいる。魔女の白い細い首から、うっすらと赤い血が滲んでいた。
「残念、やっぱり私の勝ちね」
サリアスに背を向けたまま、少女は今度こそ勝利を確信したのだろう、満面の笑みが口元に広がる。
「『剣の腕』、盗む条件はその剣士の常用している剣に触れるコト。ついでに言うと、あなたは最後の1人の条件に嫌というほど当てはまるわ」
「サリアス!!」
我に返ったクレメンスが駆け寄る。だが彼に触れる前に黒い半透明の壁に弾き飛ばされた。腰をしたたかに打ち付けて反撃する気力が失せたのか、地面に座ったままクレメンスは立ち上がらない。
「大丈夫よ。ちょっと魔王の依代につかうだけだから」
「どっ、どこが大丈夫なのよ!?」
「死にゃあしないわ……多分」
「た…多分って………」
無責任な魔女の言葉に不思議に反感が沸いてこないのは、一重にサリアスの人徳の成せる技だろうかと考えながら、レイチェルは傍観に徹することにした。エリックもどうやらサリアスとシルヴィーを天秤にかけたようで、事の成り行きを見守っている。
「ま、大丈夫だろ。あいつなら」
「そうね……」
「心配するだけ無駄か」
「同僚の許可ももらったことだし、行きますか」
「ちょっ、ちょっと!……待って下さ――」
サリアスが初めて動揺した声を出す。だがそれを気にも留めずに彼女は詠唱の準備へと入った。これが終われば、魔王がサリアスの体に降りているはずだ。
「天から落ちた、明けの明星、曙の子よ。この100人の形無き財産と引き換えに、我の願いを叶えたまえ。我が前に魔界の王よ、その姿を現したまえ――……っ!?」
サリアスを取り巻いていた分厚い黒い空気が一気に吹き飛び、何事も無かったように辺りは静寂を取り戻した。彼自身はさっきと全く変わったところは無いが、醸し出す雰囲気が異質だった。圧倒的なオーラをひしひしと感じる。
「えーっと…、魔王…さん?」
「あぁ、そうだ。久しぶりの召喚だな。何百年ぶりだろう。呼び出したのはお前か……小さな魔女よ。で?望みは?金でも名誉でも王国でも、手に入れたいと望むなら手を貸そう」
サリアスの口から紡がれるサリアスの声のはずのそれは、普段より数段トーンが低い気がして、違和感を禁じえない。望みの内容いかんによっては、シルヴィーを力づくでも止めなくてはいけない。自然とレイチェル達にも緊張が走る。
「お金? 名誉? そんなもの興味ないわ。私の望みは、探し物! その…指輪をね、この前……2ヶ月前、崖から谷に落としちゃったの。運悪く谷には川が流れててね、探したけど見つからないの。大切なものだから、一緒に探して頂戴!」
「………お前は、わざわざ私を召喚して、落し物探しに付き合わせようというのか…?」
「そうよ? どんな願いでも叶えてくれるんでしょう? ほら、文句言わない!」
どこか呆然としている魔王を無視して、シルヴィーが失くした指輪の特徴を話し始める。
「いかにも安物なんだけど、真ん中に赤い――」
「赤い安物の石がはめ込まれてて?」
少女が皆まで言い終わる前に、魔王が後を引き継いだ。話が早いとシルヴィーは満足そうに頷く。
「そうそう」
「はがれかけた銀メッキ?」
「…そうそう」
「力を入れれば壊れてしまいそうなこの上なくボロイ指輪か?」
「……そっ、そうよ!…なんで分かったの?」
驚いて魔王の顔を見上げる赤褐色の瞳に、彼の不機嫌そうな表情が映る。サリアスならしそうにない表情だった。
「………お前の探している指輪、これじゃないのか?」
押し殺したような口調でそう言うと、魔王はゆっくり右手の拳を開いた。手のひらには、彼の指には小さすぎる玩具の指輪が乗っていた。
瞳をまん丸に見開いて、開いた口を閉じようともせずに、数秒間シルヴィーは硬直したまま動かなかった。やがてショックに一度よろけながらも。
「さ…さすが魔王ね。こんなに早く見つけてくれるなんて……」
「馬鹿を言え。いくらなんでもそれは無理だ。…この男が、始めから持っていたぞ?」
「えっ、うっ、嘘!?」
さすがに彼女も心底驚いたらしい。まじまじと指輪と(中身は魔王の)サリアスを見比べている。見かねてレイチェルが口を挟んだ。
「2ヶ月前、川で、その…釣りを楽しんでいたときにね、偶然釣った魚の胃の中にそれが入ってて……クレメンスが捨てそうになったのを、サリアスが慌てて止めたのよ」
半分放心状態で話を聞いていたシルヴィーが、何かに思い当たったように瞳を輝かせた。ばっと勢い良く後ろを振り返り、魔王の腕を掴む。
「魔王さん、ありがとう! もう帰って良いわ、助かった!」
腕にしがみついてにっこりと笑う彼女を、魔王は溜め息交じりで見下ろした。少しためらいつつ重い口を開く。
「……非常に不本意だが、こんな馬鹿げた願いで取引するつもりは無い。今回はタダにしといてやる」
「えっ、本当!? ありがとう、大好き!!」
「いやぁ、そんなに好かれてるとは思ってませんでしたよ」
急に口調を変えた声の主に驚き、慌てて離れようとしたシルヴィーは、逆に苦しいくらい力強く抱き締められた。
「わっ、ちょっと…! 離してよっ!!」
「嫌ですね」
サリアスの予想外に強い口調に、シルヴィーが再び硬直する。どうやら彼には魔王が降りていた時の記憶もあるようだった。ならば抵抗するだけ無駄だ。
大人しくなった彼女を見て、サリアスは腕の力を少し緩めた。右手には相変わらず玩具の指輪が握られている。
「あなたでしたか……」
「………」
彼の静かな声音に、シルヴィーの体がますます硬くなる。態度が急変した二人の様子に違和感を覚え、レイチェルが物言いたげな視線をぶつける。彼女が何か言うより先に、サリアスが口を開いた。
「この指輪、僕がまだ小さい時にある女の子にあげたんです。婚約指輪として。だけどしばらくして、その子はいなくなってしまって……ずっと気になってたんです」
サリアスの腕の中で、少女の肩がびくっと震えた。問わなければならないことがある。忘れられているかも知れないという不安を抱え、それでも魔女はゆっくり顔を上げた。サリアスの青い瞳と彼女の赤褐色のそれとが重なる。
「……その女の子の、名前を…あなた、覚えてる?」
震えそうになる自分の声を必死に抑え、少女はサリアスを見上げた。ふっと優しく彼が微笑む。それだけで何もかも心配要らないような気がしてくる。胸の奥に心地よい暖かさが湧いてきて、少女は静かに目をつぶった。
「もちろんです。その子の名は―――」
アーテル王国警吏には存在を余り知られていない窓際族寸前の部署がある。課長を含め職員は6人。内1人は魔女だといううわさが囁かれているが、真実かどうか定かではない。
先日起こった「剣士99人襲撃事件」は、結局無事に解決した。最初の被害届けが出されてから約2ヶ月後、全ての被害者の元に「剣の腕」という何事にも変えがたい財産は返って来た。しかし同時に犯人である魔女の記憶も消失してしまい、被害者は誰も彼女の姿を思い出すことが出来なくなった。そして事件は迷宮入りとなる。
「魔王もなかなか粋な計らいをしますね」
「記憶のこと? 別に消してくれなくても、復讐に来た奴くらい返り討ちにしてやったのに」
「全くあなたは……、少しくらい大人しくしていて下さいよ」
微苦笑でサリアスは隣で紅茶をすすっている少女を見る。猫舌なのか、カップの中身は注がれた時点からあまり減ってはいなかった。
「そうよ? 仮にもあなたは今警吏に勤めてるんだから」
レイチェルが笑う。クレメンスも微笑を浮かべて少女を見つめていた。エリックが身を乗り出して彼女の耳に顔を寄せた。
「なぁなぁ、サリアスなんかやめて、やっぱり俺と付き合おうよ。そいつ見かけによらず腹黒いぜ?」
「失礼ですね、エリック。またふられたんですか?」
微笑は絶やさず、しかしあからさまな冷気がサリアスから流れてくる。それを気にした様子はないが、途端にしゅんと小さくなったエリックがぼそぼそ愚痴を言い始めた。
「また…ついうっかり、『ここ』のこと愚痴っちゃったんだよ。この前の事件の責任、何故かうちが取らされただろ?んで冬のボーナスパアになったじゃん?……それ言ったら…、別れるって………世知辛い世の中だよ」
「エリック…分かる、分かるぞ。お前の気持ちは痛いほど……、俺はとうとう、女房に、逃げられた………」
さっきまで全く存在を感じさせなかった課長。どんよりと暗雲立ち込めている彼をサリアス達が一斉に振り返る。同情の眼差しを取り繕っているが、少女には彼らの本心が手に取るように分かる。「あぁ、とうとうですか」という薄情な感想が。
異次元をさ迷っているとばかり思っていた課長は、帰って来たら部屋にいた。散らかったガラスの破片や、吹き飛んだ書類の掃除に追われていたのだと言う。空間移動するときに足手まといになりそうだったので、最初から置いて来たのだと魔女は唖然としているレイチェル達に悪びれも無く告げた。
その場しのぎで課長が直した一課の扉は、ちょっとした衝撃ですぐに倒れてしまう。仕方ないので今は扉の代わりに暖簾が掛かっていた。すきま風に、大きく「湯」と書かれたそれが揺れる。
くすくすと魔女が突然笑い出した。収まらないそれがだんだん大きくなり、身を捩ってお腹を両手で押さえる。笑いすぎで目元に涙が浮かんでいた。
「あはは…っ、ふふ…楽しいわ! こういうのもありかもねっ。魔法で誰かに悪戯するより楽しいかも知れないわ」
隣で笑い転げている魔女を穏やかな青い瞳で見つめながら、サリアスはふと何か思いついたように口を開いた。
「そんなに楽しいですか?給料は少ないですし…」
「お金? 魔女がお金に執着すると思って?」
「警吏の中でも最下層ですし、というより認知されてるかどうか……」
「知名度? そんなの欲しいと思えば簡単に手に入れられるわよ」
「その上この間の女子社員アンケートで、『結婚したくない部署ナンバー1』に輝きましたけど………」
「あはは! なっ、何それ!? 私知らないわよ、私だったら刑事部ね!頭固い連中ばっか、煙草くさくて嫌いだわ」
やっと落ち着いてきた少女が、目に溜まった涙を拭おうとした。その手をやわらかく払い、代わりにサリアスの手が少女の目じりをなぞる。赤褐色の瞳が見開かれ、その瞳に穏やかに笑うサリアスが映った。
「それでも良ければ、僕と結婚してくれませんか? シルヴィー・ソニエ・バーソロミュー?」
ソニエは瞳を大きく見開いたまま硬直する。一人の世界に突入している課長を除いた3人、レイチェルは椅子から落ち、クレメンスはカップを取り落とし、エリックは飲みかけた紅茶を吹き出した。
ただ1人、サリアス・コンスタントだけは、にっこり笑い、幼い頃婚約を交わした少女を見つめながら返答を待つ。
対する少女の左手の薬指には、玩具の指輪がキラキラ光っていた。
「対魔術部捜査一課」は、今日も穏やかなすき間風に吹かれています。