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「…………?」
 ひたすら前へと踏み出していた足をふと止め、青年は空を仰ぎ見た。雨がほおを叩きつける。
 何かが聴こえた気がしたのだ。
 それはとても小さなもので、取りこぼしてしまいそうなか細い叫びだったけれど、確かに何か聴こえた気がしたのだ。
「来羅?」
 確信の無いまま放り出された言葉は大気中に吸い込まれて。世界はまるで始めから何も無かったかのような顔をしてみせた。だが空気は明らかに白々しく、立ち尽くす彼に隠し事をしているのだ。
 再び開きかけた口をきつく結び、百夜は駆け出す。
 胸の中にくすぶる不安が、そんな彼を追い立てた。



 背後の気配に、少女はほんのわずかに首を傾げただけだった。状況にひどく不似合いなその動作を少年はなんなく受け止めて口を開く。
「これでも、まだ君は世界に希望を見出だすのか?」
 責めるでもなく、揶揄するでもなく。ただ純粋に彼は問う。
「信じても信じても、どうせまた裏切られる」
 少女は足下に視線を落としたまま身動ぎひとつしない。視線の先には有本美沙が無言で横たわっていた。服は真っ赤に染まっていたが、それさえ見なければ寝ているようにさえ思われた。
 少年はまた一歩歩み寄る。
「これでもまだ君は」
「黙れ」
 そこで初めて少年は驚いたようだった。見開いた瞳がまっすぐ少女の後ろ姿を映す。
「―……い」
「……え?」
 掠れた声は聞き取れなくて、彼は反射的に問い返す。無防備な声だった。
「いらない」
「…………」
「こんな世界いらない」

「俺はいる!」

 唐突に割り込んできた声はまっすぐで。二人は同時に声の主を振り返った。
「俺はいる」
 殴るように降って来る雨など構わぬ様子で、百夜は言う。
「俺はいるよ、来羅。この世界が」
「……百夜」
 少女の反応は緩慢だった。言葉が脳に届く前に霧散してしまったように。彼がもう一度なにか言おうとしたのを、今まで黙っていた少年が鋭く遮った。
「お前、邪魔なんだよ。百夜」
「火照……」
 久しぶりに聞いた声はあまりにも冷ややかだった。呆然と呟く百夜に、少年はなおも言葉の刃を向ける。
「俺とお前はあのとき会うべきじゃなかった。あのときお前に会ったことだけが、俺の唯一の失敗だ」
「なんで……」
 言いかけた言葉はそのまま発せられなかった。青年の視線は少女の足下へと注がれる。小さく息をのんだ彼の先で、少女も同じものを見ていた。
「美沙、死んじゃった」
 無感情な来羅の言葉がぽつりと落ちる。
「あとの人は私が殺したの」
「ら…いら……?」
「私が殺したのよ、百夜」
 続く言葉を見つけられずにいる青年に、火照は満足げな笑みをこぼした。
 百夜はゆっくりと辺りを見回す。雨が血を洗い流してはいたが、そこには確かに数人の動かぬ体があった。恐怖に歪んだ表情。男たちが最期に見た光景など想像したくなかったが、彼の頭は勝手に考え、そして答えに辿りつく。
 少女はそれ以上何も語らない。一歩踏み出して手を伸ばせば届く距離にいるというのに、どこまでも彼女の存在は遠かった。
 青年はかすかに震える声音を必死で抑えて、言うべき言葉を探す。
「来羅、帰ろう。砂も、霧生も、紅月も……今、みんな君を探してる。その子も………連れて行かなくちゃ。とにかく一度、ここから離れよう」
 言いたいことはもっと別にあるはずだった。しかし口をついて出てきた言葉は、どれも当たり障りのないものばかりで。こんな言葉の羅列で彼女を引き止めることなんかできないのは百夜にもわかっていた。
「来羅、来羅……ちゃんと、見てよ…俺を」
 呼びかけに少女は答えない。俯いた顔は陰り、表情を読みとることは不可能だった。
 彼には、もう痛いほど解かってしまっていた。彼女の心のうちも、その変化も。だから繋ぎ止めておく言葉なんてまるで思い浮かばなかった。
 少女を取り巻く雰囲気はすでに別のものになっている。そこに彼がつけ入る隙など残ってはいなかった。
 膠着状態の続いた空間に、突然凄まじい突風が巻き起こる。周りの木々がざわめき立てる。少女の瞳が一人の少年を捉えた。

「来羅ッ!! お前、何やってんだ!」

 紅月の叫びに少女の肩がわずかに揺れる。怒りに満ち溢れた彼の瞳はすぐにもう一人の少年に向けられた。
「……火照、全部お前だな。お前が仕組んだな? 今、砂と霧生が、お前と一緒にいた奴らに足止めされてる」
「だったらどうした」
 呼ばれた少年は事も無げに答えてみせる。口元にはいまだに微笑が浮かんでいた。それを見止めて紅月の怒りはさらに増す。
「有本に手を出すほど、お前が最低の野郎だとは思わなかった。……百夜、何ぼさっと突っ立ってんだ」
 言いながら彼は虚ろな瞳の少女に歩み寄った。一度地面に横たわる有本美沙に視線を落としてから、静かに少女の腕に手を伸ばす。
 伸ばした手が彼女の肌に触れるか触れないかのうちに、紅月の手が弾かれた。一瞬空白となった思考の間をくぐり抜けて、向けられた少女の瞳が拒絶を伝える。

 少年の手を払った手は冷たく、細かったが、そのたたえた意思だけは確かなもので。
「…………来羅?」
 呆然と呟いた紅月の声が痛々しい。
「……私、もう戻れない」
「何言って――…」
 焦った声が当たりに響く。
「私もう戻れないよ、紅ちゃん」
 そう言ってゆっくり少女は後ずさる。見えない境界線が浮かび上がる。
 その線の向こう側にいるのが――……
「……火照…君」
「ん?」
 少女のぎこちない呼びかけに、穏やかに微笑んだ少年は答えた。

「連れてってよ」

 たった一言。
 放たれたその一言が、全てを砕き、そして新しい世界が始まる。


第弐章 完結




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