「これは?」
「これはエスカレーター」
「……じゃあ、あれは何だっけ?」
「だからあれはエレベーター」
誰でも小さい頃エスカレーターとエレベーターを間違う事があったのではないだろうか。
でもこの会話を繰り広げているのは親子ではなく、もうすぐ二十歳になろうかという青年と、十六、七の少年である。
更に言えば、いまだ頭に疑問符を浮かべてエスカレーターに乗っているのが青年の方だった。
「お前本当に何も知らないんだなぁ」
そんな二人の様子を呆れながら見ていた楓が言った。
「だから今一生懸命覚えようとしてるんじゃないか」
先程の青年、百夜が口を尖らせる。
「まあ、ゆっくり覚えろよ。取り合えず普通の生活できる程度の知識だけあれば良いんだからさ」
言い終わるか終わらないうちに、火照はエスカレーターが下に付く前に勢い良く飛び出した。
「あんまり騒ぐと怪我するわよ」
一行の一番後ろから茨が微笑混じりに声を掛ける。
「いくら外に出るのが久しぶりだからって……」
そう、四人は今行き交う人々で賑わうショッピング・モールを歩いていた。
事の起こりは火照にある。
先日から居候している百夜という青年は、「人を探している」ということ以外には自分の事はあまり話さなかった。
だがその沈黙が、彼がただの一風変わった人間ではないことを如実に表現していた。
「人を探す」という目的の為にも、彼の無知さ加減を何とかしようという火照の提案により、彼らはショッピング・モールに来たのである。
何故ショッピング・モールなのかと楓も茨も疑問に思った。
火照という少年はあまり人間というものを好まず、親しい人と言えば楓と茨の二人しかいない。
その彼が自らの提案により外出するということだけでも驚きであるのに、人の群れでごった返しているショッピング・モールに行くと言う。
何か企んでいるのかとも思ったが、このはしゃぎ様を見るに、どうやら百夜に外の世界を見せたいだけらしい。
「楽しんでくれるなら……まぁ、良いわ」
「あぁ」
茨の自分にだけ聞こえる位の小さな独り言に、楓が前を向いたまま同意を示す。
何気ないやり取りの中で、確かに共有している一人の少年への想いを確認し、茨は微笑を浮かべる。
「しっかし、お前も火照も…ついでに百夜も、よく目立つなぁ……」
横に並んだ茨と、前を歩く火照と百夜をチラッと見て、楓が溜息混じりに呟いた。
先程から行き交う人々の視線がうざったいのである。
先頭を歩く火照は十七歳位の少年の外見ではあるが、その中にある鋭さや激情が表にも現れていた。
確かに端整な顔立ちをしているのだが、それよりも彼の瞳の力に魅せられる。瞳が異常なまでに澄んでいて、一度目を合わせるとなかなか視線がずらせない。
吸い込まれそうな程の見事な闇色のその瞳は、良く見るとその奥でまるで炎を燃やしているような、不思議な赤い輝きを放つ。
人は彼の顔ではなく、そのまとう不思議なオーラに、知らず知らずの内に振り返っていく。
どこぞの国の王様だって名乗ったら信じられそうだよなぁ、と本気で思う。
隣を歩く茨も普通じゃない。見た瞬間に夜とか闇を連想させられる。
服装が夜っぽいのでも、化粧が夜っぽいのでもなく、雰囲気そのものが夜なのである。
切れ長の眉と目に、紅い唇。切り揃えられて腰まである真っ黒な髪は重たさを感じさせず、歩く度さらさらと風に舞う。
そういった容姿、仕草、表情全てに「妖艶な」と言う形容詞が付く。
男性だけでなく、女性も思わず見とれてしまうような風貌だった。
そんな二人に囲まれているにも関わらず、その存在感を薄めない百夜も大したもので、性格は顔に出ると言うが本当にその通りだと思わずにはいられない。
彼の顔を見ただけで、優しくってちょっと天然なお兄さん、だと言うことが丸分かりな気がする。
多分学生の頃は女の子にもててたんじゃないだろうか。それでいて、どんなにもてても男の反感を買いそうにない。
本人にその気がなくても世渡り上手に違いない。
「あら、貴方も充分目立ってるわよ」
「俺は普通だよ」
楓は思ったままを正直に告げる。本当に自分は普通だと思う。
火照や茨みたいに一種異様なオーラを振り撒いているとは思えないし、かと言って百夜のように人好きがする顔じゃない。
「でも貴方ほど盗賊っぽい人は見たことないわ」
「……お前、性格悪くなったな」
彼女相手だと怒る気も失せる。自分が何を言ってもにっこり笑って受け流されそうな気がする。
「そう?前からこんなだったわよ」
「いーや、前はもっと可愛げがあったよ」
茨とは、まだ乳母車に乗せられていた頃からの付き合いだ。自慢じゃないが、彼女のことは誰よりも分かると思う。その逆もしかり……。
「あぁあ、お前の制服姿が懐かしいなぁーっ」
両手をジャケットのポケットに突っ込んだまま、わざと大げさに言った。
「私は貴方の学ランは懐かしくないわ。似合わなかったものね」
「お前、やっぱり性格悪くなったよ」
「これなんてどう? 似合うんじゃん?」
「んー…、もっとちゃんとしたやつの方が良いんじゃん? 何か遊んでそうだろ」
「確かに……何で初っ端からアロハシャツを選ぶの? 火照」
「似合うと思ったからに決まってんじゃん」
そう言いながら、火照は二人の忠告を無視してアロハシャツを店員に手渡す。
「……あのさ、やっぱ悪い――」
「そんな事気にするなって言っただろ!」
百夜がためらいがちに言うのを、火照がさえぎる。
あの後火照は今日の外出の目的を「百夜の服を買う」という事に決めた。
確かに彼の着ていた服はこの東京で着るには場違いだった。今着ているのは楓の服で、やはり少しちぐはぐな印象を受ける。
で、さっきの会話に至った訳なのだが、このやり取りが既に数回行われている。
「でっ、でも……」
「っあ゛ーっ!!良いんだよっ!俺たちにはパトロンがいるんだからっ!!」
なおも遠慮する百夜に、ついに火照がしびれを切らす。
「ぱ…とろん?」
聞き慣れない単語のせいで火照の言いたいことが理解できない。
「そう!金を湯水のようにくれる奴らがいるんだよ。使っても使い切れないくらいにな!だから良いの」
「あぁ…、そっかぁ。俺はてっきりお前らぷー太郎かと思ってたから……。なら遠慮しない」
合点がいったとばかりに百夜はポンと手を合わせた。
「おい、パトロンは分からないのに、何でぷー太郎は知ってるんだよ!」
いくら何でもアロハシャツだけでは……、と再び騒ぎ出す二人を尻目に楓と茨は服選びを再開した。
こうして穏やかな午後は過ぎていく。
束の間の安息を得た者達を、そのやわらかな日差しで包み込みながら……。