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 今すぐ帰りたいと体が叫んでいるけれど、どうしても逃げるわけにはいかなかった。
 これは私が招いたこと。これは私が逃げていたこと。
 これは私が解決すべきことだから。


「皆様が現れるのを一族総出でお待ち申し上げてましたよ。……二千年ね」

 屋敷についてすぐ、来羅達は一面畳の大広間に通された。端から端まで二十メートルはあろうかと言う、そんな巨大な空間に。
 そして彼らの目の前には四十代くらいの男が座っている。威圧感と言い換えても良いかも知れないその威厳は、来羅達を押し潰そうかという程だった。
 いや、もしかすると彼女の過去の罪悪感が、男をそういう風に見せているのかも知れない。ともかく来羅は言うべきことを言おうと意を決して口を開く。

「あ……あの、私…の我がままのせいなんです。彼らは――」
「来羅!!」

 ――彼らは私の我がままに付き合わされただけなんです。と続くはずの言葉は、すぐ後ろにいた砂の大声に制された。
「言ったはずだ。私たちも同じ意見だ、と。これは私たちが自分自身で選んだ答え、結果。あんたに言われたからじゃない。我がままに付き合ったわけじゃない。皆で決めたことだ。」
「砂………。うん、そう…だね。ごめん。」
 素直に謝る来羅に軽く微笑を返し、砂は目の前の男を睨んだ。

 そう、皆で決めたことだ。少なくとも砂と霧生と紅月は自分の意思で来てくれた。私は皆の意思をないがしろにするところだった……。
 でも百夜は……彼は違う。最後まで反対していた。彼の意思を私は無視した。そうしてでも彼に来て欲しかったんだ、私は。
 それなのに……その人は今ここにはいない。それどころか今この地球にさえいないかも知れないんだ。
 来羅は後悔だけはしないようにして来た。だけど今、改めて自分のしたことを省みると、果たしてあれで良かったのだろうかと言う不安が渦を巻いて彼女を飲み込もうとしていた。
 一瞬くらっと目の前が真っ暗になって、自分の体が宙に浮いたような感覚が襲う。

「来羅っ!」
「……あ…?」
「どうした?大丈夫か?」
「うっ、うん。ありがとう、霧生」

 もし霧生がとっさに支えていてくれなかったら、危うく畳みに頭を打ち付けるところだった。
 もう大丈夫だ、という彼女の言葉を無視して、霧生の手はまだ彼女の肩に添えられている。
「火徳さん。今日はもう話は良いでしょう? 俺たちも来羅も疲れてます。話は後日改めて」
 その青みがかった黒い目をしっかり目の前の男に向けながら、反論を許さない霧生の声音が大広間に凛と響いた。
「すみませんね。少々無理をさせてしまったようで。今日はもう良いので、ゆっくり休みなさい。部屋は用意してあります」
 男は優しそうな声音でそう言うと、控えさせていた使用人に何事か言いつけると大広間を後にした。
「大丈夫かよ?」
 紅月が眉間にしわを寄せながら来羅を見た。
「大したこと無いの。ちょっとくらっと来ただけで」
「立てるか?」
 言いながら霧生が手を伸ばす。
「皆……私を甘やかしすぎだよ」
 苦笑をもらしながら来羅は霧生の手を取った。

「こんにちわ。この度皆様のお世話をさせて頂くことになりました、茜、と申します。以後お見知りおきを」
「あ、こちらこそ。よろしくお願いします」
 すっかりこの人の存在を忘れていた来羅が慌てて返事をする。
 多分砂や霧生より五、六歳年上だろう。なんだか落ち着いた大人の女性の雰囲気だな、と来羅は思った。
「お部屋へご案内致します。こちらへ」
 綺麗にお辞儀をして茜は四人を誘導する。
 広間の戸を開けると、そこは中庭に面した縁側だった。大掛かりな映画のセットのようなそれを、茜に付いて四人は歩いていく。
 といっても砂達はついさっきまでいた世界の延長のようなもので、あまり違和感は感じていないようだった。

 屋敷は二千年前より少し大きくなった。当時も充分広大な敷地を四つの一族が領有していたが、ここまでじゃなかった気がする。
 今通されているこの屋敷は、「火徳」「土方」「水寺」「風間」それぞれの一族が集会などで集まる時に使われる屋敷で、他にまだ一族それぞれの屋敷がある。この屋敷は主に客間や広間が多い。今しがた通された大広間はきっと集会に使うものだろう。

 来羅はさっきの男の、火徳家の現当主の顔を思い出した。彼の真意が分からない。
 本当なら百夜のことを真っ先に聞いてきても良いはずなのに彼は百夜のことに一切触れなかった。自分の一族からいなくなった力の者のことが気にならないのだろうか。来羅は納得できずにいた。
 前も見ずにぼやっと歩いているものだから、当然注意力は皆無といっていい状態である。つまりこれから起こることは必然であった。

「…………っ!? きゃぁっ!!!」
「来羅!!」

 本日三度目の失敗である。
 歩みが遅かったため、一行の最後尾から付いて行っていた来羅は、曲がり角へ差し掛かっても気付かなかった。
 今時の家ならそれでも壁に頭をぶつける位で助かっただろう。だが今歩いているのは縁側である。そのまま歩けば……庭に落ちる。
「……っの馬鹿!」
 間一髪のところですぐ前を歩いていた紅月が来羅の腰に手を回す。
 前のめりになった彼女の体はどうやら庭には落ちずに済みそうだった。
「ごめん、紅ちゃん……」
「俺は構わねぇよ。お前が庭に落ちて頭打ってパアになっちゃってもな。でもお前変。また何かあったら嫌だから手ぇ繋いで行くぞ!ありがたく思え!」
「あっ、ありがとう」
 やっと安定した姿勢にしてもらいながら、来羅が済まなさそうに言った。その手は既に紅月に握られている。彼は来羅を庭とは反対の側に立たせて歩き出した。

「……お前さぁ、いくら出会った当初、俺がまだ小さかったからって、いつまでも『紅ちゃん』は無いんじゃないの?」
「えぇ? それ以外に何て呼ぶのよ。紅ちゃんは紅ちゃんだよ」
「…………もういい」

 そう言えば……、と横を並んで歩く紅月を見れば、視線が前とは違う。会った時はは少し見下ろすような感じだったのに、今は見上げないと表情が見えない。分かれた時もこんなに大きかったかと小首を傾げながら、きっとこれからどんどん成長していくだろう彼を思い描く。

 自分を置いてみんな成長する。
 「時」は動いている。

 紅月が手を握っていなかったら後二回くらい庭に落ちていただろう。来羅は部屋に着くまで心ここにあらずだった。


「何か……すごく大きく見える」
 二千年普通の人として生活してきたからだろう。来羅にとって自分にあてがわれた部屋は、不安になるほど広すぎた。
「そうだよな。お前の部屋狭かったもんな」
 後ろから紅月のからかうような声音が響いた。
「あっ、あれは…四人も一緒に寝たからでしょ!? 一人暮らしだったらあれ位で丁度良いの!!」
「はいはい」
 いかにも投げやりな口調で紅月は答える。来羅にしてもこれ以上は無意味なのを知っているので何も言わない。

「……ねぇ、紅ちゃん」
「何だよ?」
「学校。行ってみたくない?」
「がっこう? 何それ?」

 来羅は藤峰高校という公立の高校に在籍していた。最初は二千年もの永い間特にすることがなかったためだった。だが、途中からただ純粋に楽しくなった。友達と一緒に帰る道だったり、休み時間の何気ないおしゃべり、文化祭や体育祭など。どれを取っても楽しいことばかりだった。

 しかし彼女は気付いたのである。自分は卒業したら友達にはもう会えない。
 彼らは大人になっていく。社会人になっていく。だが、自分は?自分はいつまで経っても十六歳の少女のままだ。
 もちろん同窓会に出られるわけもない。せいぜい卒業するまでしか一緒にはいられない。そして卒業すると同時に、また別の遠くはなれた高校に入り直すのだ。高校一年生として。
 最初の別れの時、こんな悲しみは二度と味わいたくないと思った。もう学校など行かなくて良いと思った。
 でもそれ以外に友達が出来る場所はあまりに少なかった。

 孤独だったのである。

 少女に二千年は永すぎる。少しでも孤独を紛らわしたかった。
 だから、「学校」という空間に身をおいた。
 彼女はどんな環境にでもすぐに馴染んだし、人好きもした。裏表がなく、素直で、誰かの悪口など言う子ではなかった。だから男女と問わずすぐに友達が出来た。
 それが、「学校」をやめられない原因。
 特に今は親友と呼べる友人がいる。今までの友達とは全く違う、来羅が一番素に近い状態で接することの出来る唯一の友達だった。
 それを手放したくない。
 だから、というわけでもないのだが、紅月は年齢的にも丁度良いし、きっとその性格上すぐにクラスに打ち解けられるだろう。
 想像するだけで来羅は胸が躍った。

「ね!行ってみようよ!絶対楽しいって。それにこれから文化祭もあるし」
「……俺が行かなくてもお前は行くんだろ?」
「……うん、出来れば」
「なら俺も行くよ。俺はお前を守るためにいるんだから」
「まぁ、そうかも知れないけど……でもそんなことじゃなくて、きっと普通に紅ちゃんも楽しいと思うよ」

 彼女は百夜達と対等に接してきたつもりだったし、実際「守ってもらう立場」を誇示したことはない。むしろもっと誇示してもらいたいと思われるくらいだった。
 でもこんな時思う。彼らは「来羅を守るため」に力を与えられたのだと。自覚せざるを得ない。
「……じゃあ私、風間の御当主様にお願いしてくるね。制服や教科書も用意してもらわないと!」
「せーふく? きょーかしょ?」
 聞き返す紅月の言葉は来羅の耳には既に届いていない。
 意気揚々と縁側へ飛び出し駆けて行く来羅の背中を、彼は微笑を浮かべながら見送った。
 彼女が笑っているのが本当に嬉しい。

「あ、あの馬鹿。あんな駆けてたらまた落ちるぞ。」

 笑顔が一変して険しい顔になると、紅月は来羅の後を追って駆け始めた。



「あはは、微笑ましい光景だわ」
「そうだな」

 砂と霧生は戸口に立ちながら、危なっかしい足取りの来羅と、それを追う紅月を見ながら微笑んだ。
「……どう思う?」
 ふと、険しい口調で砂が問う。その目はずっと向こうの戸口から来羅を見ている男に向けられていた。
「火徳の当主か?……分からないな」
「ふんっ、あれで優しさをアピールしてるつもりかしら。猫っかぶりも良いトコよ」
「確かに彼にとって一番大事な百夜の事に触れないのはおかしいが……」
「それだけじゃないわ。あいつ二重人格よ。……来羅に何かしようとしたら…ただじゃおかないから」
「……あぁ」
 彼女の射刺すような鋭い視線に気付いたのか気付かないのか、火徳の当主は完璧な笑みで一礼すると座敷へ入っていった。
 ザワっと砂の周りの大地が軽く揺れる。
 土埃が彼女を取り巻くように微かに舞う。

「本当に、ただじゃおかないから」

 彼女の周りの庭の地面に小さく亀裂が走った。
 彼女の能力は土。
 二千年前、一族内外に恐れられたその力は、今も健在だった。







「はあ!?学校に行く!?」
「うるさいよ、馬鹿」
 火照は予想通りの反応を返してくる楓を、迷惑そうに見ながら言った。
「何で今更学校なんだよ」
 楓も負けじと聞き返す。
「……何か、会えそうな気がするんだよ。騒ぐんだ、心が。分かるんだよ」
 急に真剣な表情になって火照が言った。どうやら本気らしい。楓はどうもこの顔をされると逆らえなかった。
「………………手続きは光陰(こういん)家に任せて良いんだな?」
「あぁ。でも、入るのは藤峰高校だ」
「分かった分かった、分かりました」
 楓は両手を軽く挙げ、降参のポーズを取る。
「返事は『はい』の一回だって子供の頃に教わんなかったのか?」
「……黙って聞いてりゃ調子に乗りやがって……」
 今にも殴りかかりそうな拳を握りながら楓が固まった笑みを浮かべた。

「…なぁ、がっこうって何?」

 二人の険悪なムードなどまるで意に介さない様子で、先程から考えていた『がっこう』という言葉の意味を百夜はたずねた。
 椅子に後ろ向きに座りながら無邪気に問いかけてくる百夜に、楓も毒気を抜かれたように答える。

「あぁー…学校って言うのはだな、一生役に立たないようなものを勉強させられて、タバコは吸っちゃ駄目、酒も駄目、友達を殴っても駄目って生徒指導室に呼ばれて永延と説教されたり、挙句に反省文書かされたり、したくもない掃除をさせられたり……要するに面倒くさくてうるさくって友達と馬鹿やる以外は役に立たないとこ、かな」

 我ながらなかなか上手く説明出来たと、楓は満足した。
 もうお分かりだと思うが、今彼が言ったのはそのまま自分の学校生活である。彼の青春は生徒指導室と反省文で形容することが出来る。
 それでもちゃんと小学校から高校まで通い続けたのだから大したものだった。まぁ、それは一重に彼の幼馴染み、茨の存在が大きかったのではあるが。
「へぇ、何か大変なとこだな。火照、そんなとこに行きたいのか?」
 何の疑問もなく楓の言葉を信じた百夜を横目で見やりながら、茨は後で言わなくてはいけない「正しい学校像」について考え始めて溜息をつく。

「あぁ。ずっと会いたい奴がいて、でも今までは会えなくて……。そいつが、そこにいる気がするんだよ」
「ふうん。じゃぁ……頑張れよ。会ったら、それが大事な奴だったら手放しちゃ駄目だ。絶対」

 初めて垣間見る百夜の一面に面食らった火照だったが、すぐににやっと不敵に笑む。

「俺が?手放す? はっ、そんなことするかよ。ずっと欲しかったんだ。今度会ったら……絶対放さない」
「………でも相手が嫌がったら手放してあげなよ?」

 百夜は火照の強引なまでの決意に、目を付けられた者に少し同情する。
 まぁ相手が嫌がってたらの話だけど……。そう心の中で思いながら、二千年前から独りで生き続けているはずの少女、来羅のことを想う。
 そんな百夜の複雑そうな表情を火照は見逃さなかった。

「お前はそうして、んで今後悔してんだろ」
「……何でそうやって核心つくかなー」

 百夜は盛大に溜息をついて、椅子の背もたれにあごを乗っけた。
 今まさにその事を考えていたのだ。
 あの時、手放さなければ良かった。でもそしたら必ず自分は彼女を置いて死ぬことになる。彼女の時は止まっているのだから。
 それはそれで後悔の渦だ。だけど、彼女を独りで二千年生きさせたことも彼にとっては後悔の渦でしかない。
 そしてきっと、彼女は自分に計画を黙っていたことを悔やんでいる。そのことは……確かに怒ってはいるが、責める気にはなれない。
 とにかく悔やんでいるのなら一秒でも早く「気にするな」と言ってやりたい。
 ただ、それだけなのに。

「ま、気にすんな。人生後悔だらけさ」
 楓がさも人事のように言った。でも不思議とそれで気が軽くなるから面白い。
「……そうだな。茨ちゃん、今日の晩御飯なに?」
「百夜君、貴方意外に切り替えが早いわね」
 茨が苦笑する。
「そうそう。気にしてたって仕方ないだろ。食べて寝ろ」
 お前の一言が気にするきっかけだったんだぞ、と言ってやりたい気もしたが、気分が軽くなったのも事実。
 百夜は久しぶりに明るい気持ちで夜を迎えられそうだった。


 百夜と火照。二人がその心に思い描いていた人物が同一人物だったことを知るのはもう少し先の話だ。






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