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「火照?」

 一瞬にして下がった部屋の温度に鳥肌の立った腕を抱えながら、茨はその元凶である人物を見た。少年の足元には、さっきまでソファに寝転んで読んでいた本が、開いたまま落ちている。
「……火照?」
 訳が分からず、茨はもう一度問う。心なしかその声が震える。
 その声は少年には届いていないようだった。夕暮れの町並みを隔てる窓の向こうを、殺気混じりの瞳で睨むように見ている。

「勝手なことを…」

 底冷えのする声でそれだけ言うと、彼は部屋を出て行った。











 何度目かの凄まじい攻防が繰り広げられ、被害を受けたコンクリートの塀が音を立てて崩れ落ちた。息一つ乱さず相対する二人の人間を見て、来羅は改めて自分の無力さを実感する。
「それが…成るほど、『火』の力ですか。と言うことは、あなたが…」
 生死を賭けている者の様子は微塵も見せずに、相手の男は感心したように百夜を見ながら呟く。対する青年は、普段からは想像も出来ないほどの殺気を全身にまとっていた。
「何が目的で近付いた?」
 押し殺すような声が、優しそうに微笑む彼と一致しない。
 来羅は背後で硬直したままの美沙と杉田をかばい、一歩後退した。
「……分からないですか? 彼女を手に入れておきたいと、望んでいるお方がいるのです」
「なぜ?」
「知れたこと。彼女を手に入れることはすなわち、この世界を手に入れることと同義語でしょう?」
「そう上手く行くと思っているのか?」
「思っていなければ実行には移しません。それに……強力な協力者がいるのでね」
 言い終わった途端、男は身を抱え押し殺した声で一しきり笑った。
「……何がおかしい」
 冷ややかな怒気を滲ませた百夜の声音が、やけに大きく聞こえる。
「あれ?分かりませんでした?『強力』と『協力』をかけてみたんですけど…」
 そう言って男はまたくすくすと笑った。

 「成るほど」と、来羅は妙な感心を抱いて男を見た。確かに、言われてみれば立派なギャグ…、いやダジャレと言った方が正しいだろう。
「で? その協力者ってのは?」
 背後の来羅がそんな事を考えているとは露ほども思わず、百夜は険しい表情を浮かべている。
「残念、つまんないですかね?」
「面白いと…、思う。あんたが、来羅の敵じゃなかったら」

 事の成り行きを呆然と見送っていた美沙と杉田が、「面白いのか?」と思わず突っ込んでしまったことは誰も知らない。
 妙に緩んだ場の空気が、再び冷たく凍っていくのを来羅が感じた時、既に百夜の姿はそこにはなかった。







「何だよ、もう終わりか?」

 勢い良く繰り出された蹴りを、激しい気流を取り巻く腕で受けて逆に投げ飛ばす。投げ飛ばされたつり目の男は器用に身を反転させて着地した。
「………っ」
 両足に力を入れてなければ、立っている事さえ出来ない。両側を塀に挟まれた車一台ならば易々と通ることが出来る路地。
 紅月の結界に切り取られた空間で、三人の男達は表情を曇らせる。彼らの黒い洋服は無残に裂け、晒された肌には無数の赤い筋が浮かんでいた。
「そろそろ限界なんじゃねぇの?」
 対する一人の少年は全くの無傷を保っていた。笑みさえ想像させるその言葉に、男達は表情を険しくさせる。そうしている間にも、結界内には凄まじい突風が巻き起こり、同時に鎌いたちが男たちを襲っていた。服の裂け目は徐々に増え、致命傷には至らない切り傷が肌に刻まれる。
「…っ、まだだ!」
「上等!」
 一気に間合いを詰めてきた、三人の中で一番好戦的と思われるつり目の男に向かって、紅月も跳躍した。
 空中で二人の蹴りが交錯する。
 視界の端にもう一人の男を捉え、紅月は対峙していた男を踏み台にして身を翻す。
 そのまま鋭い風が取り巻く拳を突き出した。
 男は辛うじてそれを受け止めたが、服の上から凶器と化した風が身を抉る。
 痛みに思わず目を細めると、その一瞬の隙をついて紅月の回し蹴りが正確にこめかみを狙って飛んできた。
 あと数センチの所で、様子を見ていた最後の一人が割って入る。
 紅月の耳が不穏な金属音を聞き取り、とっさに男から離れた。
 相手の手に持っているものを見て、舌打ちする。
「やられてばかりでは立つ瀬がないんでね」
「………物騒なもん、持ってるじゃねぇか…」
 軽い調子で応対しながらも、初めて紅月の顔にわずかな焦りが浮かぶ。
 その小さな変化を目に留めた男が、口の端を無意識に持ち上げた。
「そうか?当然予想すべき事だろう?お前らのような人外の力を持ってる奴に対して、本当に素手のみで向かって行く馬鹿はいないさ」
 男は手に持ったそれを慣れた手つきでくるくる回す。
「そんな馬鹿を一人知ってるぜ?」
「俺達は負けるつもりで挑んでるわけじゃないんだ」
「その馬鹿は俺に勝ったよ」
「………じゃあそいつも化け物さ」
「……そうかもな」

 男達はそれぞれ手に小さい金属の塊……、狙いを定めて引き金を引けば一瞬で人の命を奪える道具を手に、自分達の勝利を確信した。








 これだけ距離を取っているのに、まるで焼かれるような熱さを感じる。
 来羅は自分の火照った両手をぎゅっと握り締めた。じわっと汗が滲む。
「…………一体、何なの?あれは…」
 美沙の口から乾いた音がこぼれ落ちた。
 彼女自身、自分が発した言葉に気付いていないようで、その瞳は呆然とただ目の前の現象を映している。
「……………」
 美沙の言葉は耳に入ったが、来羅はただ黙って事の成り行きを見守っていた。
 我が身と友人の保身を案じる気持ちは全く無くなっていた。それだけこの青年を信じていた。
 代わりに渦巻く感情は、果たしてこの異様な情景を彼らがどう受け止め、自分との関係をどう変えていくかという、愚かしくも切実な不安。
 こんな時に何を考えているのかと自分でも腹立たしい。それでもどうしても考えてしまう。後ろを振り向けない。振り向いた先にあるのが拒絶の瞳でないなどと、誰が言える?

 夕日と見間違うほどの真紅の炎が、虚空に残像を引いて曲線を描く。視覚に強く焼き付けられる。
 百夜は全身に灼熱(しゃくねつ)の炎を薄くまとい、立ち込める熱風の中で相手の男と目で追えるか追えないかの激しい攻防を繰り返していた。
 その殺傷力に富んだ能力とは裏腹に、彼は肉弾戦をあまり好まない。あまりにその力が強いためか、彼は極端に人を傷つけることを恐れる。
 その彼が、今は自らの意志で相手を追い詰めている。
 内在する能力と同様、熱く激しい何かが、彼の中にはくすぶっている。普段は柔和な笑顔の下に忘れられている激しい感情が、今はむき出しになっていた。
 この場の汗ばむ熱気とは対照的に、胸にはヒヤリと冷たい何かが走る。

 二人は静かに間合いをとった。
 おもむろに百夜が右手を振り払う。それに伴って、赤い炎が火の粉を撒き散らしながら弧を描く。
「あんたは俺には勝てない」
「なぜそう思うんです?」
 一際激しい炎を右手にまといながら、百夜が静かに言う。対する男は不思議そうに首を傾げた。
 なぜも何も……、人智を超えた力に比べれば、人並み外れた身体能力など恐るるに足らない。
「貴方たち力の者が消えて、二千年……。この気の遠くなる長い時を無駄に費やしてきたと、どうして言えるんですか?」
 急に物静かだった印象をガラリと変えて、男はにやりと傲慢に笑んだ。言いし得ぬ不安を覚え、来羅は二人の友人を背にかばいながら戦場を後ずさる。
 途端に後方から耳をつんざく爆音。

「私の名は紀丸(きのまる)。何も力を扱える者は、貴方たちだけじゃないんですよ」

 紀丸と名乗った男の手に、百夜のそれとは対照的な、青白い炎が揺らめいていた。







 ぎりっと歯を噛みしめた音が、自身の耳に届く。届いてから、そこまで追い詰められているのかと自分でも嫌になった。

 休む暇もなく無数の弾丸が気流を切り裂き飛んで来る。
 疲労を訴え始めた体に鞭打って、紅月は自らの周りに分厚い風の壁を作る。
 鈍く低い音がして、目に見えぬ速さの小さな鉄の塊が壁にのめり込む。それは紅月の体に届く前に激しい気流に飲まれて行った。
 しかし、明らかに壁を突き破って進む距離が長くなってきていた。それはすなわち、能力が弱まってきていることを示す。
 この変化を対峙する男たちが気付かないはずがない。
 笑みを浮かべる男を鋭く睨み返し、紅月は結界に込める力を強めた。

 もう来羅は屋敷に着いたろうか。
 彼女の安全が保証されたなら、今ここで自分に何があっても――……

「しまった…。約束しちまったんだ」

 必ず帰ると彼女と約束してしまった。ならば……、ここで倒れるわけにはいくまい。
 屋敷に連絡が行けば百夜達が来るだろう。自分一人の力でどうにかしたかったが、どうやらこの疲労感からして無理らしい。
 頼るのは(しゃく)だが意地を張っている場合じゃない。自分が弱いのがいけないのだから。
「ところで……、彼女の方は片が付いた頃かな」
「…な…んだと……」
 つり目の男が面白がるように口の端を持ち上げる。
 それを(とが)める余裕も無いほど、紅月の思考はある一つの最悪の可能性に占められていく。
「まさか――」
「行かせたのは愚かだったな。仲間はまだいる」
 まさか――、まさか、そんなはずはない。近くに感じる殺意は、確かに目の前の三人のものしか感じられなかったはずだ。
 紅月は初めて動揺をそのまま顔に出した。満足そうに男はそれを見て笑む。止めを刺すようにもう一度口を開いた。
「あぁ…、殺意なく相手を殺す奴もいるってこった。見誤ったなぁ」
「…………くそっ」
 追い詰められながらも、余裕を失わなかった瞳が怒り一色に染まった。怒りの矛先は戦況を把握し切れなかった自分へ向けたもの。
 一気に結界内の付加が増し、風が(うな)る。ほとんど竜巻に近い状態だった。
 男たちは咄嗟(とっさ)に手近にあったものに掴まる。そうでもしなければ飛ばされてしまう。
 だが同時に、さっきまで紅月の体を守っていた堅固な風の壁はその厚さをなくしていった。
「愚かな少年よ。名前くらいは覚えておいてやるぜ」
 からかうように、勝利の微笑を浮かべながら、つり目の男は言った。
「……お前なんかに名乗る名はない」
 怒りのあまり赤みを増した黒い瞳が、銃を握り直した男達を映した。






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