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「期は熟した。腐りきったこの世界を変える機会は今しかない」

 低いよく通る声音が、薄暗い部屋にこだます。
 周りにいた数人の男女がびくっと肩を震わせた。決してその声の主に恐れを抱いただけではなく、歓喜に体が震えるのだろう。
 期待に満ちた視線を一身に浴びて、声の主の男は笑みを浮かべた。
「手に入れるべき駒は全て出揃った。後はその時が訪れるまでに、盤面を整理しなくてはなるまい」
 静かに、だがしっかりとした声は、とても人間のそれであるようには思えなかった。何かが狂ってしまったような、何かがとうの昔に抜け落ちてしまったような色を帯びている。
 何人かが、ごくりとつばを飲み込む音が聞こえた。

「手に入れるべき駒は手に入れ、要らぬものは…排除せよ」

 有無を言わさない、逆らったら命の無事は保証出来ない……その場にいた者ならそれがはっきりと分かるだろう。最初から決められていたことのように、五人の男がすっと立ち上がる。
「その役目、私達にお任せ下さい」
 一人が礼の姿勢を崩さず言った。
「……良いだろう、お前達に任せる」

 頭を下げる彼らを見ることもせず、一人の男は冷たく答えた。










 紅月、美沙、杉田。三人が三人とも呆けた表情を浮かべながら、一人の少女を見ていた。三人の視線を一身に浴びている少女は立花来羅。視線をものともせずに、彼女はもう一度繰り返す。

「だ・か・ら!今日の夕飯に来羅シェフの手料理をご馳走するって言ってるの!」

 いまいち状況を理解していない彼らに向かって、焦れったそうに頬をふくらませる。放課後の騒々しい教室の中、四人の周りの空気だけが、微妙に違う。
「まっ、待て」
 言いにくそうに…、だがあの惨劇がまた繰り返されることを危惧して、紅月は重力に逆らって低く手を挙げた。
「はい、そこ」
 教師になりきった口調で来羅が紅月を指名する。
「手料理って……まさか、『あれ』じゃないよな?」
「『あれ』って?」
「……忘れたとは言わせないぞ。この前お前が作った現代風鍋、『闇鍋』だよ!!」
「あぁー…。ううん、違うの。今度はイタリアン料理にでもしようかと」
 「闇鍋」、という単語が出たことで、沈黙していた美沙と杉田の瞳に光が戻った。以心伝心とはこのことだろう。二人は顔を見合わせ、今の会話から推測される惨劇を思い浮かべる。
 目の前の紅月少年の恐怖を帯びた表情から、それは容易に想像できた。

「立花…、『闇鍋』作ったのか?」
 恐る恐る杉田が訪ねれば、満面の笑顔で来羅は答える。
「うん!あれって美味しいね」
「ちなみに何入れたんだ?」
 紅月の恐怖の表情と、来羅の至福の笑みから推測できる「闇鍋」が、どうしても一致しない。念のため杉田はもう一度訪ねた。
「えっとね、鍋だから……ゼリーとかチョコとか、グミにおせんべでしょ。それから、ふ菓子とかヨーグルトとか?あとは普通にバナナとか」
「………あ、そっ、そうか」
 果たして「鍋だから」と前置きするような内容であっただろうか。
 杉田は今ほど紅月に同情を覚えたことはなかった。だがそれより何より、今言ったような具が入っている物体を「美味しい」と表現した少女の味覚に恐怖を覚える。
 そして彼女の招待を阻止しようとした紅月に心から感謝した。

「来羅、あんた最悪よ……」
「みっ、美沙?」

 言いたくても言えなかったセリフを、はっきりと口に出した美沙の勇気に(容赦のなさに)、二人の少年は救世主をみる。
「そんなの食べたら、いくら馬鹿みたいに丈夫な紅月君でもお腹壊すわよ?」
 視界の端で紅月が不満そうに口を開いたのが見えたが、美沙は無視した。
「でも…百夜も美味しいって言って――」
「じゃあ、そいつも味覚が狂ってんのね」
 「百夜」とは、多分授業参観に来て、来羅と抱き合っていたあの青年だろう。変な人には見えなかったが実際は違うらしい。
 美沙はしょんぼりという形容詞が似合う顔をしている少女を見た。
「……ま、私に被害が及ばないんだったら、別に構やしないんだけど」
「おい、有本!人事だと思って」
「だって人事だもん」
 やはり黙っておけば良かったかも知れないと紅月は思った。考えてみれば、今更二人犠牲者が増えてもどうということはない。
「それにしても…、来羅、あんた今まで……自炊生活じゃなかったっけ?」
「うん、そうだよ」
「味覚が狂ってれば……ある意味、自炊生活も楽かもね」
「どっ、どういう意味よう……」
 何だか変な方向に話が進んでしまった。どうしたものかと来羅は腕を組む。
 ――取り合えず家に連れて来てしまえば、後は成り行きで晩御飯も食べて行ってくれるかも知れない。

「じゃあさ――」
「遊びに行くのは構わないけど、六時には帰るわよ」
「う………」
 言う前に阻まれて、来羅はうめく。横目でちらりと見、美沙は来羅には気付かれぬよう口の端をわずかに持ち上げた。
「さっ、そうと決まったらさっさと行きましょう」
「はーい…」

 この決断が、後に悔やまれることになる。









「あ〜ぁ、せぇっかくこの前材料買ったのになぁ〜っ!」
 夕暮れの帰り道。来羅を先頭に、四人は人通りの少ない路地を屋敷に向かって歩いていた。来羅はふと、その買物の時偶然会った少年のことを思い出してうつむく。
 火照は今日も学校へ来ていない。これで三日目だった。
 あの時の彼を思うと、胸が締め付けられる。側にいてくれる人はいるらしい。それでも、自分に何か求めている気がするのは、うぬぼれだろうか。

 考え事をしていた来羅は急に引っ張られ、危うく転びそうになった体を辛うじて押し止めた。文句を言おうと顔を上げれば、険しい顔をした紅月が目に入る。

「―――…、来羅…。下がってろ」

 言いながら、彼は素早く来羅を自分の後ろへ引き寄せた。
「紅ちゃ………っ!?」
 驚きの顔をすぐに緊張に引きつらせ、少女は自分の隣で訳の分からない表情を浮かべる二人を見る。視線を前に戻し、強張った紅月の背中の後ろから、その視線の先を追った。
 殺気が身に刺さる。
 美沙と杉田の二人も、辺りに漂う物騒な気配は感じたらしい。状況が呑み込めないながらも顔色を変えた。
「…今、どれだけまずい状態か、分かってるか?」
「……分かってるつもりだよ」
 紅月は視線をずらさない。来羅もその先を追う。
 視界にはただ人気のない夕暮れの交差点が映るだけ。車などは滅多に通らない道。だが確かに何かを感じて心拍数が上がる。心臓を締め上げられるような感覚。
 辺りを警戒しながら、巻き込んでしまった後ろの二人だけは、この友人だけは、必ず守ろうと来羅は誓った。

 交差点のミラーにちらっと人影が見えた気がして、来羅は一層強く手を握った。
 次の瞬間三人の男が左右の塀の影から音もなく姿を現す。ただの通りすがりの人間だと思うには、あまりに気配が異質過ぎた。
 一気に場の空気が凍る。
 俯いていた男達が一斉に顔を上げた。

「走れ!」

 紅月が鋭く叫んだ。来羅の肩がびくっと揺れる。
「走れ!感じた気配はこいつらのだけだ!屋敷に戻れ、百夜たちがいるから!」
 ここから屋敷までは走って二分も掛からない。さすがの紅月も来羅達をかばい、おそらく強い敵を三人も相手にして戦うのはきつい。
 それならば………
「絶対帰って来て」
「約束する」
 今出来ることは自分の身と二人の友人を全力で守ること。そして彼を信じること。
「美沙っ!杉田君!走って、早く!!」
 来羅は竦んだ足に精一杯力を込めた。突然の事に体がついていかない二人を押す。我に返ったように、美沙と杉田は言われるままに駆け出した。
 背後に収束していく風を感じる。彼なら、きっと、大丈夫。

「くそっ……っ」
 男が一人、後を追おうとして立ち止まった。前へ出した手に鋭い切り傷が出来、鮮血が滴る。
「あんたら、もう俺の結界の中だ。そんなに出たいなら止めないぜ?多分死体でなら出られるだろうよ」
「お前を殺せば済むことだ」
「それは『不可能』って事だろ?」
 三人の男と一人の少年は、静かに対時した。






「…………そこ、どいて下さい」

 来羅は目の前の男を睨みながら言った。男は眉一つ動かさず、射るような視線で少女を観察する。
「武道か何かやっていたようですが……抵抗するだけ無駄です。それに、貴方を傷つけないよう言われております」
「どいて下さい」
 武道をやっていたことは確かにある。強くならなくては生きていけない時代もあったから…。でも真にその道のみに生きてきた者に、相打ちではなく勝利を納められるほどの腕前でないのは十分承知していた。
 それに、そんな無謀なことは出来ない。
 自分の後ろに、誰もいないわけではないのだ。守るべき人がいる。

 来羅の中に「大人しく連れて行かれる」という選択肢はなかった。身を挺して誰かを守ることが、いつも最善だとは限らない。
 あるのは「後ろの二人も自分自身も守りきる」ということだけ。
「美沙、杉田君。巻き込んでごめん。でも、絶対守るから」
「来羅……?」
「あなたに勝ち目はありません。私の能力を……知らないわけではないんでしょう?」
 少女は静かに、目の前にたたずむ黒に身を包む男に言った。
「知っていますよ。ですが、それによって私を殺すことは出来ない。あと、その力の行使は控えるべきでは?」
「……おっしゃる通りです。でも能力を加減することは容易ですし…例え勝利できなくても、負けなければ良いんです」
 負けなければ良い……、この場から逃げられれば。屋敷まであとほんの少し。そこへ辿り着けば全て片付く。彼女はその「時間」をかせぐだけで良いのだ。
 美沙が心配そうに自分を見ているのが分かった。心から守りたいと思う。
 自分の中に強大な力が出口を求めくすぶっているのを感じる。今なら容易に能力を行使できる。

「時よ………っ!?」

 彼女がその黒い瞳を見開いたわけは二つ。
 言い終わるより前に予想以上のスピードで男が向かって来たから。
 次の瞬間視界一面真っ黒になったから。

 そして映した影は一つ。


「百夜!!」


 少女の瞳には、百夜と呼ばれた青年の背中だけが映っていた。






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