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 昨日から、来羅の顔の筋肉は引き締まることを忘れてしまったらしい。
 終始誰かれ構わず幸せいっぱいの笑顔を振り撒いてる少女を見て、霧生は思った。
「あんまり笑いっ放しだと、馬鹿な顔が元に戻らなくなるぞ」
 そこだけ違う世界を作っている来羅と百夜を見て、紅月は呆れ笑いを浮かべている。
 全員揃ったことを祝って、小さなパーティーを開こうと来羅が提案したのは、昨日の授業参観の帰り道だった。反対意見が挙がるはずもなく、現在彼らは、午後四時の混み始めたスーパーの食品売り場でカートを押している。
 四人はまだ気付いていない。パーティーの企画を来羅に任せたことが問題であることに。

「馬鹿とはなによ、失礼ね! ……確かに、紅ちゃんみたいな顔になったら困るけど……」
「そんなこと言っててもお前……顔が笑いっぱなしだぞ………」
 紅月に文句を言っている最中も、来羅の顔には満面の笑みが広がっていた。自分にはとても出来ない芸当だな、と霧生は素直に感心する。
「そんなことは良いから! 早く材料選んでくれないと、日が暮れちゃうよ」
「で? その『やみなべ』ってどんな料理なの?」
「えっと……だからね―――」
 たずねた百夜に向かって、来羅は今夜の歓迎パーティーのメイン料理、「闇鍋」について語り始めた。
 ――「闇鍋」、別名「闇汁」。冬などに、各自思い思いに持ち寄った食物を、灯を消した中で鍋で煮て食べる遊び。また、その煮た物。
 という正しい説明を聞いていたら彼らだって、すぐに反対しただろう。だが、来羅というフィルターを通して伝えられた「闇鍋」は違った。
「だからね、皆で具材を持ち寄って鍋で煮込んで食べるの」
「……『闇』はどこら辺を表してるの?」
 確かに今の説明では「闇鍋」の「闇」の部分の必要性が分からない。
 百夜が遠慮がちに聞き返す間にも、来羅はかごの中に野菜を放りこんでいる。
「ああ「闇」ね。たぶん、暗い中で鍋を囲むってところを表してるんだと思う」
「なんで暗くする必要があるの?」
「その方が楽しくって、盛り上がるでしょ?」
「ふうん」
 なぜその方が楽しくて、盛り上がるのかは全くもって分からないが、取り合えず百夜は曖昧に相槌をうった。それに満足したのか、来羅はにっこり笑って、今度は肉を放り込む。霧生も砂も遠目にそれを眺めながら、後から黙ってついていった。
 出かけに来羅に諭されて、この時代の一般的な服装に着替えさせられた隣の砂は、前を歩く来羅と百夜の様子に目を細める。
 見てくれだけで言えば、二人の姿はさながら新婚夫婦のようである。
「紅月さえ視界に入らなければ、完璧に新婚夫婦だわ」
 考えていても、霧生が口には出さなかったことを、彼女はさらりと言ってのける。
「その手前の段階にさえ進んでないだろう」
「あら、もう時間の問題でしょう」
「百夜はともかく、来羅はそういう感情自体に気づいてない」
「だから、時間の問題よ」
 前から分かっていたことだが、どうやら砂は来羅のことになると公正な判断力に欠けるらしい。
 砂の言うとおり、百夜に対する来羅の態度は、他の人間に対するときとすこし違う。だがそれが恋愛感情だと、自信をもって霧生は断じることができなかった。
 来羅はだいぶ感情豊かになった。それはわかる。だがその方向性はすべて正の方向へ向かっていて、負の方向へはまったくといっていいほど成長が見受けられない。霧生だって、べつに来羅に負の感情を学んで欲しいと思っているわけではない。だがしかし、普通に生活していれば、当然身についていておかしくないと思うのに。
 砂は、来羅は素直な良い子だからと言って、さして問題にしてはいなかった。でも本当に、それで片付けていいことか。
 昔から彼女は何を言われても、されても、その笑顔を絶やすことなく、決して取り乱したりはしなかった。普通なら裏があるのかと疑うところだが、彼女に対してだけはそういう考えは微塵も沸き起こらない。それが不思議だった。
 それがほんの少し崩れだしたのは……そう、百夜が彼女に好意以上の感情を抱き始めた頃からだ。
 来羅にしたって、おそらくそんな感情を抱かれたのは初めてだったのだろう。だからそれ相応の反応と感情を、鏡のように返しただけではないか? 霧生はそれを恋愛感情と呼ぶにはまだ早いような気がしていた。
 来羅には根本的な何か大切な感情が抜け落ちているようで、まずはそれを追究することが先決のように思われた。だが、自分にその役目は向いていない。感情の起伏が少ないことを自覚している霧生は、「ならば誰が適任だろう」と考えて、行き詰まる。
「あっ!これも美味しそう」
 来羅の嬉々とした声が霧生の思考の壁を破り、脳に届いた。
 顔を上げれば、きらきらとした来羅の目と、眉間に皺をよせた紅月が視界に入る。
「ちょっ、ちょっと待て。今日は確か『鍋』だよな?」
「そうだよ? なんで?」
 来羅の手に握られているものをまじまじと見つめながら、紅月はさらに眉をよせた。その様子に来羅は小首を傾げる。
「いや……『鍋』って、俺が知ってる鍋で正しかったら、たしか、煮こむんじゃなかったか?」
「うん。そうだよ?」
「だったらさ、はっきり言って、その『ぜりー』ってやつは……なんか違うんじゃないか?」
「なんで?」
「なんでって……お前、よく考えろよ」
「いいんだよ。だって『闇鍋』だもん」
 だから万事全て問題なしと、来羅は手に持っていた袋をかごに入れた。袋の中には小さくて透明の物体がたくさん入っていて、おそらくそれが「ぜりー」なのだろうと霧生は思う。紅月のいうとおり、煮込む食材向きには見えない色をしていた。
 紅月と霧生の目が合う。お互いの目によぎる、一抹の不安を感じ取った。隣では、砂が「色んなものが入ってた方が面白いじゃない」と、無責任なことを言っている。本当に彼女は来羅に甘い。
 百夜は当てにはならなかった。来羅が幸せそうにしているだけで満足なのだ。砂を黙らせ、百夜をおしのけ、幸せそうな来羅を制止するという労力を考え、考えただけで霧生は疲れてしまった。無言のうちに、あとはお前に任せたという視線を紅月に送る。少年が嫌そうに顔を歪めた。
 たぶん、紅月では歯止めにならないだろう。
 霧生は今夜の食事を美味しくいただくことを諦め、再び歩き始めた。

  ◆

「おい、百夜」
 スーパーからの帰り道、紅月は切羽詰った声で話しかけた。来羅ばかりを見つめている視線を無理やりこちらに向けさせる。
「分かってるか? ……いや、お前は分かってないな。いいか? 断言してもいい、あの材料からできる料理が、美味しいはずはない」
 むしろ毒だ、と呟く紅月を、百夜は不思議そうに見つめ返す。
「そうかなあ、美味しそうなものばっかだと思うんだけど」
 百夜はにこにこと微笑みながら首を傾げた。にやけた頬をつねってやったら、夢から覚めないだろうかと紅月は考え、すぐに無駄だなと諦める。それくらいで覚めてくれたら、こっちだって苦労しない。
「総合して考えてみろよ。あれを全部鍋にぶちまけて煮込む気なんだぞ。煮込むってわかってるか? いいから、お前、行ってあいつを止めて来い」
 ビシッと前を歩く少女を指差し、紅月はもう一度百夜を見た。
「なんで俺が? 自分で言えばいいじゃないか」
「俺が言っても聞きゃしないんだよ、あいつは」
 疲れをため息に滲ませて、頭を振った。
 来羅が紅月の訴えをまともに聞き入れたことがあるのは、数えるほどだ。どうも砂や霧生、百夜の言葉に比べ、紅月の意見は彼女に聞き入れられない。言っていることは一番まともだと思うのに、来羅はいつもさらりと笑顔でかわしてしまうのだ。自覚があるのかないのかは分からないが。
「でもなあ、俺は食べてみたいな。『やみなべ』」
「お前は騙されてる」
 これ以上なにを言っても無駄だ。こみ上げるため息が口からこぼれる瞬間、後ろから肩を叩かれた。
「……霧生」
 その手の平から同情が伝わってくる。
「まあ、砂の台詞じゃないが……死にはしないだろう。食べられるものが混ざるんだから」
 いささかも慰めにならない言葉にうな垂れながら、「そうだな」と呟いた。

 この時、霧生が考えていたことを紅月は知る由もなかった。紅月を標的にして、自分はなるだけ料理に手をつけずに済まそうと、霧生は無表情に考えていたのだった。

  ◆

 その夜、静かな日本家屋の大屋敷に、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられたことを知る者は少ない。






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