tell a graphic lie
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(2002.7.1)-1
原罪という言葉があるが、これは全く役に立たない。太宰の言う、牛太郎である。「へへへ、みんな同じ人間じゃあねえか」馬鹿言え。
(2002.7.1)-2
死ねるのなら、それがよい。けれども、我が力及ばずして、おずおずと「生きることになりました」頭下げるのなら、もう喋るし、笑う。生きて、負ける。勇気を諦める。
(ア、秋)
 本職の詩人ともなれば、いつどんな注文があるか、わからないから、常に詩材の準備をして置くのである。
「秋について」という注文が来れば、よし来た、と「ア」の部の引き出しを開いて、愛、青、赤、アキ、いろいろのノオトがあって、そのうちの、あきの部のノオトを選び出し、落ちついてそのノオトを調べるのである。
 トンボ。スキトオル。と書いてある。
 秋になると、蜻蛉も、ひ弱く、肉体は死んで、精神だけがふらふら飛んでいる様子を指して言っている言葉らしい。蜻蛉のからだが、秋の日ざしに、透きとおって見える。
 秋ハ夏ノ焼ケ残リサ。と書いてある。焦土である。
 夏ハ、シャンデリヤ。秋ハ、燈籠。とも書いてある。
 コスモス、無残。と書いてある。
 いつか郊外のおそばやで、ざるそば待っている間に、食卓の上の古いグラフを開いて見て、そのなかに大震災の写真があった。一面の焼野原、市松の浴衣着た女が、たったひとり、疲れてしゃがんでいた。私は、胸が焼き焦げるほどにそのみじめな女を恋した。おそろしい情慾をさえ感じました。悲惨と情慾とはうらはらのものらしい。息がとまるほどに、苦しかった。枯野のコスモスに行き逢うと、私は、それと同じ痛苦を感じます。秋の朝顔も、コスモスと同じくらい私を瞬時窒息させます。
 秋ハ夏ト同時ニヤッテ来ル。と書いてある。
 夏の中に、秋がこっそり隠れて、もはや来ているのであるが、人は、炎熱にだまされて、それを見破ることが出来ぬ。耳を澄まして注意をしていると、夏になると同時に、虫が鳴いているのだし、庭に気をくばって見ていると、桔梗の花も、夏になるとすぐ咲いているのを発見するし、蜻蛉だって、もともと夏の虫なんだし、柿も夏のうちにちゃんと実を結んでいるのだ。
 秋は、ずるい悪魔だ。夏のうちに全部、身仕度をととのえて、せせら笑ってしゃがんでいる。僕くらい炯眼(けいがん)の詩人になると、それを見破ることができる。家の者が、夏をよろこび海へ行こうか、山へ行こうかなど、はしゃいで言っているのを見ると、ふびんに思う。もう秋が夏と一緒に忍び込んで来ているのに。秋は、根強い曲者である。
 怪談ヨロシ。アンマ。モシ、モシ。
 マネク、ススキ。アノ裏ニハキット墓地ガアリマス。
 路問エバ、オンナ唖(おし)ナリ、枯野原。
 よく意味のわからぬことが、いろいろ書いてある。何かのメモのつもりであろうが、僕自身にも書いた動機が、よくわからぬ。
 窓外、庭ノ黒土ヲバサバサ這イズリマワッテイル醜キ蝶ヲ見ル。並ハズレテ、タクマシキガ故ニ、死ナズ在リヌル。決シテ、ハカナキ態ニハ非ズ。と書かれてある。
 これを書きこんだときは、私は大へん苦しかった。いつ書きこんだか、私は決して忘れない。けれども、今は言わない。
 捨テラレタ海。と書かれてある。
 秋の海水浴場に行ってみたことがありますか。なぎさに破れた絵日傘が打ち寄せられ、歓楽の跡、日の丸の提灯も捨てられ、かんざし、紙屑、レコオドの破片、牛乳の空瓶、海は薄赤く濁って、どたりどたりと浪打っていた。
 緒方サンニ、子供サンガアッタネ。
 秋ニナルト、肌ガカワイテ、ナツカシイワネ。
 飛行機ハ、秋ガ一バンイイノデスヨ。
 これもなんだか意味がよくわからぬが、秋の会話を盗み聞きして、そのまま書きとめて置いたものらしい。
 また、こんなのも、ある。
 芸術家ハ、イツモ、弱者ノ友デアッタ筈ナノニ。
 ちっとも秋に関係ない、そんな言葉まで、書かれてあるが、或いはこれも、「季節の思想」といったようなわけのものなのかも知れない。
 その他、
 農家、絵本。秋ト兵隊。秋ノ蚕。火事。ケムリ。オ寺。
 ごたごた一ぱい書かれてある。
太宰「短篇集」より

(2002.7.1)-3
まいにち、このくらい丁寧に書けたらいいのにね。せめて、文中のカンニングペーパーくらいにはなるように、せいぜいがんばりませう。
(2002.7.1)-4
手を伸ばすとどうなるんだろう。
(2002.7.3)-1
心臓が小さくて。
 両手をそっと、上からかぶせて護ってあげます。手のひらのドームは合わせた指の隙間からにじむ日ざしで、ほんのり薄明るく、暖かくなっています。
 しばらくそうしていてあげたら、中で何だかもぞもぞしているから、「開けてもいい?」と聞いてみました。
「。。。だめ」
 もぞもぞしながら、小さく掠れた声で言うのです。
「何をしているの?」重ねてたずねても、
「。。。何でもない」
 やっぱり少し間を開けて、もぞもぞしながら、返事が返って来ます。その声には、何だか少し迫力があるように思えました。
「そう。。。」仕方がないので、それからしばらく黙ってじっとしていました。
 そのまま、5分ほど経ったでしょうか。その間中も、かぶせた両手の中では、相変わらずときどきもぞもぞ動いているのです。少しくすぐったくて、とても気になるのです。「ねえ、何してるの?ねえ、開けてもいい?」もう一度きいてみます。けれども、返事はやっぱり、
「。。。駄目」
 こうなると、中で何をもぞもぞやっているのか、とても気になります。是非、手を開いて中を見てみたい。けれども、返事は頑なにそれを拒んでいる。勝手に開けてしまってもよいのだけれども、「駄目って言ったでしょう」と叱られるのは、やっぱりいやです。でも、見てみたい。
 そこで、まずはご機嫌うかがいをすることにしました。「中は暖かい?」
 返事はありません。「窮屈だったりはしない?」
 やっぱりありません。軽く溜息をついて、もう少し続けてみます。「あ、柿の木に小鳥が二羽やって来た。あれは夫婦かしら。恋人同士かしら。それとも、お友達かしら。何ていう鳥だろう。中がよさそうにチュルチュルさえずっている。ねえ、あの鳴声、聴こえる?何ていう鳥かしら。小さな鳥だわ」
「。。。メジロ。知らないの?」
「ああ、あれが、メジロなの。そう。きれいな鳥ね」あの二匹がメジロだということは、実は知っていましたが、それは言わずに少し微笑んで、しばらくの間、どうやらつがいらしき二羽のそのメジロを眺めていました。仲の良いつがいは、庭の木々の間を交互にパタパタ飛び交いながら、チュクチュク楽しそうにおしゃべりをしています。ときどき何か餌をつまんでいるようです。「楽しそうね」ぽつりと呟いていました。
 そのうちに、そのつがいはどこかへ飛び去って行ってしまいましたが、気がつくと、かぶせた両手の中のもぞもぞは止んでいるようです。きっとメジロのさえずりに耳をすましていたのでしょう。「ねえ、何をしているの?」もう一度たずねてみました。
「。。。何も。。。」
 やっぱり、すげない返事なのですけれども、声を聴くかぎりでは、先ほどのような拒絶の意思が幾分和らいでいるように思えます。もう大丈夫かも知れません。意外とすんなりとゆきました。
「ねえ、あけるよ」
 今度は、質問ではなく、意思表示のとして話し掛けました。そして、返事を待たずに覆った手をよけたのでした。驚いて、うずくまらせた顔をこちらへ向ける、そこには目蓋を赤く腫らした瞳がありました。
 何だか興ざめしてしまって、そっとまた両手をかぶせてあげました。
 もう、興味半分では、決して開きません。
(2002.7.6)-1
 カミキリムシを二晩飼っていた。動かずに背中を丸めて、黙ったままディスプレイをただ見つめている眠れぬ夜、部屋のすみから虫一ぴき飛ぶ音が聴こえてくる。羽音や、少し飛んでは壁などにあたり、やむなく飛行を中断している様子から察するには、入りこんだ虫はどうやら甲虫類のようである。部屋に入りこんでくる虫は、蜂やら虻やら、人を刺すものであるとやはり少し困るものであるし、蝶やら蛾ようなものであると、あのこれみよがしの虚無的な飛行様式が癇にさわるので、できるだけはやく部屋から出ていってもらえるよう何らかの措置を執るのであるが、その他の虫については、ぼくは特に何もしないのである。この日も、ぼくは羽音を聴きながら、きっとカナブンだろうなど思っていた。カナブンは部屋に侵入する甲虫の中では最も一般的な虫であろう。みどり色の光沢がある身体できれいなのだが、あまり珍しくないのと、甲虫にしては動きがせわしないためであろうか、あまり人気が無かった。それでも、住宅地ではあるけれども、こんな都会の真中に、カナブンでもいることは、少し微笑ましく思ってその羽音を聴いていた。
 しばらくすると、ディスプレイの上の明りに寄せられたのであろう、明りの裏から、その虫が姿を現した。それに気付いて何となく見あげると、明りの裏からであったので、姿がはっきりとわからないのであるが、二本の触角を左右に長く振っている。やや、これはカナブンではない。となると、ゴキブリか。ゴキブリが部屋の中をぶんぶん飛び回っていたのか。そう思い、一瞬背中に冷たいものを当てられたようにぞくっとしたのであるが、なおよくよく見てみれば、その触角はゴキブリにしては太く丈夫で、節くれだって黒白のストライプの模様が附いている。黒い身体にも白い斑点がついている。どうやら、カミキリムシのようである。ゴマシオなんとか、などというやつであっただろうか。いや、懐かしい。小さい頃に何度か採ったことがある。
 何を思ってか、こんな部屋に入りこんだこの奇特なカミキリムシも、まあ、勝手に入ってきたのであるから、一晩すればまた勝手にどこかへ好きなところへ行ってしまうだろう、などとぼくは安易に考え、とりあえずさせるがままにしておこうと決めて、放っておくことにした。しかし、今ぼくの部屋の中で一ばん明るい場所は、ディスプレイの周りなのである。ちょっとどこかへ行ったと思っても、また直ぐにあの不器用な飛び方をして真っ直ぐ明りのもとへ舞い戻ってくるのである。ディスプレイの上を這い廻ったり、あまつさえ、キーボードを横断しようとしたりするのである。蜂やら蝶やらよりもよっぽど迷惑であった。早くどこかへ行ってもらいたい気がしたけれども、しかし、今のぼくは虫に触ることができないのである。いや、虫ばかりではく、動物一般に触れることができないのである。みな等しく恐いのである。ひともみな。
 つづき10行書いてようやく気がついた。こんなことを話そうと思っていたのではなかった。ここは消そう。Delete。ともかく、そういったわけで、ぼくはカミキリムシに触れないし、部屋の明りがあるのに、わざわざ出てゆく虫もあまりあるものではなく、その晩はこのカミキリムシに全くいいようにのさばられ、ぼくはびくつき苦笑して、どちらがこの部屋の主かわかったものではないような体たらくで、ぼくは仕方なくふて寝を試みるというようなことになったのであった。その晩は、浅く寝苦しい夜であった。
 あくる日、部屋に戻ってみると、やはりどこからかぶんぶん羽音が聴こえてくる。カミキリムシは、まだ部屋にいるようである。やあ、この部屋はそんなに気に入ったのか。など、ぼくは昨日のうらみはすっかり忘れて気安く、先夜のはじめと同様、特に気に留めていなかったのだが、パソコンの電源を入れ、明りをつけると、やはり昨日と同じく、その近くへ寄ってくる。そのうちに、何を思ったのか、カミキリムシは、ぼくが座って胡坐をかいていたクッションの下にもぐりこんだのである。ぼくは気になった。潰してしまわないだろうか。潰すのはゴメンである。それが一ばん嫌である。仕方なくそっとぼくは尻を浮かせて、敷いていたクッションをパッとどけてみた。案の定、ごましお模様のカミキリムシは、そこで二本の触角をやはりひゅるひゅると振っていた。けれども、その振りにはどこか力が無いように見えた。隠れていたクッションをどけられて、カミキリムシはまた別の隠れ場所を探そうとしてか、のそのそ這い廻り始めたが、その足取りも何かぎこちない。じっと見れば、足が震えているのである。満足に歩くことができないようである。この虫が下に潜りこむのを見てからは、ぼくは潰さないよう慎重に動かないようにと、固まっていたつもりであったが、あるいはそれでも少し潰してしまったのだろうか。いやいや、そんなことは無いはずである。しかし、なんだかいやな気がしてきた。
 考えてみれば、ぼくの方も悪いのである。屋内にふらりと迷い込んできた虫の大半は、自ら入り込んではずの隙間をも、再び見出すことのできないものなのだった。こんなことも忘れていたのである。これはおそらくどうやら、部屋から出ようとあちこち飛び廻っては壁にぶちあたり、ぶちあたりし、その上、おそらくまる一日何も食べていなかったので、すっかり弱ってしまっているのだろう。きっとそうだ。勝手に出てゆくなどということはこのカミキリムシにはできないのだ。ああ、そうだったか。出たい出たいとあちこち飛び廻って、虚しく身体を弱らせていたのか。カミキリムシは部屋の隅で壁の方を向いて触角をひゅるひゅる振っている。外へ出たいのか。
 カミキリムシはまたディスプレイの上を這い廻り始めた。明らかに弱っている様子である。ぼくは片肘をついてその歩きまわる様を眺めた。じっと眺めた。やはり、出してやらなければならないだろう。何のことは無い、ただちょっとこいつをつまみ上げて窓を開けて、ポイと捨てればいいだけである。たったそれだけである。たったそれだけのことをぼくはためらっているのである。生きものが恐いのである。しかし、出してやらねばなるまい。このままではこのカミキリムシはこの部屋の中で息絶えることになるだろう。けれども、明日になればぼくはまた、もうこのカミキリムシのことなどすっかり忘れて、自分のことばかりばかり考え、そればかりであちこちをさまようばかりだろう。カミキリムシの死骸は部屋の家具の裏などに隠れて、長い間見つかることはなく、半年一年経って、ぼくはひっくり返って足を縮め、中身の無くなったその亡骸を、掃除の折などにふいに見つけて、そうしてひどい気持になるに決まっているのである。ぼくが見殺しにしたのである。そして、死骸はこの部屋の隅でひっそりと埃をかぶっていたのである。そうなったのは直接的にぼくの咎である。それこそ、本当に、ぼくを殺してしまうことになるかもしれない。
 これはどうでも出ていってもらわないといけない。ぼくはこのカミキリムシに部屋から出て行ってもらうことにした。つまみあげて外へ出すのである。それだけである。窓を開けて、「こっちよ」など無意味にやさしく語りかけたり、窓の傍に明りを持ってゆき、他の部屋の明りを一度消して辛抱強く待つなど、そのようなまどろっこしい方法はとらないのである。ぼくがカミキリムシをつまむことができないのは、純粋に精神的な問題なのである。ただ、目の前で生きているものをわけなく恐しいと思いこんでいるだけなのである。実際には別に何でもないのである。恐くもなんともないのである。つまめばいいのである。それは知っているか、愚かな子よ。
 カミキリムシは弱って震え、おぼつかない足取りながらもディスプレイの上を這い廻り、その裏側へ廻りこもうとしているようだった。ぼくは黙ってカミキリムシの腹を右手の親指と人差し指でつまみ上げた。垂直なディスプレイに貼りついていたとは思えないほどあっけなく、ごましお模様の身体はディスプレイの壁面を離れた。身体が宙に浮いたカミキリムシは驚いて、触角でつまみ上げたぼくの二本の指に触って、それから身体をキイキイと軋ませた。そうだった。カミキリムシはつまむと、頭を振って鳴くのだった。外へ出れるのだ。鳴くな。少し我慢しろ。もうこんなところに居なくてもいいのだ。こんなところで死ななくてもいいのだ。そうだろう。泣かないでくれ。少しの辛抱だから。
 窓を開けてカミキリムシを遠くへ放った。蒸し暑い夜の闇の中には生ぬるく気だるい風が右手方向から流れていた。葉の揺らぐ音は観客たちのざわめきのように感じられた。ぼくは窓を閉めて、またディスプレイの前に胡坐をかいて、それから思い出したように身体を後ろへひねって、扇風機のスイッチを入れた。
 ここは死に場所としては相応しくないはずである。
キイキイとないた

(2002.7.8)-1
盥に放たれ捨て置かれた夜店で掬った赤い金魚。陽光に茹でられ、酸欠で窒息する。
(2002.7.8)-2
金魚も一個。我も一個。驚くには値せず。
(2002.7.8)-3
少しでも書こうとすると、脳のあちこちから封鎖をくらう。使えるのは、わずかに残った隙間に漂う、ゴミ屑に等しい一片の言葉ばかりだ。少しも展開できない。
(2002.7.8)-4
不思議な感覚ではある。総てが景色でしかない。しかし、それでも、そのどこかにぼくはしがみついているのである。そうでなければ説明がつかない。
(2002.7.8)-5
先夜眠れず包丁を取り出して両手で握り、腹に向け、そのまま20分ほど考えた。全て命乞いであった。「まあ、いいだろう」と言うのである。腹をなぞってもみたが、切り裂けるのを恐れた。これは何であるか。これは何であるか。なぜ「いいだろう」言うのか。越えるには何が必要なのか。
(2002.7.9)-1
なんとか何も無しにすることはできないだろうか。
(2002.7.9)-2
ありふれた逆説をひとつ置いておこう。今このときが、ぼくの全時間の中で、最も生きていると言える時間であるかもしれない。四六時中心臓を意識している。ぼく自身とそれ以外の全てとの境界線がこれほど明確になったことも無い。生存の欲求を確かにぼくは持っている。自殺の願望も確かにぼくは持っている。時は流れる。それと精確に同じだけ、ぼくは今生きている。
(2002.7.9)-3
これは確かに嘘であった。棺桶に片脚をつっこんでおいて、この言い草は無い。これは何であるか。これを思うぼくは何であるか。
(2002.7.10)
ぼくを殺してくれないか。
(2002.7.12)-1
孤独の意識が大きくなる。分裂が起りかけている気がする。虚数空間のように。ぼくのどこかが、どこか触れないところへ滑り、潜り込んで行く。ぼくがあることが、擦り減って稀薄になる。ぼくは残ることになるのか、行くことになるのか。
(2002.7.12)-2
ぼくは捨てるのか。これは繋ぎとめる手だ。何かが残ろうとしている。奈落の闇の奥底こそ約束の地である、と呟く口の。落下の感覚はいずれ麻痺する。繋ぎとめる手は、これは救いの手か、最後の手か。この問いの先にある、疲労した失笑こそが真の
(2002.7.12)-3
太宰は4度死んでそれを捨てた。虚構の神。
(2002.7.12)-4
ぼくが死んでも、これはデータだ。サーバに残る。マシンに残る。それはそうか。捨てるべきか。
ぼくが死ねば、これはデータだ。ただのビット列。吹き溜まりにたまった濁った風だ。捨てるべきか。消えるべきか。
捨てて何になろう。眠たくなるだけだ。祈りは湧き上がるのか。

(2002.7.12)-5
塵になるんだ。砂になる。翼は要らない。ただそこに在ればよい。ただそこに在ればよい。
(2002.7.12)-6
焼き棄てられるべき日記である。けれども、この先にある希望については今は言わない。それは今のぼくの力では言葉にしない。穢れてしまう。最後の女神の容姿について。
(2002.7.12)-7
夏に枯れる花。蝉が果てることについて。あたしはどうやら微笑する、という事をおぼえたようです。
(2002.7.12)-8
止まったこころからこぼれることば。言葉ことば言葉。
(2002.7.12)-9
憐憫でもって見つめるのなら。どうか、止してくれ。
(2002.7.12)-10
気高さについて乞食が一時間余り延々と語る。無音ではない。風の音がある。水の溢れる音がある。空気の悲鳴。ききわけるかね、やさしい子よ。頭を撫でるその手に染み附いた黒い汚れ。やさしい子よ。それでもお前は微笑むのか。ぼくの手が、この手が。ぼくはこれをかみちぎろうとしたことがある。喜びをもたらしたことが無いのだ。それに触れたことすら
(2002.7.12)-11
未完(では、なぜ君は書きつづけるのかね)
(2002.7.13)
光無シ 木霊返ラズ ヤハラカイ喉笛 噴流ノ飛沫 五百カイリ ドウカ 我ニ力ヲ呉レ 体温ハ湿ッタ木ノ葉 詩人ノ呟キ アナタ腐ッテイマスヨ ボンゾクナラバキットコウノタマウデアロウ ニンゲンジャネエ 口ガ歪ンデイル 戦場デハ必ズ名ヲナノレ ヤアヤア我コソハ 名無シノゴンベエ 人ハミナ孤独ダ 無理心中トイウ行為ガ在ルヨウデスガ 見セテミロ 人ノ限界 見セテミロ 打チ込ンダ銛ハ身体ヲ確カニ突キ抜ケテ僕ハソノ先端ヲ自ラ撫デルコトガデキタ キーヲ叩ク隣デ死ニユク虫イッピキ
(2002.7.14)-1
「シンク」という映画を観た。5年前のものである。ネットおよび携帯電話の普及する直前に作られた作品で、それらを得たぼくらの生活の一部が、これからどうなってゆくのかということについて、象徴的に提示して見せている。というのは、確か発表当時にも言われていたような気がするが。とにかく、あまり、お金を払って観に行く、というような類のものではない。けれども、ネットの住人の方々には、多少身近に感じられる映画ではないかな、と思う。
 つたないながら、簡単に内容を説明すると、どういうわけだか、三人(実際はもうひとりいるようだが、登場しない)の間でのみ交信可能なテレパシーの能力を得た主人公三人が、ときどきその能力をを介して会話をしながら、それぞれの生活をぼそぼそ続けてゆくという話である。いや、あれは話とは呼ばないのかも知れない。見事なまでに何も起きないのである。テレパシーの能力があるから、どうのこうの、という話ではないのである。ただ、同じ場にいて、顔を合わせることなく、いつでも思ったときに話のできる三人がいて、それぞれの接点は完全にその会話のみである、それだけである。要するには、携帯電話な、ネットな感じである。「いま大丈夫?」なんて聞いてからテレパシーの会話をを始めるのである。そして、会話の内容といえば、「今どこにいるの?」「ん、家の近く。帰っているところでーす。」携帯電話と置きかえてもらって構わない。期間的には2ヶ月ちょっとということになっている。映画は、その期間の三人の生活の断片を同期させて見せているだけである。その期間内に何が起きたかといえば、これは、20歳の女の子には子供ができていることがわかった。相手の男は、女の子から逃げ出した(多分、細切れなのでよくわからない)。ヒモをして暮らす24の男は、25の誕生日を前にして少し生活を変えようと思っている。周囲の人間のインタビューを個人的に撮り続けている男は、相変わらず無職のままで、無職のまま、インタビューを少しずつ撮り続けている。三人みな、どこか頼りなく、ふらふらしている。けれども、何にもありゃしない。ただそれだけ、である。
 では、何がいいのか。画と音がいいのである。それと、あと、行為の選択がいいのである。画はいかにも安物カメラを使ってやっている、といった感じである。照明も全然しっかりしていない。撮れるように撮っている。時折、インタビュー男の撮った知人のインタビュー映像が本編に混じる。音も、画と同じである。聴こえるまま、録れるままに録っている。セリフよりも、行き交う車の音の方が大きく、よく聞き取れないことがある。ドキュメンタリーに近い手法である、といえばわかりやすいだろうか。そして、そのような方法で記述される行為も当然、そのまま、といった感じである。何気ない会話や、日常の細々とした仕草、歯磨き、顔を洗う、トイレにいく、歩く、煙草を吸う。煙草を吸う。車に乗る、電車に乗る、バイクを買う、バイクに乗る、コンビニで買い物をする。デートをする。ビデオを撮る。女から金を受け取る。面接を受ける。そばにいる人と会話をする。空を見上げる。仕事がある。その合間に、テレパシーをする。すべてありふれた行為である。いや、だから、テレパシーは携帯電話やネットに置きかえてもらって構わない。
 2ヶ月あまりの三人の日記なのである。ぼくは20歳の女の子が、子供できて、男に逃げられた日に、コンビニでワインを買って部屋に戻る途中、下手くそな歌をうたって、それはテレパシーになってしまい、それからその歌を聴いていたヒモの男と、少しテレパシーで会話をして部屋に戻り、暗い部屋のソファの上でひとりコルクの栓を抜こうと2分ばかし格闘しているシーンにやられてしまった。難渋したのちにポンとよい音をたてて栓は抜け、女の子は、辺りをすこし見回してからラッパ飲みをしたのである。ヒモの男はそのころ、女と別れ話をはじめていた。そして、それが済んでしまってから、ヒモ男は身篭った女の子に「おれ、4日後に25になるんだ」と言うのである。女の子はワインで酔い、奇妙な笑い声をたてた。

(2002.7.14)-2
セリフは追わぬ。行為や、声調や、動作、景色とセットなのだから。
(2002.7.14)-3
駅の階段をのぼる姿や、大通りの交差点をふらふら歩く姿は、文では扱えないものである。
(2002.7.14)-4
今ちょっと観なおしたのだけれど、久美さん、20歳の女の子、は男に逃げられていないのかもしれない。男の着ていたフードのえりにふさふさのついたコートを着ていた。けれども、それならなぜ、あの日この子はひとりでワインをラッパ飲みするのか。む、難しい。ぼくにはその辺の機微がわからないらしい。見た人があるならば、その辺のところを是非ぼくに説明して欲しい。
(2002.7.14)-5
自身の感覚や、感情を形容することができない。嬉しいとはどういう感覚なのでしょうか。哀しいとはどういう感情なのでしょうか。寂しいとはどういう状態なのでしょうか。不安とは、そんなものは存在したことがかつてあったのでしょうか。衝動とは、これはそう呼ぶに相応しいものでしょうか。苦しいとは、ぼくは今苦しんでいますか。わからない。とてもそうとは思えない。今日は死に場所を探して、自転車をこいでいた。都会は死ぬに適した環境である。それは電車が止まることよりも重大でない。
(2002.7.15)-1
手にさげたコンビニのビニル袋がガサガサ音を立てる。たったそれだけのことなのに。

(2002.7.15)-2
ここをもらってしばらくしてから、一年かけて四季を追おうと思いはじめていたことを思い出した。けれども、春に置いてけぼりをくらって、それからはもう、それどころではなくなってしまった。いま、外は強くて暑い風がふいて、生い茂った桜の木の葉を揺すっている。葉のこすれる音が聴こえるばかりだ。いのちの力があったとしてね、それは何かを押しのける力なんじゃないかな。って、消え入るような声で言った。いや、なんでもない。どうだっていいや。ぶたさんぶたさん、あなたはおいしく食べられるために肥えふとるのですね。Coccoがやさしく歌うの。みんな腸に詰めてしまうわ。あたしは今日あなたを食べるけれども、そのあたしもいつまで生きているかわかりやしないわ。ねえ、かわいいぶたさん。あたしがこわい?あたしあなたを撫でてあげるわ。あたしがこわい?どうだっていいや。あたし、あなたを食べるわ。きっと食べるわ。それでいいでしょ。それがいいんでしょ。そんな言葉は聴こえないかのように黙々と餌を食べ続けるブタの身体を抱きかかえて、頬ずりして、ピンク色の艶やかな肌を撫でながら、泣きかたを探すの。正義も善意も優しさも愛情も何もかも無くなってしまえばきっと楽だ。笑って顔を殴れ。すべて踏みにじれ。この風は言う。みな同じだ。俺と同じだ。お前らはその中を舞う砂粒だ。お互い二度ととなりあわせになどなるものか。お前が死んでも、砂粒ひとつぶ。何も変るまい。相変わらずの砂嵐。埃色のもやを作って、乾いてある。砂漠はここにもある。いや、オアシスはそれ自体が奇蹟なのだ。頬を撫でて、顔を見合わせて微笑む。その奇蹟。60億人に与えられた。ぼくは60億と一人目。奇蹟なのだ。さあ笑え。この観念を哄笑しろ。ただの事実だ。ぼくらにある事実は有か無かだ。ひとりとひとり、60億人とひとり、何も変ることがない。渦を巻いて3000mにまで舞い上がるその渦の真中は真空。みな同じさ。君の涙。さらさらと音がするよ。さあ、食べましょうね。あなたの血は赤かったわ。あたしが見ていた。もういいでしょう。あたし、食べるわ。腸詰は茹でてから、焼いて焦げ目をつけるとおいしいのよ。おいしいのだもの。泣く理由が無い。そのかわりに歌うわ。滅亡の詩。あたしが、あなたの前で無垢な喉笛をさらしていなかったことがあって?ねぇ、あたしがあなたを食べるのは、あたしにその意思があるからだわ。あなたはあたしのそれを見ても、何にもしやしなかった。そして確かに、いま、あたしが勝者よ。あなたを食べるわ。勝ちと負けがあった。強くて暑い風は砂を海上にまで運び、そして砂の雨を降らせる。祈りは海水に溶け、プランクトンが光合成をする。母をつかさどる個体よ。永遠なれ。ぼくの死は、銀河の渦から離れた恒星が力尽きるときの虚空に放つ空虚なコロナだ。隣のホシまで六億光年。太陽風は彗星の尾を形作れないほどに弱く。それでも笑って散った。照明は要らぬ。確固たるものはこの場にあっては虚しく響く。ただ、その一生に一度だけでいい、ひとりで酒を飲む晩に、そういえば。あわれ凡俗。霞にも砂糖菓子の味を見出す。Coccoが歌う。翼を広げる。金色の髪。漆黒の髪。あたし、あなたを食べるわ。そして、あたしも近いうちにいなくなるわ。それで終わりよ。ねえ、あなた、それでも構わないかしら。あたしを愛してくれるかしら。
(2002.7.15)-3
「歌ってた?」「へへ。。。聴いてたの」「へへ」。。。。。。「今日ね。少しいい事があったんです」
(2002.7.15)-4
「聴こえてますかあ?」「はーい」「聴こえてるよー」「ふふん。。。。。。。。。んん、今日寒くない?」。。。。。「今日何日だっけ?。。。」「一月十日。。。時計忘れちゃった。。。。」。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。Today's talk is all.


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