ただいま。ラウンドロックというところに行ってました。テキサス州オースチンから北に30kmくらいの何もない町です。日本から、飛行機を乗り継いだり、何やらかやら20数時間かかるところです。仕事です。
少しだけ、先延ばしになりそうです。広すぎる空と、草原と、星のない夜空に浮ぶ満月がいけなかったのだと思います。それから、アメリカの人の真っ直ぐな眼差しも。やたらに連発した「Thank you」も。ぼくは何度か理由なく歯を見せて笑いました。本もホテルの部屋でゆっくりと2冊ほど読みました。そして、この間、ぼくは何も書きませんでした。
あちらに居たときに、漠然と感じました。こちらに戻ってきて、成田エクスプレスの車窓から東京の街並を目にしたときに強く思いました。外は、くたびれてきた一日の、午後の陽の作る影がこの街の夏を描き出していました。不滅の倦怠と、脱出を、活路の模索、煙草の火くらいの喜びと、「あと何十年?」砂粒で描いてゆく大きな地図。鉛色した通り、急ぐ足。「君と話をしたい」本当かね。番号送信中に電源を切る。「汝、惑いを知るや」看板、看板、看板、一言も理解しない。それらが何十にも積み重なり、しかもきつく敷き詰められた、この街から立ち昇り、地べたに焼かれ、かすれてゆく、それは。それは?「いま自分がその場で暮している、この事実に嫌疑をかけてみたことは、一度でも、あるかね」空の色は、東京の方が濃い空色をしています。ぼくはあなたが、今日のそのうちの、5時間を無駄に費やしたことを知っています。ケラケラ笑うな。I'm alive on the earth. このスローガン。うまくないよ。棄てちまえ。トリプルセブンが「東京まで10000km」機内の画面に表示していた。ぼくは笑って首を振る。No, thank you. 見たまえ、ぼくの言葉の稚拙なこと!顔に自ら泥を塗ってゆくのがお好きなようだ。「新しい何か、そう、例えば新しい形式が、ぼくらには必要なんです」偉大な叔父が言う。「では、ワシが若い頃に考案した形式のうちの最も優れていると思われるものを君に与えよう。そうだ、ワシには、今もって使いこなせなんだ。これをやるから、君、やってみたまえ」ピエロさ。君、先人の血の滲むどころか、喀血の上の精進刻苦、きれいに見落としているのではあるまいな。わかっています。わかっています。ですからこうして、レースに乗るか、それとも降りるか、一分と忘れずに考えているのです。あなた、ぼくを白痴だとお思いですか。それは違う。3万人。恥ずかしながら、この列の末尾にぼくの名をつけ加えていただきたく思うのです。「ぼくを殺したのは、それは、お前ら全員だ」これは、是非笑顔で言おう。だから、ぼくはひとり、この街で暮らす必要があります。そうだ。これは、はっきりと言い切らねばなりますまい。それに続けて、短い宣言を、声高に。名付けて「独立宣言」I'm going to be independent of all of the world. この虚栄、この傲慢。ぼくは独立している。ぼくはここに、一切の要求、一切の必然、一切の権利、義務、その他を放棄する。ぼくにはもはや心臓が胸を叩く音すら必要でない。
(2002.7.27)-1
トリゴーリン
ぼくが?(肩をすくめながら)フム・・・・・・あなたはその通り有名だとか、幸福だとか、何か明るい面白い生活だとかおっしゃる。だがぼくにとってはその結構な言葉はみんな、失礼ですが、ぼくの決して食わない果物の砂糖漬(マルメラード)とおんなじですよ。あなたはたいへん若くて、たいへんひとがいい。
ニーナ
あなたの生活はすばらしい!
トリゴーリン
特別にどんないいことがあります?(時計を見ている)ぼくは今すぐ行って書かなくちゃなりません。ごめんなさい、ひまがないもんで・・・・・(笑う)あなたは、いわゆるぼくの痛いところを衝かれたものですからね、それでほら、この通りぼくは昂奮したり、少し怒ったりしかけていますよ。がしかし、まあ話しましょう。ぼくのすばらしい、明るい生活について話しましょう・・・・・・さて、と、何から始めますかな?(少し考えて)人間が夜昼、たとえば月のことばかり考えていると、強迫観念というやつがあるものですよ。ぼくにもそういう月があるんです。纏(まと)いついてはなれないひとつの考えが夜昼ぼくを参らせる------書かなくちゃならない、書かなくちゃならない、書かなくちゃ・・・・・・やっとひとつ小説を仕上げたかと思うと、もうなぜだかまた別のを書かなくちゃならない、次には三つ目を、三つ目のあとには四つ目を・・・・・・ひっきりなしに、駅次馬車でとばすように、書いています。そしてこうするよりないのです。そこにどんなすばらしいものや明るいものがありますか?ぼくはあなたにお訊きする。おお、なんというガムシャラな生活でしょう!そらぼくはあなたといて、昂奮しています、がしかも、一瞬の間も忘れてはいないのです、書き上がっていない小説がぼくを待っていることを。ほらあのピアノに似た雲を見ますね。と、考えるのです、どこか短篇のなかで、ピアノに似た雲が浮いていたことをちょっと書いてやらなくちゃ、などと。ヘリオトロープが匂う。と、急いで、おぼえこむ。甘ったるい匂い、すみれ色、夏の晩を描写する際述べること、などと。自分とあなたのやりとりを一句ももらさず、一言ももらさず気をつけて、この文句や言葉をみんな自分の文庫の中へ急いで仕舞いこむ、きっと役に立つだろう!といったわけ。仕事をすますと劇場か、魚釣りに逃げてゆく。そこでならばほっと息もつけよう、自分を忘れもしよう、というのだが、どっこい------そうじゃない、頭のなかにはもう重い鋳鉄の砲弾が------新しい主題がころがっている。そしてはやくも心は机へと惹かれて、またもや書きに書くことを急がねばならない。いつだっていつだってこうなのです。そしてぼくはわれとわが身に煩わされて安まることがない。ぼくは自分自身の生命をガツガツ食っているような、またぼくがひろい世の中の誰かに与えている蜜のために、ぼくはなるたけすぐれた自分の花々から花粉をとってしまい、花そのものはひきちぎってその根を踏みつけているような、そんな気持がするんです。ぼくは狂人(きちがい)ではないのだろうか?身近な連中や知っているひとたちはぼくを健康者扱いにしていてくれるのだろうか?”何をお書きですか?何を書いて下さるんですか?”またしても同じことばかり。だからぼくには、知っているひとたちのこの関心、賞讃、有頂天なよろこび、------これはみんな偽りで、ぼくを病人扱いに欺しているのだ、とい風に思えたりする。そしてぼくはときどき、ほらいまにもうしろからそっと忍び寄ってぼくをとっつかまえ、ポプリーシチンのように癲狂院(てんきょういん)へつれて行きそうな気がして怖いんです。だがあのころ、ぼくが書きだしたばかりのあの若い、もっとよかったころは、ぼくの作家稼業はただもう苦しみの連続でした。小作家というものは、ことに運の向かないときには、われながら下手くそな、ぶきっちょうな、余計なもののような気がして、神経がはりきってピリピリしています。認めてもらえず、誰にも気づいてもらえない身は、まっすぐ思いきって相手の眼を見ることも恐れながら、まるで金を持たない賭博狂のように、文学や、芸術に携わっている人々のまわりをうろつかずにはいられないものなのです。ぼくは自分の読者に逢いませんが、しかしどうしてかぼくの想像のなかでは、読者というものは、親しげのない、疑りぶかいものに思えるのでした。ぼく大衆を恐れました、ぼくにはそれが恐ろしかったのです。そして自分の新作戯曲を上演するようなことになると、そのたびにいつでも、ブリューネットのひとたちは敵意をもっているし、ブロンドのひとたちは冷ややかに無関心であるような、そんな気がするのでした。おお、これはたまりません!実に苦痛でしたよ!
ニーナ
ちょっと、でもインスピレーションや創造の過程そのものはあなたに高い幸福な瞬間を与えませんの?
トリゴーリン
そうです。書いているときは愉快です。また校正を読むのも愉快です、しかし・・・・・・刷り上るか刷り上らぬに、もうぼくは我慢できません、あれはああではなかった、誤りだった、全然書くべきではなかったんだ、ということがもうわかるんです。それでいまいましくて、気持が腐る・・・・・・(笑う)ですが大衆は読みます、”うん、よく書けてる、才筆だ・・・・・・よく書けてる、しかし遥かにトルストイには及ばない”とか、”すばらしいものだ、しかしトゥルゲーネフの『父と子』の方がいい”とか言う。こうしてずっと、棺桶にはいるまでは、ただよく書けていて才筆だ、よく書けていて才筆だ------それ以上の何ものでもない、というわけでしょう。そして死ねば、知っている連中が墓のそばを通りながら、言うことでしょう、”ここにトリゴーリンが眠っているよ。いい作家だった。しかしトゥルゲーネフよりは下手だった”。
ニーナ
ごめんなさい、おっしゃることがよくわかりませんの。なんのことはない、あなたは成功なすってわがままにおなりになったんですわ。
トリゴーリン
どんな成功を?ぼくというものは一度も自分の気に入ったことはありませんよ。ぼくは作家としての自分を好きません。いちばんわるいことは、ぼくが一種茫然としていて、何を書いているんだかしばしばわからないでいることなんです・・・・・ぼくはそら、この水を、樹々を、空を、愛しています、ぼくは自然を感じている、自然はぼくのなかに情熱を、書きたいという抑えようのない欲望を起させます。しかしぼくは風景作家であるきりではないんですからね。ぼくはさらに市民であり、ぼくは故国を、人民を、愛しています。ぼくが作家ならば、ぼくは人民について、彼の苦しみについて、彼の未来について、言う義務があります。科学について、人間の権利その他等々について言う義務が。でぼくはすべてについて言っています、急いでいます、ぼくは四方八方から追い立てられ、怒られて、犬に狩りたてられた狐のようにあっちへ走りこっちへ走りしています。生活と科学はますます先へ先へと行ってしまうのに、ぼくは汽車におくれた百姓のように、ますますあとにあとにとおくれて行くのがわかります。そして結局、ぼくに書けるのは風景だけで、その他一切のものではぼくは贋(にせ)ものだ、骨の髄まで贋ものだ、と感じるのです。
ニーナ
あなたは仕事をなさりすぎた、それでご自分の意義を認識なさるひまもその気もおありにならないんですわ。あなたがご自分にご不満なら、どうぞご勝手に。でもほかの者にとっては、あなたは偉大で素晴らしいの!あたしがあなたのような作家でしたら、自分の全生命を群衆に与えてしまいますわ。しかし群衆の幸福はあたしまで高まることにだけあるのだ、そして群衆はあたしを肩輿(かたこし)にのせて運んでくれるだろう、と自覚しますわ。
トリゴーリン
ほう、肩輿で・・・・・・アガメムノンだとでもいうのですかぼくが!
(ふたりほほ笑む)
ニーナ
女流作家か女優になるような、そんな幸福のためなら、身近な者に嫌われたって、暮しに困ったって、幻滅したって、辛抱しますわ。屋根裏に住んで、黒パンばかりたべたって、自分に不満で、自分の至らなさが自覚されて苦しんだって、いいんですの。でもその代りには、それこそ名声を要求しますわ・・・・・・ほんものの、やかましい名声を・・・・・・(両手で顔を隠す)頭がくらくらするわ・・・・・・うッ!・・・・・・
チュホフ「かもめ」湯浅芳子訳 抜粋