tell a graphic lie
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(2002.3.13)-1
古谷実は死んでしまうのだろうか。
(2002.3.13)-2
古谷実が死んでしまう。いやだ。いやだ。だれか助けてあげてよう。助けて。なんであんなもんかかせてるんだ。腕を切り落としてでも止めるべきじゃないか。馬鹿じゃないのか。見殺しか。見殺しか。いやだ。いやだ。決まってる、て。バカな。言うな。言うな。やっぱりいやだ。いやだ。だれか、だれか助けてあげてよう。
(2002.3.16)-1
仕方がないので、きょろきょろしながらふらふら歩いていると、垣根の隙間に挟まれて立っている電柱に「ここはここですよ。」と、小さく書かれているのを見た。それで私はちょっと笑ってしまって、あと少し歩き回る勇気が出てきたのだった。誰がいつ頃書いたのだろう。その人は、私がこうして読むことを知っていたのだろうか。私みたいなお馬鹿さんが、この辺りできっと道に迷うってことを知っていたのだろうか。笑ったおかげで、空の色が明るくなって朝が来ているのだと、そのときようやく気が付いた。うん、やっぱり私は歩くの、呟いてズボンの膝をくしゃっと掴んだ。それから、微笑んで小さなお辞儀をして、また歩き始める。50m程離れてから、その電柱を真中にした、きっと私だけが大切にするのであろう、その景色を少しでも長く留めておこうと思いたったから、立ち止まってもう一度振り返り、色付いた空に浮かぶ電柱の全身をゆっくりと眼で撫でた。
(2002.3.16)-2
ほんとに死んじゃうのかしら。
(2002.3.16)-3
髪を切った。流れて遠くなる。大丈夫だよと言ってあげたい。ええ、大丈夫です。
(2002.3.16)-4
あなたは私と歩くと、必ず半歩前に出るか、そっぽを見て歩くかのどちらかだ。あなたはそういう人だと、私は知っているけれど、それだから好きになったのかもしれないのだけれど、やっぱり少し不満。でも、私もそういうあなたの腕を組もうとしたり、手を握ろうとしたりはしないのね。って、いつも考えて、やっぱりお似合いなのかしら、と小さく笑うの。少し淋しいお似合いですこと。私達のそれは、火ではなくて風のようで、融けあうのではなく、混じりあう。尽きることはないでしょうけれど、その代わりに、隙間がちょっとだけいつもあるのよね。
(2002.3.17)-1
太宰「正義と微笑」。ひと息で。今まで読めずにいたが、誤解であった。文中にあるベートーヴェンの言葉。「善く且つ高貴に行動する人間は唯だその事実だけに拠っても不幸に耐え得るものだということを私は証拠立てたいと願う。」この天才は果たして、そのために幸福たりえた事が一時でもあったろうか。ベートーヴェンのみならず、古今東西。クソくらえだ!
(2002.3.17)-2
桜咲く。散らぬうちにかきあげて。さっさと死んでしまえ。
(2002.3.17)-3
重度の皮膚病の子が泣く。醜し。
(2002.3.17)-4
それを醜いと言う私を非難する前に、あの子は決して醜くなど無い、と証明することを考えては如何?私には、あなたの金切り声こそがあの子は醜いというあなたの同意、そしてその証明のように思えてなりませんわ。
(2002.3.17)-5
それから、醜さを悪しきものと考えていらっしゃるのは私よりもむしろ、あなたの方でしょう?
(2002.3.17)-6
二重に持つことの意味と意義と影響と変移とについて。結局捨てられず。ぼくは女々しい。
(2002.3.18)-1
ヒミズ、休みのようだ。
(2002.3.18)-2
 それが動かぬ事態なのだと、ようやく確信した時にはもう既に手遅れでした。あのひとは、もうずっと先を歩いていて、私たちがどんなに声を嗄らして呼びかけても、その声はあのひとの耳には入ることはなくて、そしてあのひとはもっとどんどん先へ行ってしまうのでした。私たちにはもうそれ以上追う事はできないのです。あのひとはあっさりとその境界を踏み越えて行きましたけれども、私たちにはそれは断崖絶壁、深淵の谷、ベルリンの壁のごときものなのでした。私たちはそこでなす術もなく立ち尽くして、少しずつ小さくなってゆくあのひとのシルエットを、せめてこの目から逸らしてしまうことだけはないよう、ただじっとまばたきするのも惜しんで眺め、そして届かぬ声をいたずらに嗄らしてゆくばかりなのでした。
 それでも、その先に行ってしまったあのひとがただ一度だけ、本当にたった一度だけこちらを振り向いたことがありました。そして何か言っているようで、口が動いていましたが、その言葉は私たちにまで届くことはありませんでした。言い終えるとあのひとは小さく手を動かして、それからまた真直ぐ私たちから遠ざかっていきました。はい、多分別れの言葉だったのだと私は認識しております。そうして段々とあのひとは周囲の闇の中へ溶け込んでゆくのでした。
 私の声はもう嗄れてしまっていました。前後左右がわからなくなって、立ってもいられなくなりました。膝をついて泣きました。本当に無力というのは恨めしいものでございます。私はあのひとの意思など少しも考慮したり、汲んだりしてあげたいとは思わないのです。あのひとをそんなに自由にしてあげる必要などないのです。あのひとはただ私のためにあればいいのです。私のために生きていればいいのです。そのせいであのひとがどんなにつらくたってかまやしない。あのひとは何かすると必ず全部そちらのほうへ持っていってしまうようですから、何にもさせない。毎日わたしのことだけ想って、わたしの言うように生きていればいいのです。人権なんて、そんな甘えたものはあのひとにはいらないのです。私はなぜあのひとがここを踏み越えてしまう前にそれをしなかったのだろう、あのひとをそうしてしまわなかったのだろうと真剣に後悔しました。無知というものは救いがたいものでございます。何度かその気配はありましたのに、私は私の予感に自信が持てなかった。あのひとにそんなひどいことをするまでの信念が私には持てなかった。それであのひとは今、ああして闇の中へ飲まれて、溶け込んでゆくのです。私はそれを眼で追うしかない。途方も無く長い時間、私はそうしていました。あのひとはもう消えている。
 神様も何もあったものではありません。あのひとは現にもういないのです。今日、どこぞの宗教の勧誘が私の部屋を訪れましたが、私は対応に窮しました。やりとりの、そのひとつにでも気を抜いてしまうと私はその顔を殴りつけるだか、引っ掻くだかしてしまいそうでした。その能天気で病的な信仰に真っ向から攻撃を加えてしまうところでした。その言葉を発する前に、そのとなりにあのひとをその隣において、あのひとの口からそれを言わせるべきだと思いました。追い払ってから、部屋のベッドでまた泣きました。とても許せませんでした。神様は残酷で卑劣な厭味がお好きなのだと思い、悪態をひとしきりつきました。返せと叫びました。疲れて眠ってしまうまでそうしていました。
 そんな夢を見たのです。お願いです、今晩はきっと抱いて下さい。
(2002.3.20)-1
おめでとう、言う義務は無し。権利は貰ったことがない。意思は、とうに捨てた。
(2002.3.21)-1
 埃っぽい色した青紫、赤紫の雲が急ぎ足で覆ってしまって、それでもまだ明るい、早く来た春のまだらな空の上にのせられた桜の木を部屋から眺めている。窓ガラスに寄りかかって、この先のことを考えて、枝の、花の、その揺れているのを見ている。強い春風に揺れるその枝から花びらが離れることはまだない。まだ付いている。まだひとつでいる。
 小谷美紗子の新しいのを買ってきて聴いている。野心作、到って失敗作であるものが多いように思う。おかしい、笑ってしまう。素直にピアノでやれ。ピアノだけでやれ。ね。次はきっとそうなるんだろう。
(2002.3.21)-2
日は落ちて 色の抜けたる 桜かな
(2002.3.21)-3
 あ、これひどいねぇ。書いてみてようやく気付く。以下のような下世話な雰囲気、品質の句でおじゃる。へたすぎ。
 夜桜、花見て一杯、この店はほんにこの時期、毎晩でも来たいくらいもので。くぃくぃおちょこがなんべんも傾きまする。おや、またお銚子からじゃあありませんか、おい、おねぃさん、もう一本、熱いのつけてくれ。ああ、たけのこがうまい。かつおもうまい。ほたるいかもうまい。この際だ、あゆも食っちまうか。ああ、いい機嫌、いい気分、今宵の酒は誠においしゅうごじゃりまする。あの、お銚子まだですか。あ、今頼んだばっか、さすがに来ねぇって、こりゃごもっとも。いやー、ほんとこのわかめとたけのこと、この適度なえぐみが、あれですよ、恋の味、みたいな。いや、ほんとに、うまい。かつおもみずみずしてくて、しょうがも新鮮なやつで、いい香りで。どれ、もう一切れ。え、あ、はい、もちろん、もちろんですとも、この咲き乱れたる桜の花も実に素晴らしい。ちゃんと見てます、見てます。あ、なんだ、その顔は。あれだ、あれだ、ブタに真珠、あたしには酒と食い物、とか思ってるんでしょう。ちきしょう、ばかにしてやがる。あ、その爽やかに流そうとする笑い、実に気にいらねぇ。うぬ、そんなら一句差し上げることに致しましょうか。あたしにだってそのくらいの風流はあるんですよ。あたしだって季節を楽しむこころくらいあるのさ。
 と、詠まれたるこの一句。得意満面、どうだ、ってな顔してやがる。こっちは開いた口ふさがらねぇ。桜もみんな散っちゃいやしないかと、ヒヤヒヤしたよ。もういいや、あんた、飲んでるだけでいいよ。ほら、お銚子来たよ。鮎も頼んであげるよ。食べなよ、おいしいよ。ま、ま、とりあえず、ほら、注いだげる。この店、ほんとあんにゃあ勿体ないよ。まぁ、いいか。飲もう、飲もう。ほら、花も揺れている。さらさら歌っている。いや、あんたのうたはもういいよ。ほら、飲みなよ。
(2002.3.21)-4
続かない、の。ぼくはそう言いたいんだ。
(2002.3.21)-5
「皮膚と心」太宰。写せる長さ。いや、そのうち、「斜陽」も写そう。あの綺麗な話を、ぼくの手で打つことを、しよう。

(皮膚と心)
 ぷつッと、ひとつ小豆粒に似た吹出物が、左の乳房の下に見つかり、よく見ると、その吹出物のまわりにも、ぱらぱら小さい赤い吹出物が霧を噴きかけられたように一面に散点していて、けれども、そのときは、痒ゆくもなんともなんともありませんでした。憎い気がして、お風呂で、お乳の下をタオルできゅっきゅっと皮のすりむけるほど、こすりました。それが、いけなかったようでした。家へ帰って鏡台のまえに坐り、胸をひろげて、鏡に写してみると、気味わるうございました。銭湯から私の家まで、歩いて五分もかかりませぬし、ちょっとその間に、お乳の下から腹にかけて手のひら二つぶんのひろさでもって、真赤に熟れて苺みたいになっているので、私は地獄絵を見たような気がして、すっとあたりが暗くなりました。そのときから、私は、いままでの私ではなくなりました。自分を、人のような気がしなくなりました。気が遠くなる、というのは、こんな状態を言うのでしょうか。私は永いこと、ぼんやり坐って居りました。暗灰色の入道雲が、もくもく私のぐるりを取り囲んでいて、私は、いままでの世間から遠く離れて、物の音さえ私には幽かにしか聞こえない、うっとうしい、地の底の時々刻々が、そのときから、はじまったのでした。しばらく、鏡の中の裸身を見つめているうちに、ぽつり、ぽつり、雨の降りはじめのように、あちら、こちらに赤い小粒があらわれて、頸(くび)のまわり、胸から、腹から、脊中のほうにまで、まわっている様子なので、合せ鏡をしてみると、白い脊中のスロオプに赤い霰をちらしたように一ぱい吹き出ていましたので、私は、顔を覆ってしまいました。
「こんなものが、できて」私は、あの人に見せました。六月のはじめのことで、ございます。あの人は、半袖のワイシャツに、短いパンツはいて、もう今日の仕事も、一とおりすんだ様子で、仕事机のまえにぼんやり坐って煙草を吸っていましたが、立って来て、私にあちこち向かせて、眉をひそめ、つくづく見て、ところどころ指で押してみて、
「痒くないか」聞きました。私は、痒くない、と答えました。ちっとも、なんとも無いのです。あの人は、首をかしげて、それから私を縁側の、かっと西日の当る箇所に立たせ、裸身の私をくるくる廻して、なおも念入りに調べていました。あの人は、私のからだのことに就いては、いつでも、細かすぎるほど気をつけてくれます。ずいぶん無口で、けれども、しんは、いつでも私を大事にします。私は、ちゃんと、それを知っていますから、こうして縁側の明るみに出されて、恥ずかしいはだかの姿を、西に向け東に向け、ざんざ、いじくり廻されても、かえって神様に祈るような静かな落ちついた気持になり、どんなに安心のことか。私は、立ったまま軽く眼をつぶっていて、こうして死ぬまで、眼を開きたくない気持でございました。
「わからねえなぁ。ジンマシンなら、痒い筈だが。まさか、ハシカじゃなかろう」
 私は、あわれに笑いました。着物を着直しながら、
「糠(ぬか)に、かぶれたのじゃないかしら。私、銭湯へ行くたんびに、胸や頸を、とてもきつく、きゅっきゅっこすったから」
 それかも知れない。それだろう、ということになり、あの人は薬屋に行き、チュウブにはいった白いべとべとした薬を買って来て、それを、だまって私のからだに、指で、すり込むようにして塗ってくれました。すっと、からだが涼しく、少し気持も軽くなり、
「うつらないものかしら」
「気にしちゃいけねえ」
 そうは、おっしゃるけれども、あの人の悲しい気持が、それは、私を悲しがってくれる気持にちがいないのだけれど、その気持が、あの人の指先から、私の腐った胸に、つらく響いて、ああ早くなおりたいと、しんから思いました。
 あの人は、かねがね私の醜い容貌を、とても細心にかばってくれて、私の顔の数々の可笑しい欠点、----冗談にも、おっしゃるようなことは無く、ほんとうに露ほども、私の顔を笑わず、それこそ日本晴れのように澄んで、余念ない様子をなさって、
「いい顔だと思うよ。おれは、好きだ」
 そんなことさえ、ぷつんとおっしゃることがあって、私は、どぎまぎして困ってしまうこともあるのです。私どもの結婚いたしましたのは、ついことしの三月でございます。結婚、という言葉さえ、私には、ずいぶんキザで、浮ついて、とても平気で口に言い出し兼ねるほど、私どもの場合は、弱く貧しく、てれくさいものでございました。たいいち、私は、もう二十八でございますもの。こんな、おたふくゆえ、縁遠くて、それに二十四、五までには、私にだって、二つ、三つ、そんな話もあったのですが、まとまりかけては、こわれ、まとまりかけては、こわれて、それは私の家だって、何もお金持というわけでは無し、母ひとり、それに私と妹と、三人ぐらしの、女ばかりの弱い家庭でございますし、とても、いい縁談なぞは、望まれませぬ。それは慾の深い夢でございましょう。二十五になって、私は覚悟をいたしました。一生、結婚できなくとも、母を助け、妹を育て、それだけを生き甲斐として、妹は、私と七つちがいの、ことし二十一になりますけれど、きりょうも良し、だんだんわがままも無くなり、いい子になりかけて来ましたから、この妹に立派な養子を迎えて、そうして私は、私としての自活の道をたてよう。それまでは、家に在って、家計、交際、すべて私が引受けて、この家を守ろう。そう覚悟をきめますと、それまで内心、うじゃうじゃ悩んでいたもの、すべてが消散して、苦しさも、わびしさも、遠くへ去って、私は、家の仕事のかたわら、洋裁の稽古にはげみ、少しずつご近所の子供さんの洋服の注文なぞも引き受けてみるようになって、将来の自活のあてもつきかけて来たころ、いまの、あの人の話があったのでございます。お話を持って来て下さったお方が、謂わば亡父の恩人とでもいうような義理のあるお方でございましたから、むげに断ることもできず、また、お話を承ってみると、先方は、小学校を出たきりで、親も兄弟もなく、その私の亡父の恩人が、拾い上げて小さい時からめんどう見てやっていたのだそうで、月収は二百円もそれ以上もはいる月があるそうですが、また、なんにもはいらぬ月もあって、平均して、七、八十円。それに向うは、初婚ではなく、好きな女のひとと、六年も一緒に暮らして、おととし何かわけがあって別れてしまい、そののちは、自分は小学校を出たきりで学歴も無し、財産もなし、としもとっていることだし、ちゃんとした結婚なぞとても望めないから、いっそ一生めとらず、のんきに暮らそうと、やもめぐらしをして居る由にて、それを、亡父の恩人が、なだめ、それでは世間から変人あつかいされて、よくないから、早くお嫁を貰いなさい、少し心あたりもあるから、と言って、私どものほうに、内々お話の様子なされて、そのときは私も母も顔を見合せ、困ってしまいました。一つとして、よいところのない縁談でございますもの。いくら私が、売れのこりの、おたふくだって、あやまち一つ犯したことはなし、もう、そんな人とでも無ければ、結婚できなくなっているのかしらと、さいしょは腹立たしく、それから無性に侘しくなりました。お断りするより他、ないのでございますが、何せお話を持って来られた方が、亡父の恩人で義理のあるお人ですし、母も私も、ことを荒立てないようにお断りしなければ、と弱気に愚図愚図いたして居りますうちに、ひと私は、あの人が可哀想になってしまいました。きっと、やさしい人にちがいない。私だって、女学校を出たきりで、特別になんの学問もありゃしない。たいへんな持参金があるわけでもない。父が死んだし、弱い家庭だ。それに、ごらんのとおりの、おたふくで、いい加減おばあさんですし、こちらこそ、なんのいいところも無い。似合いの夫婦なのかも知れない。どうせ、私は不仕合せなのだ。断って、亡父の恩人と気まずくなるよりはと、だんだん気持が傾いて、それにお恥ずかしいことには、少しは頬のほてる浮いた気持もございました。おまえ、ほんとにいいのかねえ、とやはり心配顔の母には、それ以上、話もせず、私から直接、その亡父の恩人に、はっきりした返事をしてしまいました。
 結婚して、私は幸福でございました。いいえ。いや、やっぱり、幸福、と言わなければなりませぬ。罰があたります。私は、大切にいたわられました。あの人は、何かと気が弱く、それに、せんの女に捨てられたような工合いらしく、そのゆえに、一層おどおどしている様子で、ずいぶん歯がゆいほど、すべてに自信がなく、痩せて小さく、お顔も貧相でございます。お仕事は、熱心にいたします。私が、はっと思ったことは、あの人の図案を、ちらと見て、それが見覚えのある図案だったことでございます。なんという奇縁でしょう。あの人に、伺ってみて、そのことをたしかめ、私は、そのときはじめて、あの人に恋をしたみたいに、胸がときめきいたしました。あの銀座の有名な化粧品店の、蔓バラ模様の商標は、あの人が考案したもので、それだけでは無く、あの化粧品店から売り出されている香水、石鹸、おしろいなどのレッテル意匠、そらから新聞の広告も、ほとんど、あの人の図案だったのでございます。十年もまえから、あの店の専属のようになって、異色ある蔓バラ模様のレッテル、ポスタア、新聞広告など、ほとんどおひとりで、お画きになっていたのだそうで、いまでは、あの蔓バラ模様は、外国の人さえ覚えていて、あの店の名前を知らなくても、蔓バラを典雅に絡み合わせた特徴ある図案は、どなただって一度は見て、そうして、記憶しているほどでございますものね。私なども、女学校のころから、もう、あの蔓バラ模様を知っていたような気がいたします。私は、奇妙に、あの図案にひかれて、女学校を出てからも、お化粧品は、全部あの化粧品店のものを使って、謂わば、まあ、ファンでございました。けれども私は、いちどだって、あの蔓バラ模様の考案者については、思ってみたことなどなかった。ずいぶん、うっかり者のようでございますが、けれども、それは私だけではなく、世間のひと皆、新聞の美しい広告を見ても、その図案工を思い尋ねることなど無いでしょう。図案工なんて、ほんとうに縁の下の力持ちみたいなものですね。私だって、あの人のお嫁さんになって、しばらく経って、それからはじめて気がついたほどでございますもの。それを知ったときには、私は、うれしく、
「あたし、女学校のころからこの模様だいすきだったわ。あなたがお画きになっていたのねえ。うれしいわ。あたし、幸福ね。十年もまえから、あなたと遠くむすばれていたのよ。こちらへ来ることに、きまっていたのね」と少しはしゃいで見せましたら、あの人は顔を赤くして、
「ふざけちゃいけねぇ。職人仕事じゃねえか、よ」と、しんから恥ずかしそうに、眼をパチパチさせて、それから、フンと力なく笑って、悲しそうな顔をなさいました。
 いつもあの人は、自分を卑下して、私がなんとも思っていないのに、学歴のことや、それから二度目だってことや、貧相のことなど、とても気にして、こだわっていらっしゃる様子で、それならば、私みたいなおたふくは、一体どうしたらいいのでしょう。夫婦そろって自信がなく、はらはらして、お互いの顔が、謂わば恥皺(はじしわ)で一ぱいで、あの人は、たまには、私にうんと甘えてもらいたい様子なのですが、私だって、二十八のおばあちゃんですし、それに、こんなおたふくなので、その上、あの人の自信のない卑下していらっしゃる様子を見ては、こちらにも、それが伝染しちゃって、よけいにぎくしゃくして来て、どうしても無邪気に可愛く甘えることができず、心は慕っているのに、逆にかえって私は、まじめに、冷たい返事などしてしまって、すると、あの人は、気むずかしく、私には、そのお気持がわかっているだけに、尚のこと、どぎまぎして、すっかり他人行儀になってしまいます。あの人にも、また、私の自信のなさが、よくおわかりの様で、ときどき、やぶから棒に、私の顔、また、着物の柄など、とても不器用にほめることがあって、私には、あの人のいたわりがわかっているので、ちっとも嬉しいことはなく、胸が、一ぱいになって、せつなく、泣きたくなります。あの人は、いい人です。せんの女のひとのことなど、ほんとうに、これっぽっちも匂わしたことがございません。おかげさまで、私は、いつも、そのことは忘れてしまいます。この家だって、私たち結婚してから新しく借りたのですし、あの人は、そのまえは、赤坂のアパアトにひとりぐらししていたのでございますが、きっと、わるい記憶を残したくないというお心もあり、また、私への優しい気兼ねもあったのでございましょう、以前の世帯道具一切合切、売り払い、お仕事の道具だけ持って、この築地の家へ引越して、それから、私にも僅かばかり母から貰ったお金がございましたし、二人で少しずつ世帯の道具を買い集めたようなわけで、ふとんも箪笥も、私が本郷の実家から持って来たのでございますし、せんの女のひとの影は、ちらとも映らず、あの人が、私以外の女のひとと六年も一緒にいらっしゃったなど、とても今では、信じられなくなりました。ほんとうに、あの人の不要の卑下さえなかったら、そうして私を、もっと乱暴に、怒鳴ったり、もみくちゃにして下さったなら、私も、無邪気に歌をうたって、どんなにでもあの人に甘えることができるように思われるのですが、きっと明るい家になれるのでございますが、二人そろって、醜いという自覚で、ぎくしゃくして、----私はともかく、あの人が、なんで卑下することがございましょう。小学校を出たきりと言っても、教養の点では、大学出の学士と、ちっとも変わることがございませぬ。レコオドだって、ずいぶん趣味のいいのを集めていらっしゃるし、私がいちども名前を聞いたことさえない外国の新しい小説家の作品を、仕事のあいまあいまに、熱心に読んでいらっしゃるし、それに、あの、世界的な蔓バラの図案。また、ご自身の貧乏を、ときどき自嘲なさいますけれど、このごろは仕事も多く、百円、二百円と、まとまった大金がはいって来て、せんだっても、伊豆の温泉につれていっていただいたほどなのに、それでもあの人は、ふとんや箪笥や、その他の家財道具を、私の母に買ってもらったことを、いまでも気にしていて、そんなに気にされると、私は、かえって恥ずかしく、なんだか悪いことをしたように思われて、みんな安物ばかりなのに、と泣きたいほど侘しく、同情や憐憫で結婚するのは、間違いで、私は、やっぱりひとりでいたほうがよかったのじゃないかしら、と恐ろしいことを考えた夜もございました。もっと強いものを求めるいまわしい不貞が頭をもたげることさえあって、私は悪者でございます。結婚して、はじめて青春の美しさを、それを灰色に過ごしてしまったくやしさが、舌を噛みたいほど、痛烈に感じられ、いまのうち何かでもって埋め合わせしたく、あの人とふたりで、ひっそり夕食をいただきながら、侘しさ堪えがたくなって、お箸を茶碗持ったまま、泣きべそかいてしまったこともございます。何もかも私の慾でございましょう。こんなおたふくの癖に青春なんて、とんでもない。いい笑いものになるだけのことでございます。私は、いまのままで、これだけでもう、身にあまる仕合せなのです。そう思わなければいけません。ついつい、わがままも出て、それだから、こんどのように、こんな気味わるい吹出物に見舞われるのです。薬を塗ってもらったせいか、吹出物も、それ以上はひろがらず、明日は、なおるかも知れぬと、神様にこっそり祈って、その夜は、早めに休ませていただきました。
 寝ながら、しみじみ考えて、なんだか不思議になりました。私は、どんな病気でも、おそれませぬが、皮膚病だけは、とても、とても、いけないのです。どのような苦労をしても、どのような貧乏をしても、皮膚病だけには、なりたくないと思っていたものでございます。脚が片方なくっても、腕が片方なくっても、皮膚病なんかになるよりは、どれくらいましかわからない。女学校で、生理の時間にいろいろの皮膚病の病原菌を教わり、私は全身むず痒く、その虫やバクテリヤの写真の載っている教科書のペエジを、矢庭に引き破ってしまいたく思いました。そうして先生の無神経が、のろわしく、いいえ先生だって、平気で教えているのでは無い。職務ゆえ、懸命にこらえて、当たりまえの風を装って教えているのだ、それにちがいないと思えば、なおのこと、先生のその厚顔無恥が、あさましく、私は身悶えいたしました。その生理のお時間がすんでから、私はお友達と議論をしてしまいました。痛さと、くすぐったさと、痒さと、三つのうちで、どれが一ばん苦しいか。そんな論題が出て、私は断然、痒さが最もおそろしいと主張いたしました。だって、そうでしょう?痛さも、くすぐったさも、おのずから知覚の限度があると思います。ぶたれて、切られて、または、くすぐられても、その苦しさが極限に達したとき、人は、きっと気を失うにちがいない。気を失ったら夢幻境です。昇天でございます。苦しさから、綺麗にのがれる事ができるのです。死んだって、かまわないじゃないですか。けれども痒さは、波のうねりのようで、もりあがっては崩れ、もりあがっては崩れ、果てしなく鈍く蛇動(だどう)し、蠢動(しゅんどう)するばかりで、苦しさが、ぎりぎり結着の頂点まで突き上げてしまう様なことは決してないので、気を失うこともできず、もちろん痒さで死ぬなんてことも無いでしょうし、永久になまぬるく、悶えていなければならぬのです。これは、なんといっても、痒さにまさる苦しみはございますまい。私がもし昔のお白洲(しらす)で拷問かけられても、切られたり、ぶたれたり、また、くすぐられたり、そんなことでは白状しない。そのうち、きっと気を失って、二、三度つづけられたら、私は死んでしまうだろう。白状なんて、するものか。私は志士のいどころを一命かけて、守って見せる。けれども、蚤か、しらみ、あるいは疥癬(かいせん)の虫など、竹筒に一ぱい持って来て、さあこれを、おまえの脊中にぶち撒けてやるぞ、と言われたら、私は身の毛もよだつ思いで、わなわなふるえ、申し上げます、お助け下さい、と烈女も台無し、両手合せて哀願するつもりでございます。考えるさえ、飛び上がるほど、いやなことです。私が、その休憩時間、お友達にそう言ってやりましたら、お友達も、みんな素直に共鳴して下さいました。いちど先生に連れられて、クラス全部で、上野の科学博物館に行ったことがございますけれど、たしか三階の、標本室で、私は、きゃっと悲鳴を挙げ、くやしく、わんわん泣いてしまいました。皮膚に寄生する虫の標本が、蟹くらいの大きさに模型されて、ずらりと棚に並んで、飾られてあって、ばか!と大声で叫んで、棍棒でもって滅茶苦茶に粉砕したい気持でございました。それから三日も、私は寝ぐるしく、なんだか痒く、ごはんもおいしくございませんでした。私は、菊の花さえきらいなのです。小さい花弁がうじゃうじゃして、まるで何かみたい。樹木の幹の、でこぼこしているのを見ても、ぞっとして全身むず痒くなります。筋子なぞを、平気でたべる人の気が知れない。牡蠣の貝殻。かぼちゃの皮。砂利道。虫くった葉。とさか。胡麻。絞り染。蛸の脚。茶殻。蝦。蜂の巣。苺。蟻。蓮の実。蝿。うろこ。みんな、きらい。ふり仮名も、きらい。小さい仮名は、虱みたい。グミの実、桑の実、どっちもきらい。お月さまの拡大写真を見て、吐きそうになったことがあります。刺繍でも、図柄に依っては、とても我慢できなくなるものがあります。そんなに皮膚のやまいを嫌っているので、自然と用心深く、いままで、ほとんど吹出物の経験なぞ無かったのです。そうして結婚して、毎日お風呂へ行って、からだをきゅっきゅっと糠でこすって、きっと、こすり過ぎたのでございましょう。こんなに、吹出物してしまって、くやしく、うらめしく思います。私は、いったいどんな悪いことをしたというのでしょう。神さまだって、あんまりだ。私の一ばん嫌いな、嫌いなものをことさらにくださって、ほかに病気が無いわけじゃなし、まるで金の小さな的をすぽんと射当てたように、まさしくわたしの最も恐怖している穴へ落ち込ませて、私は、しみじみ不思議に存じました。
 翌る朝、薄明のうちにもう起きて、そっと鏡台に向って、ああと、うめいてしまいました。私は、お化けでございます。これは、私の姿じゃない。からだじゅう、トマトがつぶれたみたいで、頸にも、胸にも、おなかにも、ぶつぶつ醜怪を極めて豆粒ほども大きい吹出物が、まるで全身に角が生えたように、きのこが生えたように、すきまなく、一面に噴き出て、ふふふふ笑いたくなりました。そろそろ、両脚のほうにまで、ひろがっているのでございます。鬼。悪魔。私は、人ではござませぬ。このまま死なせて下さい。泣いては、いけない。こんな醜悪なからだになって、めそめそ泣きべそ掻いたって、ちっとも可愛くないばかりか、いよいよ熟柿がぐしゃと潰れたみたいに滑稽で、あさましく、手もつけられぬ悲惨の光景になってしまう。泣いては、いけない。隠してしまおう。あの人は、まだ知らない。見せたくない。もともと醜い私が、こんな腐った肌になってしまって、もうもう私は、取り柄がない。屑だ。はきだめだ。もう、こうなっては、あの人だって、私を慰める言葉が無いでしょう。慰められるなんて、いやだ。こんなからだを、まだいたわるならば、私は、あの人を軽蔑してあげる。いやだ。私は、このままおわかれしたい。いたわっちゃ、いけない。私を、見ちゃいけない。私の傍にいてもいけない。ああ、もっと、もっと広い家が欲しい。一生遠くはなれた部屋で暮したい。結婚しなければ、よかった。二十八まで、生きていなければよかったのだ。十九の冬に、肺炎になったとき、あのとき、なおらずに死ねばよかったのだ。あのとき死んでいたら、いまこんな苦しい、みっともない、ぶざまの憂目を見なくてすんだのだ。私は、ぎゅっと堅く眼をつぶったまま、身動きもせず坐って、呼吸だけが荒く、そのうちになんだか心までも鬼になってしまう気配が感じられて、世界が、シンと静まって、たしかにきのうまでの私で無くなりました。私は、もそもそ、けものみたいに立ち上がり着物を着ました。着物は、ありがたいものだと、つくづく思いました。どんなおそろしい胴体でも、こうして、ちゃんと隠してしまえるのですものね。元気を出して、物干場へあがってお日様を険しく見つめ、思わず、深い溜息をいたしました。ラジオ体操の号令が聞こえてまいります。私は、ひとりで侘しく体操はじめて、イッチ、ニッ、と小さい声出して、元気をよそおってみましたが、ひっとたまらなく自分がいじらしくなって来て、とてもつづけて体操できず泣き出しそうになって、それに、いま急激にからだを動かしたせいか、頸と腋下(わきした)の淋巴腺(りんぱせん)が鈍く痛み出して、そっと触ってみると、いずれも固く腫れていて、それを知ったときには、私、立って居られなく、崩れるようにぺたりと坐ってしまいました。私は醜いから、いままでこんなにつつましく、日陰を選んで、忍んで忍んで生きて来たのに、どうして私をいじめるのです、と誰にともなく焼き焦げるほどの大きい怒りが、むらむら湧いて、そのとき、うしろで、
「やあ、こんなところにいたのか。しょげちゃいけねえ」とあの人の優しく呟く声がして、
「どうなんだ。少しは、よくなったか?」
 よくなったと答えるつもりだったのに、私の肩に軽く載せたあの人の右手を、そっとはずして、立ち上がり、
「うちへかえる」そんな言葉が出てしまって、自分で自分がわからなくなって、もう、何をするか、何を言うか、責任持てず、自分も宇宙も、みんな信じられなくなりました。
「ちょっと見せなよ」あの人は当惑したみたいな、こもった声が、遠くからのように聞えて、
「いや」と私は身を引き、「こんなところに、グリグリができてえ」と腋の下に両手を当てそのまま、私は手放しで、ぐしゃと泣いて、たまらずああんと声が出て、みっともない二十八のおたふくが、甘えて泣いても、なんのいじらしさが在ろう、醜悪の限りとわかっていても、涙がどんどん沸いて出て、それによだれも出てしまって、私はちっともいいところが無い。
「よし。泣くな!お医者へ連れていってやる」あの人の声が、いままで聞いたことのないほど、強くきっぱり響きました。
 その日は、あの人もお仕事を休んで、新聞の広告しらべて、私もせんに一、二度、名前だけは聞いたことのある有名な皮膚科専門のお医者に見てもらうことにきめて、私は、よそ行きの着物に着換えながら、
「からだを、みんな見せなければいけないかしら」
「そうよ」あの人は、とても上品に微笑んで答えました。「お医者を、男と思っちゃいけねえ」
 私は顔を赤くしました。ほんのりとうれしく思いました。
 外へ出ると、陽の光がまぶしく、私は自身を一匹の醜い毛虫のように思いました。この病気のなおるまで世の中を真暗闇の深夜にして置きたく思いました。
「電車は、いや」私は、結婚してはじめてそんな贅沢なわがまま言いました。もう吹出物が手の甲にまでひろがって来ていて、いつか私は、こんな恐ろしい手をした女のひとを電車の中で見たことがあって、それからは、電車の吊皮につかまるのさえ不潔で、うつりはせぬかと気味わるく思っていたのですが、いまは私が、そのいつかのおんなのひとの手を同じ工合いになってしまって、「身の不運」という俗な言葉が、このときほど骨身に徹したことはございませぬ。
「わかってるさ」あの人は、明るい顔してそう答え、私を、自動車に乗せて下さいました。築地から、日本橋、高島屋裏の病院まで、ほんのちょっとでございましたが、その間、私は葬儀車に乗っている気持でございました。眼だけが、まだ生きていて、巷の初夏のよそおいを、ぼんやり眺めて、路行く女のひと、男のひと、誰も私のように吹出物していないのが不思議でなりませんでした。
 病院に着いて、あの人と一緒に待合室へはいってみたら、ここはまた世の中と、まるっきりちがった風景で、ずっとまえ築地の小劇場で見た「どん底」という芝居の舞台面を、ふいと思い出しました。外は深緑で、あんなに、まばゆいほど明るかったのに、ここは、どうしたのか、陽の光が在っても薄暗く、ひやと冷たい湿気があって、酸いにおいが、ぷんと鼻をついて、盲人どもが、うなだれて、うようよいる。盲人では無いけれども、どこか、片端の感じで、老爺老婆の多いのには驚きました。私は、入口にちかい、ベンチの端に腰をおろして、死んだように、うなだれ、眼をつぶりました。ふと、この大勢の患者の中で、私が一ばん重い皮膚病なのかも知れない、ということに気がつき、びっくりして眼をひらき、顔をあげて、患者ひとりひとりを盗み見いたしましたが、やはり、私ほど、あらわに吹出物している人は、ひとりもございませんでした。皮膚科と、もうひとつ、とても平気で言えないような、いやな名前の病気と、そのふたつの専門医だったことを、私は病院の玄関の看板で、はじめて知ったのですが、それでは、あそこに腰かけている若い綺麗な映画俳優みたいな男のひと、どこにも吹出物など無い様子だし、皮膚科ではなく、そのもうひとつのほうの病気なのかも知れない、と思えば、もう皆、この待合室に、うなだれて腰かけている亡者たち皆、そのほうの病気のような気がして来て、
「あなた、少し散歩していらっしゃい。ここは、うっとうしい」
「まだ、なかなからしいな」あの人は、手持ちぶさたげに、私の傍に立ちつくしていたのでした。
「ええ。私の番になるのは、おひるごろらしいわ。ここは、きたない。あなたが、いらっしゃっちゃ、いけない」自分でも、おや、と思ったほど、いかめしい声が出て、あの人も、それを素直に受け取ってくれた様子で、ゆっくり首肯(うなず)き、
「おめえも、一緒に出ないか?」
「いいえ。あたしは、いいの」私は、微笑んで、「あたしは、ここにいるのが、一ばん楽なの」
 そうしてあの人を待合室から押し出して、私は、少し落ちつき、またベンチに腰をおろし酸っぱいように眼をつぶりました。はたから見ると、私は、きっとキザに気取って、おろかしい瞑想にふけっているばあちゃん女史に見えるでしょうが、でも、私、こうしているのが一ばん、らくなんですもの。死んだふり。そんな言葉、思い出して、可笑しゅうございました。けれども、だんだん私は、心配になってまいりました。誰にも、秘密が在る。そんな、いやな言葉を耳元に囁かれたような気がして、わくわくしてまいりました。ひょっとしたら、この吹出物も----と考え、一時に総毛立つ思いで、あの人の優しさ、自信の無さも、そんなところから起こって来ているのではないのかしら、まさか。私は、そのときはじめて、可笑しなことでございますが、そのときはじめて、あの人にとっては、私が最初で無かったのだ、ということに実感を以て思い当たり、いても立っても居られなくなりました。だまされた!結婚詐欺。唐突にそんなひどい言葉も思い出され、あの人を追いかけて行って、ぶってやりたく思いました。ばかですわね。はじめから、それが承知であの人のところへまいりましたのに、いま急に、あの人が、最初でないこと、たまらぬ程にくやしく、うらめしく、とりかえしのつかない感じで、あの人の、まえの女のひとのことも、急に色濃く、胸にせまって来て、ほんとうにはじめて、私はその女のひとを恐ろしく、憎く思い、これまで一度だって、そのひとのことを思ってもみたことない私の呑気さ加減が、涙の沸いて出た程に残念でございました。くるしく、これが、あの嫉妬というものなのでしょうか。もし、そうだとしたなら、嫉妬というものは、なんという救いのない狂乱、それも肉体だけの狂乱。一点美しいところもない醜怪きわめたものか。世の中には、まだまだ私の知らない、いやな地獄があったのですね。私は、生きてゆくのが、いやになりました。自分が、あさましく、あわてて膝の上の風呂敷をほどき、小説本を取り出し、でたらめにペエジをひらき、かまわずそこから読みはじめました。ボヴァリイ夫人。エンマの苦しい生涯が、いつも私をなぐさめて下さいます。エンマの、こうして落ちて行く路が、私には一ばん女らしく自然のもののように思われてなりません。水が低きについて流れるように、からだのだるくなるような素直さを感じます。女って、こんなものです。言えない秘密を持って居ります。それは、はっきり言えるのです。だって、女には、一日一日が全部ですもの。男とちがう。死後も考えない。思索も、無い。一刻一刻の、美しさの完成だけを願って居ります。生活を、生活の感触を、溺愛いたします。女が、お茶碗や、きれいな柄の着物を愛するのは、それだけが、ほんとうの生き甲斐だからでございます。刻々の動きが、それがそのまま生きていることの目的なのです。他に、何が要りましょう。高いリアリズムが、女の不埒と浮遊を、しっかり抑えて、かしゃくなくあばいて呉れたなら、私たち自身も、からだがきまって、どのくらい楽か知れないとも思われるのですが、女のこの底知れぬ「悪魔」には、誰も触らず、見ないふりをして、それだから、いろんな悲劇が起こるのです。高い、深いリアリズムだけが、私たちをほんとうに救ってくれるのかも知れませぬ。女の心は、いつわらずに言えば、結婚の翌日だって、ほかの男のひとのことを平気で考えることができるのでございますの。人の心は、決して油断がなりませぬ。男女七歳にして、という古い教えが、突然おそろしい現実感として、私の胸をついて、はっと思いました。日本の倫理というものは、ほとんど腕力的に写実なのだと、目まいするほど驚きました。なんでもみんな知られているのだ。むかしから、ちゃんと泥沼が、明確にえぐられて在るのだと、そう思ったら、かえって心が少しすがすがしく、爽やかに安心して、こんな醜い吹出物だらけのからだになっても、やっぱり何かと色気の多いおばあちゃん、と余裕を以て自身を憫笑(びんしょう)したい気持も起り、再び本を読みつづけました。いま、ロドルフが、更にそっとエンマに身をすり寄せ、甘い言葉を口早に囁いているところなのですが、私は、読みながら、全然別な奇妙なことを考えて、思わずにやりと笑ってしまいました。エンマが、このとき吹出物していたら、どうだったろう、とへんな空想が沸いて出て、いや、これは重大なイデエだぞ、と私は真面目になりました。エンマは、きっとロドルフの誘惑を拒絶したにちがいない。そうして、エンマの生涯は、まるっきり違ったものになってしまった。それにちがいない。あくまでも、拒絶したにちがいない。だって、そうするより他に、仕様ないんだもの。こんなからだでは。そうして、これは喜劇ではなく、女の生涯は、そのときの紙のかたち、着物の柄、眠むたさ、または些細なからだの調子などで、どしどし決定されてしまうので、あんまり眠むたいばかりに、脊中のうるさい子供をひねり殺した子守女さえ在ったし、ことに、こんな吹出物は、どんなに女の運命を逆転させ、ロマンスを歪曲させるか判りませぬ。いよいよ結婚式というその前夜、こんな吹出物が、思いがけなく、ぷつんと出て、おやおやと思うまもなく胸に四肢に、ひろがってしまったら、どうでしょう。私は、有りそうなことだと思います。吹出物だけは、ほんとうに、ふだんの用心で防ぐことができない、何かしら天意に依るもののように思われます天の悪意を感じます。五年ぶりに帰朝するご主人をお迎えにいそいそ横浜の埠頭、胸おどらせて待っているうちにみるみる顔のだいじなところに紫色の腫物があらわれ、いじくっているうちに、もはや、そのよろこびの若夫人も、ふためと見られぬお岩さま。そのような悲劇もあり得る。男は、吹出物など平気らしゅうございますが、女は、肌だけで生きて居るのでございますもの。否定する女のひとは、嘘つきだ。フロオベルなど、私はよく存じませぬが、なかなか細密の写実家の様子で、シャルルがエンマの肩にキスしようとすると、(よして!着物に皺が、----)と言って拒否するところございますが、あんな細かく行きとどいた眼を持ちながら、なせ、女の肌の病気のくるしみに就いては、書いて下さらなかったのでしょうか。男の人にはとてもわからぬ苦しみなのでしょうか。それとも、フロオベルほどのお人なら、ちゃんと見抜いて、けれどもそれは汚らしく、とてもロマンスにならぬ故、知らぬふりして敬遠しているのでございましょうか。でも、敬遠なんて、ずるい、ずるい。結婚のまえの依る、または、なつかしくてならぬ人と五年ぶりに逢う直前などに、思わぬ醜怪の吹出物に見舞われたら、私ならば死ぬる。家出して、堕落してやる。自殺する。女は、一瞬間一瞬間の、せめて美しさのよろこびだけで生きているのだもの。明日は、どうなっても、----そっとドアが開いて、あの人が栗鼠(りす)に似た小さい顔を出して、まだか?と眼でたずねたので、私は、蓮っ葉にちょっちょっと手招きして、
「あのね」下品に調子づいた甲高い声だったので私は肩をすくめ、こんどは出来るだけ声を低くして、「あのね、明日は、どうなったっていい、と思い込んだときの女の、一ばん女らしさが出ていると、そう思わない?」
「なんだって?」あの人が、まごついているので私は笑いました。
「言いかたが下手なの、わからないわね。もういいの。あたし、こんなところに、しばらく坐っているうちに、なんだか、また、人が変わっちゃったらしいの。こんな、どん底にいると、いけないらしいの。あたし、弱いから、周囲の空気に、すぐ影響されて、馴れてしまうのね。あたし、下品になっちゃったわ。ぐんぐん心が、くだらなく、堕落して、まるで、もう」と言いかけて、ぎゅっと口を噤(つぐ)んでしまいました。プロステチウト、そう言おうと思っていたのでございます。女が永遠に口に出して言ってはいけない言葉。そうして一度は、必ず、それの思いに悩まされる言葉。まるっきり誇を失ったとき、女は、必ずそれを思う。私は、こんな吹出物して、心まで鬼になってしまっているのだな、と実状が薄ぼんやり判って来て、私が今まで、おたふく、おたふくと言って、すべてに自信が無い態を装っていたが、けれども、はやり自分の皮膚だけを、それだけは、こっそり、いとおしみ、それが唯一のプライドだったのだということを、いま知らされ、私の自負していた謙譲だの、つつましさだの、忍従だのも、案外あてにならない贋物で、内実は私も知覚、感覚の一喜一憂だけで、めくらのように生きていたあわれな女だったのだと気附いて、知覚、感覚がどんなに鋭敏だっても、それは動物的なものなのだ、ちっとも叡智と関係ない。全く、愚鈍な白痴でしか無いのだ、とはっきり自身を知りました。
 私は、間違っていたのでございます。私は、これでも自身の知覚のデリケエトを、なんだが高尚のことに思って、それを頭のよさと思いちがいして、こっそり自身をいたわっていたところ、なかったか。私は、結局は、おろかな、頭のわるい女ですのね。
「いろんなことを考えたのよ。あたし、ばかだわ。あたし、しんから狂っていたの」
「むりがねえよ。わかるさ」あの人は、ほんとうに、わかってるみたいに、賢そうな笑顔で答えて、「おい、おれたちの番だぜ」
 看護婦に招かれて、診察室へはいり、帯をほどいてひと思いに肌ぬぎになり、ちらと自分の乳房を見て、私は、石榴(ざくろ)を見ちゃった。眼のまえに坐っているお医者よりも、うしろに立っている看護婦さんに見られるのが、幾そう倍も辛うございました。お医者は、やっぱり人の感じがしないものだと思いました。顔の印象さえ、私にははっきりいたしませぬ。お医者のほうでも、私を人の扱いせず、あちこちひねくって、
「中毒ですよ。何か、わるいもの食べたでしょう」平気な声で、そう言いました。
「なおりましょうか」
あの人が、たずねて呉れて、
「なおります」
 私は、ぼんやり、ちがう部屋にいるような気持で聞いていたのでございます。
「ひとりで、めそめそ泣いていやがるので、見ちゃ居れねえのです」
「すぐ、なおりますよ。注射しましょう」
 お医者は、立ち上がりました。
「単純な、ものなのですか?」とあの人。
「そうですとも」
 注射してもらって、私たちは病院を出ました。
「もう手のほうは、なおっちゃった」
 私は、なんども陽の光に両手をかざして、眺めました。
「うれしいか?」
 そう言われて私は、恥ずかしく思いました。

(2002.3.21)-6
句読点の使い方は、駈込み訴えのほうが洗練されているようである。単語の選び方は非常に注意が払われているようだ。うまく言えないけれど、押すときに選ぶ言葉と、引くときに選ぶ言葉と、それが同じ意味であっても、別の言いまわしにしているようである。単語の重ね方、文の重ね方、順序等は非常に参考になった。喋り方のほうは、もうほとんどすり込まれてしまっているようだ。

「ひとりで、めそめそ泣いていやがるので、見ちゃ居れねえのです」

よし。
(2002.3.21)-7
切りとるおもい。どうでもいいようなこと、些細なことのように、あなた方はきっとかんじるでしょうけれども、それは私にはこの命と引き換えにしようと考えるほどに重大なことがらなのです。わかりますか。わからないでしょう。ですから、ことさら申したりは致しません。けれども、それを拾うことのできない人が、本当に人をいたわることなど決してできはしないのだと、私は信じています。私にはそれが本当に重大な事柄なのです。そういうところで私は暮らしているのです。そうしてきたのです。
(2002.3.22)-1
ちゃんと愛していることを、知るの。あたしはあなたをちゃんと愛してる。あなたもあたしをちゃんと愛してる。あたしはあたしのまま、あなたはあなたのまま、そのままでおたがい、ちゃんと愛してる。そのままをちゃんと、愛してる。
(2002.3.22)-2
なぁ、こうやって3行で言っちまうよりか、20ページ使って言ったほうがいいな。やっぱりそっちのほうが、いいな。
(2002.3.22)-3
そろそろクラシックが聴けるのかな、なんて思っている。何がいいのだろう。単純に行けば、小沢征爾のウィーンフィルだっけか、あれになるわけだが。それだけでは面白くないから、おみくじみたいにして、久しぶりにジャケ買いしてみるかな。あ、でも、小谷氏の新しいのに飽いてきたらの話しだが。まだ、解釈できず。これはいいのか、わるいのか。あんまり上手ではないのは間違いないのだが、やっぱり一日6回以上聴いている自分がいるわけで、ぼくはそういう自分がどこから来るのか、それなりの理由を述べなければ、述べたいと思うわけです。「眠りの歌」ほどの曲は確かにないわけで、やっぱりあれはひとつの到達点なわけで。Dragon Ashでいやぁ、「Fever」にあたるわけで。鬼束ちひろでいやぁ、「月光」にあたるわけで。ぼくでいやぁ、「膿」にあたるわけで。太宰でいやあ、そうだな、どれだろう、「斜陽」っていうのは言い過ぎで、あれは集大成なので、もう何個か先の話なんだが、「晩年」と言ってしまうと、でか過ぎてしまって、それではアルバム一枚になってしまう。ううんと、あれか、素直に「思い出」でいいのかな。まぁ、そんなことはどうだっていいんだ。小谷氏を終えたら、クラシックを聴こう。映画に手を出したり、芝居に手を出したりするよりかは、幾分穏やかに取り込めるだろうと思う。
(2002.3.24)-1
以下、太宰「喝采」。太宰を真似して書こうと、書きたいと思うきっかけになったものです。引っ張り出して来て、今さらに書き写す。そろそろ溜まってきたのでアーカイブ化しようかとも思っています。もう、何個だ?5個くらいにはなったっけか。。。。そう言えば、今までは副題を写していなかった。副題はいつも実にいいです。よすぎて、浮き上がった感じのものが多いのも確かですけれど。

(喝采)-手招きを受けたる童子 いそいそと壇にのぼりつ
「書きたくないことだけを、しのんで書き、困難と思われたる形式だけを、えらんで創り、デパートの紙袋さげてぞろぞろ路ゆく小市民のモラルの一切を否定し、十九歳の春、我が名は海賊の王、チャイルド・ハロルド、清らなる一行の詩の作者、たそがれ、うなだれつつ街をよぎれば、家々の門口より、ほの白き乙女の影、走り寄りて桃金嬢(てんにんか)の冠を捧ぐとか、真なるもの、美なるもの、兀鷹の怒、鳩の愛、四季を通じて五月の風、夕立ち、はれては青葉したたり、いずかたよりぞレモンの香、やさしき人のみ住むという、太陽の国、果樹の園、あこがれ求めて、梶は釘づけ、ただまっしぐらの冒険旅行、わが身は、船長にして一統旅客、同時に老練の司厨長、嵐よ来い。竜巻よ来い。弓矢、来い。氷山、来い。渦まく淵を恐れず、暗礁おそれず、誰ひとり知らぬ朝、出帆、さらば、ふるさと、わかれの言葉、いいも終らずたちまち坐礁、不吉きわまる門出であった。新調のその船の名は、細胞文芸、井伏鱒二、林房雄、久野豊彦、崎山兄弟、舟橋聖一、藤田郁義、井上幸次郎、その他数氏、未だほとんど無名にして、それぞれ、辻馬車、鷲の巣、十字街、青空、驢馬、等々の同人雑誌の選手なりしを手紙で頼んで、小説の原稿もらい、地方に於ては堂堂の文芸雑誌、表紙三度刷、百頁近きもの、六百部刷って創刊号、三十部くらい売れたであろうか。もすこし売りたく、二号には吉屋信子の原稿もらって、私、末代までの恥辱、逢う人、逢う人に笑われるなどの挿話まで残して、三号出し、損害かれこれ五百円、それでも三号雑誌と言われたくなくて、ただそれだけの理由でもって、むりやり四号印刷して、そのときの編輯後記、『今迄で、三回出したけれど、何時だって得意な気持で出した覚えがないのである。罵倒号など、僕の死ぬ迄、思い出させては赤面させる代物らしいのである。どんな雑誌の編輯後記を見ても、大した気焔なのが、羨ましいとも感じて居る。僕は恥辱を忍んで言うのだけれど、なんの為に雑誌を作るのか実は判らぬのである。単なる売名的のものではなかろうか。それなら止した方がいいのではあるまいか。いつも僕はつらい思いをしている。こんなものを、----そんな感じがして閉口して居る。殆ど自分一人で何から何迄、やって来たのだが、それだけ余計に僕は此の雑誌にこだわって居る。此の雑誌を出してからは、僕は自分の所謂素質というものに、とても不安を感じて来た。他人の悪口も言えなくなったし・・・・・・。こんな意気地のない狡猾な奴になったのが、やたらに淋しく思われもするのだ。事毎にいい子に成りたがるからいけないのだ。編輯上にも色々変わった計画があったのだが、気おくれがして一つもやれなかった。心にも無い、こんなじみなものにして了った。自分の小才を押えて仕事をするのは苦しいもんであると僕は思う。事実とても苦しかった。』先夜ひそかに如上の文章を読みかえしてみて、おのが思念の風貌、十春秋、ほとんど変わっていないことを知るに及んで呆然たり、いや、いや、十春秋一日の如く変らぬわが眉間の沈痛の色に、今更ながらうんざりしたのである。わが名は安易の敵、有頂天の小姑、あした死ぬる生命、お金ある宵はすなわち富者万燈の祭礼、一朝めざむれば、天井の板、わが家のそれに非ず、あやしげの青い壁紙に大、小、星のかたちの銀紙ちらしたる三円天国、死んで死に切れぬ傷のいたみ、わが友、中村地平、かくのごときの朝、ラジオ体操の音楽を聞き、声を放って泣いたそうな。シンデレラ姫の物語を考えついた人は、よっぽど、お話にもならないほど、不仕合せな人なのだ。マッチ売の娘の物語を考えついた人もまた、煙草のみたいが叶わず、マッチ点火しては、焔をみつめ、ほそぼそ青い焔の尾をひいて消える、また点火、涙でぼやけてマッチの火、あるいは金殿玉楼くらいに見えたかも知れない。年一年とくらしが苦しく、わが絶望の書も、どうにも気はずかしく、夜半の友、モラルの否定も、いまは金縁看板の習性の如くにさえ見え、言いたくなき内容、困難の形式、十春秋、それのみ繰りかえし繰りかえし、いまでは、どうやら、この露地が住み良く、たそがれの頃、翼を得て、ここかしこを意味なく飛翔する、わが身は蝙蝠、ああ、いやらしき毛の生えた鳥、葉のある蛾、生きた蛙を食うという、このごろこれら魔性怪性のものを憎むことしきり、これらこそ安易の夢、無智の快楽、十年まえ、太陽の国、果樹の園をあこがれ求めて船出した十九の春の心にかえり、あたたかき真昼、さくらの花の吹雪を求め、泥の海、蝙蝠の巣、船橋とやらの漁師まちより髭も剃らずに出て来た男、ゆるし給え。」
 痩躯(そうく)、一本の孟宗竹(もうそうちく)、蓬髪(ほうはつ)、ぼうぼうの鬚、血の気なき、白紙に似たる頬、糸よりも細き十指、さらさら、竹の騒ぐが如き音たてて立ち、あわれや、その声、老鴉(ろうあ)の如くに嗄(しわが)れていた。
「紳士、ならびに、淑女諸君。私もまた、幸福クラブの誕生を、最もよろこぶ者のひとりでございます。わが名は、狭き門の番卒、困難の王、安楽のくらしをして居るときこそ、窓のそと、荒天の下の不仕合せをのみ見つめ、わが頬は、涙に濡れ、ほの暗きランプの灯にて、ひとり哀しきは一筋、微笑の皺、夕立ちはれて柳の糸しずかに垂れたる下の、折目正しき軽装のひと、これが、この世の不幸の者、今宵死ぬる命か、しかも、かれ、友を訪ねて語るは、これ生のよろこび、青春の歌、間抜けの友は調子に乗り、レコオド持ち出し、こは乾杯の歌、勝利の歌、歌え歌わん、など騒々しきを、夜も更けたり、またの日にこそ、と約した、またの日、ああ、香煙濛々(もうもう)の底、仏間の奥隅、屏風の陰、白き四角の布切れの下、鼻孔には綿、いやはや、これは失礼いたしました。幸福クラブ誕生の日に、かかる不吉の物語、いや、あやまります。さて、この暗黒の時に当り、毎月いちど、このご結構のサロンに集い、一人一題、世にも幸福の物語を囁き交わさんとの御趣旨、ちかごろ聞かぬ御卓見、私たのまれもせぬに御一同に代り、あらためて主催者側へお礼を申し、合せてこの会、以後休みなくひらかれますよう一心に希望して居ることを言い添え、それでは、私、御指名を拝し、今宵、第一番の語り手たる光栄を得させていただきます。(少し前置きが長すぎだぞ!など、二、三、無遠慮の掛声あり。)私、ただいま、年に二つ、三つ、それも雑誌社のお許しを得て、一篇、十分くらいの時間があれば、たいてい読み切れるような、そうして、読後十分くらいで、きれいさっぱり忘れられてしまうような、たいへんあっさりした短篇小説、二つ、三つ、書かせていただき、年収、六十円、(まさか!など、大笑の声あり、満場ざわめく。)ひと月平均、いくらになりましょうか、(除名せよ!と声高に叫ぶ青年あり。)お待ち下さい。すこし言いすぎました。おゆるし下さい。たいへんの失言でございました。取消させていただきます。幸福クラブ、誕生の第一夕、しかし最初の話手が陰惨酷烈、とうてい正視できぬある種の生活断面を、ちらとでもお目にかけたとあっては、重大の問題、ゆゆしき責任を感じます。(点燈。)ありがたいことには、神様、今いちどだけ、私をおゆるし下さいました。たそがれ、部屋の四隅のくらがりに何やら蠢(うご)めき人の心も、死にたくなるころ、ぱっと灯がついて、もの皆がいきいきと、脊戸の小川に放たれた金魚の如く、よみがえるから不思議です。このシャンデリヤ、おそらく御当家の女中さんが、廊下で、スイッチをひねった結果、さっと光の洪水、私の失言も何も一切ひっくるめて押し流し、まるで異なった国の樹陰(こかげ)でぽかっと眼をさましたような思いで居られるこの機を逃さず、素知らぬ顔をして話題をかえ、ひそかに冷汗拭うて思うことには、ああ、かのドアの陰いまだ相見ぬ当家のお女中さんこそ、わが命の親、(どっと哄笑(こうしょう)。)この笑いの波も灯のおかげ、どうやら順風の様子、一路平安を念じつつ綱を切ってするする出帆、題は、作家の友情について。(全く自信を取りかえしたものの如く、卓上、山と積まれたる水菓子、バナナ一本を取りあげるより早く頬ばり、ハンケチ出して指先を拭い口を拭い一瞬苦悶、はっと気を取り直したる態にて、)私は、このバナナを食うたびごとに思い出す。三年まえ、私は中村地平という少し気のきいた男と、のべつまくなしに議論していて半年ほどをむだに費やしたことがございます。そのころ、かれは、二、三の創作を発表し、地平さん、地平さん、と呼ばれて、大いに仕合わせであった。地平も、そのころ、おのれを仕合わせとは思わず、何かと心労多かったことであったようだが、それより、三年たって、今日、精も根も使いはたして、洋服の中に腐りかけた泥がいっぱいだぶだぶたまって、ああ、夕立よざっと降れ、銀座のまんなかであろうと、二重橋ちかきお広場であろうと、ごめん蒙(こうむ)って素裸になり、石鹸ぬたくって夕立にこの身を洗わせたくてたまらぬ思いにこがれつつ、会社への忠義のため、炎天の下の一匹の蟻、わが足は蝿取飴(はえとりあめ)の地獄に落ちた如くに、----いや、またしても除名の危機、おゆるし下さい、つまり、友人、中村地平が、そのような、きょうの日、ふと三年まえのことを思って、ああ、あのころはよかったな、といても立っても居られぬほどの貴き苦悶を、万々むりのおねがいなれども、できるだけ軽く諸君の念頭に置いてもらって、そうして、その地獄の日々より三年まえ、顔あらわすより早く罵詈雑言、はじめは、しかめつらしくプウシキンの怪談趣味について、ドオデエの通俗性について、さらに一転、斎藤実と岡田啓介に就いての人物月旦、再転しては、バナナは美味なりや、否や、三転しては、一女流作家の身の上について、さらに逆転、お互いの身なり風俗、殺したき憎しみもて左右にわかれて、あくる日は又、早朝より、めしを五杯たべて見苦しい。いや、そういう君の上品ぶりの古陋頑迷(ころうがんめい)、それから各々ひらき直って、いったい君の小説----云々と、おたがいの腹の底のどこかしらで、ゆるせぬ反撥、しのびがたき敵意、あの小説は、なんだい、とてんから認めていなかったのだから、うまく折合う道理はなし、或る日、地平は、かれの家の家庭に、かねて栽培のトマト、ことのほか赤く粒も大なるもの二十個あまり、風呂敷に包めるを、わが玄関の式台に、どさんと投げつけるが如くに置いて、風呂敷かえしたまえ、ほかの家へ持っていく途中なのだが、重くていやだから、ここへ置いて行く、トマト、いやだろう、風呂敷かえせ、とてれくさがって不機嫌になり、面伏せたまま、私の二階の部屋へ、どんどん足音たかくあがっていって、私も、すこしむっとなり、階段のぼる彼のうしろ姿に、ほかへ持って行くものを、ここへ置かずともいい、僕はトマト、好きじゃないんだ、こんなトマトなどにうつつを抜かしていやがるから、ろくな小説もできない、など有り合せの悪口を二つ三つ浴びせてやったが、地平おのれのぶざまに、身も世もなきほど恥じらい、その日は、将棋をしても、指角力(ゆびずもう)しても、すこぶるまごつき、全くなっていなかった。地平は、私と同じで、五尺七寸、しかも毛むくじゃらの男ゆえ、たいへん貧乏を恐れて、また大男に洗いざらしの浴衣、無精鬚に焼味噌のさがりたる、この世に二つ無き無体裁と、ちゃんと心得て居るゆえ、それだけ、貧にはもろかった。そのころ地平、縞の派手な春服を新調して、部屋の中で、一度私に着せて見せて、すぐ、おのが失態に気づいて、そそくさと脱ぎ捨てて、つんとすまして見せたが、かれ、この服を死ぬほど着て歩きたく、けれども、こうして部屋の中でだけ着て、うろうろしているのには、理由があった。彼の吉祥寺の家は、実姉とその旦那さんとふたりきりの住居で、かれがそこの日当りよすぎるくらいの離れ座敷八畳一間を占領し、かれに似ず、小さくそそたる実の姉様が、何かとかれの世話を焼き、よい小説家として美事(みごと)に花咲くよう、きらきら光るストオブを設備し、また、部屋の温度のほどを知るために、寒暖計さえ柱に掛けられ、二十六歳のかれのとっては、姉のそのような心労ひとつひとつ、いやらしく、恥ずかしく私がたずねて行くと五尺七寸の中村地平は、眼にもとまらぬ早業でその寒暖計をかくすのだ。その頃生活派と呼ばれ、一様に三十歳を越して、奥様、子供、すでに一家のあるじ、そうして地味の小説を書いて、おとなしく一日一日を味いつつ生きて居る一群の作家があって、その謂わば、生活派の作家のうちの二、三人が、地平の家のまわりに居住していた。もちろん、地平の先輩である。かれは、ときたま、からだをちぢめて、それら諸先輩に文学上の多くの不審を、子供のような曇りなき眼で、小説と記録とちがいますか?小説と日記とちがいますか?「創作」という言葉を、誰が、いつごろ用いたのでしょう、など傍の者の、はらはらするような、それでいて至極もっともの、昨夜、寝てから暗闇の中、じっと息をころして考えに考え抜いた揚句の果の質問らしく、誠実あふれ、いかにもして解き聞かせてもらいたげの態度なれば、先輩も面くらい、そこのところがわかればねえ、などと呟き、ひどく弱って、頭をかかえ、いよいよ腐って沈思黙考、地平は知らず、きょとんと部屋の窓の外、風に吹かれて頬かむり飛ばして女房に追わせる畑の中の百姓夫婦を眺めて居る。そのように、一種不思議のおくめんなき人柄を持っていた地平でも、流石におのれ一人、縞の春服を着て歩けなかった。生活派の人たちにすまないと言うのである。私は、それについても、地平はだめだ、芸術家は、いつでも堂堂としていたい、鼠のように逃げぐち計りを捜しているのでは、将来の大成がむずかしい、僕もそのうち、支那服を着てみるつもりである、など、ああ、そのころは、お互いが、まだまだ仕合わせであったのだ。三年たって、私は、死ぬるほかに、全くもって、生きてゆく路がなくなった。昨年の春、えい、幸福クラブ、除名するなら、するがよい、熊の月の輪のような赤い傷跡つけて、そうして、一年後のきょうも尚、一杯ビイル呑んで、上気すれば、縄目が、ありあり浮かんで来る、そのような死にそこないの友人のために、井伏鱒二氏、壇一雄氏、それに地平も加えて三人、私の実兄を神田淡路町の宿屋に訪れ、もう一箇年、お金くださいと、たのんで呉れた。その日、井伏さんと、壇君と、ふたりさきに出掛けて、地平は、用事のために一足おくれて、その実兄の宿へ行く途中、荻窪の私の家へほんの鳥渡(ちょっと)、立ち寄って、私の就職のことで二、三、打ち合わせてから、井伏さんたちのあとを追って荻窪の駅へ、私も駅まで見送っていって、ふたり並んで歩くのだが、地平、女のようにぬかるみを細心に拾い拾いして歩くのだ。そのような大事のときでも、その緊張をほぐしたい私の悪癖が、そっと鎌首もたげて、ちらと地平の足もとを覗いて、やられた。停車場まで、きつく顔そむけて、地平が、なにを言っても、ただ、うんうんとうなずいていた。地平は、わざわざ服を着かえて呉れた。縞の模様の派手な春服。地平のほうでは、そのまえに二、三度、泣いたすがたを私に見つけられたことがあって、それがまた、私の地平軽蔑のたねになったのであるが、私はそのときはじめてのことなり、見せたくなくて、そのうちに両肩がびくついて、眼先が見えなくなって、ひどくこまった。一年すぎて、私の生活が、またもや、そろそろ困って、二、三人の人にめいわくかけて、昨夜、地平と或る会合の席上、思いがけなく顔を合せ、お互い少し弱って、不自然であった。私は、バット一本、ビイル一滴のめぬからだになってしまって、淋しいどころの話でなかった。地平はお酒を呑んで、泣いていた。私もお酒が呑めたら、泣くにきまっている。そのような、へんな気持で、いまは、地平のことのほかには、何一つ語れず書けぬ状態ゆえ、たまには、くつろぎ、おゆるし下さい。渡る世間に鬼がないという言葉がございますけれど、ほんとうだと思います。それに、このごろは、涙もろくなってしまって、どうしたのでしょう、地平のこと、佐藤さんの、佐藤さんの奥様のこと、井伏さんのこと、井伏さんの奥さんのこと、家人の叔父、吉沢さんのこと、飛島さんのこと、檀君のこと、山岸外史の愛情、順々にお知らせしようつもりでございまいたが、私の話の長びくほど、後に控えた深刻力作氏のお邪魔になるだけのことゆえ、どこで切っても構わぬ物語、かりに喝采と標題をうって、ひとり、おのれの心境をいたわること、以上の如くでございます。」
(2002.3.24)-2
 眠たいのだ。頭も少し痛い。なんもかんも宙ぶらりんになってしまった。足を乗せていた地面から離れてふらふらよろよろ浮き上がり、困ってしまってあたりを見回すけれども、手をかけられるようなものは、すぐ近くには見当たらない。そんな気分で、ぐずぐず遅くまで眠っている。そもそも夜眠れないのだ。ぎりぎりまで起きていないと嫌な焦燥が身を擦るようにして、心臓の辺りに纏わりついてくる。もう寝るのか、それでいいのか、おい、おい、ほんとにいいのか。死ぬぞ。そのうち、死にたくないうちに死んでしまわないとならなくなるぞ。いいのか、それでいいのか。口惜しくないか、独立どころか、コピーにもなれずに死んでいくのか。それでいいのか、わざわざここまで厚かましくも生き長らえてきたのは、何がためだったか。いいのか。いいのか。ずりずりいやらしい身体を擦り付けながら、そいつが聞いてくる。よくはないさ。いいなんて思ってない。破綻する前に、自らそこまで行きたいのだ。それは間違いない。確かに、それは、そうなのだ。しかし、起きていても、もう両手でも足りないくらいにまで増えてしまった、やろうと思っていることを、二つ三つ思い出してみて、さて今日はどれをやろうかと見渡すと、何をどうしていいのかが、どれもぱっとはわからないのだ。どれなら前に、いや、前でなくたって別に構やしないのだ、とにかく、ちょっとでも何かが変化を作れるのかと、とっかえひっかえ考えてみるのだけれど、そのくらいでわかる範囲のところまでは、どれもやってしまっているのである。どれも腹を据えてやらないと動かせないところまではやってしまっているのである。あれも、厳しい。これも、ちょっと今日中には。それは、もっと盛り上がったときでないと越えられない。そうして、無意味にあれこれ考えて、方法論ばかりを頭の中で弄り回して、当然ながらそれで時間はどんどん流れてしまい、気づいたときには何を始めるにも今日はもう時間がない、となる。仕方ない、もういいや、今日はいいや。無暗に本をつかんで、中途半端な頁に挿み込まれているしおりを抜いて、もうどこまで読んでいたのだか思い出せないから、開かれた頁のはじめから読み始める。当然文の途中からなのだが、気にしないで、読み始める。読んだ記憶があるけれど、その記憶だけで、内容までは全然覚えていない。何の話だかわからないときすらある。これでは全く役に立ってねぇ、などとちらりと考えながらも、面倒なのでそのまま読み続ける。それで、それまでの内容を思い出すこともあるし、いまいち思い出せずによくわからないまま読みつづけることもある。そのうち読むのにも疲れて、本を閉じると、何にも残っていない。今まで何にもしてなかったのと同じである。宙ぶらりんである。それで、眠たいのだ。春になったことでもあるし、眠たいのだ。頭も痛い。それからどうやらお腹の調子も悪いようだ。馬鹿な話である。一人で勝手にやっているだけなのである。一人で焦燥に駆られて心臓を絞り、一人で息も絶え絶えになって、こうしてぐずぐずしているのである。
 起きたくないのだけれど、今日は4月から通い始めるイラストレーションの学校の今年度の受講生の卒業展覧会へ行かねばならない日なのである。本当は昨日行くはずだったのだ。けれど、今のぼくはこんなで、寝坊したから、行かなかったのだ。展覧会の会期は月曜までである。だから、今日はどうでも行かなければならない。行って、一年後の自分の姿を垣間見ておかなければならない。行って、今年一年のこれからの嫌な日々を思い描いて、自分を慣らして、その日々への少しでも円滑な移行を助けなければならない。そんな目的で行くのだから、当然、行きたくなんて、全然、無い。見ている間中、嫌な味した唾がどこぞの涸れない湧水のようにあとからあとから湧き上がってきて、ぼくはそれを懸命にごくりごくりと飲み込みながら、それでも真面目にものを見ないことには何にもわからないので、グラデーションの色の選び方やら、色の載せ方やら、しげしげと眺め、自身のタッチを確定するためにしているであろう、工程の分け方等の努力を想像して、ああうめいなぁ、がんばっとるなぁ、これをやれるようになれないとならないのかぁ、とてもやれるようになるとは思えねいなぁ、それでもやんないとならないのだ、やれるようになるまでやらないとならないのだ、ああ、いやだ、いやだ、いやだ、などと愚痴愚痴やるのはわかりきっているのである。しかし、まだ愚痴愚痴を頭の中でやるだけなので、まだいいのである。おとなしいもんなのである。まだ、描いたものを破り捨てたり、涙を滲ませ半狂乱になって、当り散らしたり、蹲ったりはしないのである。そうなのだ、できるだけそうならないためにも、機会があれば、今からそういうものに自身を少しでも晒して、慣らしておかなければならないのだ。どちらにしても、そうなってしまうのだから、今から覚悟を決めてしまうように促さなければならないのである。これはどうしようもないことなのだ。しかしそうは言っても、やはりいやだ。いやなもんはいやなのである。ああ、行きたくない。寝ていたい。
 などと、30分ほど布団の中でぐだぐだとごねていたのだが、腹も減ってきたので、仕方なく起きることにした。この空腹というやつには真に恐れ入るばかりである。ぐうたら極まりないこのぼくを持ってしても、これにはやはり逆らい難い。これのためにいつもぼくは休日一日寝ていたいという、怠惰極まりない願いをいつも打ち破られているのである。ぼくは、月一くらいは点滴でもして、飯も食わずに廃人のように何にもせずに寝ていたい、と最近よく考えるようになっているが、実際にはこうしてたまの小さな頭痛や、アルコールが原因に間違いのない胃腸の不調くらいしか起こらない。ぼくは実に健康で、それは常々恨めしくさえあるのだが、とにかく、そういう状態はぼくには容易く手に入るはずもないのである。まことに失礼なことでわありますが、病人なる立場、とてつもなく羨ましゅう存じます。やはり、リストカットくらいはやって、強引に休息を手に入れたもんなのかどうか。など、実に不謹慎極まりなく、また自殺を軽々しく扱うような不誠実な、自身の欲求の誠実を根底から疑わざるを得ないようなアイデアなどもちらと浮かんで来たりなどして、このような朝は精神の荒廃も甚だしいのであります。それでも、しぶしぶ布団からもぞもぞ這い出して、ヘアバンドで髪をまくり上げて、顔を洗うと、少し元気が出てきて、ぐるぐる渦まいていた無駄口が消えてなくなるので、音楽をかけて、口ずさみながら着換えて、窓を開け放って部屋の外の桜をしげしげと眺めると、もう、少し散っているようである。気の早い話だ。空はなんだかかんだか、昨日のぐずつきを引きずっているようで、生ぬるい感じに雲っている。はっきりしない天気だ。今の気分に近いように感ぜられ、ちと不快になる。このような日こそ願わくば、うきうき出歩きたいような陽気であって欲しい。また布団にもぐり込みたくなってしまうではないか。などと、布団の中でさんざやっていた不平不満の残り粕を日曜の空へ向って放ってしまって、はい、もうさっぱりしたのです。さあ、飯を食いに行こう。
 曲の終わりまで、椅子に坐ってぼけぇっとして、切れ目のうちに素早く電源を切って、部屋を出る。
(2002.3.24)-3
日記に、四時間も、五時間も、かけるのは、断然、間違っていると、私ですら思います。
(2002.3.25)-1
明けて月曜、終電帰宅である。月末納期、相当やばし。実はそうかな、そうかな、思いながらも、知らぬ顔して、ばっちり金曜、休んでいたのであるが、予感的中、やはりそうであった。今週はもう、全然駄目そうである。へこへこしいしいやる他ない。そんなことはどうでもいいが、太宰節、習作のつもりで書き始めたる昨日の日記、続き書こうか迷っていたが、今日帰って、先頭の「喝采」、はじめから、も一度読み直し、それこそ喝采、ひそかに捧げおくりて、そのまま流れで、下手な自分のを読み始めた途端、こりゃあいけねぇ。ひどいもんである。全く、どうしようもねぇ。ちびとつまんで、みるのも嫌になった。もう春だし、ハイウェイドライブ、ガブリオレが楽しい季節になってまいりました。ほらほら、ごらんよ、大きなつり橋、夜にはふもとに、うじゃうじゃ走り屋が溜まるんだよ、など、かぶらなきゃいいのに、帽子押えて、顔のぞき込み、無邪気に笑うところへ、突如ガクンと急ブレーキ、前つんのめり、シートベルトなかったなら、屋根のないこの車である、危うく外へ放り出されるところであった。憤慨しつつ、訳を質せば、前行く自動車、軽である。ひどいポンコツ、法定速度ですら、全く出せていない。あいつのせいさ、割り込んできやがった。おかげで、せっかくの風切りも台無しである。ああ、ほら、もうこれもだんだん、辛くなってきやがった。全くぼくはだめである。ノウタリンである。まぁ、とにかく、内容がどうこう以前の話なのである。下手くそ過ぎて読めないのである。全くよい晒しもの。厚顔無恥とはこのことである。あんまりにもひどいもんだから、かえって目立って、「ろうの羽」など名づけ、抱き合わせにすれば、あるいは売れるかも知らん。え、ほんと、ほんとかい。えへへ、そうか、ならいいや、などと、見え透いた、意味のわからぬおだてを、かなしく、自分に言ってあげて、それを、自分で聞いてあげて、かなしく、それでも、下品に笑って、のりまくることに決めて、書いた分はそのままにすることにした。やれやれ、いつまで、無邪気に太宰の真似をしていられるのだろうか。甚だ心配であるが、今はそれなりに楽しいので、とりあえず、このままでいるつもりである。
(2002.3.25)-2
「火の川」を思い出す。完全にひとりになって散るのである。味方していたもの、全て、残らず敵にまわさねばならぬ。その上で更に全て巻き込んで燃え尽きるのである。もともと醜い商売なのである。最も醜い道をこそ、選んで逝け!///辻元氏に送る。
(2002.3.25)-3
ヒミズ、また休みのようだ。あの続き、ぼくには思いつかない。あそこで、他人の視点にしたのは痛恨の大失敗ではないかしら。自分が死んだあとに、それでも続く話など、どこにもないのだ。そうだ、やはり失敗であろう。それに違いない。しかしながら、だからこそ、ぼくはまだあの人に、一縷の望み、とやらを託している。死んで欲しくない。失敗すれば、死なないのだ。
(2002.3.26)-1
辻元氏、先のことを考えたようである。これからあたしはどうなってしまうのだろう。どこでどんなに暮らしてゆけるか。人の子たるもの、分別つかずに、のべつ幕なし、当り散らして、終にははじけて消える、というのは、これは、最も駄目で、人の子、失格である、そうだ。しかし、それではあなたが捨てたこれまで為してきた事の、それは誰も愛ではしないのである。あなたが捨てれば、それで終わり。腐って溶ける。されば、ぼくは嘲う事にする。あなたのこれまでの何年か、一笑に付し、その上に唾を吐く事にする。それらは全て、結局今日この日のためにあったのだ。さらば。
(2002.3.26)-2
義務と願望、死ぬと死なぬをいじりまわす。2*2の組み合わせ。偏るのは省いて、2通り。死ぬるは死なねば、死なぬは死にたくない。死ぬるは死にたし、死なぬは死んではならん、と。目移り激しく、行ったり来たり、右往左往、どころでなく、浮かんで沈んで、ぐるりと回って、果てなく、こは、まっこと、マーブルチョコレート。。。マーブルチョコレート?ちがう、コーヒーカップ、遠心分離機、大回転、火達磨、雪だるま、夏の花火、2尺玉、ドンと破れて、惑乱、卒倒、花吹雪、死にたい。死にたくない、死ね、死ぬな、死ねん、死なん。我。まるでなってない。駄目だ。さっぱりわからない。馬鹿みたいな空っぽの、難しい顔して、煙草を三本、吸っていた。話にならない。
(2002.3.26)-3
再起。ああ、なるほど、そういう考え方があるのか。そうか、そうか、それは、可能であるのなら、それは、いい。そっちのほうが、だいぶ、いい。頑張ってください。辛酸、恥辱の底の底まで舐めるのですね。耐え忍ぶ、忍従の二文字、そこへ行くのですね。全てのしがらみ、引き受けて、それでもまだ、希望の二文字、こちらは捨てぬと。しかしそれは、何の希望だ。ひとの後ろ暗いところ、抉って、抉って、自分は正義のヒーロー気取り。倒した敵の、頭踏みつけ、踏みにじり、仲間、観衆に、笑顔で、Vサイン。ああ、それがあなたの為したい事なのだ。馬鹿な女だ。どうしようもない、エゴイストだ。その厚顔、既に、ひとの顔に見えず。人形の美しさすら漂っている。いや、いいんだ。どうせ、醜い商売だ。それが、いい。脇腹貫く短剣の、その痛み。自らの血の色。知っていて、まだ、そうあろうと。その心意気、その覚悟、その履行。強い方だと、信じます。少し待ちます。唾、吐きません。汚い笑い、投げません。ぼくは何もしません。頑張ってください。
(2002.3.26)-4
小谷氏、「僕の絵」よくない。断然、よくない。全く、勢い足らない。CD、御行儀がよすぎる。ライブ版、やはり、こもっておる。あのとき、もしかして、君は、この歌、誰かに捧げていましたか。
(2002.3.27)-1
「薄明」太宰治。このとき、この男の中には希望があった。その命に、別の何かがついていた。己が大道の真中を、陽を受け、誠実な顔つきして歩いていた。普通のひとりの人間だった。

(薄明)
 東京の三鷹の住居を爆弾でこわされたので、妻の里の甲府へ、一家は移住した。甲府の妻の実家には、妻の妹がひとりで住んでいたのである。
 昭和二十年の四月上旬であった。聯合機は甲府の空をたびたび通過するが、しかし、投弾はほとんど一度も無かった。まちの雰囲気も東京ほど戦場化してはいなかった。私たちも久し振りで防空服装を解いて寝る事が出来た。私は三十七になっていた。妻は三十四、長女は五つ、長男はその前年の八月に生まれたばかりの二歳である。これまでの私たちの生活も決して楽ではなかったが、とにかく皆、たいした病気も怪我もせずに生きて来た。せっかくいままで苦労を忍んで生きて来たのだから、なおしばらく生きのびて世の成り行きを見たいものだという気持は私にもあった。しかし、それよりも、女房や子供がさきにやられて、自分ひとり後に残されてはかなわんという気持のほうが強かった。それは、思うさえ、やりきれない事である。とにかく妻子を死なせてはならない。そのために万全の措置を講じなければならぬ。しかし、私には金が無かった。たまに少しまとまったお金がはいる事があっても、私はすぐにそのお金でもってお酒を飲んでしまうのである。私には飲酒癖という非常な欠点があったのである。その頃のお酒はなかなか高価なものであったが、しかし、私は友人の訪問などを受けると、やっぱり昔のように一緒にそわそわ外出して多量のお酒を飲まずには居られなかった。これでは、万全の措置も何もあったものではない。多くの人々がその家族を遠い田舎に、いち早く疎開させているのを、うらやましく思いながら、私は金が無いのと、もう一つは気不精から、いつまでも東京の三鷹で愚図々々しているうちに、とうとう爆弾の見舞いを受け、さすがにもう東京にいるのがイヤになって、一家は妻の里へ移転した。そうして、全く百日振りくらいで防空服装を解いて寝て、まあこれで、ここ暫くは寒い夜中に子供たちを起こして防空壕に飛び込むような事はしなくてすむと思うと、これからさきに於いてまだまだ様々の困難があるだろう事は予想せられてはいても、とにかくちょっと安堵の溜息をもらしたという形であったのである。
 しかし、私たちは既に「自分の家」を喪失している家族である。何かと勝手の違う事が多かった。自分もいままで人並みに、生活の苦労はして来たつもりであるが、小さい子供ふたりを連れて、いかに妻の里という身近な親戚とは言え、ひとの家に寄宿するという事になればまた、これまで経験した事の無かったような、いろいろの特殊な苦労も味わった。甲府の妻の里はでは、父も母も亡くなり、姉達は嫁ぎ、一ばん下の子は男で、それが戸主になっているのだが、その二、三年前に大学を出てすぐ海軍へ行き、いま甲府の家に残っている者は、その男の子のすぐ上の姉で、私の妻のすぐの妹という具合になっている二十六だか七だかの娘がひとり住んでいるきりであった。その娘が、海軍に行っている男の子と手紙で甲府の家の事に就いてしょっちゅうこまごまと相談し合っている様子であった。私はその二人の義兄という事になっているわけだが、しかし、義兄なんてものは、その家に就いて何の実権のあるわけはない。実権どころか、私は結婚以来、ここの家族一同には、いろいろと厄介をかけている。つまり、たのみにならぬ男なのだから、義妹や義弟たちから、その家の事に就いて何の相談にもあずからぬのは、実に当然の事であって、また私にしても、そんな甲府の家の財産やら何やらには、さっぱり興味も持てないので、そこはお互いにいい按配の事であった。しかし、二十六だったが七だったか、八か、あらたまって尋ねて聞いた事も無いので、はっきりした事は覚えていないが、とにかくまあ、その娘ひとりであずかっている家に、三十七の義兄と三十四の姉が子供を連れてどやどやと乗り込んで、そうしてその娘と遠方の若い海軍とをいい加減にだまして、いつのまにやらその家の財産にも云々、などと、まさかそれほど邪推するひとも有るまいが、何にしても、こっちは年上なのだから、無意識の裡(うち)にも、彼等のプライドを、もしや蹂躪するという事になってやしないだろうか、とその頃の実感で言えば、まるで、柔い苔一ぱい生えている庭を、その庭の苔を踏むまいとして、飛び石伝いに、ひょいひょいとずいぶん気をつけて歩いているような姿であった。もっと、としをとって、世間の苦労も大いに積んで来た男がひとりこの家にいたら、私たちも、もう少し気楽なのではあるまいか、とさえ思われた。ネガチヴの気遣いも、骨の折れるものである。私は、その家の裏庭に面した六畳間を私の仕事部屋兼寝室として借り、それからもう一間、仏壇のある六畳間を妻子の寝室という事にしてもらって、普段の間代を定め、食費その他の事に就いても妻の里のほうで損をしないように十分に気をつけ、また、私に来客のある時には、その家の客間を使わずに、私の仕事部屋のほうにとおすという事にしていたのであるが、しかし、私は酒飲みであり、また東京から遊びに来るお客もちょいちょいあるし、里の権利を大いに重んずるつもりでいながら、つい申しわけのない結果になりがちの事が多かった。義妹も、かえって私たちには遠慮をして、ずいぶん子供たちの世話もしてくれて、いちども、いやな正面衝突など無かったが、しかし、私たちは「家を喪(うしな)った」者のヒガミもあるのか、やっぱり何か、薄氷を踏んで歩いているような気遣いがあった。結局、里のほうにしても、また、私たちにしても、どうもこの疎開という事は、双方で痩せるくらいに気骨の折れるものだという事に帰着するようである。しかし、それでも私たちの場合は、疎開人としても最も具合いのよかったほうらしいのだから、他の疎開人の身の上は推して知るべきである。
「疎開は、するな。家がまる焼けになる迄は、東京にねばっているほうがよい。」
 と私はその頃、東京で家族全部と共に残留している或る親しい友人に書き送ってやった事もあった。
 甲府へ来たのは、四月の、まだ薄ら寒い頃で、桜も東京よりかなりおくれ、やっとちらほら咲きはじめたばかりであったが、それから、五月、六月、そろそろ盆地特有のあの炎熱がやって来て、石榴の濃緑の葉が油光りして、そうしてその真紅の花が烈日を受けてかっと咲き、葡萄棚の青い小粒の実も、日ましにふくらみ、少しずつ重たげな長い総を形成しかけていた時に、にわかに甲府市中が騒然となった。攻撃が、中小都市に向けられ、甲府も、もうすぐ焼き払われる事にきまった、という噂が全市に満ちた。市民は全て浮き足立ち、家財道具を車に積んで家族を引き連れ山の奥へ逃げて行き、その足音やら車の音が深夜でも絶える事なく耳についた。それはもう甲府も、いつかはやられるだろうと覚悟していたが、しかし、久し振りで防空服装を解いて寝て、わずかに安堵せぬうちに、またもや身ごしらえして車を引き、妻子を連れて山の中の知らない家の厄介になりに再疎開して行くのは、何とも、どうも、大儀であった。
 頑張って見ようじゃないか。焼夷弾を落としはじめたら、女房は小さい子を背負い、そうして上の女の子はもう五つだし、ひとりでどんどん歩けるのだから、女房はこれの手をひいて三人は、とにかく町のはずれの田圃へ逃げる。あとは私と義妹が居残って、出来る限り火勢と戦い、この家を守ろうじゃないか。焼けたら、焼けたで、皆して力を合せ、焼け跡に小屋でも建てて頑張って見ようじゃないか。
 私からそれを言い出したのであったが、とにかく一家はそのつもりになって、穴を掘って食料を埋めたり、また鍋釜茶碗の類を一揃、それから傘や履物や化粧品や鏡や、針や糸や、とにかく家が丸焼けになっても浅間しい真似をせずともすむように、最小限度の必需品を土の中に埋めて置く事にした。
「これも埋めて下さい。」
と五つの女の子が、自分の赤い下駄を持って来た。
「ああ、よし、よし。」と言って、それを受取って穴の片隅にねじ込みながら、ふと誰かを埋葬しているような気がした。
「やっと、私たちの一家も、気がそろってきたわねえ。」
 と義妹は言った。
 それは、義妹にとって、謂わば滅亡前夜の、あの不思議な幽かな幸福感であったかも知れない。それから四、五日も経たぬうちに、家が全焼した。私の予感よりも一箇月早く襲来した。
 その十日ほど前から、子供がそろって眼を悪くして医者にかよっていた。流行性結膜炎である。下の男の子はそれほどでも無かったが、上の女の子は日ましにひどくなるばかりで、その襲来の二、三日前から完全な失明状態にはいった。目蓋が腫れて顔つきが変ってしまい、そうしてその目蓋を無理にこじあけて中の眼球を調べて見ると、ほとんど死魚の眼のように糜爛(びらん)していた。これはひょっとしたら、単純な結膜炎では無く、悪質の黴菌にでも犯されて、もはや手おくれになってしまっているのではあるまいかとさえ思われ、別の医者にも診察してもらったが、やはり結膜炎という事で、全快までに相当永くかかるが、絶望では無いと言う。しかし、医者の見そこない、よくある事だ。いや、見そこないのほうが多い。私は医者の言う事はあまり信用しない性質である。
 早く眼が見えるようになるといい。私は酒を飲んでも酔えなかった。外で飲んで、家へ帰る途中で吐いた事もある。そうして、路傍で、冗談でなく合掌した。家へ帰ったら、あの子の眼が、あいていますようにと祈った。家へ帰ると子供の無心の歌声が聞える。ああ、よかった、眼があいたかと部屋に飛び込んでみると、子供は薄暗い部屋のまんなかにしょんぼり立っていて、うつむいて歌を歌っている。
 とても見て居られなかった。私はそのまま、また外へ出る。何もかも私ひとりの責任のような気がしてならない。私が貧乏の酒くらいだから、子供もめくらになったのだ。これまで、ちゃんとした良市民の生活をしていたら、こんな不幸も起こらずにすんだのかも知れない。親の因果が子に報い、というやつだ。罰だ。もし、この子がこれっきり一生、眼があかなかったならば、もう自分は文学も名誉も何も要らない、みんな捨ててしまって、この子の傍にばかりついていてやろう、とも思った。
「坊やのアンヨはどこだ?オテテはどこだ?」
 などと機嫌のいい時には、手さぐりで下の男の子と遊んでいる様を見て、もし、こんな状態のままで来襲があったら、と思うと、また慄然(りつぜん)とした。妻は下の子を背負い、私がこの子を背負って逃げるより他しかたが無いだろうが、しかし、そうすると、義妹ひとりでこの家を守るなどは、とても出来る事でない。義妹もやはり逃げなければならぬだろう。この家は、焼けるままに放棄するという事になる。さらにまた聯合機の攻撃はこれまでの東京の例で見ても、まず甲府全市にわたるものと覚悟しなければならぬ。この子のかよっている医院も、きっと焼けるに違いない。また他の病院も、とにかく甲府には、医者が無くなる。そうすると、この子は失明のままで、どうなるのだろう。万事、休す。
「なんでもいい。とにかく、もう一月は待ってくれてもよさそうに思うがねえ。」
 と私は夕食の時、笑いながら家の者に言ったその夜、空襲警報と同時に、れいの爆音が大きく聞えて、たちまち四辺が明るくなった。焼夷弾攻撃がはじまったのだ。ガチャンガチャンと妹が縁先の小さい池に食器類を投入する音が聞えた。
 まさに、最悪の時期に襲来したのである。私は失明の子供を背負った。妻は下の男の子を背負い、共に敷蒲団一枚ずつかかえて走った途中二、三度、路傍のどぶに退避し、十丁ほど行ってやっと田圃に出た。麦を刈り取ったばかりの畑に蒲団をひいて、腰をおろし、一息ついていたら、ざっと頭の真上から火の雨が降って来た。
「蒲団をかぶれ!」
 私は妻に言って、自分も子供を背負ったまま蒲団をかぶって畑に伏した。直撃弾を受けたら痛いだろうなと思った。
 直撃弾は、あたらなかった。蒲団をはねのけて上半身を起こしてみると、自分の身のまわりは火の海である。
「おい、起きて消せ、消せ!」と私は妻ばかりでなく、その付近に伏している人たち皆に聞えるようにことさらに大声で叫び、かぶっていた蒲団で、周囲の火焔を片端からおさえて行った。火は面白いほど、よく消える。背中の子供は、目が見えなくても、何かただならぬ気配を感じているのか、泣きもせず黙って父の肩にしがみついてくる。
「怪我は無かったか。」
 だいたい火焔を鎮めてから私は妻の方に歩み寄って尋ねた。
「ええ、」と静かに答えて、「これぐらいの事ですむのでしたらいいけど。」
 妻には、焼夷弾よりも爆弾のほうが、苦手らしかった。
 畑の他の場所へ移って、一休みしていると、またも頭の真上から火の雨。へんな言い方だが、生きている人間には何か神性の一かけら、私たちばかりではなく、その畑に逃げて来ている人たち全部、誰もやけどをしなかった。おのおのが、その身辺の地上で焔えているベトベトした油のかたまりのようなものに蒲団やら、土やらをかぶせて退治して、また一休み。
 妹は、あすの私たちの食料を心配して、甲府市から一里半もある山の奥の遠縁の家へ、出発した。私たち親子四人は、一枚の敷布団を地べたに敷き、もう一枚の掛蒲団は皆でかぶって、まあここに踏みとどまっている事にした。さすがに私は疲れた。子供を背負ってこの上またあちこち逃げまわるのは、いやになっていた。子供たちはもう蒲団の上におろされて、安眠している。親たちは、ただぼんやり、甲府市の炎上を眺めている。飛行機の、あの爆音も、もうあまり聞えなくなった。
「そろそろ、おしまいでしょうね。」
「そうだろう。いや、もうたくさんだ。」
「うちも焼けたでしょうね。」
「さあ、どうだかな?残っているといいがねえ。」
 所詮だめとは思っていても、しかしまた、ひょっとして、奇蹟的に家が残っていたらまあどんなに嬉しかろうとも思うのだ。
「だめだろうよ。」
「そうでしょうね。」
 しかし、心では一縷の望みを捨て切れなかった。
 すぐ、眼の前の一軒の農家がめらめら燃えている。燃え始めてから燃え尽きるまで、実に永い時間がかかるものだ。屋根や柱と共にその家の歴史も炎上しているのだ。
 しらじらと夜が明けて来る。
 私たちは、まちはずれの焼け残った国民学校に子供を背負って行き、その二階の教室に休ませてもらった。子供たちも、そろそろ眼をさます。眼をさますとは言っても、上の女の子の眼は、ふさがったままだ。手さぐりで教壇に這い上ったりなんかしている。自分の身の上の変化には、いっさい留意していない様子だ。
 私は妻と子を教室に置いて、私たちの家がどうなっているかを見とどけに出かけた。道の両側の家がまだ燃えているので、熱いやら、けむいやら、道を歩くのがひどく苦痛であったが、さまざまに道をかえて、たいへんな廻り道をしてどうやら家の町内に近寄る事が出来た。残っていたら、どんなにうれしいだろう。いや、しかし、絶対にそんな事は無いんだ。希望を抱いてはいけない、と自分の心に言いつけても、それでも、もしかすると、と万一を願う気持が頭をもたげてどう仕様も無かった。家の黒い板塀が見えた。
 や、残っている。
 しかし、板塀だけであった。中の屋敷は全滅している。焼跡に義妹が、顔を真黒にして立っている。
「兄さん、子供たちは?」
「無事だ。」
「どこにいるの?」
「学校だ。」
「おにぎりあるわよ。ただもう夢中で歩いて、食料をもらって来たわ。」
「ありがとう。」
「元気を出しましょうよ。あのね、ほら、土の中に埋めて置いたものね、あれは、たいてい大丈夫らしいわ。あれだけ残ったら、もう当分は、不自由しないですむわよ。」
「もっと、埋めて置けばよかったね。」
「いいわよ。あれだけあったら、これからどこへお世話になるにしたって大威張りだわ。上成績よ。私はこれから食料を持って学校へ行って来ますから、兄さんはっこで休んでいらっしゃい。はい、これはおむすび。たくさん召し上がれ。」
 女の二十七、八は、男の四十いやそれ以上に老成している一面を持っている。なかなか、たのもしく落ちついてた。三十七になっても、さっぱりだめな義兄は、それから板塀の一部を剥いで、裏の畑の上に敷き、その上にどっかとあぐらを掻いて坐り、義妹の置いて行ったおにぎりを頬張った。まったく無能無策である。しかし私は、馬鹿というのか、のんきというのか、自分たちの家族のこれからの身の振り方に就いては殆ど何も考えぬのである。ただ一つ気になるのは、上の女の子の眼病についてだけであった。これからいったい、どんな手当をすればいいのか。
 やがて妻が下の子を背負い、義妹が上の女の子の手をひいて焼跡にやって来た。
「歩いて来たのか?」
と私はうつむいている女の子に尋ねた。
「うん、」と首肯く。
「そうか、偉いね。よくここまで、あんよが出来たね。お家は、焼けちゃったよ。」
「うん、」と首肯く。
「医者も焼けちゃったろうし、こいつの眼には困ったものだね。」
と私は妻に向って言った。
「けさ洗ってもらいましたけど。」
「どこで?」
「学校にお医者が出張してまいりましたから。」
「そいつぁ、よかった。」
「いいえ、でも、看護婦さんがほんの申しわけみたいに、----」
「そうか。」
 その日は、甲府市の郊外にある義妹の学友というひとのお家で休ませてもらう事にした。焼跡の穴から掘り出した食料やお鍋などを、みんなでそのお家に運んだ。私は笑いながら、ズボンのポケットから懐中時計を出して、
「これが残った。机の上にあったから、家を出る時にポケットにねじ込んで走ったのだ。」
 それは、海軍の義弟の時計であったが、私が前から借りて私の机の上に置いていたものなのだ。
「よかったわね。」と義妹も笑い、「兄さんにしちゃ、大手柄じゃないの。おかげで、うちの財産が一つ殖えたわ。」
「そうだろう?」と私は少し得意みたいな気持になり、「時計が無いとね、何かと不便なものだからね。ほら、お時計だよ、」と言って、上の女の子の手にその懐中時計を握らせ、「耳にあててごらん、カチカチ言っているだろう?このとおり、めくらの子のおもちゃにもなる。」
 子供は時計を耳に押しあて、首をかしげてじっとしていたが、やがて、ぽろりと落した。カチャンと澄んだ音がして、ガラスがこまかくこわれた。もはや修繕の仕様も無い。時計のガラスなんか、どこにも売ってやしない。
「なんだ、もう駄目か。」
 私は、がっかりした。
「ばかねえ。」と義妹は低くひとりごとのように言い、けれども、その唯一といっていいくらいの財産が一瞬にして失われた事を、さして気にも留めていない様子だったので、私は少しほっとした。
 そのお家の庭の隅で炊事をして、その夕方、六畳間でみんな早寝という事になり、けれども妻も義妹もひどく疲れていながらなかなか眠れぬ様子で、何かと身の振方などに就いて小声で相談している。
「なに、心配する事はないよ。みんなで、おれの故郷へ行くさ。何とかなるよ。」
 妻も妹も沈黙した。私のどんな意見も、この二人には、前からあまり信用されていないのである。二人は、めいめい他の事を考えているらしく、なんとも答えない。
「やっぱりどうも、おれは信用が無いようだな。」と私は苦笑して、「けれども、たのむから、こんどだけは、おれの言うとおりにしてくれ。」
 妹は暗闇の中で、クスクス笑った。そんなにおっしゃってもと、いうような気持らしい。そうして、すぐまた他の事に就いて妻とひそひそ相談をはじめる。
「それじゃまあ勝手にするさ。」と私も笑いながら言い、「どうも、おれは信用が無いので困る。」
「そりゃそうよ。」と妻は突然、あらたまったような口調で言い、「父さんは、いつでも本気なのか冗談なのかわからないような非常識な事ばかりおっしゃるんだもの。信用の無いのは当り前よ。こんなになっても、きっとお酒の事ばかり考えていらっしゃるんだから。」
「まさか、それほどでもなかろう。」
「でも、今晩だって、お酒があったら、お飲みになるでしょう。」
「そりゃ、飲む、かも知れない。」
 とにかく、このお家にもこれ以上ご厄介をかけてはいけない、明日、また他の家を捜そうという事に二人の相談はまとまった様子で、翌る日、れいの穴から掘り出した品々を大八車に積んで、妹のべつの知人のところへ行った。そこのお家は、かなり広く、五十歳くらいの御主人は、なかなかの人格者のように見受けられた。私たちは奥の十畳間を貸していただく事が出来た。病院も、見つけた。
 県立病院が焼けて、それが郊外の或る焼け残った建築物に移転して来たという事を、そのお家の奥さんから聞いたので、私と妻は子供をひとりずつ背負ってすぐに出かけた。桑畑のあいだを通って近道をすると、十分間くらいで行ける山の裾にその間に合わせの県立病院があった。
 眼科のお医者は女医であった。
「この女の子のほうは、てんで眼があかないので困ります。田舎のほうに転出しようかとも考えているのですが、永い汽車旅行のあいだに悪化してしまうといけませんし、とにかくこの子の眼がよくならなければ私たちはどこへも行けない状態で、ほんとに困ってしまって。」
などと私は汗を拭きながら、しきりに病状を訴え、女医の手当てのわずかでも懇切ならん事を策した。
 女医は気軽に、
「なに、すぐ眼があくでしょう。」
「そうでしょうか。」
「眼球は何ともなっていませんから、まあ、もう四、五日も通ったら、旅行も出来るようになるでしょう。」
「注射のようなものは、」と妻は横合から口を出して、「ございませんでしょうか。」
「あるには、ありますけど。」
「ぜひ、どうか、お願い致します。」と妻は慇懃(いんぎん)にお辞儀をした。
 注射がきいてきたのか、どうか、或は自然に治る時機になっていたのか、その病院にかよって二日目の午後に眼があいた。
 私はただやたらに、よかった、よかったを連発し、そうして早速、家の焼跡を見せにつれて行った。
「ね、お家が焼けちゃったろう?」
「ああ、焼けたね。」と子供は微笑している。
「兎さんも、お靴も、小田桐さんのところも、茅野さんのところも、みんな焼けちゃったんだよ。」
「ああ、みんな焼けちゃったね。」と言って、やはり微笑している。

(2002.3.27)-2
誤字、誤変換は笑って許して頂きたいのですが、いやできれば、短い忠告をひとつ、頂ければと願っているのですけれども、脱字到って、脱語、脱句、脱節、脱文、あまつさえ、脱段落なども全くないとは言えず、こちらはもう救いようがなく、うっかりとぼくが写したものがはじめてのものであったりなどすることを考えると、非常に申し訳なく思うのであります。ですから、少しでもよい、とお思いになりましたら、是非一度文庫本をご購入なさって、も一度読み直すことをお勧めいたします。いや、お勧めどころではないです、お願いします、そうしてください。やっぱり、ちゃんと、読んであげてください。お願いします。高くないです。500円玉一枚で、おつりが来ます。他の話もいくつも入っています。ね、ですから、そうしてください。お願いします。
(2002.3.27)-3
 強い春風と、久し振りの大粒の雨がいっぺんにやって来て、道は濡れたピンクで斑模様、え、もう来たの、などと、ぽかんと口を開けて呆けているうちに、春は、季節はずんずん先へ先へと進んでいくのだと、傘をぎゅっと掴んで、斜めに叩きつける雨風をどうにか防いで歩きながら、考えていた。
 4時過ぎには雨も風も通り過ぎて、あらしのあとの、紫の夕暮れ、ときがとまっていた。赤く眼腫らし、ひとしきり泣いて、泣きつかれて、なぜ泣いていたのかも少しは忘れ、ふと黙って、辺りは静か、ああ、晴れるのね、ずっとそこにはいられないのね、もう止してしまおうかしら。そんな気色。外へ出て、その中にぼくも混じって煙草を吸う。写真を採りたいと思った。でも、ぼくはきっと上手にとれないから、それよりわ、まだ、少しうまい、だいぶ好きな、書く事で、と、長い影が地面の凹凸をなぞるのを、建造物の、有機物、無機物の凹凸で折れ曲がるのを、濡れた薄暗い路地を、そこを通って買い物へ出る人を、潤んだ空気の先に広がる紫に染まった街並を、少しずつ撫でていった。
 桜の木がある。周囲の路面は薄ピンクに汚れている。今日の風雨にさらされて、花はそれでもまだ大分残っている。ぼくはときがとまっていると、また思って、その桜は美しいのだと、その下を歩いている女の人に教えてあげたく思った。

(2002.3.28)-1
馬鹿みたいに明るく晴れた朝だった。ぼくは眼が焼けて爛れるような気がした。身体が、日光で溶けて縮む気がした。光の波に、なんもかもかき消されるような気がした。蛞蝓、ひのもとでは居切れない。春よ。誇るな。
(2002.3.28)-2
Cocco戻ってこーい。あんたにゃあ、バレエの才能ねぇよ、きっと。他の商売の能力も不適格だよ、きっと。あんたは歌うだけだ。いいじゃない、甘い歌を歌えば。でれでれの、でれでれの、でれでれでれでれの、歌を、歌えば、いいじゃない。聴くさ。ああ、聴くさ。くぅー、妬けますなあ。聴くに堪えないのろけのでございますなぁ。言いながら。それでも、うっかりと、うっとりと、こっちもでれでれしながら、でれでれでれでれしながら、聴くさ。歌え。うーたーえー。誰のためでもいいや。誰のためでもなくていいや。ただ、歌え、歌え、歌え。そう、それは奴隷である。君の意思なんてものは、ねぇ、後回しさ。君は歌の奴隷。自分より先に歌があるのさ。その狂気、その激烈、熱情、劣情、雄叫び、絶叫、真実、存在、生命。そのとおる声、減衰、拡散せずに、空気中を一直線、真直ぐ耳へ。耳から、体内へ。人細胞と共振し、血を沸騰させる。その歌、まだ、聴きたい。聴き足りない。ずっと、聴き足らない。だから、一生、永遠、歌え。誰のためにでもなくて、いい。別に俺だけのためにでもいい。何でも、いい。歌うことを、それをばら撒くことを、もう一度。どうか、もう一度。それがあんたの道だ。他になんてありゃしねぇ。間違いねぇ。間違いねぇよ。だめ?だめ。そうか。惜しいなぁ。困ったなぁ。
(2002.3.28)-3
 太宰を、一言で言い表すとしたら。という、マニアックというか、ほとんど誰にも通じないであろう、命題に至極もっともらしく、答えてみた。「人間失格」などという、確かに事実ではあるけれども、少々オーバーアクションの気味、体操競技の着地、決めポーズにも似た、自虐を通り越してある、陶酔の域の単語。これは正しくないのである。「へどもど」が正しい。この男、へどもどしいしい生きたのである。麻痺すれば、そうでもなくなるのだ、という事実を容れなかったのである。慣れ、順応、適応、することかたくなに拒んで、ちょっとでもそちらに流れる気配あらば、ヒステリックなまでに敏感に反応し、そこで、へどもどせずは、我に非ず、人に非ず、と、病的なまでに「へどもど」に執着したのである。極端に逆上せ上がりを怖れたのである。ほうっておくと、それには際限の無いこと、自身が堕落したことにも気づけぬ程に堕落することを、知っていて、だめだ、それだけはやっちゃあならない、と常に警告、自身のうちに発して、自身を蔑み、否定し、痛めつけることに余念が無かった。それで、かえって人になれなくなってしまったのである。馬鹿である。一途に、馬鹿である。だからこそ、この男に、だれか、「ばか」と叫んで、ひしと抱しめてあげる、そんなひとはいなかったのか。100日それを、罵り拒んでも、唾吐きかけても、あまつさえ殴りつけることあっても、痛烈な裏切りすることあっても、それらを越えて、101日抱き続けてあげるひと、いなかったのか。人格改造、してあげるひと、いなかったか。ただ、よいなぐさみもの、ひどい男があったもんだ、そう言って、遠まきに、嘲うだけ、それだけか。そうか、それだけか。やはり、馬鹿は死ななきゃナントヤラ、それはもとより、詮方なき事。望むべくもない、奇蹟の幸福。しかし、それでもやはり、そんなひとが、どこかにいてあげても、あいつを見つけてあげても、よかったんじゃないか、と、ぼくは気弱く思う。やはり、遠まきに、である。遠い。
 しかし、「へどもど」という言葉は実にいい。擬音でも、形容詞、副詞でもなくて、それら全てなのである。仕草も、心理も、ひとこと、である。ぼくはこの単語を見て、久し振りに、言葉はすごいものだと、思った。
 しかし、実際に「人間失格」を書いたときには、あるいは、本当にその域であったのかも知れない。あれもひどくきれいなのだ。

(2002.3.29)-1
詰まらない話を、詰まらないな、と思いながら少しずつ書いている。数日に一度、一回四百字から八百字、先を考えた分だけ書いている。先を考えていないから、どう終えるのか知らない。とりあえず書く字数分だけ、先を考える。そうして、ぼそぼそ書いて、ようやく五千字。実に詰まらない、何にもない話になった。この先もそうであろう。もう、それ以外にはなりようがない。それでも、おしまいまで書いて、そうして、も一度読み返し、読み終え、最後の"。"を見て、鼻で笑ってボツにする。そのために書いている。そんな暇があったら、他の事をしたらきっと、いいのだろうけれど、その先が四百から八百字分ずつ、ぼつぼつ思いつくので、また比較的速く書けるので、止さないでいる。詰まらない話というのは、煙草を吸うのと同じ感じでできてゆくものらしい。


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