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 悪夢のような光景は、あの日から二日が経った今も、ふとした瞬間にフラッシュバックして美沙を苦しめていた。

 黒板に白い文字が増えるたび周りでカリカリとペンが紙面に走る音がする。しかしその音は美沙の手元にはなかった。開きっ放しになっているノートは、授業が始まって三十分が経過しているというのに綺麗な白紙のままだ。

 彼女が人間の死体を見たのはこれが三度目だった。
 一度目は母方の祖母、二度目は近所の老人。それはやはり祖母の喪失感の方が上回るが、どちらの時も「悲しい」という気持ちは同じだった。しかし、今度はどうだろう。
 ぼうっとしながらも、シャーペンを無意味に握りしめた手に力がこもる。周りの音は全て雑音となり、美沙を素通りしていった。
 どこに、「悲しい」という感情があるのだろう。
 探しても見つからないのは、最初から存在しないからだ。代わりにあるのは、思い出すたびに込み上げてくるあの――……
「………っ」
 嘔吐感。堪えきれずに思わず美沙は立ち上がった。同時に椅子が倒れ静かな教室にけたたましい音を立てる。
「すみ……ません…」
 口に手を当てたまま美沙は出口へと駆ける。
 一瞬、視界の端に来羅の心配そうな顔が目に入ったが、気にかけるだけの余裕は今の美沙にはなく。むしろ死体を前にした少女の様子も思い出して、一層気分が悪くなった。
 注目を浴びる中、閉まった戸は今の彼女にとって重い壁のようで。その手前で崩れそうになった美沙を後ろから伸びた杉田の手が支える。力強い手だった。
 半ば抱えられるようにして教室を後にした美沙を、クラスメイト達は呆然と見送っていた。
 三人の、少女と少年を除いて。





「大丈夫か? やっぱり今日も休んだ方が良かったんじゃないのか?」
 傍らで心配そうに問うてくる聞きなれた幼馴染の声に、美沙はなかなか答えることができなかった。
 女子トイレで吐いて少し落ち着いた彼女は、今は廊下の流し場にもたれかかるようにうずくまっている。
 終業のベルが鳴るのを遠くに聞きながら、美沙はゆっくり呼吸を整えた。
「どうして……」
「え?」
 呟きは掠れ、杉田には聞き取れなかった。

 止まない吐き気。無残に晒された男の死体。
 思い出したくないのに、そう願えば願うほど、驚くほど細部まで鮮明に思い出せる自分がいる。

 どうしてあの少女は平気なのだろう。





 昼休みになったことで校舎全体が一斉に賑やかになる。楽しそうに笑いながら昼食の準備を始める生徒たちを、火照は来羅の背中越しにぼんやり眺めていた。
 授業を途中退室した少女は確か「ミサ」と呼ばれていたはずだ。床に叩きつけられた椅子は来羅が元通りに戻してあるが、その席の主である彼女はまだ戻ってはこない。
 周りの人間が慌しく動き始めたというのに、火照の前の二人は身動き一つしていなかった。いや、紅月は時折来羅をうかがうような様子を見せているが、少女の方は微動だにせず俯いたままだった。
 火照は机に頬杖をつきながらそんな二人を見つめる。ほんの少し、口元が歪むのを彼は抑えられなかった。

「来羅……」

 彼の低い声は騒音の中よく通る。どこかに毒を含んでいる声だった。
 のろのろと緩慢な動きで少女は振り返る。その横で、警戒心を隠しもしない紅月が素早く火照を睨んだ。
 努めて笑みを消しつつ、火照は少女の虚ろな目を見やる。
「あの子、迎えに行かないの?」
 来羅の瞳がわずかに揺らぐ。小さく笑った火照に紅月の鋭い視線が突き刺さる。
「ミサ、だっけ? 辛そうだったけど。まるで……そうだなぁ、気味の悪いものでも見たかのよう?」
 火照の言葉一つ一つに、少女は面白いほど反応を返してくる。ひどくく不安気な瞳は頼りなく、今にも倒れそうなほど顔色は悪い。
 周囲の陽気な雰囲気とはまるで違う、明らかに異質な空間に三人はいた。なおも口を開こうとした火照を、紅月の殺気混じりの視線が押しとどめた。

「……………あなたなの?」
 少年二人は弾かれたように少女を見た。彼女は感情のない瞳に火照を映している。そこにはもう、不安も動揺も残ってはいなかった。
「あなたなのね?」
「何が?」
 火照は言いながら微笑を浮かべた。自然で、この上なく狂気じみた笑みだった。
 しばらくそうやって絡み合っていた視線はどちらからともなく逸らされ、
「紅ちゃん……、私、帰る…」
「…………え?」
 窓の外の青い空をぼうっと見ながら、少女は呟く。聞き返した紅月に答えは与えられず、鞄も何もかも置き去りにしたまま来羅は歩き出した。
 一瞬呆気に取られて動きを止めた紅月も、慌てて二つの鞄を掴んで後を追う。


「………有本美沙…。邪魔なだけかと思ったけど、なかなか役に立ちそうじゃないか」
 元に戻された椅子の背で、張られた名札が今にも剥がれ落ちそうに揺れていた。
 少年は立ち上がると、空調の風に揺れていた名札へと手を伸ばす。椅子に張られたテープごと雑に剥がすと、前振りもなしにぐしゃりと片手で握りつぶした。
「せいぜい、あいつに関わったこと、後悔させてやるよ」
 音もなく、小さく丸まった名札は床に落とされた。





「ただいま……」
 予定外の時間の帰宅。返答のないことを承知で来羅は呟いた。すぐ後ろで紅月が玄関の戸を閉める気配がする。
「おかえり」
 靴を脱ごうと俯いた彼女の頭上から、柔らかな声が降ってくる。バッと勢いよく顔を上げて、少女は目の前にたたずむ青年をまじまじと見つめた。
「……百夜、何で――」
「なんか、君の気配がしたから……」
 照れ笑いを浮かべる百夜の横を紅月は無言ですり抜けていった。すれ違う刹那、二人の視線は交わされ、それだけで互いの心情は相手に伝わったようだった。
「どうしたの、来羅? 何かあった?」
「あの小屋は……?」
 思いのほかしっかりした少女の声に、逆に百夜は不安になる。
「今日の朝には、すっかり元通りになったよ。遺体も、もう片付けた」
「そう……」

 彼女が感じた「死臭」は捕らえてあった敵の男たちのものだった。
 小屋の扉を開ければ、中の惨状は――そういったことに慣れている百夜たちでさえ―― 一瞬言葉を忘れて立ち尽くすほどで。ただ一人、来羅だけがいつもと同じように行動していたのだ。
 「いつもと同じように」、それが他人の目には異質な姿として映るかも知れないということを、少女は失念していた。

「私、普通かな……?」
 力ない呟き。視線は自分の足元に落とされていたが、全神経は否応無しに一人の青年へと向かっていく。彼がわずかに息を呑んだのさえ、来羅には我が事のように感じられた。
「私、普通でいたいの。普通でいたいのよ。……初めてなの、失いたくないの。この居場所を……失いたくないっ」
「来羅……」
 少女の白い両手が、溢れる涙を抑えるように顔を覆った。
 小さいその身体に、百夜はなぜか手を伸ばせなかった。抱きしめるどころか触れることさえできず、静かに涙を流す彼女に百夜の掠れた声が届く。
「ありのままに……君は、君の思うように………。普通って、なろうと思ってなるものじゃ――」
「ありのままの私なんかっ、受け入れられるはずがないもの!!」
 悲痛の叫びと共に顔を上げた少女は、戸惑う青年を真っ向から睨みすえた。
「違うのよ、何もかも……」
 身動き一つ叶わない百夜を残し、少女は屋敷の奥へと消えて行った。


「――俺は……」
 一人立ち尽くした百夜は、それ以上の言葉を見つけられなかった。






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