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 時は一週間前の夜。
 発端はこの他愛ないやり取り。

「ちょっと、火照。このプリント何よ」
 茨の責めるような口調がリビングに響く。白い肩に掛かった黒い髪が、さらっと音を立てて揺れた。
「……何って、どうせ来ないだろ?」
 くしゃくしゃに丸められ、さっきまでゴミ箱の中にあった紙切れを、茨はもう一度見る。
 夕食が済み、危うく生ごみを上からかぶせてしまう前に見つけて良かったと改めて思った。
「最初から決め付けないでよ。あなたの相手となる子、私も見てみたいんだから」
 茨の手元を横から覗きこんで、楓はにやりと笑う。
「なにかと思えば授業参観かよ。俺、この日は学校休んだ憶えしかな――」
 ドンッと足元からくぐもった音が聞こえた。
 テレビから顔をあげた百夜が見たのは、楓の素足が茨のスリッパに踏み潰されているところだった。彼女には逆らわない方が身のためだということは、この短期間のうちに百夜も充分に理解することができた。
「ねえ、『じゅぎょうさんかん』って何なの?」
 一触即発の茨と楓を取り巻く荒んだ雰囲気が、百夜の疑問に一蹴される。火照が小さく笑った。
 答えたのは楓だ。踏まれた足を乱暴に引き抜いて、茨を一睨みしてから百夜の横へやって来る。
「授業参観っつーのはだなあ……学校に行ってる生徒の様子を、親とかが確認しに来るんだ。んで、生徒は生徒で、その日一日は立派な生徒を演じるんだよ。ついでに教師も普段より良い服着てくる。変な親が来た生徒は、これからずっとからかわれ続ける。とにかく、恐ろしい行事だよ……」
 遠い日を思い出したらしく、楓が露骨に嫌そうな顔をした。
「いい加減なこと教えないで。あとで訂正するのは私なんだから」
 茨が溜息をついて楓を睨む。彼が何か言い返すのより先に、百夜はぽんと手を打って目を輝かせる。
「俺も行く」
「今の説明の、いったいどこに魅力を感じたわけ?」
「楽しそうだし、それに行ったら火照の思い人も見られるんでしょう?」
 眉を寄せる茨に、「だめ?」と小首を傾げてみせる。
「火照、どうするの?」
「いいんじゃないの? 来たきゃくれば。でも百夜、おまえ一人で教室まで来られるのか?」
「私が一緒に行くんだから大丈夫よ」
「無理だな」
 特に嫌がっているというわけでもない、平淡な口調だった。「なんでよ」と不思議そうに問う茨に、火照は呆れたような視線を向ける。
「その日は、一族の協議がある」
「あ……」
 今の今まですっかり忘れていた茨と楓が「しまった」という表情を浮かべ、互いに顔を見合わせる。双方心底から嫌そうに顔を歪めた。
 そんな二人にはお構いなしで、火照は続ける。こっちは逆に楽しそうな笑みが口元に浮かんでいる。
「この前のもすっぽかしたからな。今回も出ないとなると……直接呼びに来るんじゃないか?」
「……茨、お前一人で行って来いよ」
「嫌よ。あなたが一人で行けばいいでしょう?」
「二人で行けよ」という火照の呟きは無視される。百夜はといえば、自分の希望はほぼ確定したからか、今はふたたびテレビの画面に釘付けになっている。画面の中ではオオカワウソの映像が流れていて、その動きを熱心に目で追っている様子は子どものようだった。
「俺はその前の呼び出しにも出てったんだぜ。今度はお前の番だろ。とにかく俺は絶対に嫌だね。あんな面白くも何ともない話を延々と……どうせ結論もやることも決まってるっていうのに」
「言っておくけど、普段一族の窓口になっているのは私なのよ? 一度や二度の呼び出しがなんだっていうのよ。あと私、煙草くさいのも嫌なのよ。頭痛がするの」
「ああ、嫌だ。だったら火照の授業参観に行ってた方が何百倍もまし」
「比べるまでもないでしょう」
 そう言って茨は近くの戸棚からコインを一枚出した。多分日本の硬貨じゃない、どこか西洋風の小さな丸い硬貨だった。彼らがいつも、なにかを決めるときに使うものだ。
 細い指が無言で硬貨をピンッと弾き、高く飛ばす。真下に落ちてきたそれを手の甲で受け止めると同時に、もう片方の手で隠すように押さえた。
「裏」
 楓が真剣な表情で言う。
「じゃ、私は表ね」
 茨がゆっくりコインを隠していた手をどかす。
 明暗が分かれた。

  ◆

 大概の教師は授業参観の日、少なからずいつもより少し良い服を着てくるものだ。来羅は自らの担任教師、高倉を眺めた。
 ある意味尊敬に値するほどその服装はいつもと変わらず……いや、むしろいつもより悪いかも知れない。ネクタイはもう少しましなものが無かったのだろうか。淡い紫と黄色のストライプのネクタイを見ながら、来羅は小さく息を吐いた。
「先生、そう言えばご結婚はまだだっけ……」
 もし奥さんがいれば、きっとあんな趣味の悪いネクタイをさせて外出させることはしないだろう。
 あの服を見て、砂はなんと言うだろうか。
 この教室に砂や霧生が来るというのは、なんとなく違和感があって面白い。彼らに早く美沙を紹介したかった。きっと、砂はすぐに気に入るはずだ。
 それからすぐに、すぐ後ろの席に座っている火照のことを思いだした。
 彼は例の一件があった後、来羅に手を出してくることはなかった。学校も休んだり遅刻したり早退したりの連続で、話す機会もほとんどない。
 来羅にしても何をどう話せばいいのか分からなかったが、何事もなかったように接されるよりも、今のように無言で後ろにただ座っているような状況に、正直困っていた。
 火照の件はまだ片がついてはいない。意味深なあの日の言葉が、来羅の胸の中にぽつりと不安の染みを残している。だけどその不安を追究するのは怖かった。触れてはいけないものに触れてしまいそうで、もし触れたらもう二度と今の自分には戻ってこられないような気がして、火照に対して一歩も歩み寄ることができなかった。
 だから来羅は目の前の楽しいことだけ考える。
 今日は授業参観で、砂や霧生に美沙を紹介できる。自慢の友だちだ。この時代で自分がどんなふうに生きてきたか、美沙を見せればきっと砂たちは安心してくれる。
 そのことを考えると確かに楽しい。だけど、手放しでは喜べなかった。
 足りない。
 たった一人の不在が全ての事象に影を落とす。
 溢れ出す不安を抑制しようとでもいうように、ほとんど無意識に右手を握り締め、それを押さえるように左手をかぶせる。手の平に爪が食い込んだ。
 浸食してくる不安にずぶりと沈み込みそうになったとき、明るい声が耳朶を揺らした。
「来羅、あんた今年は誰か見に来るの?」
「え!? あ、ああ、うん。そう! 来るの!!」
 唐突に自分の意識下に滑り込んできた親友の言葉。その意味を理解するのに、少々時間が要った。そして理解すると同時に、緩んだ口元を両手で押さえる。
「何よ、嬉しそうね。……誰が来るの?」
 かすかに空いた間に、来羅は気づかなかった。
 不安の泥濘から救い出してくれた親友が、やはり好きだと思う。

  ◆

 美沙は内心で小さく舌打ちした。
 出来るだけさりげなく聞こうと思っていたのに、過去の失敗を思い出して微妙な間が空いてしまったのだ。

 もうかれこれ来羅とは一年半の付き合いだ。出会った当初はなぜか照れてしまって思うように話ができなかった。まるで一目惚れした相手を目の前にしているようだったと、今にして思う。
 初対面のとき、当然の話題の一つとして、美沙は「家族」の話を振った。美沙にしてみればそれは当たり前のことで、入学式の時に気になった少女が同じクラス、隣の席だとくればもう何でもいいから会話がしたかった。彼女のことをいろいろ知りたかった。ただ、それだけ。

 立花来羅には家族がいないらしい。兄弟がいるのかとたずねた美沙に、来羅は「家族はいないよ」と簡潔に答えた。
 答えた時の彼女の表情が、また何とも言えないあっけらかんとした感じで、美沙は自分が地雷を踏んだのか否かがすぐには判断出来なかった。
 固まってしまった美沙の目に、気にするなと慌てて言った来羅が映る。ごめんと小さく呟いたら、本当に隣の席の彼女が慌てたので、これ以上申し訳なさそうにするのはやめようと思ったのも覚えている。
 それ以来、家族の話題は二人の間に上らない。別に意識して避けているわけではなかった。ただそれより面白い話や聞かせたい話が、ほかに沢山あっただけのことで。
 だから、今日授業参観に来る人は少なくとも来羅の「家族」ではないだろうが、それが誰か予想できるほど、美沙は来羅のプライベートなことは知らなかった。
 誰が来るの、と訊かれた彼女の頬が、嬉しそうに綻んだのを見て、ほっとしないわけではなかった。だけれど、自分の知らない彼女の生活があって、おそらく自分の知らない彼女を知っている人間がいるのかと思うと、妙な嫉妬が生まれる。
 顔も知らない誰かに嫉妬するほど、自分は立花来羅を好きになっていたのだ。悔しいけれど、とても幸せだった。


 いつの間に終わったのか、気付けば壇上に教師の姿はなく、変わりに教室の後ろの方に着々と生徒の親たちが集まってきている。
 高校二年ともなれば、授業参観ごときで生徒たちは騒がない。
 それでもやっぱり微妙に浮き足立ってる。ちらちらと後ろを振り向く生徒たちの顔が、後ろから二列目の席に座っている美沙の目に入る。
「誰が来るかというと……えっと、何て言えば良いのかな。……紅ちゃん、紅ちゃん。わたしと砂や霧生の関係って、一口にいうと、何になるのかね」
 腕を組んで考え込んでしまった来羅は、隣で夢の世界を漂っていた紅月を揺さぶった。どうやら今日来る人物は紅月とも知り合いのようだ。ならば彼と同じ、「遠い親戚」というやつに当たるのではないだろうか。
 安眠を妨害された紅月が寝ぼけ眼で来羅を見あげる。まだ状況を把握してないらしい彼に、来羅はもう一度同じ質問を繰り返した。
 のんびりとしていて、ともすると気弱そうに見えるのに、案外と彼女はゴーイング・マイ・ウェイだ。でもそれに反感を覚えることもない。嫌味も感じさせない。
 得な性格だな、と美沙は苦笑した。
「……何だよ、関係? 砂や霧生との? ………仲間、なんじゃないの? 俺や百夜も含めて。それとも何か? 友達か? あんな奴らと? ……俺はごめんだね。あんな傍若無人の暴力女と、むっつりスケベの無口男なん――って!?」
 頭の半分はまだ寝ていたであろう紅月の、命知らずな発言は、二人の男女によって遮られる。両側から容赦なく叩かれた頭を押さえて、哀れな少年は声もなく机に突っ伏した。
 多分、かなり痛いだろう。紅月は目に涙を溜めて何もしゃべることが出来ない様子だ。しかし、悪いが今興味があるのは叩かれた彼ではなく、叩いた二人の男女の方。かなり長身の二人の顔を美沙は恐る恐る見上げる。
「砂! 霧生! 早かったね。その服何?」
「おはよ、来羅。出掛けに着せ替えられたのよ。でも面倒。いつもの格好の方が楽」
 叩かれた紅月を案ずる様子もなく、来羅は陽気に長身の男女に声をかけた。
 黒いスーツを完璧に着こなしている女性がそれに答える。スカートから伸びる足がすらりと長い。
 男性は何も言わずに、ほんの少し目を細めて来羅の頭をぽんと一撫でする。その手つきで、彼がこの少女のことを大事に思っているのが美沙にはわかった。これくらいかっこいい男なら、「むっつり」でも別に良い。
 ミーハーなことを考えていると、来羅が振り返って美沙の肩に手を回した。
「美沙、この二人がさっき言ってた人だよ。こっちが砂、こっちが霧生。紅月とも知り合いなの。それで、こちらが有本美沙、私の友だち」
「こんにちは、有本です」
「うちの来羅がいつもお世話になってます。今後ともどうぞよろしく」
「なあに砂、その挨拶」
「こう言えって、出かけにしつこく言われたのよ」
 隣に立っていた青年が、美沙に向かって軽く頭を下げた。少し長めの黒い髪が、わずかに揺れる。
「………お前ら、いきなり来て何てことすんだよ! 痛ぇじゃねぇかっ、もうちょい手加減を覚えろよ」
「なんせ、『傍若無人の暴力女』ですから?」
 紅月の顔に冷や汗が流れた。目の前の女性は笑っている。それはもうモデルもびっくりの飛び切り妖艶な微笑みだ。
 視線がぶつかったのは一瞬だった。呆気なく敗北した紅月ががくりとうな垂れる。
「ごめんなさい。もう二度とあんなことは言いません。許してください」
 棒読みの謝罪に、砂は満足そうに微笑む。
「分かればいいのよ、分かれば」
「紅ちゃんは何にも考えずに本能のままに発言するの直さないと、いつかもっと痛い目みるよ?」
 来羅がにこにこと呑気に笑いながら言った。言われた紅月は軽く少女のおでこを弾く。八つ当たりだと怒る来羅を、美沙は呆気に取られてただ眺めていた。
 ――なんだ、いるんじゃないか。
 いるんじゃないか。「こういう人たち」が。
 自分の勝手な思い込みだったが、有本美沙にとって、立花来羅は孤独な影を背負った存在だった。
 家族もいない、親戚の話も聞いたことがない。一人で暮らしているみたいだし、彼氏がいるわけでもない。
 紅月が初めてだった。学校以外で彼女に関係がある人間は。少なくとも美沙が教えてもらった範囲では。
 紅月だけならばまだよかった。同じ女の中では、自分が一番来羅に近い存在だと、そう自惚れていられたからだ。それなのに、それは美沙の勘違いだった。知らされていなかっただけで、自分よりずっと近く、気安い存在が彼女にはちゃんといたのだ。
 目の前の来羅の笑顔を見ていると、美沙の胸の中にもやもやとしたものが広がってくる。前を向き直って、深呼吸した。
 こんなことで嫉妬をするなんて、まるで小学生だ。
 思っていたより幼稚な自分の感情に戸惑っているうちに、一時間目のチャイムが鳴り始めた。

  ◆

 学校とは、こういうものか。
 教師と呼ばれる男性が、壇上でこの国の歴史について話している。時折後ろの青緑の板に白い文字を書き、生徒はそれを写す。
 だんだん増えてくる親たちに囲まれながら、砂と霧生は目の前の光景をじっと見つめていた。広い視界の中、だけどどうしようもなく一点に意識が向かってゆく。
「ねえ」
「ああ」
 小さく呟いた砂の声に、間髪入れず霧生が応えた。
 二人の意識は同じ場所に引きよせられている。
 来羅の左斜め後ろに座っている少年。
 確かに異質だな、と霧生は相変わらずの無表情で考えた。隣の砂が眉を寄せているのが手に取るように分かる。紅月に目的の人物を尋ねようと思っていたが、それは不要だった。
 まだ幼さの抜けない十六、七の少年少女たちの中で、明らかに彼は浮いていた。
 紅月はともかく、二千年生きてきた来羅でさえ他の生徒と馴染んでいるのに、あの少年の圧倒的な存在感。加えて紅月の言ったセリフを思い出す。
 ――もしかしたら、「裁定」の関係者かも知れないな。
「よし、そろそろチャイムが鳴るだろう。ご家族の皆さん、本日はお越し頂いてありがとうございます」
 藤峰高校の歴史の教師は、恰幅の良い体を教室の後ろの大人たちに向けてにこやかに笑った。と、ほぼ同時にチャイムが鳴る。
 授業参観の日はこの一時間で授業は終わり。後は帰宅するだけである。
「ねえ、紅ちゃん。今日このあと――」
 来羅の言葉は、勢いよく開けられた後方のドアの音に遮られた。
 チャイムが鳴り、休み時間に入ったとはいえまだ教室内は静かである。よって生徒たちも一斉に後ろを振り向いたのが、空気の動きで分かった。
 でも、振り向いた者のうち、その動作の全てが凍ってしまったのは、来羅だけだ。
 紅月や砂や霧生でさえ、目を見開いて口を開けるくらいの動きはして見せた。来羅は動けなかった。心臓も、その一瞬はたしかに止まっていたと思う。
 入ってきたのは二十歳位の青年だった。続けて、誰もが目を見張るほどの黒髪の美女。振り向いた生徒の何人かがささやき合う。教室はまた雑音が溢れかえった。
「ありえないわ。何のために来たのか分からないじゃない」
「だから最初に、あの階段を上るべきだって言ったのに……。ここ、茨ちゃんも昔通ってたんでしょ?」
 黒い髪をさらっと後ろへ流し、女は溜息をつく。
「そんな昔の記憶はないわ」
「ま、いいじゃん。火照の好きな子は見られるんだし。火照は、と………………」
 青年が教室を見渡し、ある一点で視線が凍りついた。さっきまで穏やかに笑っていた顔から、一切の表情が消える。
「……どうしたの? 百夜君?」
 傍らの女性が怪訝そうに眉根を寄せた。
 それさえ、青年の耳には入っていなかった。

「…………ら、来羅……?」

 掠れた声で紡がれた言葉は、呼ばれた少女の耳に届く。
 数秒のあいだ止まっていた少女の時が、そして、動き出す――

「百夜!!」

 少女の叫びが教室に響いた。






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