少女が二人、そう広くない和室に座っていた。生活感が感じられない部屋だった。
一人は、まるでおとぎ話をするように、静かに、穏やかにこの世界の運命を握る女の話をする。向かいのもう一人は、一度も合わさることの無い視線を真っ直ぐに少女に向けていた。
「本当はね、私がしたことはきっといけないことなの。分かってる。だけど、だけどね、全てが終わった時、側にいて欲しいと思ったの。
私は『それ』が終わるまで死ねないから。私の時は止まったままだから。私は……百夜達が私をおいて、年をとって、死んでいくのに……耐えられなかった」
だから二千年を一人で生き抜くことを決めた。
実際には、逃れたと思っていた一族の監視の目があったようだけど……と、苦笑交じりに来羅は言った。
笑いながらもどこか寂しそうに遠くを見るその瞳を、美沙は黙って見つめる。過去に馳せられていた瞳に意志が宿り、ゆっくり美沙に向けられる。
「私、人間じゃない」
無表情で紡がれた言葉が、部屋に響く。
「年をとらない人間なんていない。二千年なんて長い時間、生きていける人間なんていない」
もう一度、静かに呟く。ほんの少し、声が感情の波に揺れた。
「そうね」
美沙が短く返す。
「でも……少なくとも、あんたみたいな間抜けな化け物だったら、私は怖くないわ」
不意に優しく微笑んだ美沙を、来羅が目を僅かに見開きまじまじと見つめる。だんだん赤くなっていく顔を隠すように俯いて、ぼそぼそと聞こえないような小さな声で何事か呟いた。
「何?」
「……………ほ、本当?」
相変わらず顔は上げずに、耳まで赤くした来羅が言った。一瞬面食らったように美沙が目を見開き、すぐに満面の笑みに変わる。
「本当」
笑いながら美沙が答えた。
「本当の本当?」
「本当の本当」
来羅が少しだけ顔を上げ、首をかしげる。
「本当の本当に本当?」
「本当の本当の本当の本当の………」
急に途切れた言葉の先を求めるように、来羅の顔が完全に持ち上がった。その代わり今度は美沙が俯いている。小刻みに震えている肩へ、大丈夫かと問いかけようとした手が届くより先に、勢い良く美沙が立ち上がった。彼女に近づき過ぎていた来羅のあごに、美沙の頭がぶつかった。
「――あーっ!! もうっ! 本当よ!! 私はあんたが好きだよ!」
「…………み、美沙……」
激痛を訴えるあごを両手で押さえ、潤む瞳で仁王立ちする友人を見上げた。
「分かってた!……初めて会った時から、あんたが普通じゃないのは、分かってた…。
だから何!? 勉強はそれなりに出来るくせに、数学の計算途中にプラスとマイナス間違って結局全然違う答えになってたりとか。走るの早いのに、リレーでバトン渡す時にとんでもないミスやって皆に怒られたりとか。飴なめ始めた途端飲み込んじゃったりとか。サイダー振ってから飲んじゃったりとか。人が恐れていることを気付いたらやってたりとか。そういうこと全部、全部、演技してたわけ!?」
肩で息をしながらなおも美沙は続ける。来羅が呆然と見上げる。
「人が落ち込んでた時、何も言わないで、気付いたら真っ暗になるまで一緒にいてくれたりとか。そういうの全部、私に見せた『立花来羅』は全部、嘘だったわけ!?」
一気にまくし立てた言葉の羅列が、来羅の脳に達するまでにしばらくの時間が必要だった。その間、何もない部屋に美沙の呼吸のかすかな音だけが溶けて消えていく。空中で二人の少女の視線が絡み合い、やがて見上げる黒い瞳に確かな意志の光が宿った。
「嘘じゃない」
虚空に投げられた言葉は薄明かりの中にすぐに消えた。
「嘘じゃない」
少女はもう一度繰り返した。今度はその言葉を受け取る者がちゃんといた。
「嘘じゃない。演技じゃない。あなたに見せた私は全部、全部『私』だった。その中に一片だって嘘はない」
ふっと柔らかく微笑んで、美沙が言った。
「なら、良いじゃない」
しゃがんでそっと手を伸ばし、その手が来羅のほおに優しく触れる。表情のなかった彼女の顔が、途端にくしゃりと歪んだ。
「怖かったの……」
「うん」
怖かった、と繰り返す来羅をあやすように、安心させるように、美沙は何度もうなづいた。何が?とは問えなかった。ただ静かに涙をこぼす彼女に、これ以上踏み込めないものを感じて。それでも精一杯手を伸ばして涙が流れるほおに触れる。
いっそ無茶苦茶に抱き締めて、何も心配しなくて良いと伝えたかった。しかしそうした瞬間、ギリギリのバランスでもって『こちら側』に踏み止まっている彼女が、自分のせいで『向こう側』に行ってしまいそうで。どうしてももう片方の手を伸ばせなかった。
もう片方のその手が、彼女と裁定者の見えない距離だった。
「で、なーんで怪我人の俺が晩飯作らなきゃいけないんだっ!?」
「仕方ないじゃない、来羅は寝ちゃったんだし。重傷のわりには元気そうだし。料理初心者のあんたのために、わざわざ客のはずの私が手伝ってあげてるんだから有難く思ってちょうだい」
さいばし片手に不満を叫ぶ紅月を、横から美沙が冷たくあしらった。左腕に鉛の玉を受けた彼が心配じゃないわけではないが、他の誰も特に気を使っているわけでもなければ、現に彼自身とても元気そうに動いているせいで、美沙の『常識』が捻じ曲げられてしまったのだ。
本日の晩御飯はイタリアン料理から――来羅の言う『イタリアン料理』が本当にイタリアン料理だったかは別として――なぜかインド料理に変更された。それも日本独自にアレンジされたインド料理――……
「カレーライス。どんな料理音痴でも美味しく出来るという慈悲の結晶のような料理よ」
「なんだそりゃ……」
背後から指示のみを飛ばしてきて、決して自分は手を出そうとしない美沙を恨めしく思う一方で、嫌だ嫌だと言いながらも結局は引き受けてしまう自分に紅月はひどく落ち込む。
よりによって唯一の怪我人の自分がなぜこんなことをせねばならないのか。来羅を含んだ力の者の中で、どういうわけか自分が一番力関係の底辺にいるようで。その原因がこういう所にあるのだと分かってはいても、自分ではどうすることも出来ないのだった。
「あいつ……、大丈夫か?」
ふとジャガイモを切る手を止めて、紅月は背後の美沙に問いかけた。右手のみを使っているため、いびつな形をしてまな板に転がるジャガイモを見ながら、美沙は改めてカレーライスは偉大だと考える。いびつな形が料理に悪く影響することは、ことカレーライスにおいては余りない。
「おい、有本?」
「そこっ! 手を止めない! ジャガイモ切り終わったらそこのザルに入れて。鍋出して、バターと油引いて火にかけて」
「えっ!? ちょ……待てって…なべ?………鍋って…」
「あんた今一瞬『闇鍋』想像したでしょ。あんなの普通の家庭じゃやんないわよ。鍋は大体流しの下の戸棚」
「……これか?」
「そう。じゃあバターと――」
「ばたー…?」
「バターはほら、冷蔵庫に――」
「れーぞーこ?」
「あんたの左にある白い箱がそう」
「なら最初からそう言えよ。えっと……うぉ、何だコレ!? 冷てッ!」
「……………扉のトコに入ってる……その四角いやつがバター」
「ふーん……って、何だこりゃ。べとべとしてやがる…」
「………あぁーーーーーッ! もうッ!!」
とうとう手を出さざるを得なくなった美沙の叫びが台所にこだます。少し離れたテーブルに腰掛けて、火徳の家事を取り仕切る茜に出されたお茶をすすりながら、百夜達は空腹に耐える覚悟をした。
テーブルの上に出された料理を見て、聞こえてきた奇声のわりにはまともなそれに、杉田は心の底から安堵した。あからさまなその様子に、美沙がムッと眉を寄せる。
「この私がついてて、そうそう変なものは出させないわよ。例え材料の名前すら知らない人が横にいてもね」
「え? 紅月ってそこまで料理音痴なのか?」
「いや、料理自体はそこまで下手なわけじゃ……」
言いよどむ紅月を不思議そうに一べつし、杉田はすぐに目の前に置かれたカレーに視線を移す。美沙と紅月も席に着く。いただきますと全員揃って言ってから、それぞれカレーに手を伸ばした。
「ミサちゃんだっけ? あの子は全部話した?」
唐突に、しかし自然と受け入れられるタイミングで砂が口を開いた。カレーを口に運ぶ手を少し休めて、美沙は砂を見る。百夜はカレーを乗せたスプーンを口にいれたまま、霧生は無表情で、紅月は辛さに痛む舌に水を流しながら顔を上げた。杉田はよく分からないなりに二人を見守っていた。
「多分。全部かどうかは分からないですが」
「それでもあの子と一緒にいるの?」
「友達ですから」
「危険なこともあるんだよ」
「じゃあ守ってあげなくちゃ」
砂の鋭い両目に、気を抜けば思わず挫けそうになる心をどうにかして奮い立たせ、美沙は精一杯毅然と見返した。杉田がわずかに息を呑む気配がしたが、それ以外は時が止まったかのように静かだった。
やがてふっと張り詰めた空気が解けるのが美沙にも分かった。止めていた息を大きく吐き出す美沙を見て、砂が笑った。それは妖艶な笑みではなく、純粋な心からのもので。彼女がどれだけあの少女を大事に想っているのか悟らせるには、充分すぎる笑顔だった。
「本当に、あの子は良い友達ひっかけたわね」
「ひっかけたって……そんな言い方ねぇだろ」
ぼそりと呟いた砂の言葉に眉をしかめつつ、紅月は戸惑う杉田に苦笑を浮かべる。そして多分少女がその友人に話したのと同じ内容の物語を、彼にも話してやった。
「じゃあお前もなんか特別な力があんのか?」
二杯目のおかわりを容易く平らげて、杉田はコップの水を飲み干した。いつもならもう二杯くらい余裕で食べることが出来るのだが、今しがた聞いた話の内容に対するショックにより、三杯が限度らしい。早くも満腹を訴えてくる腹をなだめつつ、テーブルの向かいに座る紅月に問いかけた。
「あぁ……俺らには――」
「ちょっと待った。場所移すよ」
言いかけた紅月を当然のように制して、砂が席を立つ。逆らえない空気を知ってか知らずか、他の面々も同時に席を立った。美沙が食器を片付けようとしたのを、見計らったように現れた茜が止める。礼を述べて彼女もまた一同を追って出て行った。
もう日が沈み、空は漆黒の闇に覆われているが、屋敷全体は淡い光を放っていた。それは障子を通したろうそくの光がそこかしこに配置されているからなのだが、一種幻想的なその光景に、美沙は中庭に面した縁側を歩きながら目を奪われていた。
「何でわざわざ移動すんだよ」
ずんずんと先に進んでいく砂の背中に、紅月が出来うる限りの不満をぶつけた。砂は振り返りもせずに答える。
「あの椅子ってやつは疲れんのよ! ったく、百夜ッ、あんたも物好きだね」
「そっかな、結構面白いじゃん。俺は好きなんだけどなぁ」
だから物好きなんだと言う砂の傍らで、紅月は何となくほっと肩をおろした。一族の者の耳がある所では話せないようなことを言うのかと思ったから、だから場所を移すのかと思ったから。別にそれでも構わないのだが、移動の理由がこんな下らないもので何となく安心した。
「百夜さんは椅子が好きなんですか?」
美沙が不思議そうに問いかけると、百夜が振り返って笑う。
「えっとね、こっちの世界に来て最初にお世話になったとこ……火照って知ってるだろ? そいつのとこではテーブルに椅子だったから、ちょっと懐かしくて」
「そんな上等の理由じゃないだろう。物珍しかったんじゃないのか?」
最後尾で無言でついて来ていた霧生が突然口を開いた。背後から聞こえてきた低い抑揚のない声に驚き、美沙と杉田が振り返る。百夜も同じように霧生を見ながら苦笑気味に呟いた。
「霧生は時々口を開くと冷たい言葉しか言わないんだ」
「わざわざ口を開くほど価値のある話題をお前らが持ってこないのが悪い」
「ほらね。霧生は本当に―――……」
優しく和やかに笑っていた百夜の顔が、一瞬にして鋭くなる。その急激な変化に思わず足を止めた美沙と杉田の耳へ、ガサガサという人為的な音が飛び込む。数刻前、我が身に降りかかって来た忘れもしない惨事を思い出し、二人とも知らぬうちに身を強張らせた。
「……どうする?」
紅月が小さく問う声がした。
「あんたと百夜はその子たち連れて来羅のところへ」
簡潔な言葉を受けて、紅月が一度百夜と視線を交わしてから歩き始める。戸惑う美沙と杉田を百夜が強く引っ張った。緊張で固まった足が無理やり前に進まされる。
残された砂と霧生が中庭へ目を向けると、薄暗闇の中に人のシルエットが黒く現れた。感慨も何もなく二人がそれを見る。相手もじっとこちらを見ていた。
「砂、お前は援護を」
「何でよ」
さっそく力を使おうとしていた砂が、不貞腐れたように聞き返す。相手はたった一人、『援護』と言っても名ばかりで、おそらく家屋に被害が及ばないようにする程度の役割しかないだろう。
「お前が出ると地形が変わる」
「…………ちっ」
大人しく砂が一歩下がった。
「何しに来た」
「………仲間は…どこに…」
虚ろな調子で紡がれた言葉に、霧生が少し顔をしかめた。相手の表情ははっきりとは見えないが、光に照らされて、瞳だけが暗闇の中妖しく光る。
「知ってどうする」
「……殺される。弟が…、どこに」
「厳重な警備をつけて屋敷に捕らえてある。外部からの進入はない」
「外部じゃ……外部じゃな…」
「……心配せずとも、お前もすぐに連れて行ってやる」
聞き取れない言葉を何度も繰り返す相手を無視して、霧生が一歩踏み出す。縁側の板を踏みしめた音が小さく響き、男が我に返ったようにビクッと肩を揺らして身構えた。
一歩引いて静かにたたずむ砂の瞳に、霧生の右手に収束していく水が映った。暗い中、透明なそれは淡い光を受けて、幻想的なまでにきらめく。だが相手の男からしてみたら、それは絶望の光だった。一気に空気中の水分が失われたのをその身に感じながら、砂はただ黙って事態を見守った。
強く手を引かれながら、美沙はただ走った。そうして既視感のある光景に出くわす。障子を前に、頭に疑問符を浮かべて手を引く青年を見上げると、先に中に入るように促された。
既視感を感じたのもそのはずで、そこは先ほどまでいた来羅の部屋だった。すぐさま視線をめぐらし、室内に異常は何もなく、奥に一人の少女が静かに眠っているのを見とめて美沙は安堵の溜め息をこぼす。そんな彼女を見て百夜は優しく微笑んだ。
「さて、さっきの話の続きだけどな」
後ろ手に障子を閉めながら、唐突に話を切り出した紅月に、美沙と杉田が目を見開く。百夜はさっさと奥へ歩いていき、少女が眠っているのを確認してから座布団を四つ並べた。
「……良いの? こんなゆっくりしちゃって…」
「え?…あぁ、別に平気だろ。あいつらに任せておけば。それにこっちに来られても百夜がいるし」
遠慮がちな美沙の言葉を受けて、紅月がいつもの調子で答える。軽い口調に、強張っていた体の緊張がほぐれたのを感じた。
「まぁ、座って」
そう言って百夜が示す二つの座布団に腰掛けながら、美沙は遠くで何かがぶつかる音を聞いた気がした。紅月が構わず話し始める。
「それで………何の話だっけ?」
「お前にも何か力があるのかって話」
杉田が間髪入れず答えた。
「ある。俺は『風』の能力。百夜が『火』、あの男女は『土』で、すげぇ無口な男が『水』」
「……へ…へぇ」
何かとても凄いことを言われたような気がするのに、少年の口から発せられたせいでいまいち実感がわかなかった。黙ってしまった美沙の横で、杉田が「あ」と小さく声を上げた。何?と振り向く美沙に、杉田が少し得意気に口を開く。
「砂さんが『土』の能力で、霧生さんが『水』だよな?」
「うん、そうだよ」
誰にともなく訊ねる杉田に、百夜がうなずいた。
「二人とも能力にまつわる漢字が使われてるんだ?」
「……よく分かったね。普通、あの二人の漢字なんて分からないよ」
「いやさ、授業参観の日に保護者は名前のプレートつけてるじゃん? ちらって見て、変わった名前だなぁって……それで覚えてたんだ」
杉田はいつの間にか百夜に対して敬語じゃなくなっていた。順応性が高すぎる幼馴染を横目で見て、美沙が小さく溜め息をつく。そこでふと紅月と目が合い、
「あれ? あんたは『風』にまつわる漢字、どこに使われてるわけ?」
一瞬険しくなった表情を、美沙は見逃さなかった。何かまずいことを訊ねてしまったことがすぐに分かり、ごまかそうとしたが失敗に終わる。慌てる彼女を見て、少年は苦笑を浮かべた。
「認められなかったんだ。力を受け継いだ時に、名前も受け継ぐのが慣例だったけれど……『風』の一文字を名前にいれることを、一族が許さなかったのさ。最年少で力を継いだ俺を、一族は疎んだ。そんなことしたって、何の意味もねぇのに……」
どこか寂しそうに、自嘲気味に笑いながら、紅月は視線を持ち上げた。まるで障子の先に浮かぶ月を見るように。
「紅い月ってな、不吉の象徴なんだと」
直後、盛大な音を立てて、障子が倒れた。正確には蹴り倒されたのだが、そんなことは紅月にとってはどうでも良いことだった。障子板がヒットした自らの頭よりも、ないがしろにされている自分への痛さが勝っていた。
「………無事みたいだね!」
「どこが無事に見えるんだよ……」
呆気に取られている百夜達とその向こうに眠る少女を見て、砂の緊迫した表情はかき消えた。蹴り倒した障子板に片足を乗っけたまま、その下にいる少年に声を掛ける。
「無事で何よりだよ。それより……あれはどういうこと?」
「あれって?」
苛立たしそうに眉を寄せた砂に、少年の体の上から板をどかしてやりながら百夜が問う。
「相手の男が、あんたの専売特許を使ってた」
「……え?」
「だーかーらー……、火だよ!敵があんたの能力使ってたって言ってんの!」
「あぁー…、あれ?言わなかったっけ?」
「何を?」
「俺が相手した奴も、火を使ってたこと」
「…………………言ってない」
しまった、という風にぎこちなく笑った百夜を一睨みしてから、砂は視線を中庭に転じた。敵は霧生が追ってるから、と伝える彼女の横で、百夜が障子をはめ直す。紅月は顔一杯に不満の色を浮かべながらも黙ってあぐらをかいていた。
「あ、さっきの続きだけど。俺の名前も『火』にまつわる漢字は使われてない。俺が生まれる前、何かずば抜けて凄い人がいたらしいんだ。能力を継ぐなら彼しかいないって感じみたいな人。それで早々に名前を継がせたんだけど、結局力を継いだのは俺だった」
世間話のノリで話しながら、百夜は床に座りなおす。さっきまで使っていた座布団は今は砂の体の下だった。彼女が蹴り倒した障子は変形し、完全には閉まりきらない。そのせいで見える外の暗闇をその瞳に映しながら、誰に言うでもなく彼は呟いた。
「俺が物心つく頃にはもうその人いなかったんだよねー……、どこで何してたんだろう、俺の兄さんは」
「ここにいるさ。なァ……百夜?」
そう呟いた少年の手は、先ほど邸内を騒がせた男の胸を貫いていて。びくびくと痙攣を繰り返していた体がやがて動かなくなると、物言わぬそれを屋根から蹴り落とす。腕に残った生ぬるい血をざっと払うと、少年は黙って座った。
「二千年だ。二千年………沈黙の時間は、もう終わった」
真っ白で清廉な月を背に、返り血を浴びた少年の顔が、月明かりの中まるで人とは思えない笑みをこぼした。