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 砂と霧生が屋敷へ戻ってきたとき、そこはほんの一時間前とは打って変わって混乱の真っ只中にあった。
 頭で考えるより先にまず手が出るあの砂でさえ、一瞬動きを止めて、門に掛かった表札を確かめた。四つの苗字がやはり変わらず堂々と掛かっている。
 門の中では何人もの人間が入り乱れ走り回って、断続的に小さな叫び声や怒鳴り声があたりに響き渡っている。
「なにがあったのよ……」
「行くぞ」
 呆然と呟いた砂を、霧生の一言が突き動かす。
 走り出した二人の目的地は一緒だった。有本美沙が眠っているはずの、百夜と紅月がいる部屋だ。
 途中何度も人にぶつかったが、だれもかれも自分のことで頭が一杯なのか二人に構う者はいない。暗闇の中だったが、身につけている着物の色から判断するに、ほとんどが水寺と風間の屋敷の人間だ。
 すれ違う人間に状況を訊ねる時間も惜しくて、砂は勢い込んで目当ての部屋へ飛び込んだ。
「いない! 百夜っ、紅月!」
 部屋の中を一べつして視線を転じると、砂は大声で名を呼びながら隣の部屋の戸を開け放していく。三つ目の戸を開けたところで、砂は目に入った男を蹴り飛ばした。
 男は抱え上げていた紅月を畳に投げ出して、自身は部屋の壁に打ち付けられて気を失った。
「紅月! ちょっと、しっかりしなさいよ!」
 床に倒れる直前の紅月の体を霧生が抱えた。
 そのまま二三度頬を叩き呼びかけるが、紅月の体に反応はない。霧生の眉間に皺が寄る。
「起きないな。なにか盛られたか。……状況が分からん、その男を起こせ、砂」
 霧生は砂が蹴り飛ばした男をあごで指し示す。
「……力、入れすぎた」
「…………だからいつも加減をしろと」
「うるさいわね。ちょっと紅月かして」
 言うなり、砂は霧生の腕からかたく目を閉じた少年を引きずり出す。
「紅月っ、紅月! 起きなさいってば! ちょっと……起きろっつってんのよ!!」
 霧生が止める間もなく、次の瞬間、砂の張り手が少年の頬に飛んだ。
 見る間にその頬は赤くなったが、少年の反応はしごく鈍かった。瞳は薄く開かれたが、名を呼ぶ声に返す反応は緩慢だ。
「紅月、なにがあったの!? 美沙ちゃんいないわよ!? 百夜も!」
「え……なにが、百夜は……有本、水寺の、当主が……」
「しっかりしなさいよ!」
 砂の大声もこれ以上は効果はなかった。諦めて百夜と美沙を探すために部屋を出る。霧生が無言で紅月を抱え上げた。
 背中でぼんやりとした紅月の声が聞こえる。覚醒するため、懸命に睡魔と戦っているのは分かるが、盛られた薬はよほど強力だったようだ。
 意地でも自分で歩こうとするはずの少年が大人しく霧生の肩に抱えられている。

 先を急ぐ砂は障害となる壁や戸を力任せに打ち壊している。
 物だけでなく、ぶつかりそうになった人も突き飛ばしている砂を、止めるだけの余裕が今の霧生にもなかった。
 屋敷をぶった切るように進んでいた砂が、ふと足を止めて目を見開いた。開いた口から、名前がこぼれる。
「百夜……」
 火徳の屋敷へと続く中庭に百夜が倒れていた。その体からは血が流れ、地面を赤黒く染めている。傍の草に跳ねた血が、葉をつたって流れていた。
「百夜っ、百夜! あんた、一体……」
 傷を確かめようとした砂の手を、百夜がしっかり握った。苦しそうに見開いた瞳を砂に向けると、彼は言った。
「僕は、大丈夫。血は流れたけど、傷は浅い。それより、有本さんが、連れていかれた。火徳信司だ。彼のとこの、茜さんが、連れてった。追って……早く!」
 わずかに頷いて、砂は火徳の屋敷へ向かって駆け出した。それを見送った百夜は、霧生に助け起こされながら座り込んでいる紅月に目を向けた。
「紅月、ごめん。ごめん、守れなくて、任されたのに」
「いや、俺も……」
 紅月はくしゃりと前髪をかき上げた。必死におきようとして、肩に爪を食い込ませている。そこから視線を転じて、百夜は言った。
「霧生、水寺さんが、もしかしたら危ないかもしれない。火徳信司に呼ばれて行ったんだ。状況が分からない。彼は何か知ってるはず。行って、僕は戦える」
「紅月はまだ動けないぞ」
「大丈夫」
「お前も、見たところ立てそうにない」
「大丈夫。頭ははっきりしてる。力は使える。……行って」
「分かった。任せる」
 一度じっと百夜を見つめたあと、霧生もその場を後にした。
 二人きりになると、紅月の少し荒い息遣いは間近に聞こえた。遠くに、人の足音が響き渡っていたが、その足音も火徳の屋敷周りにまでは近づいては来ない。喧騒は遥か彼方で起きているような、そんな現実感の希薄さが百夜を不安にさせた。
 致命傷を避けてつけられた脇腹の傷。そこから流れた血が、火徳の自分に対する殺意を物語っていた。
 紅月は薬で眠らされていただけだが、百夜は殺される一歩手前だった。百夜が死ねば、新しく、火徳家の誰かが火の力を手にするのだ。百夜だけは、火徳にとって死んだほうが好都合なのだ。
 屋敷に来たときから百夜たちの世話の一端を担っていた火徳家の茜。
 美沙を軽々と抱えて廊下を走っていた彼女は、追いついた百夜に少しも戸惑わなかった。迷わず美沙の命を盾にした彼女の目は、火徳信司と同じ狂気を宿していた。





 水寺誠がどこにいるか、霧生にはなんとなく分かっていた。
 何か引き合うものがあるのだろうか。足が勝手にある一点へ向かっていき、そこに霧生の意思は存在しなかった。抗いがたい力に身を任せて霧生は走る。
 水寺誠とは、たいして言葉を交わしたこともない。お互い無口だというのも手伝って、必要最低限の意思の疎通しか交わした覚えはなかった。だが、なにか通じ合うものはあったように思う。
 引っ張られるように廊下を走っていた霧生の目に、今まさに絶命の危機に晒されている水寺が映った。
 闇が溜まった廊下の奥まったところに水寺は座り込んでいて、彼の前には凶器の刃物を握った男が立っていた。その足が水寺の肩を壁に縫い付けている。
 霧生は無言で男の隣に近づくと有無を言わさぬ力で彼を床に叩き潰した。弾け飛んだ刃物を足で蹴りやり、倒れている水寺の腕を強く引っ張る。
「怪我は」
「……少々。しかし、心配してもらうほどのものではありません」
 彼らは視線を交わす。水寺は微笑さえ浮かべているような表情で霧生を見ていた。
「私が襲われたということは、風間さんや土方さんにも同じように刺客が向かっているでしょう」
「助けに?」
「いえ、あの人たちは私ほど弱くはありませんから。自分の身は自分で守るでしょう。こういう事態が起こりうるということは、彼らも予測していたはずです」
 私も予測していたはずなんですが、と水寺は情けなさそうに笑う。
 霧生は水寺の腕を放し、元来た道を引き返し始める。
「これからどうしますか」
 後ろを歩く水寺に訊ねた。少しの間のあと、相変わらず穏やかな声が返ってくる。
「一旦この屋敷を捨てます。避難経路は風間さんが、場所は土方さんが確保しているはずです。……私は諜報を担当していました」
「動いていたのですか」
「ええ。とにかく、あなた方も一緒に避難しましょう。私たちの知っていることも、落ち着いたら全て話します」
 知っていること、という言葉を霧生は口の中でくり返した。
 どこか深刻そうな響きを帯びたその言葉は、霧生の胸に小さな棘を残していった。





「ああ、まだ多分熱いよ。お前、猫舌だろう?」
 火照は笑いながら来羅の手をそっと押さえた。手に握られたスプーンの上では、粥が白い湯気を立てている。
「もう少し冷ませよ。腹が減ってるのは分かるけど」
「…………うん」
 ぼんやりとした様子で来羅は頷く。
 ベッドの上で上半身だけ起こした彼女は、傍らの椅子に腰掛けた火照を見つめる。
「なに?」
 少女の視線を受けて、彼は嬉しそうに口元を綻ばせた。
「なんでも、ない……」
 対する少女は無表情だ。置かれている状況が分からないとでもいうように、どこか不思議そうな目で少年を見つめている。そんな彼女を見て、火照は懐かしそうに言った。
「まるで、出会った頃のお前みたいだ。大丈夫、そのうち分かるようになるさ」
 何が、と少女が尋ねるより早く、部屋の戸が開かれた。先に入ってきたのは茨だった。その後ろに、楓が続く。
「火照、火徳信司が先走って動いたわ。どうも光陰家の方に何の連絡もなしで勝手に動いたみたい。彼らの屋敷は今混乱状態よ」
「……光陰の動きは?」
「まだ何も」
「この造反がどういう結果になるか様子を見てるのか。失敗すれば、火徳信司はいい笑い者だな」
「おい火照、いい加減ここも引き払わねえとやばいぜ」
「分かってる」
 口を挟んできた楓を一べつして、火照は来羅をふり返った。
 今の会話の内容を分かっているのかいないのか、来羅は相変わらず無表情で虚空の一点を見つめている。もう、動いても平気なはずだが、その存在の希薄さがどうしても火照を心配にさせた。もう一日このまま休んだほうがいいのではないか、そう思った矢先、玄関のチャイムが甲高い音を立てる。
「……来客、だな」
 火照は立ち上がり、来羅の手の中のお椀とスプーンを取り上げる。脇に置いてあったお盆にそれらを戻してしまうと、彼女に手を貸し床に立たせた。
「楓、玄関から来羅と俺の靴を持って来い。茨は適当に客の相手してろ」
 無言のまま、しかしどこか緊張した様子で二人は部屋を後にする。その後ろ姿を見送りながら、火照は来羅に自分の上着を着せてやる。
「ちょっとうるさくなるけど、すぐ済むから」
 上着のボタンを上まで留めたころには、楓が二足の靴を抱えて戻ってきた。今度は来羅にその靴を履かせてやる。居間からは、茨がインターホンで客の相手をしている声が聞こえてくる。
「何人だ?」
「さあ。茨が相手してるから分かんねえ。お前らはこの部屋にいろよ」
 楓はそう言い残して居間へ戻っていった。その後ろ姿が、どこか弾んでいる。
 火照は来羅に向き直ってかすかに首を傾げて微笑んだ。
「大丈夫だから」
「…………うん」
 理解しているのかいないのか、よく分からない表情で少女は頷いた。
 次の瞬間、玄関のドアが勢いよく部屋の内側に飛んできた。轟音が響き渡るとともに部屋の中を煙が満たす。ほんの少し先も見えないという状況に陥っても、少年は少しも慌てなかった。
「俺の後ろにいて。そう、壁際に。楓と茨に任せとけば平気だとは思うけど、もしここまで来たら俺が何とかするから、来羅は声を出さないで」
 そう言って、来羅の手を火照は握る。
 壊されたドアから流入してきたのは煙だけではなかった。煙に混じって武装した黒い人影が現れる。直後、くぐもった音がして人影が倒れた。
「おい、火照。もっと奥行ってろ。んで、ドア閉めとけ。……ああくそっ、煙が目に沁みる」
 楓の声が白煙の向こうから飛んできた。
 火照はそれには答えずに、無言のまま来羅の手を放してドアを閉めに行く。そのまま窓を開けて換気した。
「歯が立たないの分かってて、よくやるよ。あいつらも」
 マンションの防火設備は、これだけ煙が出ているというのに沈黙を守っている。他の部屋からも叫び声一つしない。寝室の煙を全て外へ逃がしてしまうと火照はそのまま窓に寄りかかった。伏目がちの目に睫毛がかかる。
「お前、ちゃんと起きてる? それともまだ半分寝てる?」
 部屋の外では激しくぶつかり合う物音がしている。ほとんど声は聞こえないだけに、不気味だった。

「なあ来羅、お前……どっちの来羅だ?」

 射抜くような瞳で見つめられて、来羅は目覚めてから初めて火照の視線を正面から受け止めた。
 少女の黒目に一瞬光が宿った気がした。が、瞬きの間にその光は失われ、視線は火照の頬をかすめて窓の外へ向けられてしまった。
 火照の口元に寂しげな微笑が広がった瞬間だった。彼の背後の窓の外に黒い人影が突如現れた。殴られて前のめりに倒れた彼の後から黒い人影が飛び込んでくる。
「……っ、来羅! 伏せろ!」
 少女に向けて伸ばされた男の手に、火照の手が伸びる。その手にはどこから出したのか、細身のナイフが握られていた。が、鋭利な先端が届くより先に、男はその体を仰け反らせていた。
 火照の頬に、鮮血が飛ぶ。
 彼の目の前で、男の体が千切れて飛び散った。
 白かった壁が赤く染まる。人間だったはずの体が床に当たって鈍い音を立てた。
 倒れた男の向こうでは、少女が片手を掲げていた。その黒い瞳が火照を通り越して窓の外を捉える。
 かすかな風が火照の頬を撫でて行ったかと思うと、窓枠に手をかけていたもう一人の男を斬りつけた。男は手首から先を窓枠に残したまま、姿を消した。
 今しがた起きたことがすぐには信じられずに、火照はもう一度床に散らばった男を見てから、窓枠の手を確かめる。その全てが、目の前の少女が引き起こしたことだとやっと認識するや否や、心底嬉しそうに口元をほころばせた。
「目が覚めた?」
 振り返ると、既に少女は手を下ろしていたが、その目にはちゃんと生気が宿っていた。
「……なんだか、長い夢を見ていた気分」
「そうだよ。多分、ずっとお前は夢を見ていたんだ」
 火照は歩み寄って少女の頬についていた血を拭ってやる。
「俺が、本当のお前を思い出させてやるから。大丈夫だ。何もかも上手くいくよ」
 少女は微笑んだ。
 彼がいれば、他のことは全て上手くいくのが分かっていたのだ。
「なんだか、私、あなたのことずっと前から知っている気がするの」
「…………うん。うん、俺はずっと待ってた。ずっと待ってた。待ってるから、思い出して……来羅」
「ねえ、泣かないで。泣かないで、火照」
 少年は泣きながら少女を抱きしめた。
 少女はためらうことなく少年をきつく抱きしめ返した。






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