いつも見ているだけだった世界に今自分もいるのだと思うと、とても不思議で。
それはまるで、まるで……絵本や絵画の世界に迷い込んでしまったような感覚。
自分が何かすることで、確かに何かが変化する。
それがただ嬉しくて、生まれたての子供がそうするように、馬鹿みたいにはしゃいでた。
「あ、思い出した」
ぽんと思わず手を叩いてしまった私を、一斉に四人が見る。
自分の行動に対する反応がある。それが恥ずかしいような嬉しいような、良く分からない感情が沸き起こる。
「どうしたの?」
百夜が優しく問いかける。小首を傾げると黒い髪がさらっと音を立てて揺れる。柔らかな午後の日差しに茶色く透けるそれから、少しの間目が離せなかった。
こんな風に四人で時を費やすことにも慣れてきた。彼ら以外の人間と触れ合うことはないけれど、別にその必要があるわけじゃない。今はこうして穏やかな時間を過ごすことが楽しみで仕方なかった。
「……名前。霧生の…、さっきまで思い出せなくて。難しい名前だったのは覚えてたんだけど……」
もう一度問われるように微笑まれて、どこかへ行きかけていた意識を連れ戻す。視界の端で霧生の無表情が少し揺れた。
「あぁ…、僕もよく人の名前忘れるんだ」
「良いのかよ、そんな慰め方で」
紅月が呆れて言う。私よりずっと年下なはずの少年はすごくしっかりしている。だけどちょっと怒りっぽい。まだまだ「子供」で良い時期なのに、彼は必死に「大人」になろうとしてて、本当なら同年代の子達と遊んでいるはずのこの時間を、当たり前のように縁側で私たちと一緒に過ごしてる。
前に一度、友達と遊んできても良いのにと告げた私に、「友達は砂と霧生だけさ」と答えた時の彼の表情が忘れられない。人間は色んな表情をするものだと改めて思った。
「紅月、あんたいちいち突っ掛かってちゃきり無いよ」
「突っ込むだけ無駄だな」
悪戯っぽく笑ったのは砂という女性。気さくで豪快な人で…、あまり細かいことを気にしない。
隣に座る霧生は本当に無口な人で、表情もそんなに変わらず。多分根は優しい人なんだと思う。小さな動作や言葉にそれが表れている気がする。
二人とも最初は怖かったけれど、実際話してみるとそうでもなかった。大体数多いる一族の中から力の者に選ばれたのだ。そんなに悪い人じゃないことは分かっていたけれど、余りにも纏う空気が荒んでいたので驚いたのだ。百夜と比べると尚更それがはっきりしてしまう。
「……私、そろそろ行きます。時間だから…」
「あっ、じゃあ途中まで一緒に行くよ」
何の違和感もなく一緒に立ち上がった百夜をちらりと見て、他の三人に別れを告げると、私は縁側に揃えて置いてあった下駄を引っ掛けて歩き出す。後から彼がついてくる気配がした。
既に身に染み付いてしまった習慣。一日のうち数時間、私は世界を見る。
大よそ二千年後に訪れる「審判の日」。その日、裁定者である私はこの文明を滅ぼすか存続させるか決めなくてはいけない。その為に私には永遠ともとれる時間が与えられている。
公平な審判のためには、公平な知識が必要で。普通に生活している今この時でも、世界で起こるあらゆる物事は、情報の濁流となって脳に流れ込んで来ている。判断材料として脳に蓄積されている。
だけどそれが分かるのは自分自身だけで、目に見えないその仕組みを他人に分かってもらおうとするのは困難だし、わざわざ説明しても意味がない。
結局、私が裁定者としての役割を果たしているのを他人に納得させるためには、「それらしいこと」を行うのが手っ取り早い。
だから、一日の内の何時間かは、屋敷の奥に設けられた巫女の間とやらで儀式を行う。一族の人達は形式に則ったものが好きらしいから、望み通りそれらしく振舞ってやるのだ。
身を清め、綺麗な装束に身を包み、厳かな雰囲気の中で神の声と世界の声を聴く。ということになっている。
「百夜……、もうここで良いです」
巫女の間に続く通路に差し掛かり、くるりと後を振り返った。百夜がいつもの柔らかい笑みを返す。「いってらっしゃい」と微妙にずれているように思える一言を受け取り、私は長い通路に足を踏み入れる。
背後に彼が去っていく気配を感じた。
「なぁ、あいつ……来羅は、俺たちとどこが違うんだ?」
少女と青年が姿を消した方向をぼんやり見ながら、陽に紅く透ける黒髪を揺らして紅月が問う。その問いの矛先がどちらに向けられたのか分からず、砂と霧生が互いに顔を見合わせた。
「どこがって……、どこがさ?」
当たり前のように、砂は隣の青年に疑問をそのまま押し付ける。霧生は小さく溜め息をつくと、僅かに口を開いた。
「どこが違うか、俺にはよく分からない。だけど、人間だというには、欠けているものが大きすぎる気がする」
「あんたの説明はいつも回りくどいね」
「人間として『欠けている』としても、裁定者としてはあれで良いのかも知れない……」
「………はぁ?」
砂の野次をまるきり無視して話を続ける霧生を、紅月は一度横目で見た。自分も感じていた「何か」を、感じていたけれど言葉に出来なかったそれを、霧生が形にした。忘れてしまうともう二度と思い出せない気がして、彼の言葉を頭の中で反芻する。
「良いことなのか分かんないけどさ……。もしかしたら間違ってるかも知れないけど…、俺、あいつに笑って欲しいんだ。あんな綺麗なもんじゃなくて、かしこまってる笑いじゃなくて……。心から、腹が痛くなるくらい、それくらい楽しそうに笑ってるのが見てみたい」
子供の拙い言葉で語られた内容は、彼が言うように「良い」ことなのか判断がつかなかった。
ただ護るように言われてきた巫女に対して、出過ぎた真似にも思えるし、とても必要なことにも思える。
いや、必要だと思いたかった。
今の姿が正しい彼女なのかも知れないのに、自分たちの価値観を押し付け、「人間」を知って欲しいと願ってしまう。
人間のように笑い、人間のように泣き、人間のように喜び、悲しみ、時には少し愚かなこともしたりする。人間として足りない何かを自分たちが埋めてやりたいと、そんな傲慢でさえある考えを抱かずにいるには、「裁定者」でない少女の部分に触れすぎた。
いっそ知らずにいられたら楽だったかも知れないのに……。自分たちも、裁定者である彼女も。
「百夜……あの子は悪魔ね。呼び覚まさなくて良いものを呼び覚ましてくれたわ」
「あいつが彼女を呼び覚ましたと、そう考えるのか?」
口元に意味ありげな笑いを浮かべながら呟いた砂を横目で捉え、霧生が問い直す。紅月は何か言おうと口を開き、言う言葉を見つけられずに再び黙って砂の言葉を待った。
「同じ女だからね、分かるのさ。来羅を呼び覚ましたのは百夜だよ。私が会った時は……あんた達の時もだろうけど、彼女は"裁定者"だった。少なくとも"人間"じゃなかった」
記憶の中から出会った当初の彼女を引っ張り出す。人形のように心を凍てつかせた少女は、ただ沈黙で自分たちの言葉を受け取っていただけだった。自らの意思表示など一切なく、一族が求める裁定者としての姿をそのまま反映させていた少女。
「つまらない女だと思ったのに……」
溜め息と共になかなか酷い言葉を吐き出して、砂は立てた膝に頬杖をつく。
確かに、と霧生と紅月が内心で同意を示した時、傾きかけた西日が三人の頬を暖かく照らした。