早稲田学報1月号

新しい地図を描くこと


 ロンドンの建築アカデミーに生活すると、古い町並みの中に聳えるハイテックな建築の印象とは別のところで、すぐには建てることを目的としない建築(アンビルトの建築)のフィールドの不思議な魅力に取り込まれることになる。一昨年の夏に渡英し、帰国するまでの二年間、私はある建築デザインスタジオで奇妙なドローイングを描き続けていたのだが、最初の数ヶ月は精神的に最悪の状態だった。なぜそのような線を描くのか皆目見当がつかない。何を描いているのか描いている自分もわからない。建築の図面というものはまず、意図することがあって描きだすものだと思うし、ある程度の年月をとりあえずも設計のプロとして過ごしてきた私のプライドがまったく通用しない世界なのだ。そこに描かれているのはただただ無数に絡み合った線である。どこに床があるのか、壁があるのか。そんなことを言い出すとクビにすると言われる。建築の思想的な動向に興味をもっていたからこそ乗り込んだのに、師であるキプニス氏は毎日、スタジオにやってきては映画とテレビプログラムの話をしながら、描かれたドローイングの可能性の無さ?を言い渡して帰ってゆく。評価の基準は既視感のない秩序を感じるかどうかであって説明は不要のようだ。
 こうしてはっきりした目的の見えないまま、スタジオで描きためたドローイングを束にしてまとめると、面白いことになかなかの迫力である。そこには考えられる限りの線のバリエーションがあるように思えた。建築のデザインがいつの時代にも線で表現されることによってしか生まれえないことを考えると、宝の山と無理やり思ってみるのも悪くないだろう。そういうわけで私は、都市や建築の設計競技を見つけだしてきては、敷地の上に新しい線を重ね合わせることを試みることとした。こうしてパートナーとともに描いた線に意味をつけて十のプロジェクトにまとめた。こうしたアプローチは、こちらの予想とは無関係に半分は強く推薦され、半分は厳しく切り捨てられる。
 ところでコレオグラファーのカニングハムは意味を決めずにいろいろな振り付けをほどこすという。踊り手ももちろんなぜだかわからない。当然既成の方法では記録できないから不可解なグラフィックのようになる。音の波長を七つに分割しなくとも音を楽しむことはできるだろうし、もはやスコアを五線譜の上に書き込む必要もあるまい。私たちが住んでいるまちや国の地図を最初に描いたのはだれだろうか。海岸線の形が一本の線で引かれている地図が、寄せては引く波や干満という現象を切り捨てているとすれば、新しい地図を描くことが必要だろう。建築や都市をデザインすることは、私たちの生活する場所の新しい地図を描くことだといえないだろうか。世界中から集まった建築家が、新しい地図を描くために、無数の線を描き続ける姿に、建築家の本来の職能をみることができるような気がする

 

 

next>>

このページのTOPへ戻る