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 昨日から続く鉛色の雲は、雨を降らすでもなく、どこへ行くでもなく、どんよりと見渡す限りの空を埋め尽くしていた。
「つまらない……」
 口の中で転がした呟きは、誰に聞かれることもなく冷え切った空気に混じって消える。
 縁側に腰掛け、少女は人気のない森をただじっと見つめていた。時折、小枝の折れる乾いた音が響いて、なにか動物が通り過ぎるのを彼女に知らせている。
 ぶらぶらと揺らしている両足は何もはいてはいなかった。素肌を冷たい風が撫でていくのも構わず、まるで誰かに命じられたかのようにひたすら少女は足を動かしていた。
 毎日、決められた時刻に二度やって来る給仕係以外には、この敷地に足を踏み入れる者はいない。広大な屋敷は山の中腹に埋もれるように建っていて、そこに生活しているのはこの少女たった一人だ。
 来る日も来る日も平坦で変わり映えのない日常が自分を待っているということに、最近の少女は気づき始めていた。
 給仕係は毎日違う者が務めていて、必要最低限のこと以外は口を聞こうとしなかった。
 この山を下りれば、平地に一族の里が広がっている。
 知ってはいたが、少女は自分が山を下りる姿を想像することさえできなかった。
 生まれてから死ぬまで、自分はこの屋敷の中で過ごすのだ。
 一生を、一族のために使うのだ。
 そのことに疑問を感じ始めたのはつい最近のことだ。給仕係の一人が思わずこぼした「つまらない」という言葉を耳にしてからだった。

 ――こんな山奥に一人で暮らすなんて、わたしだったらつまらなくてやってられないわ。

 それまで、「つまらない」などという言葉は知らなかった。謝り嫌がる給仕を問い詰めて、やっとその言葉の意味を知ったのだ。
「面白くないこと……つまらないこと」
 少女はもう一度、知りたての言葉を口の中で転がした。
 もう少し幼いころは、教育係が日に一度、日常的な物事や神に関する知識を彼女に教えてくれていたが、そんな言葉は聞いたことがなかった。
 もっと早く知っていたら、今の自分の状況が「つまらない」ものであると理解する手助けになっていただろう。里の物音も、この山の上までは届いてはこない。何をするでもなく、ただ無為にぼんやりと時を過ごすことを求められているのが、自分だ。
 名前はあっても、呼んでくれる人さえいない。
 神の声を聞き、神の依り代となりえる清廉な体を保つこと。ただそれだけが、自分に求められていることなのだ。
 それ以外に生きている意味などないのだ。
「つまらない」
 なんてつまらない一生だろう。
 まだ十になったばかりだというのに、少女のこの先の人生には何の光も見出せなかった。

 深く生い茂った木々の合間から零れ落ちてくる日の光が、夜の訪れを告げていた。日は落ちていないのに、鬱蒼とした森の中はすでに暗闇が這いよってきている。
 この時間帯にふらふらと外を出歩いてはいけないと、昔教育係の女に言われたことを少女は不意に思い出した。
 なぜ、と問い返した少女に、女は「よくないものに出会いますゆえ」と有無を言わさぬ口調で答えたのだ。
 夕暮れ時は「あちら」と「こちら」の境界線が曖昧になる。
 「あちら」側に迷い込んでしまったり、誘い込まれたりするのだと。
 どちらにしても、「こちら」側の世界よりはきっと面白いに違いない。
 今のつまらない生活に比べれば、どこだってきっと面白いはずだ。
「誘えるものなら、誘ってみなさい」
 少女は暗闇に向かって低く呟いた。
 次の瞬間だった。
 まるで呼びかけに答えるかのようなちょうどよさで、枝の踏みしだかれる音が闇に響いた。
 びくりと、少女の肩が震える。
 慣れきったはずの目の前の森が、急に見知らぬ世界に変わったようだった。挑発するようなことを言っておきながら、いざそれが現実になったとなると、自分が何の心の準備もしていないことが分かってしまった。
 少女は指の先まで凍らせたまま、じっと、闇の中に目を凝らした。
 ぱきり、と、また一つ枝が折れる音が響く。
 心臓がものすごい速さで脈打っていた。こんな経験は今までなかった。

 最初に目が捉えたのは裸足のつま先だった。
 それで、相手が獣の類ではないことが分かった。
 次に見えたのは傷だらけの腕と手。
 自分と同じくらいの、いやそれよりももっと痩せて細かった。
 最後に、一際異彩を放つ黒い大きな瞳が見えた。
 黒目の中に、赤い炎がちらついているような錯覚を覚えるほど、それほど力強く輝いている。
 少女は目の前に突如現れたその存在に、呼吸も忘れるほどに魅入っていた。
 それは暗闇の中から現れたかのように見えた。「あちら」側から、自分を誘いに来たのだ。
 自分と同じ人間だとは思えなかったが、手も足も目も髪もあるし、服も着ている。姿かたちは人間だ。
「…………あなた、人間?」
 少女は半ば否定されることを期待してたずねた。
「なんだ、おまえ。こんな所でなにしてる?」
 返ってきたのは予想外に鋭い声だった。問いに問いで返されて少女はしばし思案した。「なにをしてる」と訊かれても答えようがなかった。見たとおり、何もしていないのだ。
 どうしようか考えている間に相手は遠慮なしに少女に近寄ってきて、頭から爪先までじっくり観察してからかすかに笑った。
「おまえ、あれか。神殿の奴らが隠して育ててるっていう、次の巫女だろ。…………ふうん、同い年だって聞いたけど、俺より全然ちっちゃいじゃんか」
 いまだかつて聞いたことがない粗野な物言いに驚いて、少女はただぽかんと目の前の少年を見つめていることしかできなかった。
 自分と同じ年頃の子どもを見たのは物心ついてから初めてだったし、男の子というものも初めて見た。
 初めて見た男の子は、頬や腕や足の至る所に怪我をしていた。彼が言ったほど自分と大きさは変わらないはずだ。それどころか、肉付きからすれば自分のほうがいく分いいようにさえ思えた。
 ただ、瞳だけはらんらんと生気をみなぎらせていて、自分で自分の瞳をまじまじと見たことなどないけれども、それでも彼のほうが魅力的であるということにかけては否定しようもなかった。
 じっと、縁側に腰掛けたまま見上げていた少女から、不意に彼は視線を逸らせた。
 獣のように身動き一つせず、それでいて辺りの様子を細大漏らさず観察しているのが分かった。ある一点を見つめていた瞳を次の瞬間少女に向けると、「じゃあな」と一言呟いて、来たのとは反対方向の暗闇に姿を消し、そのままいくら待っても戻ってはこなかった。
 夕方の給仕係が屋敷を訪れたのはそれからすぐのことだった。




 彼女が少年と再会を果たしたのはそれから七日後のことだった。
 その七日間というもの、彼女があの少年のことを考えない日はなかったと言っても過言ではない。朝起きてすぐさま、少年と出会ったあの縁側へ飛んで行って一日中をそこで過ごした。眠るときもそこを動きたくないほどだったが、さすがに山の夜は寒く、仕方ないから薄く戸を開けたまま眠ったものだ。
 しだいに諦めの感情が広がってきた頃、あの少年は再び彼女の前に姿を現した。
「おまえ、名前は?」
 この前と同じ夕暮れの暗闇の中から現れた少年は、開口一番にそうたずねた。
 生まれてこの方そんな風に名前をたずねられた経験など、少女にはなかった。いつだって「巫女様」とだけ呼ばれてきた少女は、しばらく問いの意味を考え、そしてたっぷり間をあけてから答えた。
「らいら……来羅って、いうの」
「へえ。変な名前だな。俺は、火照」
「ほでり……」
「おまえ、幾つになる?」
「今年で、とお」
「俺と一緒だ。じゃあ、呼び捨てで呼んでいいぞ」
「うん」
 緊張のあまり言葉が出てこない少女にかまわず、少年は矢継ぎ早に質問をしていった。火照と名乗った彼はどうやら頭の回転がすこぶる速いらしく、来羅が一つの質問にかかずらっている間に十ほどの答えと事実を理解している様子で、来羅は自分がひどく馬鹿になったような気がしていた。
 それでも必死に会話を合わせようとしたのは、この少年に見捨てられたくなかったからで、呆れられて来てくれなくなったら困ると思ったからだ。
「あの……火照は、里の子なの?」
 会話が尽きようとしたところで、来羅は急いで質問する。
「……まあな。だけど、俺は里の奴らなんか大嫌いだ。おまえだって、こんな所に閉じ込められて嫌だろ?」
「嫌?」
「逃げたいとか思わないわけ?」
「それは…………」
 考えたこともなかった。
 つまらないとは思ったけれども、だからといって逃げ出したいとまでは思わなかった。
 そもそも、この屋敷の敷地内から外へ出るという発想がない。外へ出て一人で生きていく姿など想像もできない。
 来羅が知っている世界は、一人で暮らすには少し大きいこの屋敷と、屋敷の周りの狭い森だけだ。
 それ以外の世界など知らない。
 それ以外の世界で生きていけるとは思えない。

「俺は、逃げたいな」

 ぼそりと呟いた少年の声は意外なほど静かで、来羅は思わず立ち上がって彼の服のすそを掴んだ。
 立ち上がると、ほんの少し来羅のほうが背が高い。
「行かないで」
 自分でも思いがけない言葉が口をついて出てきた。
 出会ったばかりの相手に一体何を言っているのか。だが、また会いたいと、ただ、それだけ思った。
 少年はわずかに目を見開いて、そして笑った。
 最初に見せた挑発的な笑みではなく、思わずこぼれたというような優しいものだった。自分の服を掴む来羅の手をそっと包み込んで離させると、彼は言った。
「じゃあ、俺が逃げるときは、おまえも連れてってやるよ」
「…………本当?」
「約束する。絶対、連れてく」
 さして変わらない大きさの手が、なぜかとても頼もしく思えた。来羅の知っている小さなこの世界の外でも、彼がいれば生きていける気がした。
「あ、そろそろ行かないと」
 急速に冷えていく森の空気に体を震わせ、火照は呟いた。
「また、来る?」
 離れていきそうになった彼の手を引きとめて、来羅はたずねる。
「来るよ、また」
「本当?」
「ああ。里には面白いことなんかないからな。……あ、俺が来たこと、誰にも言うなよ」
「うん。うん、言わない。約束する。だから、来てね。また来てね。待ってるからね」
「……じゃあな」
 言うなり、少年は身を翻した。あっという間に彼の姿は木々の陰に隠れて消えてしまい、後に残ったのはかすかな両手のぬくもりだけだった。



 火照の体中の傷の理由や、彼の一族での微妙な立ち位置を知ったのはもっと後のことで、自分と彼が会うことの危険性を知ったのはさらにずっと後のことだった。
 そのときの来羅は、つまらなかった日常が鮮やかに色づいていくのを視界におさめるのに精一杯で、他のことに目を向ける余裕などありはしなかったのだ。


 まだ十になったばかりの来羅と火照が出会ったのはこのときだった。
 すべての歯車が狂い始めたのも、このときに他ならなかった。






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