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「あ、あのね……火照君、ちょっと、これはまずいんじゃ……」
「なあ? 俺、お前に会うために今まで生きてきたんだよ」
「…………」
「俺のこと何も覚えてないのは知ってたけど……、やっぱり、辛いな」
「……火照君?」

 ◆

「だーかーら! 来羅に近付くなって何度言ったら分かるんだよ、この色ぼけ!」
「んなこと言っても意味ないって何度言ったら分かるんだよ、この鳥頭」
 今は二時間目の終わりの休み時間。最早この光景を見ても誰も何も言わなくなった。たまに他の学年の生徒が見てぎょっとするくらいで、この大半の生徒は「またか」という感じで半ば呆れながら傍観を決め込んでいる。
 休み時間のたびに繰り広げられる喧騒の渦中にいるはずの少女は、二人の少年に囲まれて小さく溜息をついた。

 ――こんなつもりじゃなかった。
 来羅は自分の前で、普段からつり上がっている眉をますますつり上げ、眉間にしわを寄せている少年を見て思う。彼、紅月にはもっと普通の学校生活を楽しんで欲しかっただけだった。
 例えばそれは、こういう休み時間に他の生徒たちと校庭で遊んだり、ほうきをバッド代わりに野球したり、ちょっといかがわしい本を男友達と見たりだとか。
 来羅の思い描く理想の学校生活像には少し偏見があるが、とにかく現代のちょっとした楽しみを味わって欲しかっただけなのだ。
「はあ……」
 机に頬を付けて来羅はまた溜息をつく。
「噂のプレイガールは浮かない顔ね」
「美沙ー……」
 相変わらず面白そうな声音で話し掛けてくる友人を、上目遣いで恨めしそうに来羅は見上げる。

「相変わらず」に見える美沙だったが、実のところ最初の頃はもちろん心配していた。別に紅月と火照の口論に巻き込まれていることを心配したわけではない。むしろ面白がっている。
 美沙が案じたのは、他の生徒の要らぬ嫉妬を買いはしないかということ。
 二人とも一目で人気が出るだろうと予想できる風貌だった。紅月が側にいるだけならまだしも、火照はあからさまに来羅に執着している。そのせいで来羅が恨みを買わないか……、それが美沙は心配だった。
 だがそれは杞憂に終わった。
 来羅のその不思議な雰囲気は、相手の敵意を挫くところがある。誰とでもすぐに打ち解け、絶対に怒らない。それが良いことかどうかは判断の分かれるところだが、彼女の近くにいると自分のドロドロした感情がスッと解消される。
 天然ボケとまでは言わないが、のほほんとした独特のオーラは対する者の毒気を抜く。弓道部に所属していて、そこでの先輩受けも良い。後輩にも慕われている。女子にも男子にも可愛がられ、彼女だったら「恋愛に発展しない男女の友情」も有り得ると本気で思える。
 ここまで説明するとある意味非の打ち所のない完璧な人間に聞こえるが、そうは見えないのが立花来羅で、結局完璧なんだと美沙は思う。それだけかね揃えているのに、なぜだか彼女は目立たないのだった。

 ◆

「紅ちゃん!! 今日という今日は遊んできてもらいます!」
 お弁当の最後のご飯粒を紅月が口に入れた瞬間、来羅は立ち上がり、彼をビシッと指差した。
「……人を指差しちゃいけませんって、二千年の間に学ばなかったのか?」
 口に箸をくわえたまま呆れ声で紅月が言った。
「年上の言うことは聞きなさいっ! 紅ちゃんはこれから校庭に出て皆とサッカーするの!」
「あのなぁ、俺がいなかったらお前、昼休みにあいつに何されるか――」
「だーいじょうぶっ! 美沙がいるから。あっ、杉田君!! 紅ちゃんよろしくね!」
 紅月の言葉を途中でさえぎり、来羅は今まさに校庭へ出ようとしていた杉田に声を掛ける。
「……了解しました、立花隊長! 杉田祥平、この命に代えても風間紅月を校庭へ連行いたします」
「よろしいっ!」
 急に真面目な表情になって杉田が敬礼し、来羅も当然のようにそれを返す。
「ちょっ、待てって! ……あ、有本! 後は任せた! おい変態! 俺がいないからって来羅に手ぇ出すんじゃねぇぞ!!」
 紅月の最後のセリフに、一人静かに座って傍観していた火照の眉がつり上がる。
「聞くかよ…」と、言葉になるかならないかの彼の呟きは、誰にも聞かれることなく雑音に飲まれた。
 さすがに空手部なだけはある。あの筋肉は見せ掛けじゃなかったようだ。杉田の腕力に観念したのか、教室を出るまで何事かわめき散らしながらも、紅月はずるずると引きずられていった。クラスの男子たちも席を立って校庭へ向かう。
 元々紅月に興味があったのだが、なかなか一緒に遊べなかったからだろう。待ってましたとばかりに校庭に駆けて行く生徒たちを見て、来羅は満足そうに微笑んだ。

「楽しそうね」
 背後にくすくすと笑う美沙の気配を感じ、来羅は幸せそうな笑みをそのままに振り返った。
「だってね、紅ちゃん本当は皆と遊びたかったんだもの」
 来羅は知っていた。休み時間にちらっと校庭の方を見る少し寂しそうな表情も、決して火照との喧嘩だけのせいで溜まっているわけではない彼の疲労も。
「幸せそうなところ悪いんだけどね、私、これから用事があるのよ」
「……え?」
 美沙は心底すまなそうにそう呟くと、ちらりと自分の後ろの火照を見やった。
 視線を感じたらしい火照が顔を上げ、わずかに口の端を持ち上げて来羅を見る。その笑顔に不穏なものを感じ取って、来羅の頬がひきつった。
「え〜っと……私も一緒に行っても良い?」
「進路指導室に行くからね、隣の職員室の扉の所で待っててもらって良いかな?」
 いつもは軽口を叩いている美沙だが、紅月に頼まれた任務をないがしろにするつもりはない。例え頼まれていなくても自主的にそうしただろうが……。
 職員室の前だったら、火照も変なことはしないと踏んだのだろう。来羅も安心してほっと胸を撫で下ろす。
「……俺、そんなに信用ない?」
 二人のやり取りを机に肘をつきながら黙って眺めていた火照が、心外だと言う様に来羅に問いかけた。
「えっ!? 信用してないわけじゃないんだけど……」
 突然の際どい問いかけに来羅がたじろぐ。
「ないない、そんなものっ! さ、行こう?来羅」
 必要なファイルなどを机から引っ張り出した美沙が二人の間に割り込み、半ば強引に来羅を引いて教室を出て行った。
「ま、信用されても困るけどね」
 二人が出て行った戸口をしばらく眺め、おもむろに席を立つと、火照は職員室へ向かった。

 ◆

「いい? 絶対ここから動かないでよ?すぐに……多分すぐに戻ってくるからね」
「はーい」
 まるで幼い子供に母親がするように注意をして、美沙は進路指導室の扉の向こうに消えた。まさか職員室の前で何かするということはあるまい。
 その考えが甘かったということを知るのはあまりにも早くて、美沙がいなくなってから三分も経っていなかった。
「おお立花! 良い所にいたな。悪いがこの資料を資料室に返して欲しいんだ。光陰一人じゃ大変な量だから、頼むぞ」
 教師としては全く普通の、そして来羅にとっては酷く無責任な歴史の教師は、これまた酷く無責任な注文をあっさりと下し、冷房の効いた職員室の中へ戻っていった。
「………………え?」
「立花さん、どうぞよろしく」
 両手に膨大な量の資料を抱え、無常にもぴしゃりと勢い良く閉じられた扉を眺め、来羅は呆然と立ちすくんでいた。その横で火照はいかにもわざとらしい口調に、ミスマッチな笑みを浮かべて彼女の背中を押して歩き始めた。

 資料室など、滅多に生徒が入って来ない場所の一つである。
 来羅は膨大な資料の見出しと睨めっこしながら、もとあった棚に戻していく。社会科が嫌いになりそうだった。
 背後に火照の圧倒的な存在感をひしひしと感じる。でも彼は職員室の前でのあの一言以来、何も話していない。それが逆に怖かった。
 初対面でのあんな行為さえなければ、もう少し良い関係になれていたに違いない。来羅にとっては火照の人を刺すようなオーラでさえ、なぜか懐かしい感じがするものの一つであったから。
「っと……わっ!」
 自分の頭の上の、届くか届かないかの位置にある棚に資料を戻そうとして、来羅の体のバランスが崩れる。まだ半分以上残っている資料をぶちまけるという大惨事に至る前に、後ろへ傾いた来羅の体を火照が支えた。
「あっ、ありがと」
「背ぇ低いんだからさ、無理することないんだよ」
 普段の紅月との口論からは想像出来ないほど優しい低い声が耳元に響く。来羅は動揺した。左手は来羅の肩を抱きながら、右手で来羅の手にあった資料を奪って棚に戻す。
「………火照君…あの…」
「何?」
「あ、あのね……火照君、ちょっと、これはまずいんじゃ……」
 もう支える必要のないほど来羅の姿勢は安定している。それなのに一向に火照の左手は来羅の肩に乗せられていた。乗せられているというより、押さえられていると言った方が正しいかも知れない。
 資料を戻してくれた右手は棚に掛けられている。来羅の両手は膨大な資料で塞がれていて、無闇に身動きすれば先程免れた大惨事が現実のものとなるだろう。
 前に資料棚、後ろに火照と、両者の間に挟まれて来羅の体は強張る。
 いざという時は棚を倒して資料をぶちまけても構わない、前に逃げようと心に決めた時だった。
「なあ? 俺、お前に会うために今まで生きてきたんだよ」
 今さっきの優しかった声音とも違う。
 思わず「大丈夫?」と聞いてしまいそうになる位切ない声が、吐息混じりに耳元に響く。だけれど来羅には首を傾げることしか出来ない。火照の言っている言葉は何かが引っかかるのだが、理解は出来なかった。
 何のことか分からない様子の来羅に、火照は小さく溜息をつく。
 その息が耳元にかかり、来羅は微かに身じろいだ。
「俺のこと何も覚えてないのは知ってたけど……、やっぱり、辛いな」
「……火照君?」
 思わず振り返ってしまった来羅の瞳に、火照の辛そうな表情が映って思考回路が凍る。
 彼は、口からでまかせを言っているのではない。
 自分にいい加減な気持ちで近付いたんじゃない。
 一瞬にして、来羅にはそれが分かってしまった。分かってしまって後悔する。
 彼の瞳は吸い込まれそうな錯覚を起こすほど深い闇色で、見てしまったが最後、目を逸らすことが出来ない。現に今だって、近付いてくる彼から逃れなくてはいけないはずなのに、身動きが出来ないでいる。
「……あ、の」
 口を開きかけたは良いが、出てくるのは静止の言葉ではなかった。
 頭の中で誰かが早く逃げろと言っている……。でももう一人の自分が自分に問いかける。
 ――どうして? どうして逃げなくてはいけない?
 私は彼を知っている。確かに知っている。その思いが強くなる。なぜ、逃げなくてはいけない? 答えが出て来ない。
 さっきの火照の言葉が頭の中をぐるぐる回る。
 ――私は彼を知っている。彼も私を知っている。そう、ずっと前から……確かに――。

「来羅っ!!」

 本来スライドさせて開かれるべき戸が、見事に部屋の中に横倒しになって倒れた。
 ただの一枚の板になった戸が床に付くと同時に、静かだった資料室に轟音が響く。戸を蹴り倒した人物は、普段は決して見せない険しい表情を浮かべ、戸口に立っていた。
「……紅ちゃん…」
 来羅の呆然とした声と同時に、火照は舌打ちをして彼女から数歩離れる。
「てめぇ……、手ぇ出すなっつったよな?」
「俺は承諾した覚えはない」
 まだ思考回路が正常に動き出さない来羅の前で、二人の緊張が張り詰めていく。
 突然、資料室の窓が割れた。
 その途端もの凄い勢いで風が室内に舞い込んで、荒れ狂った風が小さな竜巻のように紅月の周りに集まる。
 火照はその様子を見て口の端をわずかに持ち上げた。
 瞬きするその一瞬で、紅月は火照の眼前に迫る。殴りかかった拳には何重もの竜巻が渦巻いているように見えた。
 あれで殴られては一たまりもない。が、来羅が上げた静止の叫びは紅月には届かない。
「駄目っ!!」
 一瞬、不気味な静寂に部屋が包まれる。
 次の瞬間、床に投げ出されたのは驚いたことに、紅月の方だった。
「……っ」
 普通の人間にさっきの拳が止められるはずはない。なのに、目の前の漆黒の少年は軽々とそれを止め、逆に紅月を殴り飛ばした。
 無意識に紅月も手加減していたが、意識を奪うくらいのつもりで殴ったのだ。簡単に止められるはずは、ない。
 これには紅月自身が最も驚いていた。それでもわずかに相手が動いた気配を感じて、すぐに立ち上がる。
 火照はもう廊下に出ようとしていた。

「お前じゃ俺には敵わない」

 去り際に無表情でそう言ってのけると、騒ぎ出した生徒たちを無視して、火照は悠然と廊下を歩いていった。
「……来羅、悪い」
 物理的な苦痛ではなく、精神的な苦痛に顔を歪ませながら絞り出すように言った。
 来羅は返す言葉がなかった。
 大丈夫だとあれ程大見得を切って彼を見送ったのに、自分は何て馬鹿なんだろう。自分のためだけではなく、彼のために私は私の身を守るべきだった。こうなれば紅月が必要以上の責任を感じるのは火を見るより明らかだったのに。
 それなのに……逃げようと思えば途中で出来たかも知れなかったのに、来羅は彼に一瞬心を許した。
 我に返ってみれば、どうしようもない自己嫌悪に襲われる。
「紅ちゃんの……せいじゃない。ごめん、お願い。お願いだから自分を責めないで」
「でも…――」
「自分を責めるのは止めて、私のために止めて。私も紅ちゃんのために、もっと自分を守るから」
 紅月は力なく微笑むと、「分かった」と一言だけ言って来羅の手を引いた。
「本当に何も無かったんだよ」と紅月に告げると、「あいつも物好きだよな」といつもの悪戯っぽい笑みで彼が見返してきたので、教室にたどり着く頃には他の者に分からないくらい、普段通りの二人に戻っていた。






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