さっきまで縮こまるようにして幼馴染の少女を見守っていた杉田祥平は、砂と霧生に半ば支えられながら帰っていった。
もともと、砂が有本家の様子を見るついでに杉田を送っていく、と言い出したのだが、大雑把な彼女に杉田を任せるのは不安だったのか、霧生が自分も付いていくと言ったのだ。
有本家の様子を見るといっても、彼女の現状を伝えることはできない。そもそも説明のしようがなかった。
「時が止まっている」ということをどう言えばいいのか。
病院に連れて行くこともできない。医者に見せても意味がない。手の施しようがない。
自分たちに関わったせいでこんな目に遭わせた。その事実は認めていた。責めを受ける覚悟はできていた。だが、この状態の美沙を一般人に会わせることはできなかった。
もし、美沙の時が停止したままだとしたら。
すっかり老いた杉田が、少女のままの美沙の寝顔を見つめている図を、紅月はぶんぶんと頭を振って追い出した。
「なにしてるの?」
「…………百夜」
「昨日から、寝てないでしょ。僕が見てるからちょっと寝てきたら?」
「……お前、一人称戻ってる」
「え?」
「『俺』じゃなくて『僕』って言っただろ」
「あ」と短く声を上げて、百夜は自分の口を押さえた。
「良いんじゃねえの? そっちのがお前には合ってるよ」
紅月はかすかに笑いながら言った。
もともと、百夜は自分のことを「僕」とずっと言っていた。それが、突然ある日、無理して「俺」に変えたのだ。来羅と出会ってしばらくしてからのことだった。
思えばあのころから百夜は来羅のことが好きだったのだろう。
紅月よりは年上だが、それでも一族のなかでは「子ども」と見なされる己を少しでも大人に見せようとして、百夜は一人称を「俺」に変えた。
あまりにも滑稽で、些細で、つまらない意地だったが、それを紅月は笑い飛ばすことはできなかった。どうしてもできなかったのを、覚えている。傍目には滑稽に思えるであろう感情を同じく抱いていたからだ。
大人になりたかった。
守りたいものを確実に守れるだけの強さが欲しかった。
力を手に入れ、強くなったと思った。守れると思った。
なのに、「それ」は手の中からすり抜けていってしまった。ちっぽけなプライドが脆く崩れてしまった。
だから、百夜は、無意識に自分のことを「僕」と呼んでしまったのだろう。
「俺は、そっちのがお前らしくていいと思うけど」
「前は、子どもっぽいって笑われた覚えがあるけど」
「……そのときは、俺も子どもだったんだよ」
言われてみればそんなことも言ったかも知れない。百夜と出会ったころは、思い出すのも嫌なくらい生意気な子どもだった。
子どもであることを良しとせず、一刻も早くそんな自分から脱出したくて、逆に泥臭いまでに子どもだった自分。ありったけの力を振り絞って背伸びしている様は、さぞかし滑稽に見えたろう。
紅月はため息をつきながら、戸口に立ったままの百夜をふり仰いだ。彼だって、寝ていないはずだ。
空は濃紺に染まり、夜へ向かう準備を着々と進めているが、さっき話してからそんなに時間は経っていない。
「俺は、まだいい。お前、先に寝て来いよ」
「僕はさっきちょっと寝たんだ。紅月、本当に休んだほうがいい。君、自分がどんだけ酷い顔してるか知らないでしょ」
「……いや、でも――」
「休んだほうがいいですよ」
急に割り込んだ声に驚いて周囲に視線を走らせた。
辺りは闇に沈み込んでいて、その姿を見つけるのに時間がかかった。一段下がった中庭に、水寺誠の姿があった。彼は驚く紅月に微笑する。
「私は先ほどからこの辺りにいましたよ。……休んだほうがいいのでは?」
「……そう、みたいですね」
紅月は苦いものを飲み込むように返事をした。
水寺は言外に、「自分の気配にも気づけないようでは起きていてもしょうがない」と言っているのだ。百夜はちゃんと水寺に気づいていた。
なおもその場を動けずにいた紅月に、水寺は柔らかく微笑んでみせる。
「そんなに心配なら、この部屋に布団を引かせましょうか」
「ばっ……、あ、いや……女子のいる部屋に一緒に寝るわけにはいきません。……寝てきます。百夜、頼んだ」
「うん。何かあったら呼びに行く」
「ああ。じゃあな」
紅月は去り際、水寺に小さく会釈してからその場を離れた。
水寺が縁側に腰を下ろす。風は冷たかった。
時の止まっている美沙には影響はないだろうが、心情的に、百夜は彼女の寝ている部屋の障子を全て閉めた。そして、水寺の隣に座る。
「さっきは、助かりました。俺が言っても、紅月はきかなかったでしょうから」
「彼、かわいいですね」
「それ、紅月には言わないほうがいいですよ。めちゃくちゃ拗ねるので」
水寺は少し笑ったあと、静かに口を開いた。
「この辺りに、我々以外の人の気配は?」
「……しません、けど」
「火徳が、動いています」
思いのほか厳しい声音だった。
「裁定者……来羅さんの失踪は伝えないほうが良かったかも知れません。どこにいようと、なにがあろうと、彼女が来たるべきときに裁定を下すのは決定事項です。彼女が姿を消したところで、それは覆らない。火徳信司の取り乱しようは異様です」
水寺は一度細く息を吐き出すと、目線をどこか遠くへ向けた。
「我々は、この先の未来を、少しも心配していませんでした」
唐突に、水寺は言った。
線の細い印象の彼は、霧生に似て無口だと砂が評していたが、どうやら間違いらしい。
「来羅さんが裁定によってこの世界を終わりにするほうを選択するとは、微塵も考えてはいなかった。……あなたたちを未来へ送ったあとの彼女を一族がふたたび発見するのは至難の業でした。発見して、気づかれないよう、見失わないようずっと見守って……いや、監視していたと言ったほうがいいですね。……そこで得られた数々の情報から考えて、彼女はこの世界を愛しているように思えた。心底愛している一方で、ちゃんと距離を置いていた。一歩離れたところから、慈愛に満ちたまなざしを我々人間に注いでいるように見えた。……見えたんです」
百夜は何も言わなかった。彼も、考えていたことは同じだった。
「裁定」とはいっても、ただの通過儀礼のようなものだと甘く見ていた。来羅が、この世界を捨てるという選択をするとは思わなかったから。
「彼女が、人間ではないということを忘れていました」
「来羅は……」
「彼女は我々がどうこうできる存在ではなかった。そんなことを考えること自体、おこがましいことだった」
四当主たちには「来羅が失踪した」とだけしか伝えていないはずだった。だが、水寺は何か気づいているような気配を漂わせている。百夜は心の中で砂や霧生に断ってから口を開いた。
「来羅は、ただ姿を消したわけではありませんでした。自分の意思で、ある少年の手を取ったんです。俺は、止められませんでした。俺のせいなんです」
気づくと空はとうに黒くなっていた。
月明かりで、庭の木や花がかすかに稜線を浮かび上がらせている。
水寺は長く黙っていたが、不思議と気詰まりは感じなかった。
やがて、虫の音が二人をすっかり包んでしまったころ、水寺は百夜に応えた。
「少年の名を?」
「火照、……光陰火照、と名乗っていました」
「一緒に、二十代後半の男女がいませんでしたか?」
「知ってるんですか? 彼らのこと」
「……知って、います」
重ねて問いたい気持ちを抑えて、百夜は水寺の言葉を待った。百夜が見守る先で水寺の当主はふらりと立ち上がると、下駄を鳴らして庭の飛び石を踏んだ。
「火徳信司は、私が気づいたころには、すでに危険で得体の知れない人間になっていました。彼は驚くほど貪欲で、執念深く、一度手に入れたものは手放さない。……彼は、来羅さんをこの屋敷に迎えたとき、『やっと手に入れた』と呟きました」
浅葱色の着物の背中を、軽く束ねられた髪が無造作に流れている。その背に漂う、隠された感情の波。平静を装った男から発せられる緊張を感じとりながら、百夜は自分も立ち上がる。
「だから、私は、あなたたちが来羅さんの失踪を伝えたとき、火徳が激昂したのを密かに喜びました。……ああ、彼の手に裁定者が落ちたのではないのか、と。そう確信したからです。百夜さん、光陰家と火徳信司は裏でつながっているはずでした。そして、火照という少年の傍にいる若い男女。彼らは光陰家の者のはずです。来羅さんが、その少年のところにいるのだったら、火徳はあんなに取り乱したりはしなかったはずだ」
「つまり、火照は火徳を裏切った。もしくは、光陰家が火徳を裏切った。ということですか?」
「分かりませんが。私は、他の誰が裁定者を連れて行こうと、火徳信司の手に落ちるよりはましだと思います」
きっぱりと言ってのけてから、水寺は静かに息を吐き出した。そうして何度か確認するように深呼吸をくり返したあと、百夜のほうへ向き直った。
「百夜さん、火徳信司は――」
「静かに」
百夜の制止の声は束の間置いてけぼりのように宙に漂っていたが、水寺が聞き返すより早く廊下の向こうから人の来る気配がした。足音はほとんどしなかったが、古い屋敷のせいで床のきしむ音だけは消せはしない。
二人のいる縁側へ姿を現したのは火徳家の家事一切を取り仕切っている茜という女だった。
美しい女だが、その美しさは雪像のような冷えきったものだ。姿を見とめたその一瞬で水寺が警戒を強めたのが、百夜にはよく分かった。
「水寺様、信司様がお呼びです」
「……信司さんが?」
あからさまに漂った不信感をかき消すように、水寺は百夜に苦笑する。失礼します、と一言残して廊下の奥へ消えていく水寺の背中を、百夜は無言で見送った。
このタイミングで火徳信司から水寺誠に声がかかる。
そのことに不安と不審を感じないわけではなかったが、紅月に任されたこの場を離れるわけにはいかないし、いくら火徳信司が危険な男だとしても屋敷内で他の当主に危害を加えるとも思えない。
だから程なくして廊下を駆けてくる騒々しい音を聞いたときも、百夜は少し顔を上げて姿を見とめただけだった。
駆けて来る女中が「水寺様が」と叫んだ瞬間、初めて体中に緊張が走る。
「水寺様がっ、そこの廊下で……」
「え、」
立ち上がりながら踏み出した足が一瞬迷う。
任された、紅月に、美沙のいるこの部屋を。
離れかけて留まった百夜の戸惑いを見抜いたように、女は蒼白な顔をしながらも毅然と背を正した。
「ここは、私が。美沙様が運ばれてきたとき、お世話を手伝わせていただきました」
女のその強い眼差しは、確かに昨日、美沙の世話をしてくれた女のものだった。その手に、頬に、赤い液体がべっとり付着している。目に、涙が溜まった。
「お早く! 水寺様が!!」
弾かれたように百夜は走り出した。女の指が指し示した廊下を急ぐ。平時なら灯っているはずの壁の明かりは総じて消えていた。暗闇の中で、感覚が研ぎ澄まされる。
――水寺様がっ、そこの廊下で。
彼女は、なぜ、自分のところへ真っ直ぐにやって来たのか。
胸に湧いた不安の種は一気に膨れ上がった。そして気づいたとき、百夜はその体を反転させていた。来た道を、行きを上回る速さで引き返す。
視界に入った障子を乱暴に開け放った。
「――っ、くそ!」
部屋の中に美沙はいなかった。あの女の姿もない。急速に冷えていく指先を障子から引きはがし紅月の元へ向かう。屋敷は広大だ。二手に分かれて探したほうがいい。
そう考えて近くの部屋で眠っていた紅月を起こしにかかるが、様子が変だった。いつもなら軽く名前を呼んだだけで目を覚ます彼なのに、いくら揺さぶっても少年はぴくりとも動かない。
百夜の目が、畳に転がった湯飲みを捉える。
瞬時に薬を盛られた可能性に気づいて、慌てて心臓に耳を寄せた。
「……良かった」
紅月は眠っているだけだ。
安堵に浸っている暇はなかった。百夜は少年を横たえて部屋を後にする。
美沙を見つけなくてはならない。なんとしてでも。水寺の安否も気になるが、今はこの静まり返った屋敷に確実に味方と言えるのは自分しかいなかった。優先順位を決めるしかない。
部屋から消えた有本美沙の姿を求めて、百夜は火徳の屋敷へ向かって駆け出した。
覚醒は密やかだった。
明かりを消した部屋の中、窓から差し込む月明かりが、今しがた目を覚ました少女の頬を青白く染めた。
少年は優しく微笑むと、目覚めたばかりの少女のまぶたに口付ける。
「おはよう、来羅」
呼ばれた少女は、まだぼんやりと焦点の定まっていない瞳で傍らの少年を見上げた。
それさえも愛おしいとでもいうように、少年は口元の笑みをさらに深くする。
「おはよう。待っていたんだ、ずっと」
少年はゆっくりと手を伸ばして、少女の髪の毛を梳いてやる。額にかかった髪をよけて、そこへふたたび唇を寄せた。
「ずっと、君が戻ってくるのを、待っていた」
聞いているのかいないのか、少女はされるがままにしていたが、目だけは少年に向けている。
「二千年以上……、ずっと」
少年の頬を、一滴の涙が濡らす。
愛しさで押しつぶされそうになりながら、少年は何度も「待っていた」とくり返した。