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「卵、牛乳、鶏肉、あとは……って、雨?」
 買物リストを書いた白い紙面に、丸いシミが浮き上がる。
 見上げた自分の鼻の頭や頬にも、冷たい雫が落ちてくる。来羅は慌ててシャッターの閉まっている店の軒下に避難した。
「ついてないなあ。傘、やっぱり持ってくればよかった」
 力なく呟くと、脳裏に紅月の声がよみがえる。
 突然の雨というわけではなかった。天気予報をチェックしている人ならば、今日は当然傘を持ち歩いていておかしくない日なのだ。それは充分承知していた。
 ――雨が降るから傘を持っていけ。
 差し出された淡い黄緑色の傘を、つまらない意地など張らずに受け取っておけばよかっと後悔する。
 でも、元はといえば彼が悪い。
 無意味な責任転嫁をしつつ、来羅は足止めを食らっている原因を思い返した。

   ◆

「そんなに、まずいまずい言わなくてもいいじゃない!」
「まずいものはまずいんだ。まずいって言ってなにが悪い!」
「さ、三回も言った! 三回も! ……紅ちゃんの味覚がおかしいんだよ! 百夜と砂はおいしいって言ってくれたもん!」
 こんなやり取りが、昨夜の晩からつづいている。昨夜の晩、阿鼻叫喚の闇鍋が行われた晩。
 閑散とした屋敷中に、二人のやり取りは風に乗って流されていく。
「馬鹿かおまえ。砂の言うことを真に受けるな! あいつはおまえにだけは甘いんだよ。百夜は……おまえとおなじで味覚がいかれてんだ!」
「そんなことないもん! 紅ちゃんは……、好き嫌いが多すぎ!」
 有効な言葉を必死で探して、思いついたように来羅は叫んだ。眉を寄せて睨んでくる少女に、紅月は早くも諦めの視線を向ける。最後はいつもこうだ。言い合いを始める前から、最終的に自分が折れるのを紅月は知っている。
「……鍋に浸ってる、甘い寒天やら、ちょことかいう茶色いぐにゃぐにゃしてる物体をまずいと言って、そんで好き嫌いがどうのと言われたかねえ……」
「…………美味しいのに」
 ぼそりと呟く来羅を一べつし、紅月は声音を変えて昨日からの疑問を口にした。
「お前、二千年の間どんなもんで食いつないできたわけ?」
「食いつなぐって……そんなギリギリの生活じゃなかったよ」
 言われて、ちょっとのあいだ過去を振り返り、来羅は自信を持って答えた。だが返ってくるのは肩をすくめた紅月のため息。
「嘘を言え。ろくなもの食って来なかったんだろ、どうせ。あれを『おいしい』とか言える奴だもんな、おまえ」
 はなから決めてかかったその口調に、来羅は口を尖らせる。
「そんなことないもん。ちゃんと料理してたもん。得意料理だって一つや二つじゃないんだから。一通り日本料理は作れるし、中華だって洋食だってイタリアンだって自由自在だもん!」
 両手をばたばたさせて訴えるその様子に、紅月は変わらない彼女を見出す。思わず浮かべた微笑をどう解釈したのか、来羅は両頬をふくらませて人差し指を立て、言った。
「今日! 今日の夕飯は私が一人で作ります! おいしすぎて死んでもしらないからね!」
「えっ、おい、ちょっと待てって! …………違う理由で死にそうで嫌なんだけど……」
 遠ざかっていく少女の背中に、力ない声が追いすがる。昨夜の闇鍋を美味しいと言う彼女に料理のセンスがあるとは、到底思えない。紅月は早くも、今日の夕飯を食べずに済む方法を考え始めた。
「……俺じゃなくて、百夜に言えよな」
 彼だったら、来羅が作るものならなんだっておいしいと言って、嬉しそうに頬張ると決まっているのに……。
「なんでこうなるかな」
 ぼやいてもしかたがない。玄関へ向かった少女に、傘を持っていくように伝えなければ。できれば外出などせずに家にいておとなしくしていて欲しいのだけれど。
 それが無理なのを、紅月は知っている。

   ◆

「あらら、さすがにこれは、ちょっとまずいかも」
 止むどころか激しさを増す一方の雨に、軒の下に避難している来羅は声をあげた。軒下から手を伸ばすと、差し出した手の平が一瞬で水浸しになる。
 もうひとつのスーパーに寄るのは諦めるにしても、家までは走って十分はかかるだろう。荷物も自分もびしょ濡れになるのは目に見えている。十月半ばのこの季節、雨に打たれて冷えれば寒いに違いない。
 もうすぐ止むだろうか。天気予報はなんと言っていただろう。どちらにせよ、紅月が傘を持っていけとわざわざ言ったのだ。当分止まないに違いない。
「覚悟を決めますか」
 ずっとここにいても仕方ない。そう考えて、荷物を両腕で抱え込むと、来羅は軒下から一歩踏み出した。と、その時。
「そんな覚悟決めるな」
 声の主を確かめるより先に、二の腕をつかまれて勢いよく後ろに引かれる。体勢を崩して、そのままシャッターにぶつかるかと思いきや、意外にも背中に当たったのはあたたかいもので――。
「隣にコンビニあるだろ? 傘、買えよな」
「……火照くんだ」
 間の抜けた声が口から漏れる。顔を上げたると、真っ先に視界に入ったのは漆黒の髪で、つづいてこれまた黒い目。彼の瞳は、来羅の目には黒よりももっと黒く見える。その奥にちらちらと冷たい炎が揺れているような、そんな印象を受ける。
 たった一日と少しのあいだ離れていただけなのに、なんだかずっと会っていなかったような懐かしさを感じて戸惑ってしまう。
「元気?」
 訪ねると、火照はすこし考えて、やがて淡く笑った。
「……たったいま、元気になった」
 相手を見下すような、いつもの不敵な笑みでも含み笑いでもない。初めて見るあたたかい微笑みに、来羅もつられて笑う。
 掴んでいた手を離して、火照は一歩距離をとる。
「買物?」
「うん、そう。ちょっとね……目にもの見せてやろうと思って」
「ふーん。健闘を祈るよ」
 火照のエールにありがとうと答える。ふと、目が合って、そのまましばらく視線が外せなかった。
「……元気?」
 訊くと、火照はまた淡く笑って、土砂降りの様子に視線を移す。
「……あんまり」
 来羅はその一瞬で、たしかに彼のなかに隠された哀しみを感じた。哀しみを見つけてしまった。それがなぜか自分のことのように哀しくて、辛い。
 思わず火照のシャツのすそを掴んでしまうくらいに。
 振り向いた火照の頭を、背伸びした来羅の手が優しく撫でる。
「辛いときは……我慢しないで泣けばいいって、昔、教えてくれた人がいるよ」
「……俺は子どもかよ」
「えっ、あ! ご、ごめん……つい」
 慌てて引っ込めようとした手が引き止められる。
「ありがとう」
 そのまま引き寄せられて、火照の胸に頬が触れる。抱きしめられて、心臓が跳ねる。
 道行く人の視線を感じる。だけど、火照を拒むことができない。嫌だとも思えない。
 ――今だけ、今だけ。
 今だけだから、と、当てのない言い訳を繰り返した。

「あいつ……百夜って、おまえのなに?」
「なに、って………」
 返答につまる。自分でもよくわからないというのに、どうして誰かにわかってもらうことができるだろう。
「えっと……、よく、わからない……自分でも」
 仕方なくありのままを伝える。稚拙な返答だと思うが、ごまかしてはだめだ。それだけわかった。
「そっか」
 火照は少女を解放すると、一歩下がった。
 安堵するよりも、離れていった体温に寂しさを感じた。そんな自分に来羅は動揺する。彼女の戸惑いに気づかない様子で、火照は髪をかき上げながら呟いた。
「ま、あいつがおまえの恋人でも、俺は引かないけどな」
「あっ、またそういうことを平気で言う……。百夜は、百夜は恋人なんかじゃ……」
 火照の顔を直視出来ず、来羅は俯いた。
 きっと今自分は真っ赤な顔をしてるだろう。冷えきっていた体が嘘のように熱い。見なくても、彼が笑っているのが分かった。淡く。やさしく微笑んでいる。それが無性に嬉しい。
「火照くんは、今みたいに笑ってるほうがずっといいよ」
「惚れ直した?」
「またそういうことを……」
 文句を言っても無駄らしい。笑ってくれるならそれでもいいかと、来羅が諦めたそのとき――……
「火照! この馬鹿、こんなとこにいやがった」
 背の高い青年が、全身を雨に打たれながらこちらへ駆けてくる。となりから小さな舌打ちが聞こえた。
「いきなりいなくなったと思ったら、女のとこかよ……痛っ!!」
 青年の腹に、火照の拳が沈むのを来羅は見た。手加減なしの一発だったのが傍目にもわかった。苦痛に顔を歪めながらも立っていられるのは、青年の身体が鍛えられているからだろう。
「口のききかたに注意しろ。来羅に失礼なこと言うんじゃない! おまえの脳みそは少量化か」
「いきなりいなくなって、散々人に探させといて偉そうなこと言うな! 俺が少量化ならお前は軽量化だ」
「どっちもあんまり大差ないですね……」
 ぼそっと口を挟んだ来羅に、青年の視線が向けられる。
「ああ、あんた例の……痛っ」
「だから口のききかたを気をつけろ!」
 再び火照の拳を食らい、今度こそ楓は地面にうずくまった。
「………っ、同じとこ殴りやがったな……この、陰険っ」
「学習しないおまえが悪い」
「だっ、大丈夫ですか?」
 さすがに心配になって、来羅は腰をかがめて青年の顔を覗き込む。頭上から火照の声が降ってくる。
「心配する必要ない。そいつはゴキブリ並みの生命力だ」
「うっさいな! ……どーも、お嬢さん。えっと――」
 さすがに三度も殴られる気はないのだろう。明らかに背後の火照を気にしている。悪いと思いながらも、大の男が年下の少年を気にしている姿はなんだか微笑ましくてつい来羅は笑みをこぼした。
「来羅です。立花来羅っていいます。火照くんとは、おなじクラスで――」
「ああ、知ってる知ってる。こいつが家でよく話すから」
「……同じ家に住んでらっしゃるんですか?」
「え? ああ。もう一人の同居人と」
 一瞬、最近の自分の賑やかな生活を思った。
 こんな風に気心の知れた人間と同居しているなら、きっと一人でいるより楽しいはずだ。火照はいつも独りで生きている雰囲気があったから、こんな相手がいることが意外だった。
 ああ、でも、よかった。火照が家で、たった独りでいる姿を思うとなぜだかとても哀しくて。でも、違うのだ。きっと彼の家も、彼にとって居心地のいい空間なのだ。
 しゃがんでいた来羅を引っぱって立たせて、火照は言う。
「もう一人のやつはこの前見ただろ? 授業参観の日、百夜と一緒に来た女だよ、もう一人は」
「ああ、あの黒髪美人のお姉さん!」
「……性格は最悪だがな」
 青年が疲れを滲ませた声音で付け足した。
「おまえに対してだけだろ?」
「火照はあいつの本性知らねえから、そんなこと言えるんだよ。ガキのころどんだけ散々な目に遭ったか」
 ほっとけば永遠に続きそうなやり取りに、頬がゆるむ。
 彼が……火照が、「独り」ではなくて本当によかった。
「仲良いんですね」
「「誰が!!」」
 火照と楓、二人の声が重なり、次の瞬間、本当に嫌そうに顔を見合わせていた。
 そんな二人の様子にまた笑う。ふと、思い出したように顔を上げて、口元をほころばせた。
「雨、あがったみたい」
 その言葉ににらみ合ってた火照と楓も空を仰ぐ。
 雨どころか、爽やかな太陽の光が雲間から差し込んでいた。
「……ちっ、降られ損かよ」
「そうでもないぜ?」
 火照は隣で毒づく楓を尻目に、みるみる晴れ上がる空を嬉しそうに見上げる来羅をちらっと見た。
「今日は……、雨に感謝かな」
 雲間から降り落ちる光がビルの窓に反射して、キラキラと踊っていた。






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