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 耳が痛かった。
 停滞しきった部屋の空気が、肺に流れ込んできて呼吸を阻害している。
 紅月(こうづき)は意識して大きく息を吸った。吸って、そして細く静かに吐き出していく。その行為を数回くり返してから、彼は後ろの壁にもたれかかった。
 部屋には紅月のほかに二人の人間がいたが、聞こえてくる寝息は一つだけだ。
 有本美沙(ありもと みさ)は敷かれた布団に横たわっていたが、寝ているわけではなかった。呼吸はしていないし、ぴくりとも動かない。頬はほんのり赤く染まり、唇は今にも何か喋り出しそうだったが、彼女はもう二日もそのままの状態で横たわっていた。
 彼女の幼馴染である杉田祥平(すぎた しょうへい)は、疲れきった様子で眠っていた。
 布団で寝ればいいと何度もすすめられても、杉田は壁に背を預けたまま首を縦には振らなかった。じっと、ただひたすら動かない有本美沙を見つめ続けていた。

 有本美沙は、正確に言えば、死んでいなかった。

 呼吸はしていないし、ぴくりとも動かない。だが、死んではいなかった。
 土砂降りの雨の中で彼女を見つけたとき、誰もが死んでいると思った。薄く開かれた瞳は焦点が合っていなかったし、体は冷たく冷え切っていた。何よりも、雨でさえ流しきることのできない大量の血が、彼女の服を赤く染めていた。
 美沙の周りには見るも無残な死体が転がっていて、それをつくり出したのが来羅(らいら)だと知ったとき、紅月はもう彼女が自分たちの下へは戻ってこないことを悟った。
 有本美沙を自分のせいで亡くした来羅が、もはやこの世界を必要としていないことは明らかだった。
 現に、彼女は百夜と紅月の目の前で、火照(ほでり)の手を取ったのだ。彼が美沙を殺すよう仕向けたのだと紅月は確信していたが、果たしてそれを来羅に告げたところで、彼女が戻ってくるとはどうしても思えなかった。
 たった一つ、自分たちに残された希望は、有本美沙がまだ完全には死に至っていないということだ。
 最初は誰も気づかなかった。
 来羅が火照とともに立ち去ったあと、遅れてやってきた(いさご)霧生(きりゅう)とともに美沙の状態を確認した。心臓はどう考えても動いていなかった。折れそうになる心を叱咤して何とか美沙を屋敷へ運び、来羅が殺したという男たちの死体も屋敷の者たちが処理に向かった。
 砂が美沙の体を綺麗にするため男たちを遠ざけてからふたたび戻ってくるのに、さほどの時間はかからなかった。戻ってくるなり、砂は彼女にしてははっきりとしない表情で、「美沙は死んでないかもしれない」と呟いた。
 服を脱がせ、体を拭き終わると、美沙の体にあった数箇所の刺し傷が顕わになった。その傷口を見て、初めて砂は気づいたのだ。
 美沙の「時」が止まっている、と。
 傷口から血は流れきっていなかった。砂が触れると、その断面にはまだ固まっていない血がまるで器に注がれた水のように留まっていた。心臓は確かに止まっているが、ただ一つ、その凝固しない血が美沙の「時」の停滞を示していた。
 二日経ってもなお綺麗なままの体が、その説を裏付けている。
 来羅はほとんど無意識に美沙の「時」を止めたのだろう。会って、このことを伝えれば、あるいは来羅は戻ってくるかもしれない。残された希望は、来羅が美沙の時を「戻せる」かどうかだ。

 そこまでの騒ぎを起こしたおかげで、四当主に来羅の失踪の事実は隠しとおすことは不可能であった。
 火照のことは伏せ、来羅が失踪した、とただそれだけを紅月たちは当主たちに告げた。が、他の当主はともかく火徳信司(かとくしんじ)の怒りは凄まじかった。
 風間隆(かざま たかし)が止めていなければ、彼は確実に百夜(びゃくや)を殴っていただろう。百夜は頭を下げたまま微動だにしなかったが、それがまた火徳の怒りを増長させた。怒りは収まるところを知らず、火徳が立ち去ったあとも紅月たちは息を押し殺さずにはいられなかった。

 来羅を止めることができなかった。

 その事実は、誰より自分たちが一番分かっている。一番、思い知っている。
 火徳に言われるまでもなく、百夜は、きっと、一番自分を責めている。
 紅月にしても、伸ばした手を拒絶される痛みがあんなに大きいものだとは思っていなかった。
 ――こんな世界いらない。
 そう呟いて、自分や百夜に背を向けた来羅は、たしかに二千年前とは違うのかもしれない。何一つ、何一つ変わっていないと思えた少女の中で、もっとも大事なものはいつの間にか自分たちではなくなっていた。
 たった一人、友人である有本美沙を失ったことがこうも簡単にあの少女を変えてしまうのだったら、自分たちは何のために、全てを捨てて、二千年という途方もない時を越えてここまでやって来たのだろう。
 考えれば考えるほど思考は深淵へ向かっていって、浮上するための足がかりはどこを見回しても見つからない。
 頭を抱えこんできつく目を瞑った紅月の耳が、障子の開く音を拾った。かすかに顔を持ち上げれば、戸口にはひっそりと百夜が立っていた。
 もともと色白の肌が、今はより一層白く、もっと言えば青い。抜けるような青白い肌は綺麗というより悲愴だった。
 百夜は部屋の中を一通り見渡してから、何も言わず紅月の隣へ腰を下ろした。声をかけようと口を開きかけた紅月だったが、かけるべき言葉など一つも思いつかず、結局ふたたび口を閉じる。
 開かれた戸の向こうからほんのり風が流れ込んでくる。昨日降った雨のおかげで空気はことさらに澄んでいる。
 空はこんなに穏やかで、風もこんなに優しくて、世界中が幸せそうにしているというのに、

 来羅がいない。

 来羅がいない。その空白をもっともよく百夜の表情が表していた。百夜は彼女を引き止めることができなかった自分のことを誰より責めている。
 世界に裁定を下すその時に、ただ傍にいて欲しいと願っていた少女が、自ら他の人間の手を取った。
「人になれない……って」
 突然、百夜が呟く。独り言のように、かすれた声で。
「人になれないって、言ったんだ」
「来羅が?」
「普通になりたいって……今の、居場所を失いたくないって……言って、泣いてた」
 ともすると泣き声のように聞こえる声に紅月は注意して耳を傾けていた。気を抜けば、力ない言葉は風の音に紛れて消えてしまいそうだったから。
「俺は、そのままでいいって言ったんだ。ありのままの君でいいって……。でも、」
 声が詰まる。膝にうずめた顔は、きっと歪んでいる。
「でも、問題はそういうことじゃなくて、来羅は、きっと、ずっと、独りだったんだ。人になりたくて、なれなくて。人に囲まれれば囲まれるほど、にぎやかで楽しいところにいればいるほど、彼女は独りになっていったんだ。人になりたいって願えば願うだけ、人には絶対なれない自分を自覚するだけで……。友だちができれば、嫌われたくなくて、失うのが怖いからひどく臆病になってた。俺や、紅月や、砂に霧生は、力はあってもやっぱり人間で……」
 そこまで言って、百夜はふと思いついたように顔を上げた。
「一緒に、狂ってあげればよかった。一緒に、どこまででも狂ってあげればよかったんだ」
「百夜?」
「そのままでいい、なんて。……貧乏な奴に、金持ちの奴が『そのままでいい』って傲慢に言ってるのと同じだよ。本当に相手が好きで一緒にいたいなら、持ってる金を全部捨てて、一緒に貧乏になってやればよかったんだ。俺は、そうはならなかった。だから、来羅は、火照を選んだんだ」
 百夜の声はこの上なく真剣だったが、最後の喩えがいかにも彼らしくなんだか間が抜けていて、紅月は音を立てずにかすかに笑った。
 事態は深刻だ。が、不思議とどうにかなるような気がした。立ち上がって、紅月は凝り固まった体をゆっくり伸ばしていく。手を組み合わせ大きく前に出しながら、彼は言った。

「よし、じゃあ、あいつに付き合って、みんなで狂ってやるか」

 そうすることで、来羅が孤独から救われるというのなら、自分の理性や正義感を捨てることなど、少しも惜しくはなかったのだ。






 少女は昏々と眠りつづけていた。
 窓から差し込む淡い柔らかな光が、少女の眠っている白いベッドに反射している。その傍らには黒い髪の少年がいて、椅子の背に頬杖をつきながら少女の寝顔を穏やかに見つめていた。
 それは、この世の慈愛の全てをつめこんだような幸せな情景だった。
 何も知らない者が見たらその微笑ましさに思わず口元をほころばせるような。
 だが、この一枚の絵画を完成させるために払われた犠牲を知っている楓と茨は、どうしても素直に「良かった」とは思えなかった。
 二人は隣の部屋からその様子を黙ってじっと眺めていたが、ふと、一瞬のあいだ視線を交わしあった。二人にはそれだけで十分だった。互いの気持ちを知るのに、それ以上の手段は必要なかった。
 ほとんど双子のように育てられたせいで、二人のあいだの感情の境界線はひどく曖昧で不確かだ。そのおかげで中学、高校自分はよくからかわれた。
 だが、どれだけからかわれていても不思議と腹の立つことはなく、同級生の嫉妬の交じったからかいをさらりとかわしているうちに、二人は「そういう関係」なのだというのが周囲にも事実として認識され、やがて誰も騒がなくなった。
 だから、この時も、言葉はなくとも互いの想いが一致していることは十分よく分かっていた。
 火照には幸せになって欲しい。誰よりも。何よりも。
 それは揺るぐことはない一等大切な願いだった。だが、そのために有本美沙を利用するのは二人とも反対だった。
 自分たちに牙を剥く者を排除するのは今さら何のためらいもない。対峙するときは、お互い自分の命を賭けているからだ。戦いのなかで生死は平等に訪れ得る。
 だけど、有本美沙は別だった。
 彼女は広大な盤面上で火照と相対していたわけではなかった。たしかに盤上にはいたものの、その位置は遥か後方で、しかも敵意があったとは言いがたい。ただ、裁定者である来羅の傍に配置された存在だった。
 あの教室という狭い世界の中で、それなりに、来羅の友人として、火照とも仲良くやっていたはずだ。
 有本美沙という一人の少女の死について悲しみや同情は楓も茨もはっきり言って感じていなかった。
 感じているのは、火照に対する焦燥感だ。本来、優しいはずのこの少年が、いくら来羅を手に入れるためとはいえ、罪のない少女を殺してしまった。それが、火照の中の何かを壊してしまったのではないか、と。
 辛うじてこちら側に踏みとどまっていた彼が、とうとう自分たちの手の届かないところへ一歩踏み出してしまったのではないか、と。
 胸に押しかかってくる重たい塊をはっきり感じながらも、楓と茨はじっと穏やかな少年の横顔を眺めていた。

「なあ」

 呼びかけは突然だったが、あまりにも自然に発せられたせいで楓も茨も少しも驚かなかった。「なに」と聞き返した茨の声だけが、不自然に掠れていた。
「この世界は汚れきってる。世界は破滅に向かってる。人と世界を最初から創り変えるしかないところまで、世界は疲弊している。そうだろ? ……ああ、むしろ、今度創るときは人を世界の中心におかないほうがいいかもな」
 そう言って、少年は楽しそうに笑みをこぼす。
 まるで砂場にある膨大な砂で、次は何をつくろうか考えている子どものように。無垢で、純粋な笑みだった。
 握った楓の手に、汗が滲む。

「争わない。憎まない。妬まない。孤独も、絶望もない、ただ、ひたすらに優しい世界を……君と一緒に、ねえ、来羅?」






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