楓は笑っていた。
至極楽しそうに笑っていた。
実際彼は今、このときを心底から楽しんでいたのだ。
彼の拳が面白いほど正確に相手の眉間に吸い込まれていく。装着されていたゴーグルが音を立ててひび割れて、男はそのまま床に打ちつけられる。割れたゴーグルの破片が辺りに飛び散ったが、すでに楓の視線は次なる敵を求めて白煙を睨みつけていた。
やはり、ゲームよりも実戦のほうが何倍も面白い。
楓は絶え間なく体を動かしながらそう結論付けた。
相手がいない時は格闘ゲームで自らの欲求を満たすのが彼の常だったが、こうして実際に向かってくる相手を、それも少しは手ごたえのある相手を打ちのめす喜びには代えがたい。
左後方、ちょうど居間から外へ通ずる窓の辺りでは、茨のかすかな舌打ちが聞こえる。これだけの喧騒の中にあっても、楓は茨の声だけはどういうわけか聞き取ることができた。幼馴染とは恐ろしいものである。
とりあえずその場にいた最後の敵を撃ち伏せてしまうと、楓はふり返って寝室のドアを開けた。部屋には冷たい空気が充満していて、開け放された窓目がけて居間の煙が流れていく。
彼がドアを開けたときには、火照は既に泣いてはいなかった。ほんの少し赤く染まった目元は当然のごとく煙のせいだと思い、楓はとくに指摘することもなかった。
「おい、行くぞ」
「分かった。来羅、行こう」
「うん」
間髪入れず返ってきた少女の声に、楓はわずかに眉を持ち上げる。
「目ぇ覚めたのか?」
「ああ、もう大丈夫だ。今すぐここを離れよう」
来羅が答えるより先に火照が言った。その手で少女を引っ張って寝室を後にする。ふり返ることなく玄関まで歩いていく彼の背中に、この家に対する執着は存在しなかった。
楓も煙をかき分けて後を追う。茨の気配がすぐ後ろに続いた。
「起きたみたいだぜ」
「良かったわ。あのままじゃあ逃げ切れるかどうか心配だったもの」
「……起きたみたいだが、どうも……」
「何よ」
「いや……何でもねえ」
楓は自分の中の違和感を言葉にすることができなかった。歯切れの悪い言葉に、茨がもの問いたげに眉を持ち上げる。その視線に瞬き一つで応えた。
何が、と問われればどうと答えることなどできない。
だが、目の前を火照に手を引かれ走っていく少女の背中。その背中が、昨日まで、いやつい先程までの彼女とはどこか違うような気がして、そのわずかな違和感が楓の胸をざわつかせていた。
来羅という少女について楓が知っていることは少なかった。
そのほとんど全てが火照からもたらされた情報に過ぎなかった。
そこから構成される来羅という一人の人間の形をした存在は、どこか間が抜けていて、温かく、気さくに人の輪の中に入っていけるような印象があった。
楓にとって彼女は害にはなり得なかった。
火照が愛している存在、火照が傍にと望んでいる存在、それでしかなかった。
裁定者などというご大層なものにはどうしても思えなかった。
それがどうしたことだろうか。今、自分は彼女を怖れている。
火照に手を引かれているだけのようで、その実、実際には彼女が火照を引きずり込んでいるような、そんな不穏な想像が楓の脳裏を掠めていく。
「大丈夫だ。大丈夫、あいつは、そんなに柔じゃない」
自分自身に言い聞かせるように一度呟いて、楓は走ることだけに専念した。
追っ手の気配は、まだ遥か遠くだ。
「大丈夫か? 来羅、辛かったら言えよ? そしたら少しペース落とすから」
「うん。大丈夫。……大丈夫」
本当は少し前から呼吸は乱れていた。
だが、自分一人のために調子を合わせてもらうことはとてもできなかった。
追っ手がこのまま自分たちを、自分を、見逃すはずがないのは来羅にもよく分かっていた。遠くないうちに追いつかれるはずだ。
数日眠ったままだった来羅の体が、動きなれている他の三人に追いつけるはずがないのだ。既に足手まといになっている自覚があった。足が重く、上がらない。地面に引っ張られているように感じる。
それでも握ったこの手が離されない限りは大丈夫だと思えた。
先を行く火照がしっかり握ってくれているこの手が、離されない限りは。
日が沈み、夜に彩られたビルとビルの間の細い道を、ただ、火照の背中だけを見ながら走っていく。そう広くない背中なのに、自分とさして変わらぬ身長なのに、なぜかその背中についていけば大丈夫だと確信できた。
懐かしい。
出会って日が浅いうちから、来羅は火照に懐かしさを感じていた。
始めのころはそれは違和感だった。
来羅には忘却という概念はない。身の回りで起こったことを忘れるということはありえなかった。長い年月を生きてきたが、その生きてきた分だけの記憶が、ちゃんと彼女の中にしまわれていた。
だから、過去に火照に出会っていれば必ず覚えているはずなのだ。
人間の都合のいい記憶のように忘れることはできない。
そのはずなのに、どういうわけか火照の記憶だけは来羅のなかに存在していなかった。二つの矛盾を解消する方法はただ一つ。
火照に会ったのが、来羅の記憶の始まるより前だということだ。
来羅の記憶が定かになったのは百夜と出会ったあの時からだ。それより以前の記憶はぼんやりと霞がかっていて、何一つ正確なことは覚えていなかった。
百夜がいたから、百夜のそのたった一言が、来羅をこの世界に繋ぎ止める糸だった。
彼が、裁定者の巫女としてではなく、来羅自身のことを聞いてくれたから。来羅自身のことを見てくれたから。
そんな百夜の手を、来羅は自分から離した。
手を、離してしまった。
紅月の制止も振り切って、何もかも捨てて、火照の手を取った。
後悔は?
していない。
これで良かったのだと、火照の背中を見ながらどこか確信していた。間違ってはいない。
なぜか分かった。これが正しいことなのだと。
――今度こそ。
今度こそ?
――今度こそ、この人の手を離さない。
誰の手を?
――火照の手を、もう離さない。二度と、離れ離れにはならない。
もう? 二度と?
「…………っ」
突如走った頭の痛みに、来羅は眉をしかめる。
自分では前へ進んでいるつもりが、気づくとその場で膝を折っていた。
振り返った火照が何か叫んでいる。聞こえない。音が全て遠のいていって、後に残ったのは無音の耳鳴り。
景色がぐるぐる回っている。
背中がコンクリートの地面につくより前に、火照が来羅の身体を抱きとめた。
前にも、こんな風に、手に手を取って逃げたことがあった。何かから、必死に逃げたことがあった。
目の前の少年を、愛しいと、何よりも愛しいと感じたことがあった。
思い出そうとするたびに、酷い耳鳴りと頭痛が来羅の身体を蹂躙していく。
思い出すな、と誰かが叫んでいる。
思い出して、と誰かがもう片方で叫んでいる。
双方とも、切実で悲痛な叫びだった。
二つの相反する声が心の中でせめぎあっている。どちらも選べない。選ぶことなどできない。
「やめてっ……やめて……お願い」
――これ以上、私の中で叫ばないで。
「――……か、大丈夫か!?」
――これ以上、私を責めないで。
「来羅っ、来羅!! しっかりしろ!」
「だい……じょうぶ、大丈夫……」
――大丈夫なんかじゃない。
「大丈夫だから」
――大丈夫じゃないわ。助けて。助けて火照。助けて。
頭の中で誰かが叫んでいる。力の限り。助けて欲しいと叫んでいる。
「……っ、楓、茨! 追いつかれた!」
火照が来羅を抱きかかえるようにして、敵の手から逃れさせた。二人の前に楓と茨が立ちふさがる。
自分が足手まといになっているのを分かっていながら、来羅は立ち上がることができなかった。体が重い。忘れていた記憶が怒涛のようにあふれ出して、来羅の身体を地に縫いとめている。
―― 一緒に逃げよう、来羅。
その記憶は、不意に蘇った。
モノクロだった記憶が鮮やかな色を取り戻す。あの時も、そうだ、月明かりに満ちた夜だった。
ビル明かりの代わりに満天の星空が、二人を照らし出していた。
――逃げよう。来羅、二人で。どこか遠くへ。ずっと遠くで、二人で暮らそう。
そう言って、手を取ってくれたのは……。
あの時、ただ一人自分を救ってくれようとしたのは。
――怖いの。どうしようもなく、怖いの。離れないで。離さないで、火照。
そう、火照だ。
一緒に逃げようと言ってくれたのは、最後まで手を離さないと言ってくれたのは、火照だった。
唯一の味方は、火照だった。
こぼれ出した記憶はとどまるところを知らなかった。激流のように流れ出して、来羅の意識ごとさらっていった。
今目の前で起こっていることさえ、来羅の視界には入らなかった。
楓と茨の二人の間をかいくぐって敵の手が伸びてくる。火照が、それを遮った。
やけに異様に、その情景が来羅の目に焼け付く。
過去、それが遮れなかったことがあったのではないだろうか。
過去、その手に捕まえられたことがあったのではないだろうか。
敵の手が伸びてきて、火照がそれを防げなくて、自分はその手に捕まって、引き戻されて、火照と自分は引き離されて。
もう二度と、もう二度と……会えなくて。
自分たちは、自分と火照の関係は、そうして無残に踏みにじられたのだ。
奴らに。
火照の腕の中で、少女はぐったりと力をなくした。
閉じられたまぶたの奥に、その黒い瞳が隠された。
彼は少女の名を呼びながら、迫ってくる追っ手を払いのけた。完全にこちらの不利だった。多勢に無勢だ。楓と茨も、数で攻められては十分な力を発揮できはしなかった。
狭い路地の両側から敵がなだれ込んできている。
「来羅……、来羅。もう二度と、君を手放したくないのに」
火照は抱えた少女の耳元で呟いた。
彼女は覚えていないだろうけれど、彼にとっては切実な思いだ。もう二度と離れたくない。離したくない。そのために、そのためだけに長い年月を孤独に生きてきたというのに。
もう一度離れ離れになるくらいならば、いっそここで自分たち二人の命を絶ってしまったほうが懸命に思えた。
どうせ二人で逃げられたとしても、目覚めたこの少女は、自分が求めたあの少女ではないのだ。
再会してから今まで、何度も何度も呼びかけてきた。「君は誰」と。
何度も何度も、呼び覚まそうとしてきたのだ。自分が求めたたった一人の女の子を。
だけど、彼女は目覚めてはくれなかった。
答えるのは自分が求めたあの少女ではない。変わってしまった、完全に別物となってしまった「来羅」という存在だった。
「…………来羅、俺はただ、君に、もう一度会いたかったんだ」
火照の肩を男たちが取り押さえる。
少し先で楓が何か怒鳴っているのが聞こえた。
もうどうでもいい。何もかも、どうでもよかった。
下らない。下らない世界だ。「来羅」のいない世界など、下らなさ過ぎて反吐が出る。
眠っている少女を男たちが抱きかかえるのを見て、火照の中にどす黒い感情が生まれた。諦めかけた意思が再び燃え上がった。
「触るな。来羅に、そいつに触るな!!」
掠れる声で怒鳴った瞬間だった。
かたく閉ざされていた少女の瞳が、すっと見開かれた。
「…………来羅?」
飛び交う喧騒の中で、火照は少女に呼びかける。
押さえつけてくる男の手を振り払おうと身をよじった。
「来羅? 大丈夫か!? ……っ、離せっ! 離せよ!!」
冷たい地面に顔を押し付けられ、すりむいた頬から血が滲む。
「来羅っ!!」
「火照、もう大丈夫だから、少し静かにしていて」
次の瞬間聞こえてきた声は、さっきまでの少女の声とはあまりにかけ離れていた。
柔らかく、どこか頼りない声ではなく、挑発的な響きさえ帯びた声だった。
だが、火照はその声に身に覚えがあった。
どうしようもないほど懐かしい。ずっと求めていた、ずっと聞きたかった声だった。
「来羅? おまえ、来羅か?」
「……何言ってるの? どうかした?」
言いながら、少女は自分を抱えていた男の手を押しのけた。いとも簡単に。
そうして自らの足で地面に立つと、取り押さえようとした男を睨みつける。
「汚い手で、私に触らないで」
目が合った男は身動きできないまま身体の内側から弾け飛んだ。降りかかった血の雨を浴びながら、少女は少し憐憫の笑みを浮かべる。
一歩、火照に近づいた。
彼を取り押さえていた男たちが、同様にして砕け散る。
呆然としていた火照に、来羅はそっと手を伸ばした。血に濡れたその手を、彼はしっかりと取った。
「こんな世界、要らない」
立ち上がった火照の目を覗き込んで、来羅は笑った。
「こんな世界要らない。私とあなたが幸せになれない世界なんか。ああ、本当に……会いたかった。会いたかったの、火照」
「俺も、俺も……おまえにずっと会いたかった」
やっと戻ってきたのだ。
もう間違えようがなかった。勘違いでもぬか喜びでもありはしない。
目の前の少女は、確かに火照がずっと探し求めてきた少女だった。たった一人の、彼の「来羅」だ。
あのまがい物の少女ではなく。
少女は火照をそっと抱き寄せた。その胸に少年は顔をうずめた。
彼女はそうしてあやすように火照を抱きしめたまま、笑いながら周囲の男たちを殺していった。
あの時の逃避行には足りなかったものが、今の自分にはある。あの時、火照と離れ離れにならなければならなかったのは、ひとえに、自分たちの力が足りなかったからだ。
とても長い年月がかかってしまったが、今なら、火照を守るだけの力がこの手にある。
もう二度と、この手を離しはしない。
もう二度と。
来羅は笑った。
頭の中で、かすかに叫び声が聞こえた。
こんなことはもうやめて、と。泣きながら叫んでいる声が聞こえたが、彼女はそれを黙殺した。
長い間、自分の声だってこうやって無視され続けてきたのだ。そう考えると罪悪感など残りはしなかった。
これからは、「自分」の時間なのだ。この身体も、この力も、自分のものだ。
「火照、愛しているわ」
そう、愛しているのは彼なのだ。百夜ではない。あの青年ではない。
あの青年を愛しているのは、今、彼女の中で泣き叫んでいるもう一人の「来羅」のほうなのだ。