「じゃあ何か? 俺は、今夜、満月じゃないというだけの……たったそれだけの理由で貴様と酒を飲むはめに陥ってるっていうわけか?」
疲れきった男の声がボソリと落とされる。
深く澄んだ藍の目の先にいるのは、これ以上ないというほど晴れやかな笑みを浮かべた男。彼のガラス玉のような淡い色の瞳は現実を見ていないようで、その目はどこか遠く、夢の中をひたすら漂っているようだった。そのくせ肯定の頷きだけはしっかりと返してみせる。
「そうだよ。だって、真っ暗な空に浮かぶ月がまん丸じゃないなんて……それってかなり重大な問題でしょ?」
ごく当たり前のように笑う。憎らしいほど晴れやかな笑顔だ。言われたほうの男はそれには答えずに、薄暗い店内を改めて見回した。別に自分たちが今どこにいるのか忘れたわけではなく、考えをまとめる時間が必要だったのだ。
成り行きで入った酒場にしてはそこまで悪くない。出された酒も肴もそれなりに旨い。
全体的に煤けた雰囲気のある店内に、黄色く頼りない光が煙管の煙に浮かび上がっていた。互いの声が聞こえるくらいには静かだし、少なくとも今夜のところはガラの悪すぎる連中もいないようだ。
結局この酒場には彼が注目すべきものはなかった。仕方なく視線を手中のグラスに移し、中で揺れている濃い紫の液体を無言であおる。
「なあギルバート、今度この辺から丸い月が見られるのはいつになるだろう?」
「知らねぇよ」
夢見心地の問いをぴしゃりと遮るころには、ギルバートの心は呆れよりも腹立ちが占めていた。ドンと勢いよくグラスをカウンターに置くと、彼は剣呑なまなざしで隣の男を睨む。見返してくるガラス玉の瞳は相変わらず焦点が合っていない。
「良いか? レニー……。俺がこれを言うのは――」
「今は『レニー』じゃなくて『ジャン』だよ、ギルバート」
話し始めてものの数秒で止められた男は忌々しそうに眉を寄せたが何も言わなかった。代わりにグラスの中身を全部空けてしまうと、首だけでなく体ごと隣の人物に向けてもう一度口を開く。
「レニーでもジャンでも俺にはどっちだって良いんだ。どんなに名前を変えたって、お前のそのボケきった性格まで変わるわけじゃないんだからな」
睨み付けられた男は心外そうに首をかしげた。同時に限りなく白に近い金髪が細い頬にかかる。
なるほど、それだけ見れば確かに美男子の枠に入るだろう。枠に入るどころかど真ん中だ。そうやって目の前の男に騙された女がどれだけいただろうかとギルバートは考えた。考えても無駄なのは分かっている。なぜなら答えは初めから分かっているからだ。
数え切れない。
それが答え。数え切れないほどの女が騙され、数え切れないほどの女の身内に訴えられ、数え切れないほどの相談を持ちかけられてきた。
いい加減彼も限界だった。だから今回のこれで最後にしたかったのだ。当初の計画なら、今、彼は事の成功談を聞かされている真っ最中のはずだ。それがどういうわけか失敗談にすり替わっている。
「レニー………おっと、今度口を挟んだらその嘘と言い訳しか吐かない舌を切り取ってやるからな」
あまりに凄い剣幕だったので、男は慌てて口を閉じた。それを確認してギルバートは続ける。
「俺がこれを言うのは、俺の計算が正しければの話だが……今日で八十三回目だ」
「違う、八十七回目だよ。レアンディアとハーネットの時のことを忘れてるでしょ。あと………何す――んぐっ!」
有無を言わさず相手の口の中にフォークごと肉を突っ込んでしまってから、
「さて、今日で八十三回同じことを言うことになったのは残念で仕方ないが……お前はまず計画性に欠けてる。それから短慮で分別がないしおまけに恐ろしいほどのバカだ。さらに言えば……」
ギルバートは思いつくままに言葉を並べた。「無神経でガサツな上に間抜けでドジ、他人を騙すし同じくらい騙されるし、何より思いやりに欠けてる。時間は守らねぇわ約束は守らねぇわ……」
いくら言っても言い足りないのだが、舌のほうもそろそろ疲れを訴えてきて、彼はそこで文句を打ち切る。
ちらりと隣を見やると、いかにも神妙そうな面持ちで男は縮こまって座っていた。しかしギルバートは知っている。嫌というほど知っている。この金髪の男の辞書に「反省」の二文字など存在しないことを。
いいか、と確認する意味を込めて彼は言った。
「これで最後だ。金輪際、もう二度と、俺のところにくだらない相談事を持ってこないと誓え」
「分かった分かった。もうくだらない相談は持ってこない」
間髪いれずに返ってきた言葉には心はこもっていない。ギルバートの藍色の目がじろりと男をねめつけた。
「俺の言う『くだらない相談事』っていうのは、お前が悩む全ての事柄を指してるからな?」
一瞬傷ついたように眉を歪めた男をあっさり無視して彼は続ける。
「いつその女に告白するかちゃんと決めろ。今決めろ。それで誓え、必ずその決めた日に決着を付けると」
人差し指をビシッと相手の鼻先へ押し出し、彼は答えを待つ。白い顔に一瞬戸惑いが走ったが、やがて男はこくこくとまるで子供のように頷いた。いつの間にか水晶のごとき瞳にはっきりとした意思が宿っている。
その様子に満足げな微笑をもらし、ギルバートは空のグラスに手をかけた。
「よし、じゃあいつだ? いつ女に告白する? いつ俺はお前のくだらない相談から解放されるんだ?」そう一息に畳みかけ、「さっさと決めろよ」と止めの一言。男は繊細そうな(少なくとも外見上は)手つきで一度髪をかき上げて、
「分かった。じゃあアルシェラの花が咲いたら告白する」
「月がどうのこうのはどこ行ったんだ……。まあ良いや、で? その花はいつ咲くんだ?」
「うーんと……」
細い眉が悩ましげに歪められるだけでも絵になるのだから憎らしい。もう見飽きてしまうほど付き合いの長いギルバートには関係ないが。
「確か冬だね。そう、冬に咲くんだアルシェラの花は」
「冬か……今が十二月なんだから…、まあ良いだろう。つまりは冬中に俺はお前から解放されるわけだな」
「棘があるなぁ」
どこかとぼけた口調であいづちを打つ男。ギルバートは「当たり前だ」という言葉をすんでのところで呑みこむ。言い返したいのは山々だが、今日のところは勘弁してやるという気持ちだった。
それというのも、このすっとぼけた男が自分の方から誰かに告白しようとするのは、ギルバートが記憶している限り初めてのことだったからだ。いつも女の方から言い寄ってきて、適当に付き合っては勝手に分かれる。結果女に恨まれ、居場所や素性を隠すために名前まで変える羽目になるのである。
今は「ジャン」だということになっているらしいが、少し前までは「レニー」でその前は「スコット」だった。それよりも前にどんな名前だったかはギルバートももう覚えてない。
とにかくだ、とにかくそんないい加減でだらしない男が自分から誰かを好きになって告白したいという。今まで散々遊んでいた人間がいざ告白する時になって馬鹿みたいに尻込みしている。
ふっと小さく笑った彼の名がすぐ横で呼ばれた。
「そういえばさぁ、いつになったら紹介してくれんのさ」
「……誰をだよ」
一応聞き返すが本当は男が誰について言っているのかは分かっていた。
「ギルの奥さんだよ。僕はまだ一度だって見たことがないんだよ? 結婚したって言うのだってずいぶん後になってから知らされたんだ。人づてに聞いた時、それはそれはショックだったんだ」
なおもわざとらしく不満を言い連ねる男を無視してギルバートは立ち上がり、「じゃあ俺はそろそろ帰る」と言い放つ。硬貨を数枚投げるように置いて急ぎ足で酒場を後にした。呼ばれたような気がしたが振り返らなかった。