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 一体なぜこんなことになったんだろう。
 もし、もしあの時あの場所を歩いていなかったら……。
 そしてそこに、この青年が倒れていなかったら、もう少し事態は良くなっていただろうか。
 いや、案外それ程変わらなかったかも知れない。
 それにしたって……これは悪趣味な采配だ。神はいつだって平気で残酷な手を打ってくる。
 無意識にそんなことを考えながら、火照は目の前の光景をただ眺めていた。


「百夜!!」
 目の前の少女のその声は、火照に自らの失敗を悟らせるのに充分過ぎものだった。
 呼ばれた青年の顔からは、一瞬全ての表情がそぎ落とされていた。ただ呆然と開けられた口が、音もなく空気を吸いこむのが、離れている火照にもわかった。
 なぜ、いったいなぜ、こんなことになったんだろう。
 たった一つの望みさえも、神は無残にも奪っていく。
 何度だって火照から奪っていく。

  ◆

 たった数歩の距離しか離れてないはずなのに、この距離がもどかしい。
 立ちはだかる机が憎い。
 私と彼の間にある全てのものが邪魔。
 必死に足を動かしてるはずなのに、全く前に進んでないような錯覚に陥る。
 こんなにも大きな衝動を、今まで私はどうやって抑えてきたんだろう。

 来羅は机や椅子が倒れるのにも構わずに走った。今やその場にいる全ての者の視線が彼女に向けられていたが、それは何の障害にもならなかった。
 もつれる足をただひたすら動かし、差し出された青年の手を取る。触れたか触れないかの瞬間、強い力で引き寄せられた来羅は百夜の胸に飛び込んだ。

「百夜っ! 百夜!!」
「………来羅っ、良かった……本当に…………」

 夢かも知れないという不安を捨て切れず、百夜は来羅の髪に触れた。
 確かにそこにある感触に心底ほっとして、抱きしめる両手に更に力を込める。
「心配させやがって、この馬鹿」
 紅月の声が聞こえてくる。
 からかう様な口調の裏に、あからさまな安堵が滲んでいた。顔をあげ、少女の向こうに見慣れた瞳を見つける。ほっと息をついた瞬間、あたりの雑音も息を吹き返した。
「紅月、その格好、変」
「……相変わらずだな。第一声がそれかよ」
 呆れたように溜息をついた紅月を見て、百夜は微笑む。
 顔は紅月へ向けていても、両腕の力は弱めなかった。まるで一瞬でも手放せば少女が消えてしまうとでも言うように、細くて小さなその身体を抱きしめつづけた。腕の中で、来羅は身じろぎ一つしない。服越しにたしかな鼓動が伝わってきて安堵する。
「全く、この間抜け」
「砂……」
 これまた見慣れない服を着て、懐かしい切れ長の瞳がこちらを見て微笑んでいた。
「私は全然心配しちゃいなかったけどね。今度その子を不安にさせてみなさいよ? どうなるかわかってるんでしょうね?」
 不穏な笑顔を浮かべる彼女に、こくりと頷いて見せる。誰に言われずとも、もとよりそのつもりだ。もう二度と来羅とは離れない。もう二度とこの少女を手放さない。
 砂の横では、霧生がなにも言わずに、かすかに笑っていた。
 何もかもそのままだった。
 ただ一つ変わったものは、腕の中にいる少女だった。
 永い永い二千年の中で、何を見て、何を聞き、何を感じて、どういう風に生きてきたのか。
 そして、どう変わったのか――……

 そろそろ離れようと、少女の両肩に手を乗せたときだった。なにかが床に叩きつけられる音にびくりと身体が揺れた。
 音のしたを見て、息を呑む。
 さっきまでの雑音が嘘のように、まるで最初から誰も居なかったように、辺りが沈黙に包まれた。

 一人の少年が、教室中の視線を集めて立っていた。
 立ち上がった拍子に倒れた椅子が、床に縫い止められたみたいに静止している。誰も何も言えなかった。
 その少年から溢れ出るものに、身がすくんだ。
 身を切るほどの怒り。
 それがその場にいる全員に感じられた。
 百夜の胸から、来羅がそっと顔をあげる。怒りの気配を辿って、彼女の黒い瞳がいっぱいに開かれた。
 開いた口が、「ほでりくん」と音もなく呟く。
 少年の視線は来羅ではなく、真っ直ぐ百夜に向かっていた。その視線は青白い炎のように燃えさかっている。
 だけど、怒りではない別の感情が百夜の心を突き刺した。
 憎悪でもなく、殺意でも恨みでもない、針のように自分の心を突き刺してくる冷たい感情の正体がわからない。
 答えを求めてじっと見つめていたが、不意に火照は視線を逸らし、出口へ向かって歩き出した。
 百夜の横を通り過ぎる刹那、
「二度と俺の前に姿を見せるな」
 押し殺した冷たい声でそう言って、彼は教室を後にした。
 茨は困惑の表情を百夜に向け、それからすぐに火照の後を追う。遠ざかる足音が次第に小さくなり、教室がざわめき出す。今度は騒ぎ立てる者はいなかった。自分が感じた恐怖を打ち消すように、ぎこちない笑みを浮かべて近くの友人との会話に専念している不自然な雑音だった。
 紅月と砂と霧生はまだ火照の消えた扉を、眉をわずかにひそめて見続けていた。その視線を追って、不意に百夜は思い至る。
「ああ、そっか」
 間の抜けた、緊張感の欠片もない声で手を叩く。
「どうしたの?」
 不安そうな表情を浮かべる来羅に、頷いて見せる。
「うん。火照が、怒ってた理由。多分そうだ。うん、きっとそうだ。参ったなあ」
「だから、どうしたの?」
 じれったそうな来羅の視線を受けとめて、ため息をつく。ああそうだ。きっと。でも、この理由が正しいとしたら、自分と火照はどうやら以前のようにはいかないらしい。
「……火照に、何か言われた?」
 一瞬ぽかんと口を開けた来羅の頬が、みるみるうちに赤く染まっていく。その変化を見て「やっぱり」と肩を落とした。
「だからだよ」
 火照の好きな子は、来羅だったのだ。好きな女の子を、目の前で他の男に抱きしめられたら、だれだって面白くないだろう。そう考えて納得しかけたところで、来羅が首を振った。
「違う」
「来羅?」
 思いの外強い否定だった。来羅自身が一番驚いているような顔をして、彼女はだがもう一度「違う」と呟いた。
「もっと……、もっと何か別のものに対する衝動だよ。自分では、どうにもできないものに対する……」
「………来羅?」
 ゆらめく声に不安を覚えて名前を呼んだ。はっとした様子で顔をあげた来羅は、ぎこちなく笑ってみせる。
「ううん。ちょっと、そう感じただけ!」
 取り繕うような笑顔に、百夜はそれ以上問いを重ねることができなかった。

  ◆

 自分でも不思議だった。
 どうしてかは分からないが、火照の想いが、あの瞬間、手に取るようにわかった。あの瞬間、来羅と火照はとても近い存在だった。
 だからわかる。彼の憤りや衝動が。痛いほど、来羅の心と同調していた。
 もっと不思議なのは、その奇妙な感覚を、百夜にさえ伝えようという気にはならなかったことだった。この感覚は自分と火照だけのものだという気がしていた。誰かに打ち明けるのは、火照に対する裏切りだと、どこかでわかっていた。


 取り繕ったようなぎこちない雑音の中、担任の高倉が静かに教室へ入ってくる。
「百夜、砂も霧生も、これ終わったら一緒に帰ろう? 待っててね」
 手短にそう言い残して来羅は自分の席に戻った。戻る途中、火照が倒した椅子を元通りに直してやる。
 心配そうな美沙の視線を感じたが、結局なにも言えなかった。

 今や、自分が望んだものが全て手に入った。なにもかも元通り。砂や霧生や紅月がいて、百夜が戻ってきた。
 これから迎える「審判の日」に、来羅は世界を選んで、役目を解かれた自分は百夜たちと普通に日々を過ごしてゆく。その未来だけを願っていたのだ。望んだ未来は目前だ。それなのに。
 どうしてだろう? あの漆黒の少年が、自分の意識に入ってくるのを、どうしても来羅は拒めなかった。


第壱章 完結




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