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 あり得ないことだった。
 しかし、現に目の前の男はその手に青白い炎を宿し、微笑んでいる。
「まだ完全に……という訳には行かないんですけどね。でも結構良く出来てるでしょう?」
 激しい殺気が薄れるほどに、百夜も驚いているのだろう。自分の前に盾になるように佇んでいる青年の背中を見ながら、来羅は思った。

 タンっと軽く地面を蹴る音がして、百夜が消える。
 目で追う前に、紀丸と名乗った男に向かって、燃える球状の物体が飛んでいった。
 空気を切る音を響かせながら向かってくるそれを、紀丸は自らの炎で相殺する。同時に飛んで来た百夜の鋭い蹴りを左手で止め、もう片方の手で空いた彼の前身に向けて青い炎を放った。
 皮膚に触れる前に真紅の焔がそれを阻み、逆に至近距離から倍の大きさの炎が紀丸を襲う。
 一瞬視界が真っ白になり、来羅はあまりの眩しさに目を(つむ)った。

「言ったじゃないか、あんたは俺に勝てない」
「確かに…、ちょっと実力に差がありますね」
「ちょっとじゃないよ」

 微妙に場にそぐわない会話に目を開けば、地面に手を付いた紀丸と、いつでも放てるよう(くす)ぶる紅蓮の火球を手に、百夜が静かに立っていた。
 紀丸の衣服は派手に焦げている。もし着ている服が黒でなかったならもっと酷い有様だっただろう。
 既にその半分は灰塵(かいじん)に帰し、所々焼け(ただ)れた白い皮膚が見えた。
 思わず来羅は顔をしかめる。
 勝利と友人の安全を喜ぶ気持ちよりも先に、相手の受けた傷が心に痛かった。
「その力……、人工的なもの?」
 相手を牽制(けんせい)する手はそのままに、いくらか冷静さを取り戻した百夜が紀丸に問う。
「えぇ、あなた方が消えて二千年も経ちますからねぇ。残された数少ないデータから一生懸命やってるんですけど……こうも易々とやられてしまうとさすがに虚しいですよ」
「そもそも人工的に作ろうって方が無理なんだ」
 百夜は呆れたように溜息をつく。窮地に立たされたはずの紀丸は相変わらず微笑を浮かべている。
「でもその割りには凄いでしょう?」
「うん。良く出来てるね」
 完全に普段の彼である。
 気を許した様子は無いにしても、もう殺気と言える程のものは感じられない。美沙と杉田が深く息を吐き出したのが分かって、来羅も肩の力を抜く。
「見逃してくれませんかね?」
「………う〜ん」
 百夜の苦悶(くもん)に同調するかのように赤い炎が揺れる。

 夕陽が遠く地平線に沈もうとしていた。








 肉を抉られる苦痛に左腕をきつく掴んで、紅月は思わず片膝をついた。
 自らの醜態(しゅうたい)に唇をきつく噛みしめながら立ち上がる。
 瞬間繰り出された男の蹴りをみぞおちに受け、彼は地面に背を付いた。
 そのまま身を翻して何とか体勢を立て直すと、飛んで来る弾丸を鎌いたちで切り裂く。
 すっかり戦況が自分達に傾いたのを感じて、紅月の能力を楽しむように男の一人が小さく口笛を吹いた。

 この時代に来てテレビや漫画で見たあれは、実際目にするのは初めてだが、かなり危険だ。
 熱を持ち始めた自分の左腕は、多分酷い有り様だろう。見なくても分かる。さっき掴んだらぬるっとした温かい液体が手を包んだ。
 来羅の方にも敵が行ったのなら、自分が今ここで結界を張るのは無意味かも知れない。
 無駄に結界を張る力を費やすより、目の前の敵を攻撃するために使った方が効果的ではないだろうか。とにかく……

「さっさと片付けて早くあいつの所に行きたいんだよ!」

 一気に彼らを取り巻いていた突風が消え、紅月の右手に収束していく。
 激しい唸りをあげ腕に巻きつくそれに、男たちの間にも動揺が走る。
 結界を解いたことにより男達を傷付けていた鎌いたちは姿を消したが、逆に紅月の手には今までとは比べ物にならないほどの力が(みなぎ)っていた。

「知ってるか?風は遮るものがない方が効果的なんだ」

 結界を作ることにより押さえられていた力が、行き場を求めて暴れている。意思を持った生き物のように、目に見えるまでに成長した風がうねる。
 勝利を確信し弱者をいたぶることを楽しんでいた色が、あの好戦的な男の瞳からも消え、唯一の拠り所である銃を汗ばむ手でしっかりと握り直す――……と、一時も逸らさず少年を見つめていた瞳から、対象者が消えた。
「……っ!?」
「遅いっ!」
 気付いた頃には時すでに遅し。
 獲物を定めた渦巻く風がつり目の男を飲み込む。紅月の制御から放たれた風は、まるで食らい尽くすかのように男に取付いた。
 もがきながら地面をのた打ち回る彼には目もくれず、紅月は立ち尽くす二人を睨みつけ、残った力を限界まで右手に集めた。
 勢い良く踏み込むと、風を切り裂き、目にも留まらぬ速さで一気に距離を縮める。その時、
「…なっ……っ!?」
 一瞬で目の前が真っ暗になる。何が起こったか分からないまま頭部に激痛を受け、紅月は地面に倒れた。


「あんたたち、よくもうちの可愛い馬鹿をこんなにしてくれたわね」

 聞き慣れた声が頭上から降ってくる。
 その声に安堵しながらも、「こんな」にしたのはあんただと言ってやりたかった。痛む額を動く右手で押さえ、紅月は声のした方に目線だけ寄越す。
「……砂…」
 案の定、そこに立っていたのは裾の短い薄手の着物(と言えるかどうかは分からないが)を肩口まではだけさせた、日ごろ彼が「暴力女」と言ってはばからない人物だった。
 そして眼前には、今しがた自分がぶつかったと思える分厚いコンクリートの壁。道路から隆起したそれは異様な光景だった。後で元通りにさせなくてはならない。
「砂、これ以上馬鹿になったら困るだろう」
 彼女がいるということはやはり彼もいるわけで……。ちらっと後ろを振り向けば、そこには腕を組んだまま無表情に暴言を吐く霧生がいた。
「……身内の方がよっぽど怖い」
 小さく不平を訴える紅月の言葉は、下駄を引っ掛けた砂が地面を踏みならす音にかき消された。
「さぁて……、どうしてくれようか」
 同性でさえ思わず見惚れてしまうほどの女は、ボキっと手を鳴らしながら血の気も引く物騒な笑みを浮かべる。
 紅月は不運な男達にほんの少し同情しながら、疲れきった体を地面に投げ出した。








「なんで逃がしたの?」

 責める口調ではなく、純粋にその疑問を来羅は青年に投げかけた。問われた青年はしばらく黙り、静かに切り出す。
「だってさ、あの場でどうこう…したくなかったし。それに、捕まえて屋敷に連れてくにしても、あの人は抜け出しそうだし。そしたら来羅に危害が及ぶかも知れないし?だったら逃がしちゃった方が良いかなって……」
「そっか…」
 多分彼は、自分やその友人の目に凄惨(せいさん)なものは映したくなかったのだろう。
 あの男を逃がしたことを後で悔やむかも知れない。けれど、あえてその道を選んだ彼の優しさと甘さが、来羅にはどうしようもなく愛しかった。

 そこまで考え、はたと二千年前の一夜の情景が頭に蘇る。
 途端に火照っていく顔を両手で押さえ、今の今まで返事をすっかり忘れていた自分に来羅は慌てた。
「どうした?」
「えぇ!? あっ、あぁ! 今日…今日はね、インド料理なの! そう、ナポリタンなのよ! だから箸は要らないのっ!」
「ふーん。分かった。箸は要らないって茜さんに言っておく」
 何故か会話が継続してしまうせいで、来羅の意味不明の言葉はそのまま流される。いつもなら必ずここで軌道修正をしてくれる彼女の貴重な友人、有本美沙は未だに黙りこくっている。隣を歩く杉田も何も言わず来羅と百夜の後を歩いている。
 来羅はどうしても後ろを振り向けないまま、強張る体でひたすら目的地へと小走りで進んでいく。
「紅ちゃん……、大丈夫かな」
「大丈夫だよ。砂と霧生が行ったもの」
 確かに、彼らが向かったのなら大丈夫…なはずだ。不安を思考から押し出すように来羅は自分に言い聞かせた。


「あ……………っ、紅ちゃんっ!?」

 前方に見えた光景に、今にも泣き出しそうな声で少女は叫んだ。
 彼の周りの見るも無残な悲惨な現場は目には入らない様子で、一直線に少年の元に駆け寄る。
「あぁっ! おっ、おでこ、凄い血っ!痛いよね!?紅ちゃん?大丈夫!? ねぇ…嫌だ…ちょっと――死ん」
「人を勝手に殺すなバカ」
 されるがままに抱かれていた紅月が目を開け、自身の死亡宣告を間一髪でさえぎった。一瞬目を見開いた来羅もすぐ安心したように微笑む。
「それにしても……派手にやったなぁ」
 どうやら紅月の方は心配ないらしい。嬉しさのあまり思わず抱き締めた来羅に、大音量で左腕の痛みを訴えるだけの元気はあるようだ。
 百夜は騒がしい彼らから目を離して、十数分前までは平和な住宅街だった場所を見やった。
 コンクリートの道路は既に原形を留めてはおらず、能力者の気質が伺える。
 荒々しく乱暴に陥没と隆起を繰り返し、車が通れないほど道路はでこぼこだった。ちょっと前までは平坦な道だったのが信じられない。
 しかも辺り一面水浸しで、コンクリートの隙間という隙間に水が溢れている。下の土と混ざり泥水と化している。
 めちゃくちゃな状態な上、はっきり言って汚い。
「砂、霧生…」
 乾燥した空気に声を掠らせながら呼び掛けた。
 男のみぞおちに下駄を食い込ませていた砂が、晴れやかな笑みを浮かべながら振り向く。
「あら、こっちも丁度終わったとこよ。口ほどにも無い…………ほら、早く言いなさいよ」
 陽気な声は、足元の男に顔を向けた途端にどす黒い声に変わる。哀れな男は苦痛と恐怖に顔を歪ませながらも、小さな悲鳴を口から漏らすだけで何も言わない。
「黒幕を吐けば逃がしてやると言っているんだ」
 いつも以上に温かさの無い、淡々とした口調で霧生がもう一人の男を見下ろしていた。目に見えて危害を加えている様子はないが、その手にはちらちらと水が揺れる。
 百夜はこの二人だけは敵に回したくはないと心底思った。



「来羅」

 和みかけた空気を切り裂いて、凛とした意思を含む声が響く。
 呼ばれた少女はびくっと肩を震わせると、恐る恐る声のした方を振り返った。
 踏みつけた足や、手の中の水球などはそのままに、砂や霧生も視線を寄越す。
 そしてその先には――……

「み……美沙…」
「来羅、ちゃんと説明してもらえるんでしょうね?」

 背筋の凍る声のトーンと、飛びっきりの笑顔が釣り合わない。

「…美沙…でも、巻き込ん――」
「来羅?」
「………………あ、その…でもね――」
「今日、泊まってくから」
「あの…」
「まだ何か?」
「……わ、分かりました。説明…させて、頂きます」

 意図した答えが確かに返されたのに満足して、美沙は先に立って歩き始めた。その後を杉田が慌てて追う。
 来羅は一時的に(しの)いだ悪夢にほっと胸を撫で下ろした。
「あ、そうそう」
 振り返った美沙の一言に、過ぎ去ったと思った悪夢がぶり返す。

「今日ご馳走してもらう予定の料理は、インド料理でもナポリタンでもなくイタリアン料理よ。期待してるわ」

 言いたいことは全て言ったようだ。
 美沙は取り合えずすっきりした胸に新しい空気を目一杯吸い込ませながら、「肩凝った」と呟きながら大きく伸びをしている。

「来羅、あんた良い友達引っ掛けたね」
「女って怖い…」

 砂と紅月の言葉は、来羅の耳に届いていなかった。

 その時、言葉に出来ない不安と期待で彼女の頭は一杯だったから。






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