などと、太宰の「ラプンツェル」とCoccoの詩をグジャグジャに並べ立ててみましたが、この二人の間に共通する性質が何となく感じていただけたでしょうか。これをもって、Coccoの3rdアルバムのタイトル及びそのジャケットの絵の元となったのが、太宰の「ラプンツェル」だと言ってしまうのは、しかしながら、甚だ飛躍の多い話だとは思いますが、ぼくとしましては、ぼくの感じたところが、何となくわかっていただければそれで結構なのでございます。さらに細かい部分をひとつひとつ対応させ、それで以って証明しようという気にはあまりなれません。そういうものではない気がするのです。Coccoがそれを読んで自分とダブるように感じた時、今までの自分の作ってきたものをいちいち確認したわけではないでしょうし、ぼくがそれを読んでそうではないのか、と感じたときにも、このような作業をして、いちいち確認してから感じたわけではありません。ですから、この駄文を読んでくださっている非常にお暇な方にも、そういった印象を何となく感じていただければぼくは満足なのです。こういう事柄は、そんなものでいいのではないかなと、ぼくは思っているのです。よくある引用のひとつひとつに、いちいち註釈を附けてゆくという、あれはぼくはあまり好きになれないのです。やっているうちに、そちらの揚げ足取りばかりに目が向いてしまって、肝心なことがどこかへ行ってしまう、そんな気がするのです。
などと、恰好良く言ってはみても、そのような事がうまく出来ているかどうかには全く自信がありません。こうして断片的に並べてしまうことで、かえって、双方のよさを殺してしまっている感が強い気がしてきて、実にうんざりなのですが、それはひとえにこれを組立て、書いているぼくがヘタクソなせいでありまして、「ろまん燈籠」も、Coccoの歌もそれぞれに素晴らしいものでありますので、できたらそれぞれ個別に楽しんで頂けると、こんな駄文を長々書きしたためてしまったぼくといたしましては、幸いで、嬉しく思うのでございます。
「ろまん燈籠」、よい話です。入江五兄弟もよい味を出していますので、楽しみは2倍であります。60ページほどのものです。ですので、読むのにそんなに時間はかからないと思います。少なくとも、ぼくの書いたこんな駄文を読んでいるような、物好きな方には、苦にならない長さだと思います。太宰の文は、読んで疲れないように気を遣って、いつも丁寧に書かれてありますし。
それから、Coccoの歌も、今更に言うのも馬鹿馬鹿しいですが、非常によろしい。いなくなって一年経ちましたが、巷のCD屋さんにはまだまだ置いてあるはずですので、買って聴いて下さい。「遺書」「SING A SONG -NO MUSIC, NO LIFE-」「Sweet Berry Kiss」「もくまおう」あたりがぼくのお気に入りです。他も、当り前ですが、いいです。
それから、太宰の「ラプンツェル」の話の筋は、抜粋したところから大体判別がついてしまうと思いますが、簡単に補足しておきますと、塔から連れ出されたラプンツェルは、王子とともにお城へ戻り、4年前の王子の命の恩人であると、その美貌も手伝って大歓迎。王様、お妃様にも可愛がられて、晴れて王子と結婚と相成りまして、お城で暮し始め、そのうちに子を身ごもり、それがめでたく生れますけれども、その歓びもつかの間、ラプンツェルはそのせいで死の床に伏せてしまい、王子は必死に、「なんでもいいから生きてくれ」とお祈りをします。と、どこからともなくラプンツェルの母親、つまり魔女が現れまして、王子に「その言葉、本当だね?」と問いかけます。そして、魔女の家系の忌まわしい宿命を語り、「死ぬか、顔が私のように醜くなるけれども生き残るか」の選択を王子に迫ります。ラプンツェルは死を望みますが、王子は、「私はラプンツェルを愛しているのだ。たとえ顔が二目と見れぬ醜いものになろうとも、私は生きていて欲しい。」と魔女に告げます。それをうけて、魔女は「よろしい。」と、ラプンツェルを生かす為の儀式の準備に取り掛かるのでありました。
つづきは、本編を読んでのお楽しみ。それでは。