「今日という今日は、ほとほと愛想が尽きたわ」
「あー……俺もだよ」
吐き出した言葉は、どうやら相手に気に入られなかったらしい。睨み殺しそうな目で見てくる女を、楓は無言で見返した。
「言っとくけど、私が愛想を尽かせたのは一族お歴々ではなく、あんたの方よ?」
「は?なんだそれ」
エレベーターの中は静かだった。機械の音もほとんどしない。
ゆっくり点滅していく階数表示を眺めていた楓の耳が、透きとおる細い声を拾う。
「……分かってるはずでしょ? あんたのあの言葉が、どれだけ失言だったかってことくらい」
言葉は一層きつくなる。彼に向けられる横顔は相変わらず無表情だったが、それが返って事態の深刻さを物語っていた。
「俺が言わなきゃ、お前が言ってた。……違うか?」
答えは沈黙。
黒髪の女はもう何も言うまいと決めたようだ。軽く伏せられた目は拒絶の意思を漂わせている。
楓もこれ以上らちの明かない問答を続ける気はなかった。落とした視線が自分の足元に行き当たる。汚れた皮の靴は茨には不評だが、もうずいぶん履き続けている。馴染んだ皮が足に心地よく、手放す気はそうそう無い。
やがてエレベーターは十三という数字で明滅をやめ、機械化されたベルが鳴る。
必要以上に大きく響いたその音が、マンションの閑散さをより一層際立たせた。
二人は黙したまま密室から出、通路の突き当たりのドアに手をかけた。
鍵はかかっていない。
しかし予想に反して部屋の中は暗かった。物騒にも鍵をかけ忘れたか、という考えはすぐに消えた。
窓から差し込む光を逆光にして、黒い影がわずかに動く。
「………火照?」
耳元で茨の押し殺した声があがる。全てが、ドアを開けたその一瞬で凍り付いてしまったようだった。
詰まった喉からは声は出ず、楓は暗闇の中の人物をじっと見ることしかできなかった。呼吸さえ忘れていた。
「どうした?……入らないのか?」
いつもの、人をからかうような、どこか馬鹿にしたような冷たい声。
戸口に立ったまま踏み込めずにいる二人に向けて、影の中の少年はかすかに喉を鳴らして笑う。どうした、ともう一度首をかしげた。
唐突に込み上げてくる感情を、楓は上手く説明できなかった。隣の茨もおそらく同じことを思っている。分かるのは、それだけだ。
少年は二人に背を向けるとゆっくり窓際に歩み寄った。窓枠にもたれかかって静かに口を開く。
「動くぞ」
絶対的な力をもって放たれた一言は、もはや「命令」に等しかった。
暗闇に浮かび上がった少年の顔は奇妙に笑んでいて、見慣れたはずの彼が今は別人に思えた。
「………もう、ただ待つのは終わりだ」
そう言って見やった窓の向こうでは、静かに雨が降り始めていた。
まばらだった雨はついさっきから本降りになっていた。
同様に百夜の焦りも強くなる。
もうどれくらい走っただろう。動かし続けた両足は確実に疲れているだろうが、それを感じる余裕は今の彼にはなかった。
『ありのままの私なんかっ、受け入れられるはずがないもの!!』
そう叫んだあと、少女は姿を消した。
屋敷の中にはいない。なぜだかそれは確信に近く、紅月たちも巻き込み外を探し回っている。それなのに、そう遠くには行っていないはずなのに、少女の姿はどこにも見つけられなかった。
焼けるような焦燥に衝き動かされるまま、体は彼女を求めてひたすら走る。
「来羅っ!」
返事がどこかから聞こえやしないかと、淡い希望がこみ上げる。しかし耳が拾うのは雨が地面を叩く音だけで、全てを振り切るようにして彼は再び駆け出した。
『違うのよ、何もかも……』
悲痛に満ちた呟きに答えられなかった自分。姿を消した少女。
「――っ、……じゃあ、なんて言ってれば良かったんだ!!」
雨が体を打ちつける。
まるで拒否するように。拒絶するように。
あの少女の、それが答えであるかのように。
冷たい雨が体中を叩きつけて流れていく。
まるで責めるように。罰のように。
「私の汚いところも、一緒に流れてくれれば良いのに……」
かすかな呟きは雨音に混じって、自分の耳にさえ届かぬまま消えていった。
見上げた空はただどこまでも灰色に覆われていて。これは罰だ、と少女は思った。
与えられた役割以外のことを求め、結果もっとも大事にすべき役割に支障をきたした自分への罰だと思った。
いつまでも消えぬ焦燥感も、満たされることのないこの心も、求めてはならないものを求めた自分への罰なのだ。
人間ではない。ならば自分は一体何なのだろう。
死ぬことがないこの身体。永久に朽ちることのない完全さをもった不完全な肉体は、決して人間のものではない。そして不完全なのはこの身体だけではなく、どうやら精神にまで及んでいる。
必死に拒んでいたその考えも、一度認めてしまえば何故か楽だった。
解っていたことだったのだ。解らない振りをしていただけで、その事実は変わらない。
人間にはなれない。
与えられた役割も果たせない。
「なら……、何のために存在してるの?」
「教えてやろうか?」
不意に背後で上がった声に、少女は驚き振り返った。
「言えよ。教えてくれ、って。じゃなきゃ、何のために俺が存在しているのか解らない」
そう言って首をかしげてみせた彼の表情がどこか寂しそうで。誰もいない公園の中、びしょ濡れの少年と少女は、そのまま黙ってお互いを見ていた。
壁を揺らした重い拳は、階下にも届くかというほどの轟音だった。
それだけでは飽き足りないのか、再び振り上げた男の腕を傍らにいた女が押しとどめる。
無言で見つめてくる彼女の目に同じ感情を見出だし、男の腕から力が抜けていった。それでも溢れ出る憤りは無くならない。悔しそうに眉を歪めた彼の額に突然冷たい何かが押し当てられる。
反射的に身を引いた楓を、茨の手が追った。
「落ち着きなさい」
密やかな声が漏れる。冷水のごとくに冷たい手と裏腹に、茨の目はいつになく温かかった。
「これが、あいつらの望んでる展開だって、自覚してるでしょう?」
落ち着きなさい、ともう一度呪文のように繰り返しながら、冷たい手はゆっくり離れていった。
「……悪い」
喘ぐように吐き出された言葉はいつまでも部屋に残って二人の心をかき乱す。
「とにかく……」
茨の白い手が無造作に髪を押し上げる。
「とにかく、あいつを止めなくちゃ……取り返しのつかないことになる前に」
言いながらも瞳は不安げにさ迷う。口元がわずかに震えるのを、彼女自身どうしようもなかった。
「止めなきゃ……でなきゃ――」
「行くぞ」
静かに、しかし力強く放たれた一言。掴まれた茨の手は有無を言わさず引っ張られた。
『時が来た。計画はもはや最終段階に入ろうとしている。そこでだ、君たちにはかねてから言ってあったように……役目を果たしてもらいたい』
声は危険な色を帯びていて、どこか少し楽しそうだった。反応を返さない二人に構わず、男は続ける。
「裁定者を見つけるため、そして覚醒へ導くための鍵として生かしておいたあの目障りな存在を消せ」
抑揚も戸惑いもそこにはなかった。
「殺し方は自由にしていい、君たちに任せる。裁定者が完全に覚醒を果たしたその瞬間、さしもの彼も気が緩むだろう。そこを狙えばいい。……覚えているだろうな? この契約があったからこそ、私は君たちを生かしておいたのだ」
「黙れ……っ」
ずっと押し黙っていた青年が弾かれるように顔を上げた。鋭い眼光はまっすぐ相手の男に据えられていて。
「黙れ。俺たちは、あんたの駒じゃねえんだよ。言いなりにはならない。……あんただって、分かってたはずだ。予想してたはずだ」
ほとばしる殺気がどれほど自らに向けられていようと、男は微動だにしなかった。変わりに口元に笑みを浮かべて言う。
「何を」
「俺たちがいつか裏切るってことをだ」
言い切った言葉は、小さな笑い声が聞こえるまで部屋を支配していた。男は心底楽しそうに顔を歪めて、
「君は本当に愚かだね、楓。黙って頷いていれば良いものを……。茨はちゃんと大人しくしていたというのに、君がこれでは台無しだ」
「……うるせぇよ、どうせ結果は変わらない。ここで何を言おうが、あんたにとっちゃ痛くもかゆくもないはずだろ」
瞬間、男の顔から一切の表情が消えうせた。病的に白い顔は薄闇にぼんやりと浮き上がり、瞳はさながら獣のようで。
「そうとも。君たちの行動は私の計画になんの障害も及ぼさない。全ては私の理想通りに進んでいる。君らも、火照も、力の者もその一族も、……裁定者でさえ私の立てた筋道通りに動いている」
男はもはや狂気の塊であった。唐突に変わった声色はこの上なく気味の悪いものだった。
「止められるものなら止めてみせろ」
何も言えずにいる二人をおいて、男は闇に姿を消した。
「ぶん殴ってでも止めてやる。あの馬鹿野郎っ!」
青年の後ろ姿にさっきまでの力なさは微塵も残ってはいなかった。揺るぎない決意が背中から感じられた。
引かれるだけだった手を握り返して、茨もまた彼の後ろから駆け出した。
叩きつける雨は容赦なく。体をつたう滴は二人の体温を奪っていく。
そこだけ切り取られたような空間にあって、先に沈黙を破ったのは少年のほうだった。
「よく解かるよ、俺にはわかる」
「何が――……」
「人間には解かるはずがないんだ。……俺たちの気持ちなんか」
激しい雨音の中、少年の言葉は驚くほどよく聴こえた。その少し掠れた深い声は雨の中を縫って少女の耳に届く。
瞬きする間にともすれば消えそうなくらい頼りない彼女を、強烈な存在感でもって少年がとらえていた。
「……来羅、」
すっと音もなく差し出された彼の手に、少女は身をこわばらせる。
「来いよ。俺と一緒に………、俺が連れてくから。お前が望む場所へ、俺が連れてく」
願うような響きとともに吐き出された言葉はどこか必死で。見過ごしてしまうには、黒い瞳の奥に見え隠れする不安さと心細さは大きかった。
戸惑いを顕わにしたまま、少女の手がゆっくり差し出され。二人の指先が触れるか触れないかという所で、少年の手が少女の細い手首を引き寄せる。
そのまま彼女の体を腕の中に捕らえてから、少年はやっと穏やかな笑みを浮かべた。
「おかえり、来羅」
満ち足りた声は雨音に溶け込んで静かに地面へと吸い込まれていった。