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 一人分には少し大きすぎる和室。
 障子を通る白い光。
 外でさえずる雀の軽やかな声。
 わずかに残る夏の陽気、忍び寄る冬の冷たさ。

 目が覚めて、その視界に自分以外の誰かが映ったのは、覚えている限りこれが二度目だった。


「美沙?」

 試しに一度呼んでみる。返事のない代わりに、規則正しいかすかな寝息が耳に届いて、来羅は小さく笑う。
 誰かがそばにいてくれることが、こんなにも安心を呼ぶなんて知らなかった。
 時の止まった彼女にとって、周りの人間はただ足早に通り過ぎていく流れの一つでしかなく、その一つ一つの流れにいちいち気を止めていられるほど、彼女は強くなかった。
「あなたも私を置いていく?」
 小さく、音にさえならない微かな言葉。眠る少女に届くはずのない言葉は、自分自身に問いかけたもの。
 私はあなたでさえも置いていくのだろうか。
 置いていくのはいつだって相手ではなく、自分で。
 突き放すのはいつの時代でも相手ではなく、自分自身だった。
 それで「寂しかった」と泣くのだから、それは何と滑稽に他人の目に映っただろう。愚かなのはどう考えても自分の方で、それを裁定者に選んだのだから、神も同じくらい愚かなのだろう。

 隣の布団に身を横たえる少女を起こさないよう細心の注意を払って、来羅は布団から抜け出た。
 そういえば自分は一体いつの間に寝たのだろう。足音を立てないよう畳の上を移動して、静かに縁側へ抜ける障子を引く。
 清々しい朝の澄んだ空気を大きく吸うと、後ろ手に障子を閉めながら音もなく縁側を歩き出した。

 まだ日が昇ったばかりの中庭を囲む縁側には、自分以外の人の姿は見えなかった。屋敷に仕える人間は多いはずなのに、全体的に人の活気は感じられない。ことこの『火徳』の屋敷には、活気どころか気配さえ感じられなかった。
 二千年前、その有する能力の破壊力ゆえか、火徳の一族は他の一族たちより位が上のような待遇をされていた。そしてそれは今も変わらないようで、現に来羅たちを居住させておく屋敷も、当然のごとく火徳のそれに決まった。
 いつも見事に整備されていて、どの角度から見ても完璧なまでの景観を醸し出している四つの屋敷の中央に位置する中庭は、どういうわけか今日に限って乱れに乱れている。当てもなく縁側を先へ先へと進みながら、目線だけは凄惨な庭から離せずにいた。
 池の水は枯渇しており、地面は所々隆起していて木が数本倒れている。不思議に思う気持ちと同時に、この光景は何度か見たことがあるのにも気付いていた。昨夜自分の知らぬ所で何があったのか、あとで聞いてみる必要があるだろう。
 足は止まることを知らず、どんどん先へ進んでいく。どこまで歩いていっても、広大な中庭の乱れは続いている。これは元に戻すのに相当な時間が掛かるに違いない。

 往々にして人が大なり小なり事故を起こす時、その注意力は散漫で、特に「前方不注意」というものが多い。
 どういうわけかこの少女には「前方不注意」の才能があるらしく、例によって今日この日も、人が全く見当たらない縁側で人にぶつかった。

「………っ!?」
「おっと……大丈夫ですか?」

 柔らかな声音とは裏腹に、少女を引き起こした腕の力は強かった。ぶつけた鼻の痛みも忘れて、来羅は自分の腕をつかむ大人の手を見、そのまま視線を上へと移していく。
「……水寺の…御当主様……?」
「早起きでいらっしゃる」
 ここへ来て一度しか会ったことのない人物だったが、穏やかな物腰の彼は強く印象に残っていた。呆然とした脳がやがて状況を把握すると、来羅は顔を真っ赤にして謝った。考え事をしながら歩いていたおかげで、どうやら火徳の屋敷から水寺の屋敷へ移動してきてしまったらしい。四つの屋敷と屋敷との間には明確な仕切りはなく縁側で一続きになっているものだから、それはそれで便利なのだが、来羅のような新参者は見分けがつかない。
 二千年前も屋敷の構造は一緒だったが、そのときは特に屋敷の中を歩き回るなどということはしなかったため、彼女にとってここは未知の世界である。
「私の方こそ、ぼんやりとしていたものですから」
 その言葉はそっくりそのまま自分にも当てはまるもので、来羅は赤い顔を下げてもう一度謝った。
「巫女様は、こんなに朝早くどちらへ?」
 それ以上の謝罪を遮るかのように、やんわりと水寺の当主は問う。微笑を想像させる優しい声に、来羅はおずおずと顔を上げた。
「いえ……どこかへ行こうと思っていたわけではなくて、少し…早く起きてしまったので」
「そうですか。でも朝の庭の様子もなかなか良いでしょう?………どういうわけか今日は独創的な様子になってますが」
 水が干上がっているのは霧生のせいで、土が隆起しているのは砂のせいであろうとは、まさか言えるはずもない。確実に二、三度は下がった声のトーンに内心冷や汗をかきながら、来羅はあいまいに相槌をうつ。
「巫女様、もしよろしければ私の手がけている庭園を見にいらっしゃいませんか? 朝食までまだ時間はありますし」
「良いんですか?」
 屋敷の者にこんな風に声を掛けてもらった経験は未だかつてなく、来羅は驚いて思わず問い返した。当主は微笑を浮かべ、
「えぇ、もちろんです」
「あ…ありがとうございます。ぜひ拝見させて下さい。それから……あの………」
 言いよどむ彼女をせかすこともなく、黙って当主は待った。やがて意を決したように少女は顔を上げた。
「あの、私のこと、『巫女』じゃなくて『来羅』って、名前で、呼んで下さい」
 所々つっかえながら紡がれた言葉に、当主は心もち目を見開き、しかしすぐに包み込むような笑顔に戻って言った。
「分かりました。では私のことも『当主』ではなく、『誠』と」
 今度は来羅のほうがびっくりさせられた。自然に込み上げてきた笑みで目を細めながら、来羅と誠はともに歩き出した。


 二言三言言葉を交わし、朝もやのかかる屋敷を二人で歩いていく。特に無理せずについていけるということは、彼が自分に歩幅を合わせてくれているのだろう。そう思って、来羅の口元がかすかに笑む。
 誠は深い藍色の着物を慣れた様子で着こなしており、またよくそれが似合っていた。他の当主たちも着物を着ていたが、彼ほど似合ってはいなかった気がする。
 不意に規則正しかった歩みが乱れ、曲がり角で誠が立ち止まり、その先を来羅に示す。自分でも驚くほど一瞬心臓が跳ね上がり、来羅は小走りに先を急いだ。曲がり角を折れ、視界に広がった風景に我知らず溜め息をこぼす。
「……綺麗」
 自らの口から出た言葉に気付いてないのか少女の視線は目の前の庭園に釘付けになっており、少女の見る世界に今は自分が映っていないことを悟ると、誠は一歩後ろに下がって静かに彼女を見守った。
 目だけはずっと、手入れの行き届いた松の木や、それの根元辺りを覆う苔の鮮やかなグラデーションに向けながら、来羅はゆっくり歩を進めた。そうして違う角度から見れば、庭園は新たな様相を呈す。しばらくして、鼓膜をかすかに揺らす小さな音に気付いた。視線を彷徨わせ、ほどなくして音の正体を見とめる。細い糸のような水の流れが、丈高い岩の裂け目からせんせんと現れては落ちていく。
 ほう、と夢うつつの吐息を漏らし、少女は全体を見るべく一歩下がった。
「もう少し経てば……そうですね…、紫苑(しおん)藤袴(ふじばかま)、あとは…ハナミズキなども見頃になりますね」
 柔らかい声が心ここにあらずだった来羅の脳にもすんなり届いた。そして今しがた挙げられた名の植物を、後で図鑑で今一度調べておこうと思う。
「これは誠さんが?」
「えぇ、他にすることもあまりないですし。暇つぶしがてら始めてみたら……思いのほか楽しくて、つい入れ込んでしまっているのです」
 その声に今まで見られなかった色を感じ、来羅はちらりと痩身の男を仰ぎ見る。少し照れたような表情が、実年齢より子供っぽい。
「下りてみますか?」
 少女は不意に掛けられた言葉に一瞬きょとんとして、やがて意味を解すると、今度は見事な庭とそれを手がけた男を交互に見やった。
「………良いんですか? せっかく綺麗にしてあるのに…」
 そう言いながら視線を眼下に広がる瑞々しい苔に移し、次いでその先の大きな岩や均一に敷き詰められた砂利に転じた。どれも見事に手入れされている。ここに足を踏み入れるのは罪なような気がした。
「それでこそ庭ですから。さぁ」
 ためらう来羅の横で、誠はさっさと縁側を下りる。石段の上に縁側の下から出した下駄を少女のために揃えてやり、自分は平らだった砂利に躊躇(ちゅうちょ)なく足跡を残していった。少女もそれを見て踏ん切りがついたのか、用意された下駄をつっかけて後を追う。
「こちらへ」
 振り返らずに紡がれた言葉は、早朝の風に乗って来羅の耳に届く。何か目的があるように歩を進める彼は、けれど少女が周りを見るだけの十分な余裕を与えてくれていた。苔の中に置かれた飛び石に足を乗せながら、来羅は咲き終わりの紅い花を見た。朱の混じったような紅いそれが、緑の庭によく映えている。
 前を歩く大きな背中が立ち止まり、何気なく顔を上げる。
「あ……」
 東屋だった。
 四方吹き放しの小さな小屋がひっそりと木々の陰に埋もれていて……、そのくせそこに存在するのが当たり前のような自然さだった。
「素敵です」
「そう言って頂けると、嬉しいですね」
 本当に嬉しそうに笑む誠を見て、来羅もつられて笑う。ごく自然に手を引かれ、ひやりと冷たい平らな石に腰掛けた。
「本当に……素敵です」
 縁側から見た景観も大したものだったが、この東屋から見るそれも、幻想の一ページのように少女の瞳に映る。隣で誠が笑う気配を感じた。
「暇なもので、当主なんて……形だけだから。だから……時間は、あるんです」
 自嘲気味な笑みと共に紡がれた言葉が、朝もやの中に溶けていって。だけど聞き流すにはあまりに寂しそうに響いたそれを、来羅は無視できずに振り返る。
「すみません、今のは……忘れてください」
「誠さん?」
 困ったように誠が笑う。

 ああ、この人はずっと笑っていたんだ。もうずっと、自分が知らないずっと前から。多分こんな風に笑い続けていたのだろう。

 少女はそっと手を伸ばす。その手が彼の頬に触れるか触れないかの所で、少女のものより一回り大きくしっかりした手がやんわりと遮った。そのまま細い手を握る。
「……火徳の…当主、信司さんには……近づかない方がいい。あの人は――」
 一旦そこで言葉を切った。かすかに開かれた口から続く言葉が紡がれるのを、少女は黙って待っていた。
「あの人は……」
 その先が紡がれることはなかった。
 続くはずの言葉は、遠い……だけど確かにこの屋敷の中で放たれた高音の叫びに持っていかれた。
 ぷつんとそこで夢は覚まされてしまい、庭園はもはや彼らだけのものではなくなっていた。慌しく駆け回る幾人もの足音や、折り重なる女の小さな悲鳴がさざなみのように屋敷に流れる。
 少女は立ち上がると東屋から飛び出し、苔の中の飛び石を一つ抜かしで駆ける。背後に人の立つ気配を感じ、一瞬立ち止まって振り返り、軽く会釈をする。彼はまたおいで下さいと笑うと、少女を見送った。
「貴方は……貴方だけは、汚されてはいけないんだ」
 吐息にのせられた小さな声は少女の耳に届くことなく、朝もやと共にかき消えた。




 何人かにぶつかり、何度も謝りながら、それでも走ることはやめなかった。急く気持ちとは裏腹に、なかなか目的の場所へは辿り着かず、来羅の中に焦燥だけが募っていった。
 やっと見覚えのある荒れた中庭を目にして、さらに走った。そうして角を折れた先に、人が群がっている光景が目に飛び込んでくる。非難の視線や声を全部無視して、人をかき分け突き進む。無我夢中で進んだ先の開けた空間に、少女が一人、床に座り込んでいるのが見えた。
「美沙!!」
 反射的に口から放たれた言葉に、座り込んでいた少女の顔が動く。
「……ら…いら」
 一瞬だけ視線を交わし、美沙の視線は何かに引き付けられるようにまた元へ戻って行き、凍りつく。来羅もその視線を追った。

「……………」

 おそらく数時間前まで『人』であったのだろう。今はもうただの肉塊と化したそれは表面に赤黒いものをつけて、地面に落ちていた。真ん中に穴が開いていた。ちょうど、そう、人一人の腕の分くらい。
 少女は黙って歩き出した。さっきまで煩わしいほど群がっていた人々が、何も言わず道を空けた。
 座り込んだ友人の傍で一度歩を止め、安心させるように笑った。彼女の表情から怯えの色が消えたのを見て取ると、再び歩き出す。
 縁側から裸足で地面に下りると、迷うことなく一直線に赤黒い塊に向かった。
 やはりもう終わっている。
 何気なくそっと穴の開いた部分に手を触れてみる。自分のすべきことが何も残っていないのを確認して、少女は踵を返した。

 喧騒に包まれていたはずの屋敷は今は水を打ったような静けさを取り戻していた。
 ふと顔を上げて、最初からそこにいたのか、百夜たちの姿を見とめると少女は言った。
「まだ……死臭がする」
 黙って自分を見つめる百夜たちから視線を逸らし、少女は見た。
 昨日捕らえた『敵』がいるはずの棟。そこから流れてくる風に、確かに二千年の内に嗅ぎなれた死臭が、含まれていた。






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