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 例えば二千年前のあの時、自分の我がままを通さなければ今頃どうなっていただろう。
 黒塗りの外車に揺られながら、来羅はふと思った。


 朝食の後、彼女は学校をさぼって皆の服を買いに行くつもりだった。
 彼女の生活は、アルバイトと過去の貯金から成り立っているものだったので、そうそうお金が余っているわけではない。でもさすがに彼らの服装で歩き回れるほど、この東京という大都市は寛容じゃなかった。
 絶対外に出ないでねと念を押し扉を開けたところで、今日の予定ががらりと変更されることになる。
 扉の外に立っていた人物に驚いて来羅が後ずされば、何かを察知した砂達がすぐに奥から出てきた。

「一族共々お待ちしておりました。砂様、霧生様、紅月様………そして来羅様」

 黒づくめの長身の男はそう言うと、有無を言わさぬ様子で車へと招く。
 事実、抵抗したら力ずくで連れて行こうとするだろう。砂たちが負けるとは考えられないが……。
 「一族」という単語と、自分たちの名前を知っていたことから、彼が何の使者なのかはすぐ分かった。



 元々百夜、砂、霧生、紅月はそれぞれ「火徳(かとく)」「土方(ひじかた)」「水寺(みずでら)」「風間(かざま)」という名の一族の者だ。
 そして四つの一族には昔から一族中で最もふさわしい者に「火」「土」「水」「風」の力が与えられる。

 選ぶのは人ではなく天命だった。
 だから例え末席の者であっても力を与えるにふさわしければ選ばれる。
 選ばれた者はその一族の象徴として特別な待遇を受ける。
 決まってそれらは常時一人しかおらず、先代が死んだ瞬間に次の後継者が勝手に決まる。
 そのため力を持つ者を殺し、自分が……という者も当然いた。だが、そういう考えをする者に天命は下らない。

 ところで、「力」とは一体何か。
 例えば「火」の力は言葉通り火を操る力のことである。
 操るといっても思うがままにというわけにはいかない。
 自然の中に存在する分子の構造を理解し、組み換え、または組み合わせ、「火」を作り出す。
 だから火を構成する分子が全くない場所では作り出せない。
 力を発動させる時、百夜はいちいちそんな事は考えていないと言っていた。つまり力を与えられるということは無意識にそれらの作業を行えるということだろう。
 「水」も同じである。
 「土」と「風」についてはまだよく分かっていない。
 研究を進める前に当の力の者がいなくなったから……。
 そう、一族にたった一人しか与えられない力の者は今から二千年前姿を消したのだ。
 そしてその後二千年間、四つの一族はそれぞれ力の者不在の状態であった。

 来羅は二千年前のことを思い出す。
 そもそもそれらの力の者は「審判の日」までの自分を護るために創られた存在だった。
 だから、誰かが死ねばすぐにまた力に見合うだけの者が選ばれ、同じように自分を護る。
 でも私は彼らに会ってしまった………。
 百夜たちは年をとる。でも自分は十六歳の少女のままだ。
 彼らが自分を置いて年をとるのも、必ず自分より先に死ぬのだという事実も彼女には耐えられなかった。
 例え二千年たった独りで過ごすことになろうとも、「審判の日」に側にいて欲しいと願うのは彼らしかいなかった。
 だから、あの日、私は―――。





「……いいの? 本当に?」
 再三繰り返された質問を、少女はまたした。その声は心なしか小さい。不安と、罪悪感と、それに少しの喜びを感じながら。
「いいって言ってるだろ、私は。霧生と紅月だって同じだよ」
「ありがとう」
 なだめるような女性の言葉に、安心したように少女はほうっと溜息をつく。
「……それより、本当に百夜には言わないつもりかい?」
 少女の肩がビクっと小さく揺れる。しばらくして無言でうなづく。
 彼には言わない。
 言ったらきっと反対される。二千年の間独りで生きようとする私を怒る。止められたら……決意が鈍る。
 ――彼には言えない。



「来羅っ、急げ!気付かれた!!」
「分かってる!」
 いつも軽口をたたくばかりの紅月の緊迫した声が、今の状況が最悪であることを知らせる。
 急いではいるが隆起が激しい岩肌に足をとられ、思うようには駆けられない。
「何なんだ? どうして追ってくるんだ!?」
 全速力で駆ける五人の中で、たった一人事情を把握していない百夜が言った。
 ちらっと背後を振り返ると、四人それぞれの一族の中でも手練と言われる者たちが、確実に自分たちとの距離を縮めてきている。その手には武器も握られていた。少なくとも三時のおやつに招待しようというわけではないに違いない。
「いいから急げ。走りながらしゃべると舌噛むぞ」
 霧生の相変わらずの口調にも少し焦りが見られる。

「見えたっ!取り合えずあの町へ!! それぞれ人ごみに紛れて『約束の場所』でまた会おう!」

 無言の了承を受けた砂は一行から離れ、眼下に見える町へ向かって崖を飛んだ。彼女だったら無事に着地するだろう。
 霧生は左の茂みへ入っていく。紅月は右の森へ。
「貴方は私と来て!」
 これは何事かと首を傾げている百夜の手を、来羅は強く引っ張る。
 残っているのは一番町にちかいルートだった。砂たちの無言の優しさが嬉しい。



 夕食の食材を買うために歩く女やそれについて来る子供、仕事帰りの男たち。それらで賑わっている夕暮れの町に来羅たちはしばらく潜伏することにした。
 このまま月が高く上る瞬間まで移動は出来ない。
 小さく溜息をついて、人も通らない暗い路地裏の壁に寄りかかりながら傍らにいる百夜を見た。
 彼を自分と一緒に連れてきたのは間違いだったかも知れない、と来羅は向けられるルビーのような瞳を見て思った。
「一体どういうこと?」
 誤魔化すことを許さない真摯な瞳が自分を見ている。それだけで来羅は胸が締め付けられる想いだった。
「…………。」
 嘘はつけない。でも本当のことも言えない。今は沈黙が答え。
 仕方なく来羅は目を伏せる。この瞳にも二千年お別れなのだ。そう思うともっと見ていたい気持ちになったが、その眼差しに今は耐えられそうにない。
「来羅……」
「……っ!」
 いつの間にか目の前にいた百夜の手に俯いていた顔を持ち上げられた。
 それでも目線はずらそうとする来羅の名を、百夜はもう一度吐息混じりに呼ぶ。
「………離し――」
 紡がれるはずだった言葉は唇に押し当てられた何かに封じられる。
 彼女の手が百夜を押しやろうとする前に、彼の体は静かに離れた。
 とても短い、触れ合うだけの―――。

「君が好きだ。良いことがあったら一緒に喜びたいし、辛いことがあったら一緒に悲しみたい、側にいたい。守りたい。それに……」

 そこで一回息をつく。言いたいことは山ほどあるが、上手く伝えられる言葉が百夜には見つからなかった。

「それに、隠し事が出来ないところも好きだ。話して。……分からないことじゃなく、君が伝えてくれないことが辛いんだ」

 悲しそうに笑いながら見つめてくる瞳を一瞬見て、来羅はそれでも言おうとしない自分を責めた。

 隠し事が出来ない?
 確かに何か隠してるってことは表情に表れても、それが何かは自分は言わない。それでもそんなことが言える?
「『約束の場所』で……言うわ。貴方の気持ち嬉しかった。でも……」
「返事は……君の隠し事を聞いてからでも良い?」
 つまりそれは二千年後であるということに軽い自嘲の笑みを浮かべながら、来羅は「分かった。」とだけ呟いた。
 月が高く上るまで二人はずっと無言だった。





 その後、予定通りことは進んだ。
 記憶に残っているのは悲痛なまでの彼の叫び。
 他にもっと想い出すべき情景や表情はあったはずなのに、想い出そうとするとあの日の彼が私を見て叫ぶ。
 それが辛くて悲しくて、いつしか想い出すことをやめてしまった。
 返事を……しなくてはいけなかったのに。
 依然として行方の分からない者のことを想いながら、来羅は車から見える景色に目を移す。


 あの時自分たちの潜伏した町はことごとく燃やされた。彼らを殺そうとする一族の手によって……。
 一族が権力の象徴でもある力の者を、そう簡単に手放すはずはなかった。
 力の者が死んでしまえば一族の中の誰かにその力が移行し、一族の末永い繁栄も約束される。
 二千年の間その象徴を失うより、自らの手で彼らの命を奪ってしまうことを一族の者は選んだ。
 その為には罪のない無関係な人が死んでも構わなかったのだ。
 炎に包まれる町の人たちを、何も出来ず見ていることしか出来なかった自分を思い出し、来羅を無力感が襲う。
 あれから一族とは関わりを断ったはずだった。
 自分のわがままで、彼らから力の者を奪ってしまったという負い目もあった。それにも増して百夜たちを殺そうとした彼らが怖かった。
 今まで少なくとも彼らの手は借りず、自分の生活は自分でまかなって来たはずだった。

 でも………。
 この対応は早すぎる。
 砂たちが「いつ」、「どこ」に現れるか彼らが知っていたはずはない。
 だとしたら………、私が監視されていた。
 関わりを断ったつもりでいて、そのくせ何も切れていなかったのだ。
 そうして今、高そうな車に乗せられて真っ直ぐ一族の待つ屋敷へ連れて行かれている自分たちがいる。
 来羅自身は二千年の間に気持ちを落ち着けたが、砂や霧生や紅月は違う。
 ついさっきまで、町一つ滅ぼす程の殺意を持って自分たちを追って来ていた一族だ。そう簡単に「昔のことだから」と割り切れはしない。
 実際、力の者を失ってどこまで一族が変わったのかは来羅にも分からない。しかしこの高級そうな車に乗せられている状況を考えると、そう落ちたわけでもなさそうだ。
 車は二台用意されていて、来羅の心配をした砂は一緒に後部座席に座っている。霧生と紅月は後方を走る車に同乗しているはずである。
 車は既に郊外へ出ていた。
 景色が変わる。
 ビルの群れはもうずっと後ろ手に霞がかって見えるだけ。
 住宅もまばらになっていく。
 どんどん後ろに流れていく景色を何も考えず、ただその瞳に映す。

 少しも反動を感じさせず、止まったことも気付かせないくらい滑らかに二台の黒い車は停車した。
 扉を開けてもらって外に出ると、二千年前と全く変わらない圧迫感を与えながら、屋敷が来羅たちを見下ろした。






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