「ただいま……」
一欠けらの覇気もないギルバートの声だったが、どうやら相手には届いたようだった。家の奥のほうからパタパタと軽やかな足音が近づいてくる。
「おかえりなさい!」
「ただいま、シェリー」
自分を迎える花のような笑顔を見て、ギルバートは今度こそ心からそう言った。気づけば勝手に顔が笑っている。新婚とはこういうものか、と改めて思った。
小柄な女はそんな彼から手早くコートを脱がし、さあ、と奥へ招く。
「顔が赤いわ」
くすくすと、まるで少女のように微笑む相手にギルバートはわざとらしい疲れた口調で答える。
「夜だっていうのに呼び出されて、何事かと思って行ってみれば……結局今回も恋のお悩み相談だ。酒でも飲まないとやってらんないよ」
「……ねえ、そのお友達は『例の』お友達でしょう? いつ私に紹介してくれるの?」
「いつって……」
無邪気に問いかけてくる女からグラスを受け取って、彼は困ったように口ごもった。続いて注がれる水をごくりと飲み干す。冷たい液体が喉を通って体に入っていくのがはっきりと感じられた。
予定がないものを答えることなんてできない。
なんとか話題を変えてしまおうと、目まぐるしく脳が働く。やがてふと、問わねばならない実に重大な問題があったことに思い至った。
「そんなことより、シェリー」
声に真剣な響きを感じて、相手は作業を止めてギルバートをじっと見つめる。
「シェリー、君、怪しい男に付きまとわれてるって……あれ、やっぱり警察に――」
「ああ、ギル! その話はもう大丈夫なの!!」
「大丈夫………って」
状況についていけずに疑問符を浮かべる彼を気にせず、シェリーはにこやかに話を続けた。怪しい男に付きまとわれている不安や焦燥は、彼女の様子からは微塵も感じられない。
「あれね、恥ずかしいけど私の勘違いだったの。その人ね、私に伝言を頼まれてきたんだけど、私の方が勘違いで避けてしまって……なかなか言い出せるきっかけが見つけられなくて、で、結果的に『怪しい男』になってしまったってわけなの」
ごく軽い調子で彼女は言ってのける。その笑顔に不安要素は全くない。
しばらく妻の言葉を吟味した後、ギルバートは「分かった」と小さく頷いた。
「なら良いんだ。君に危険がないのなら。でも……」
間をおいた夫をシェリーは「なに?」というふうに見つめてくる。
「でも、少しでも不安なことがあったら、ちゃんと俺に言ってくれよ? 隠さずに。それは迷惑なんかじゃないんだからな?」
言ってからとたんに恥ずかしそうにギルバートは赤くなる。せっかく酒の赤みが引いてきたところだというのに、またたく間に耳まで真っ赤に染めてふいっと顔をそらした。
そんな夫にシェリーは幸せそうに微笑みかける。
そっぽを向いた男は、一瞬よぎった彼女の寂しげな瞳には気づかなかったはずだ。
女は実に見事な手際で笑顔をとり繕ってから、ギルバートの肩に手をかけた。そっと彼の耳元に唇を寄せる。
「愛しているわ。今も、この先も……ずっと」
「………俺もだよ」
少し怒ったように返される愛の言葉は照れているせいなのだとシェリーは知っている。愛おしそうに男の黒髪を手ですきながら、もう一度彼女は繰り返した。愛していると、消えそうな声で繰り返した。
「そういうわけなの。この気持ちが変わることは有り得ないの。例え彼の気持ちが離れても、たぶん私の気持ちは変わらない、永遠に。分かるでしょ?」
女は一切の甘さを見せず畳み掛けるように一息で言ってのけた。吐く息は白く頬は上気している。断固たる意思をもった茶色の瞳がじっと相手を見つめていた。睨んでいると言っても過言ではない苛烈さだった。
「分かるよ、とても。それは、僕も君と同じ人を心から愛しているからだ。……あぁ、別に変な意味じゃないよ?」
険しくなった女の表情を見て取り、あわてて男は弁解する。一度小さく息をついて、再び口を開いた。穏やかな口調だった。
「僕にも優先順位みたいなものがあってね。実は一等大切なとこにいるのは自分じゃないんだ」
いたずらっぽく彼は笑う。少し首を傾げただけで真冬の光に透ける金髪がさらりと頬にかかった。
夏と違って冬の日陰は人気がない。人通りのない路地裏で二人の男女は向かい合っていたが、そこで初めて女はかすかに笑った。
「てっきり貴方は自分が一番大事なのだと思っていたわ」
なんとも失礼な言い草だったが、男は腹を立てるでもなく可笑しそうに口元を緩める。そうするといい具合にえくぼができて、外見よりいくぶん若く見えた。
「もちろん自分は大事さ。だけどいつだって自分の思うように動くことが、自分を大事にすることだとは限らないだろう?」
「ええ、そうね。本当に……」
今では女の目元は穏やかそのものだった。うつむき加減の頬を、麦畑のような見事な黄金色の髪が撫でている。
二人はそうやってしばらく沈黙の中に佇んでいた。時折流れる風は路地裏の空気を拾って冷え切っている。刺すようなその風をやり過ごそうとでも言うように、女はショールに首をうずめた。
「でも告白する約束はもうしてしまったんだ」
女はばっと顔を上げた。その瞳は不安と怒りに揺らめいている。男はガラス球の目を細めて、まぶしそうに彼女を見つめる。
「アルシェラの花が咲いたら告白する、って。僕はそう約束した」
「アルシェラ………?」
そうだよ、と男はほんの一瞬寂びしそうに笑むと、振り向くことなくゆっくりとその場を後にした。
残された女は微動だにせず、じっと男の後姿を見つめていた。金髪の流れる背中が大通りに出て雑踏にまぎれて見えなくなっても、それでもまだそこにない姿を探すように。
「さよなら、レニー」
か細い呟きは風に乗って流れていく。
アルシェラの花は冬に咲く。
百年に一度の冬に咲く。
見事な白い花は一晩咲きほこり、翌日の朝陽を浴びることなく枯れてしまう。
アルシェラの花は冬に咲く。
百年に一度の冬に咲く。
次に咲くのは何十年後か。
一人の男の抱いた気持ちは、伝えることなくしまわれる。
永遠に。