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 どこか遠い記憶で、誰かがなにか叫んでいる。
 ずっとずっと、それは遥か昔の記憶。
 思い出さなくてはいけないのに、どんなに必死に記憶の糸を手繰り寄せても、その脆い糸は途中でぷつりと途切れてしまう。
 焦れば焦るほど、切実さが増せば増すほど、過去の色は褪せていく。
 褪せていく。


『あなたは彼を知っているはず』


 どくんと、心臓が大きく一つ脈を打つ。
 息苦しさと圧迫感に、来羅のひたいに冷や汗が滲む。
 優しく抱きとめる少年の体は、少女が少し押しただけで離れていった。離れていく時の彼の顔が見たくなくて、彼女は俯いたまま口を開く。
「……っ、あ……あなた、誰? 何なの?」
 いつか訊ねたことのある問いだった。
 要領を得ない思考は、同じく断片的な言葉となって吐き出される。
 少年は答えない。
「わたし、あなたのこと、知ってる。……ずっと、ずっと前から。会ったことがあるの、あなたに……でも。でも、それはありえないことなのっ」
 発した言葉のどこにだって、確信と呼べるものは見つからなかった。
 俯いた来羅の顔を、黒い髪が隠す。雨が髪をつたって零れ落ちる。それがまるで涙のようだった。
「なぜ?」
 少年が低く問う。
 声はあくまでも優しかった。


『わたしは彼を知っていたはず』


「だって……会った気がするのは、会ったことがあるのは、もう……ずっと昔のことのなの。本当に、ずっと……何年も、何百年も、な…なんぜ――」
「君が、『ライラ』を名乗ったことが、俺は死ぬほど嬉しかったよ」
 その声があまりに穏やかで、思わず少女は顔を上げていた。
 視線の先の少年は予想にたがわず穏やかな表情をしていて。全てを安心させるような彼の瞳に、来羅は呆然と見入っていた。
 火照はゆっくり口を開く。
「その名前は、どこからきたの?」
「どこって……それは、それは……」
「俺は、君がまだ君じゃなかったころからよく知ってる」
 どういうことか問おうとした少女の口からは、乾いた空気しか出なかった。
 喉まで出かかっているような気がするのに、自分が何を言おうとしているのかさえ分からず。思い出したいのに、確かに記憶として存在しているはずなのに、引き出すことが出来ない自分の力が歯がゆくて。
 全てを知っているはずの少年を、来羅は黙って見つめるしかなかった。
「ずっと待ってたんだ。君が、還ってくるのを」
 燃えるような激情を宿した瞳と同じものだとは思えないほど、彼の目の色は静かだった。何もかも知った上で、それでも全てを受け入れる用意があるのだと思わせるには十分で。
 静まることのない不安も、どこまでも追いかけてくる焦燥も彼ならば包み込んでくれる。来羅はほとんど確信に近いものを感じていた。

 嫌われたくなくて本当の自分から目を逸らすこともなく。
 確かに存在する相手との壁にもどかしさを感じることもなく。
 少しでも近くにいたくて、自分を偽ることもなく。

 ―― 君が好きだ。

「――……っ」
 心を掠めた青年の姿を振り払う。
 あの真っ直ぐな瞳も心も、少女にはまぶしすぎた。まぶしすぎて、手に届かない。手に届かないものを追う行為は、自分の醜さを、不完全さを否応なく突きつけてくるのだ。
「来羅?」
 心配そうに問いかけてくる火照の声に、彼女の心は落ち着きを取り戻していく。この心地よさのために、二千年待ち続けた存在を捨てるのは当然のような気がして。
 全ての疑惑を振り切って、来羅が顔を上げたときだった。
「………………?」
 それは人間が知覚できるたぐいのものではなかった。
 裁定者としての彼女だけが捉えることのできる気配。
 気づいたときには走り出していた。始めおぼつかなかった足取りはだんだんはっきりとし出し、少女は公園の裏の林へと入っていく。地面をたたく足が泥水を蹴って、白い足に点々と汚れを残した。
 何も言わず走り去った少女に驚くでもなく、取り残された少年は薄く笑う。
 どこか傷ついたように笑う彼は、林に消えた少女の影をいつまでも見つめていた。





 唐突に広がった目の前の光景に、来羅は一言も発しはしなかった。
 一切の思考が動きを止め、空白となった脳は考えることを忘れてしまったかのようだった。

 林の奥にいたのは数人の男で、彼らが囲んでいるのはもう動かない一人の少女。
 真っ赤に染まった制服は見慣れたもので、薄く開かれた目は虚空を見つめたまま瞬き一つしなかった。
「…………美沙?」
 乾いた声は喉の奥につまって言葉にならず。
 横たわる少女に注がれる視線は怯えに震えていた。

「―――……、ぁ…」

 頭を抱え崩れ落ちた来羅のそばに、男たちが寄った。
「おい、こいつも殺すって――」
「頼まれたのは一人だけだ。……でも、見られたんなら仕方ないだろ。そっち押さえとけ」
「分かったよ。………悪いが、運が悪かったと思って―――………?」

 無造作に腕を持ち上げられた少女が、気だるい動作で顔を上げた。
 開いた瞳はもはや人間のそれではなく。
 目が合った一人の男が身をこわばらせる。



「さァ、全ての準備は整った。あとは人間どもの掃除だけだ」
 酷薄な微笑をたたえ、少年が呟く。
 遠く林の向こう側で、幾人かの男の叫び声が上がった。






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