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「なぁに?どうしたの? やけに嬉しそうじゃない、来羅」

 有本美沙(ありもとみさ)は登校時からいつになくにこにこしている隣の机の友人、立花来羅を見た。
 彼女がこんなに感情を表に出して笑っているのは珍しい。ふと自分も笑顔になっているのに気付いて美沙は幸せな気分になった。
「えっとね、実はね……う〜ん、まだ内緒っ!」
 美沙と来羅の席は後ろから二列目で、顔を上げれば教室全体が見渡せる。
 もうすぐ朝のHRが始まるはずなのに、二年B組の教室にはまばらに生徒がいるばかり。みんなチャイムの余韻ギリギリに入室してくるのだ。
「何よ!そこまで言ったんだったら最後まで言いなさいよ。気になるじゃない」
「大丈夫。もう少しで分かるから。うん、お楽しみってこと」
 続く不平も思わず引っ込んでしまうほどの来羅の笑顔に、美沙は心が満たされていくのを感じる。
 思えば初めて出会った時から自分は来羅に惹かれていた。

 それは高校入学式の日。高校生と呼ぶにはまだ幼さの残る群衆の中で、一際美沙の目を引き付けた少女。
 整った容姿だが、大勢の中で突出するほどではない。行動も言動も世間一般の「普通」の域を出ているわけではない。
 それなのに――静かに立っているだけなのに、その存在感は無視出来ないものがあった。
 話をしていく中で、何か達観したような悟ったようなものの考え方を来羅がすることに気付いたのは結構最近。不意に、哀しそうな、愁いを帯びているような表情を見せることに気付いたのも最近。
 そしてますます美沙は来羅に興味を抱くようになる。
 興味はそのまま好意となり、それゆえ隣の席の彼女が幸せそうだと自分も嬉しくなる。


 チャイムが鳴り始めた。
 この時点でクラスメイトの三分の一がまだ来ていない。
「……よし、杉田は遅刻かな」
「杉田君は例えギリギリでも間に合わせるよ」
 美沙がぽつりと言った言葉を来羅が拾う。
 杉田祥平は美沙の幼馴染で空手部員の、世に言う部活馬鹿である。美沙とは幼稚園に入る前からの付き合いで、それは今も続いている。「腐れ縁だ」と前に彼女は毒づいていたが、まんざらでもなさそうだと来羅は思っていた。
 男女共に分け隔てなく付き合う来羅は男子にも友達が多いが、その中でも杉田は一番親しい。
 美沙の幼馴染と言うこともあり、接する機会は他の男子よりも多くて、今時珍しいほどの彼の純朴さは好感が持てた。
「あと二秒……一秒…あ、来たよ……」
 美沙のいかにも残念そうな声が来羅の耳に届いた。
 杉本祥平は教室の敷居を跨いだ所で、大きくVサインをして見せた。不機嫌そうに美沙が見返す。
 わずかに呼吸を乱しながらも軽やかに机と机の間を歩いていく様は、さすが体育会系と言えるだろう。多分家からずっと走って来たに違いないのに……。
「へへっ、間に合っただろ」
「はいはい。昼休みにジュース一本ね」
 美沙の机の横を通る時、意気揚々と杉田は言った。
 悔しそうに美沙がそれに答える。
「だから賭けなんてやめといた方が良いって言ったのにー……」
 昨日の二人のやり取りを思い出しながら来羅は苦笑する。
 いくら幼馴染とはいえ、最近ではこんなに仲が良いのも珍しい。来羅は少し憧れているのだ、二人のような関係を。
 生徒の号令がかかり、担任の教師が既に壇上に立っているのに気付いて来羅は慌てて礼をした。
 担任は高倉という四十代半ばの物静かな男性で、生徒たちの人気も結構ある。普段は優しいのだが、けじめを大切にする人で、怒ると怖い……と来羅は勝手に予想していた。
 その高倉が一通り挨拶を終えて、戸口の方を見て手招きした。
 来羅の鼓動が速くなる。
「今日は急ですが、転校生を二人紹介します」
 クラスが沸いた。
 転校生が来ることを誰も知らなかったことでも証明されたが、このクラスは本当にのんびりしている。きっと紅月も、そして誰だかは知らないがもう一人の転校生もすぐに馴染むだろう。
 ガラッとぞんざいに戸が開けられる。
 最初に入ってきた一人の少年に、騒いでいたクラスが水を打ったように静まり返る。
 漆黒の髪をなびかせながら悠然と教卓の前に立つその人物に、クラス中が魅せられていた。
 その容姿だけだったら、モデル雑誌を漁れば匹敵するものがすぐに見つかるだろう。でもその圧倒的な存在感だけは、きっと誰にも真似できない。真似出来るかどうかの問題でさえない。
 どこかの国の王様だと言われたら「あぁ、そうですか」とすぐに納得してしまうほどの、威圧感。
 クラス中が一瞬その呼吸を忘れたような静寂が広がった。
 ふと、少年と目が合って、瞬間、少年の表情が緩み、わずかに口の端を上げる。
 不覚にもその一連の仕草に来羅は見とれてしまった自分に気付く。
 少年の威圧感が少し弱まったためか、静寂は一気に破られて瞬く間に教室をざわめきが支配した。
 少年はそんな事を気にもせず、ずっと来羅を見ている。もし紅月が入ってこなければ、一生視線をずらすことが出来なかったのではないかとさえ、来羅は思った。
 最初に入ってきた少年とは全く違った雰囲気をたずさえて、紅月は軽やかに教室へ足を踏み入れる。
 赤みがかったその黒髪が無造作に揺れる。
 圧倒的な存在感に負けることなく、紅月は漆黒の髪の少年の隣に立った。
 目の前の三十三人の生徒たちを眺め、その中に良く見知った少女を見つけ出すと、紅月は人懐っこい笑みを向けた。女子が騒ぎ出す。
 笑顔を返しながらも、来羅は少年の視線が気になって仕方がなかった。
光陰(こういん)火照」
「風間紅月です。よろしく」
 体格においてほとんど変わらない二人は、全く違った雰囲気を醸し出している。
 本当に簡潔に自己紹介を終えると、聞き馴染みの全くない二つの名前を黒板に書きながら、高倉は二人に席を示した。
 紅月は来羅の遠い親戚ということになっている。そのせいかどうかは分からないが、主が留学中で空席だった来羅の隣に座る。
 一方火照と言う少年も杉田の隣の席に腰掛ける。杉田は来羅の後ろなので、つまり火照は来羅の斜め後ろの席となる。
「来羅、教科書とやらは間に合わなかったから見せろよ?」
「はいはい。筆記用具も下敷きもノートも全部任せてくださいませ」
 ぼそっと小声で問いかけた紅月に、軽く笑みを浮かべながら来羅が答えた。
「何? 知り合いなの?」
 その様子を見ていた美沙が口を挟む。
「あ、もしかして……今日のあんたの無駄な陽気さの原因はこれね」
 振り返った来羅の満面の笑みに、美沙は自分の答えの正しさを確認する。
 来羅のプライベートのことは驚くほど知らない。でも知らないと言うことに気付いたのも最近だった。
 それくらい自然に、彼女は来羅の私生活について触れなかったのである。
 だから、自分以外にもそんな笑顔を向けるほど親しい人間がいたことに、安堵と少しの嫉妬を覚える。
 ――でもまぁ、変な男じゃないから良いか。
 有本美沙は内心で頷く。変な男どころか、かなり魅力的な少年に見える。
 まだ子供っぽさの抜けない無邪気な表情、それでいて頼りになりそうな印象も受ける。スポーツは出来そうだし、背もきっとこれからぐんぐん伸びるだろう。赤みがかった髪は少し硬質なのか、つんつん跳ねていた。
 多分バレンタインの日には同級生の女子に義理チョコを沢山もらい、後輩からは憧れの先輩として見られ、先輩からは可愛い弟として遊ばれるだろう。
 何より来羅に向ける、髪とお揃いの瞳が優しいから、美沙はそれに安心した。


 朝のHRが終わりを告げ、大いに興味をそそられる転校生二人にクラスメイトたちは詰め寄り、質問攻めにした。
 だが火照の方へはその威圧感に気圧されたのか、生徒たちは遠巻きに眺めるに留まる。
 一方紅月は、矢継ぎ早に後から後から出てくる質問に、動揺しながらも丁寧に答えていた。その裏表のない無邪気な性格だったら女子はもちろん、男子の人気もすぐに得られるだろう、と来羅は安心する。

 問題は……。
 先程から痛いほどの視線を背中に感じ、気にはなるものの振り返られずにいた。
 彼には初めて会ったはずなのに、なぜかそんな気がしない。もっと前から知っていたような感覚に陥る。もう一度あの瞳を見てみたいと思ったのだが、どうも突き刺さる視線が怖くて振り向けないでいる。
 それでも……、彼の瞳はもう一度見てみたい。その眼差しが自分に向けられることは少し怖かったが、嫌ではなかった。
 不意に背中に視線を感じなくなって、不思議に思った来羅は無意識に首をひねる。
「ねぇ、あんた名前は?」
 振り返った先の机は主不在の状態で、代わりにすぐ後ろからその声を聞く。
「わっ、私?……来羅。立花来羅」
 慌てて前に向き直ると、少年が微かに微笑をたたえ自分を見下ろしていた。
 すっとその手が伸びてきて、まるで当然のように来羅の腰に手を回すと彼女を自分の目の前に立たせた。
 一連の動作に口を挟む隙がない。
 辺りがしんと静まり返り、異様な二人の光景にその場にいる全員が釘付けになっていた。

「ずっと、お前を探してた」

 低く、冷たく、良く通る声。たった一言にまるで魔力が宿っているかのように、来羅は身動きが出来なくなる。吸い込まれそうな漆黒の瞳に、目が離せなかった。瞳の奥の方で赤い炎がちらちら揺れているように見える。
 少年が来羅の首筋に顔を近づける。
「………っ、ちょっ……」
 何が起こっているか気付き、慌てて身をよじる。だけど手首を掴まれた手は振りほどけなかった。
「……やっ…」
 もう駄目だと思ったその時、来羅と少年の間に誰かの手が割って入る。
「お前、いきなりそれはないんじゃないの?」
「あ……紅ちゃん…」
 相変わらず少年の手は腰にあったが、紅月が後ろから来羅を守るように抱きしめた。少年が紅月を睨む。それだけで教室の温度が二、三度下がったように思えた。
 双方が出した手のせいで身動きが取れないまま、不安げに来羅が見上げる。
 しばらく二人は睨み合っていたが、やがてあからさまに不機嫌な表情を浮かべながら、しぶしぶ少年の手が離れた。
「火照とか言ったな。……お前何のつもりか知らねぇけど、こいつに触るなよ」
「あんたにそんなこと言われる筋合いはない。却下だ」
 来羅を火照からかばうように紅月は立つ。両者一歩も譲らない睨み合いは一時間目の授業が始まるまで続き、教室はその間誰も何もしゃべることはなかった。
 本当なら噂や妄想やあらぬ憶測を騒ぎ立てるはずの生徒たちは、二人の剣幕に気圧されそれどころではなかった。
 まぁ、明日には全校に噂が広がっているだろうが……。

 とにかく楽しみだったこれからの学校生活に、一抹の不安を感じずにはいられない来羅だった。






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