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 混濁した意識、霞がかった思考。だんだんもやが薄れてきて、何もかもが明瞭になる。

 気づいたらそこに私は存在していて、何も分からなかったけど、全て知っていた。
 これからどうすれば良いのか、何を託されたのか、何のために生まれてきて何のために生きていくのか。
 そして――…何のために、罰すのか。


 意識がはっきりしてきても、私はただ呆然と周りの過ぎ行く状況を両の目に映しているだけで、移したその世界に私が関わることは決してなかった。
 私が何もしなくても、何も考えなくても、周りの人達が私を上手に生かしてく。それで不具合など在りはしなかったから、別にこのままでも良いかと、ただ流されるままに随分長い時を過ごした。
 意思の無いその膨大な時間の中でも、私は自分の役目を忘れる事はなく、その時その世界の人間の在り方を見つめ続ける。いつの世も余り変わり映えしないそれは、見ていて別に楽しいものでもなかったけれど、「楽しい」かどうか判断する心もその時の私には全くなかったから問題ない。
 でも流されるように過ごした時が、突然終わりを告げる。

 どうしても思い出せない。最初に私の意思を呼び覚ましたその人を……、面影さえ思い出せない。
 けれど確かにその人が、初めて「私」に呼び掛けてくれた人。その人のおかげで、「私」はやっと生まれてこれた。

 ――なあ、あんた……名前は?
 ――名前、自分の名前……分かるだろう?
 ――……来羅、そうか……。

 どうしても思い出せない記憶の中のその人は、「私」の存在を認めてくれた唯一の人だった。



 ほつれて不鮮明な記憶の中、次に記憶がはっきりする頃には、彼の姿も声も存在さえも消えていた。
 代わりに在るのは彼らの存在。

「はじめまして、巫女様。先の力の者に代わりまして新たに火の力に選ばれました、火徳百夜です。以後お見知りおきを」
「………はじめまして」
 私が座る場所から数歩離れて、その青年は片膝をついていた。俯くとさらりと黒い髪が流れる。
 さっきまでのかしこまった様子が嘘のように、不意に上げた顔には屈託の無い笑みが浮かんでた。
「巫女様、名は、なんとお呼びすればよろしいですか?」
「呼ぶ……?」
「はい。巫女様って呼びにくいので……。あ、でもその方がいいなら――」
「――ら……来羅」
「らいら……、いい名前ですね」
 こんなに無邪気に笑う人がいるものだろうか。幼い子供のそれならば幾度も目にした事がある。だけど、目の前の人物はもう大人に成りかけているのだ。この世の理不尽さも、醜悪も、きっともう知っている。それなのに、こんな風に穢れを知らない子供のような無邪気な笑顔が、なぜ出来るのだろう。
 気づいたら、勝手に自分の口が開いていた。
「ありが……とう。……あなたの、名前も、良いと思う」
「……ありがとうございます」
 一瞬無垢な表情に翳りが差したのが分かった。次いで表れた表情は、どこか悲しみを内包しているような、辛そうな、苦笑い。
 何か気に障るような事を言ったのだろうかと、そこで初めて「後悔」を知った。
 その時の私はまだ「謝罪」を知らなかったから、面会が終わり、戸の向こうへ消えていく彼に掛ける言葉が分からなかった。それでも何か言わなくちゃいけないと思ったから
「また、会える?」
 部屋を出ようとした彼の背中が止まる。振り返った顔にはやはり見た者を安心させるような笑みがあった。
「おかしな事聞きますね。僕らはあなたを守るためにいるんだから、いつでも近くにいますよ。会おうと思えば、いつでも会えます」
「いつでも……」
「なんなら……僕、これから他の力の者に会いに行くんですけど、一緒に来ます?」
「…………ううん、いい」
 行きたいのか行きたくないのか、自分でも良く分からなかった。今までこんな選択をしたことなんて、ない。どっちを選ぶことが正しいのか分からなかった。
「そうですか、じゃあ、また」
 完全に彼の姿が消えた。部屋がまた静寂に包まれた。
 いや……、まだ彼の足音がかすかに聞こえる。でもそれも、もうすぐ消える、消える――……
 次の瞬間、自分でも驚く事に、足は勝手に動き、手が勝手に戸を開けていた。
 ちょうど彼の背中が曲がり角の向こうに消えようとしていて――

「百夜っ!」

 驚いて彼が振り返る。私の声で誰かが振り返る。
「私も、行く」
 私の意志で私が動く。




「初めまして。先代に代わって火の力を受け継いだ百夜です。よろしく」
 目の前の二人の男女と、百夜の雰囲気に恐ろしい程の隔たりがあった。
 庭先から声を掛けた百夜に対して、相手の男女は縁側から見下ろすように立っていた。警戒心を顕わにしている女性と、無感情に冷たい視線を投げかける男。
「………よろしく」
 睨むように女性の方――多分、砂という名だった気がする――がそっけなく言った。どこが事務的で、冷たい声音。
 傍らの男性は何も言わずに百夜を一瞥して、また視線を戻す。戻すと言っても何かしているわけじゃない。ただぼんやりとさっきまで見ていた風景を見つめ直しているだけ。名は……確か難しい名前で…。
 そんな彼らの様子に気付いているのかいないのか、百夜は笑顔のままだった。ふと、何か思い出したように、辺りに視線を投げかける。
「もう一人いるんですよね?まだ子供だって聞いたんですけど……」
「誰が子供だって!?」
 せっかく姿が見えないように隠れていたというのに、その少年の声は、あろうことか私の背後から聞こえた。
 驚いて振り向くと、子供と言われて当然な年頃の、いかにも腕白坊主という感じを醸し出す少年が憤然と立っている。
「せっかく顔見に来てやったってのに………お前も俺のこと子ども扱いか!」
 隠れるように立っていた私には目もくれず、ずかずかと百夜の方に向かって大股で詰め寄る。
 瞬間、彼が初めて挨拶に来た時のことが脳裏に過ぎる。まだ十にも満たない幼い少年は、けれど子供である事を必死に否定しているような、そんな切実さがあった。始終不機嫌そうに口上を述べているのを見て、嫌われているのかとぼんやり思った事も覚えている。
「ごめんごめん。そんなつもりじゃ無かったんだ。凄いなぁって思ってさ」
 本当にすまなそうに百夜が言った。心からの青年の謝罪と、何に対してか分からない褒め言葉に、紅月という名の少年は怪訝そうに眉をしかめる。
「なっ、何がだよ…………子供が、選ばれたことがかよ」
 最後の方はほとんど絞り出すようだった。
「違うって。俺が君くらいの頃は、力を素直に受け入れられるほど……大人じゃなかったから」
 それは初めて見る、彼の人間らしい表情だった。無垢で無邪気な少年のような笑顔ではなく、人間なら誰しもが持っているはずの悲哀や後悔や憤りや……そんな負の感情を含んだ表情。
 あぁ、彼も人間だったのかと、当たり前のことに今更気付く。気づいても彼に対しての興味が消える事はなく、むしろ増したのではないかと人事のように思った。
「ふん……まぁ、いいや。俺は紅月。よろしくな」
「よろしく。僕は百夜」
 どこか照れくさそうに少年が言う。不機嫌そうな顔をしているのに、照れている。不思議な表情だ。
 この少年の登場に、縁側にたたずんでいた二人も少し態度が砕けたようで、先程までの冷たい雰囲気が幾分和らいだのが分かった。

「そういやさ、お前、巫女に会ったんだろ?」
「えっ、あぁ…うん。ついさっき」
 さっきまでの怒りはどこ吹く風。唐突に少年が問いかける。その顔には歳相応のあどけない表情が浮かんでいる。
 急に自分が話題に出されて知らず知らず鼓動が早くなったのも束の間。続く言葉に私の中の何かが音を立てて崩れた。
「何かさぁ、陰気くさくねぇ?」
「ちょっ…、なっ、何てこと言うんだよ。そんな事無いって、全然!可愛い人だったじゃないか!!」
「なっ、なに慌ててんだよ……。だいたい、『可愛い』?そんな形容詞が一番似合わない女じゃん」
「こっ、紅月っ!!」

 まただ。また勝手に足が動く。気付いたら体が頭で考えるより前に動いていた。今までただの一度も「意志」など感じられなかった私の体。それが、驚くほど素早く動く。これが自分の体かと、本気で疑う。まるで人間みたいだ。
 物陰から足を踏み出せば、ちょうど彼らのまん前に出て。四人とも一様に目を見開いてて、かつて自分に向けられた瞳の中にはないその仕草に、ほんの少しの喜びと不安を感じる。果たして今自分がしていることは正しいことなのかどうか、一瞬不安が過ぎる。
 でも次の瞬間、全ての不安は吹き飛んだ。

「私、陰気くさくなんてありません!!」



 誰も何も言わなかった。無音の時が流れる。目を見開いたまま固まっている彼らを見ながら、自分もまた動けないでいるのが分かった。これからどうすれば良いだろう。そんな不安が押し寄せて来た時――
 視界の端の一人の青年の時が動き出す。身を屈めて必死に何か堪えていた。
「だ……大丈夫ですか?どこか、具合でも――」
 一回も使った事が無い言葉が、後から後から出てくる。もう自分でも何が何だかよく分からないまま、体が勝手するのに任せた。
 お腹を押さえている百夜に近寄り、手を伸ばす。小刻みに震えているところを見ると痙攣の類のようだ。すぐに医者に診せた方が良いだろう。
「ちがっ……らっ、来羅様…。ちょっ、ごめ…んなさい。あんまり……おかしかったものだから…つい」
「………おかしいと、なる発作ですか?」
 怪訝に思って問い返す。その途端発作は治まるどころか更に酷くなった。口元を片手で押さえている。多分、吐き気も凄いのだろう。
「だっ、だめだ……限界」
「えっ!?限界!?」
 慌てて伸ばした手で彼を抱き締めた。そうした所でどうなるという訳でも無かったのだけれど、他に何も思いつかなかったし、何よりまた勝手に体が動いたんだから仕方ない。
 抱き締めた体はまだ「大人」と言うには若すぎて、けれど確かに男性のものだった。意外にも筋肉の付いた体に、素直に驚く。
 こんなことを考えている場合じゃなかったと思った時、耳に音が届いた。
 一瞬何が聞こえて来たか分からず、音の方を見やる。そこには百夜がいて、無邪気な屈託の無い今までのものとは全く違う笑顔がある。音は疑いようもなく彼から聞こえる。
「どっ……どうしたんですか?」
「ごめんっ。あんまり来羅様がおかしかったから……笑いが、堪えられなくて…」
 そう言いながら尚も彼は「笑い」続ける。
 「笑う」?それは人間達が喜んだり、馬鹿にしたり、今みたいにおかしい時にする動作で……。知ってるけど、確かに私は知ってるけど、今まで一度だって――。
「私の……何がおかしかったんですか?」
「あぁ、本当ごめんなさい。おかしかったって言うか、可愛かったって言うか。……巫女様も、人間だったんだなぁって」
「私が、人間?」
「というより、人間みたいに感情があるんだなぁって」
「感情……」
 そんな風に言われたのは初めてで、こんな気持ちも初めてで、良く分からないけれどこれが彼の言う人間の感情なのだろうか。
 人間を裁く者が、人間であって良いはずがなく、すなわち私が人間であって良いはずがない。良いはずが無いのに……私は、この甘美な誘惑を否定することは出来なかった。

 例えそれが、人間の言う「罪」だとしても。
 例えその後に「罰」が待っていたとしても。


「改めまして、僕は百夜。来羅様、これからよろしくお願いします」

 目の前にある光に、どうして手を伸ばさずにいられただろう。






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