tell a graphic lie
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(2002.8.19)-1
 「今日こそは早く帰る」と拳をグッと、固く握って私は強く、宣言した。それを聞いて、ソファに胡坐をかいて、ぼさぼさの髪のまま、朝刊を読み始めていた篤志が振り返り、私のその勇ましい寝起き姿を見て、のろくさと、ひとこと言った。「歯ブラシ、口から出して言えよ。泡、飛ばしてねえだろうな」ふん、何よ、このくそ野郎。毎日、私よりも遅く出かけて早く帰ってくるくせに。てめえ、たまには、朝メシくらい作れってんだ。私は悪態をつこうと思ったけれど、だめだ。まだ歯ブラシ咥えたままだった。
 目の前のテレビから天気予報が流れていたのである。台風が迫っている。日本列島のお腹の下あたりに、ぐるぐる白い渦巻きが映っている。並みの大きさの、非常に強い台風だそうだ。いま、八丈島が風速なんぼかの暴風圏内に入ったそうである。今夜半には、東京も暴風圏内に入るだろうと、朝から天気予報のお兄さんが気持ちよく喋っている。このお兄さんは結構私の好みだ。目鼻立ちのキリッとした面長の青年である。明るいスーツがよく似合う。礼儀正しい、さわやかスポーツマン。そして、何より、その声がいいのである。そよ風のような声、と言ったら笑うだろうか。けれども、ほんとにそんな感じなのである。色気、という感じではないけれども、この人に耳元で何かささやかれたら、きっとくすくす笑って、それからうっとり、深い溜息をこぼすことだろう。私は、このお兄さんを見て、一日の気合を入れるのである。その手前にいる、頭ぼさぼさのなんだかわからない、へんてこりんな生物などではないのである。ああ、その頭、ポカと殴ってやりたい。ねえ、お天気お兄さん、あなたのさわやかさ、このだぼはぜにも分けてやってくださいませんこと?
「天気予報終ったぞ。ほら、あと十五分。ボケッとしてると遅れるぞ。」
新聞見ていた篤志が振り向いて、急かす。私はまだ歯ブラシ咥えてそこに立っていた。あら、確かにこれは、いけない。間に合わない。
 クラッカーとチーズを野菜ジュースで流し込んで、これで朝食。作れ、ばか。化粧、手伝え。ああ、肌荒れてきてるなあ、篤志のせいだ、ばか。髪をとかせ、おまえのじゃない、私のだ。お前の髪はいつもそんなにぼさぼさのくせに、なんで、まとめると、すぐにまとまるのだ。それに比べて、私のこの髪、ああ、もう、いうこと聞け、ばか。シャツ着せろ。ええと、スーツは、スーツは、これ。ああ、新しいスーツ買ってくれ。いや、スーツを着ない日をどうか、神さま、ください。ああ、もう、間に合わない、ばか。篤志の、ばか。頭をぼりぼりかくな、頭を。牛乳で、口のまわりを白くしてるな、ばか。なんだ、こいつは。ぬうう。
 けれども、遅刻寸前、時間が無い。篤志の頭をポカする時間も惜しい。遅刻したら、また、W課長にセクハラな厭味を言われるんだ。「三沢クン、昨日も夜遅くまで、お楽しみかい?」てめえ、あたしが昨日何時まで会社残って仕事してたか知らねえだろ。日付かわったんだぞ。自分は定時で帰りやがって。朝から、私が不機嫌になるだけ、私がひとりで損をする。遅刻はぜったいに嫌だ。
 それでも、やれやれ、少し走れば、何とかぎりぎりの電車に間に合う。出る前に、鏡の前でもう一度チェック。頬を撫でて、ああ、やっぱり肌荒れたなあ。ちがう、ちがう。だいじょうぶね、うん。今日も、私、だいたいきれい、なはず。さあ、気合入れて生きましょう。
「じゃあ、行ってくる」
 バタバタと靴を履いていて、運良く気がついた。そうだ、台風が迫っているのだった。今夜には東京も大雨暴風警報である。土砂降りだろう。けれども、そう、傘は、持って行かない。今日こそは早く帰るのだ。雨が降り始める前に帰ってくる。うん、決心。かえる。
 私が小さく肯いて、出て行こうとすると、何を思ったのか、めずらしく戸口まで見送りに来た、篤志が言った。
「ねえ、傘は?天気予報で、言ってたじゃん。今日、降るって。はあ、やれやれ、さてはあの男に見惚れてるばかりで何にも聞いてねえな」
 こいつ、私が最近、お天気お兄さんに見惚れているのを知ってるな。けど、はずれ。黙りなさい、このあんぽんたん。私の決意を知らないか。私は今日は早く帰ってくるのだ。帰るのだ。
「ばか、ちゃんと聞いてるわ。いいの。わざと持って行かないの。雨がね、降り始める前にね、今日はね、帰ってくるの。だから、いいの」
 私は早口で、きっと、ちょっと怖い感じで言っていたのだろう。篤志は急に真顔になって、一秒くらい、間を置いて、
「そうか、なるほど。よし、持って行くな。早く帰って来い。待っている。晩飯を、食いに行こう」
きっぱり、言い切って、それから、ニッと笑ってキスしようとした。びっくりして、思わず私は、のけぞった。
「あは、何を突然。気持ちわるいよ」
そのまま、駆け出しながら、私は少し大きな声で篤志に言った。
「行ってきます」
 まだ暑くなる色した朝の空には、真白い雲がもくもく二つ、浮んでいた。まだ夏ね、小走りして、その空見上げながら考える。なんだか、すごくびっくりした。そうね、キス、ここ何日か、してませんわね。でも私、なんでのけぞったりしたんだろう。こころの中でたくさん、篤志に悪態ついていたからかしら。それとも、お天気お兄さんのこと、言われたからかしら。まさか。あいつ、ちょっと妬いている?いやいや、溜まっているだけでしょう。それだけよ。あのぼさぼさ頭が、真顔で迫ってくるとね。ちょっとね、誰だって、ひくわよ。そうよ。でも、やっぱり、ちょっと悪かったかな。ふふ、ちょっと悪かった。ゴメンなさい。だいじょうぶ、きちんとすればお天気お兄さんよりも、君のほうが、ずっと、いい、よ。たぶん。

(2002.8.20)-1
誰の息もない置物の牛の背を撫でる
(2002.8.20)-2
 部屋から駅までは、私の脚で普通に歩くと10分近くかかる。自転車だと3分くらいだけれど、駅前に駐輪スペースがない。それに、私は自転車を持っていない。篤志は何だか高そうな自転車を持っていて、外へとめずに、いちいち部屋にしまっている。「愛車よ、愛車よ」と言って溺愛している。私よりも、あからさまに愛している。それは、どこかのバイクメーカだか自動車メーカだかの自転車だそうだけれど、私は忘れてしまった。妙な部品を、数万円も出して買ってくることもある。そのたびに篤志は、私にその部品がいかに素晴らしいか、うんちく講義をとくとくと、始める。その辺のことには、私はぜんぜん興味がないのである。けれども、はじめのうちは私もふんふん聞いてあげる。しろうと風の馬鹿な質問もちゃんとしてあげる。くだらない、なんて決して言わない。けれども、15分もすると、さすがに飽きる。そのくらいになると、もう、カタログなど持ち出して来ているころなので、うんざりする。上の空で、篤志の向うにあるテレビを見ていたりする。それでも、篤志はいつもお構いなし、得意になって喋りつづけるから、よく喋れるなあ、この前、つくづく不思議になって、喋る篤志の頬をプニとつねってみたら、篤志は変な顔をした。どうやら、いたく傷ついたようで、数日、機嫌が悪かった。だから、私はその自転車を借りることができないのだ。歩くことが特に苦になる距離ではないけれど、このところ、今日みたいに遅刻ぎりぎり、ということが多いので、乗りたい。篤志は通勤に使っているけれど、今日みたいにのろのろやっているのだから、私が駅前に乗り捨てたのを、そこまで歩いて、拾っていけばいいのに。おととい、そんなことをボソリと言ったら、「やだ。ダメ」ふたことで片づけられてしまった。あれは失敗したなあ、と思う。ということで、今日も駅まで、私は走る。これだと、六七分。間に合うかな。間に合え。課長の厭味はいやだ。
 改札を抜けると、がたがた駅が揺れる。周りのひとが小走りになる。これに乗らないといけない。駆け足で階段をのぼって、そこには、うへ、満員電車。毎朝のことだけれど、私は毎朝うんざりする。少し隙間のあるドアに後ろ向きに身体を押し込んで、なんだか、かまぼこみたい。ともかく、ドアが閉まる。どうやら、間に合いました。遅刻せずに済みそうです。
 一息ついて、今日はドアのすぐ隣なので、外が見えます。私は背が低いので、満員電車の中では埋まってしまう。背が低いのは、こういうときは、すごく損だ。暑いし、完全にひとの群の中に埋まってしまう。空気がどよどよする。今は、まだ暑いから、汗だくの人が正面だったりすると、べったり。苦しい。香水が強い人も、苦しい。おねえさん、きれいなのはいいんだけどさ、じばんしー、かも知れないけど、つけすぎ、くせえぞ、それ、なんて思う。でも、今日はドアのすぐ横なので、結構。外が見えます。代わり栄えのしない都会の雑踏に朝だ。みんな何だかぼんやり映る。陽射しはやっぱり少し弱くなったようだ。私も少し、ぼんやりする。出掛けのことを、また、ちょっと思う。
 唐突だったから、私は反射的に避けてしてしまっただけなのだけれど、あれはやっぱり、拒絶したということになるのでしょう。篤志、ちょっとショックだったかしら。悪いことしたなあ。謝っちゃおうかしら。窮屈な身体をもそもそやって、鞄から携帯を取り出した。メールしとこう。
『さっきのは、別に、そういうんじゃないから。多分ね。いや、絶対。大丈夫。今日の晩御飯は有犀でおいしいワインが飲みたいな』
送信しようとして、気がついた。これは、ぜんぜん謝っていない。しかも、どちらかと言えば、本当は冷めているところを取り繕う感じに取れる。これはだめだ。機嫌を損ねるくらいで済むのならよいけれど、深刻な話に発展しかねない文面である。あぶないところだった。
『さっきはごめんなさい。愛してる。夕御飯は有犀でゆっくりワインが飲みたいな』
これも、いかにも取って附けたような感じである。アイシテル、が実に軽薄である。私、そんなこと、よう言わんし。やはり、誤解を招きかねない。ボツ。どうも、いけない。
『今日は、きちんと早く帰ります。晩御飯は有犀へ行きましょう。あそこのグラスワインが飲みたい。』
 うむ、これでよかろう。篤志に謝るというのは、どうも苦手だ。慣れない。となりでのんきに寝言を言って寝ていられるようなひとに、真面目にやるのは、へんに照れてしまって、駄目。いつも、まずいやり方しかできない。寝言を言うのは私のほうである。どうも、私はよく寝言を言うようなのだ。それで、いつも篤志にからかわれているのだ。「寝言日記を附けようか」など言われる始末なのである。しかも、これは、ちょっと認めたくないのだが、その中で、篤志がどうのこうの、と言うことがまま、あるようなのだ。いちど篤志が、いや、これは言わない。恥ずかしい。ともかく、送信しましょう。これでよし。
 「有犀」というのは、部屋の近所にある小さな洋食屋である。カウンターを合わせても、30人は入らないと思う。地味なくらいの、落ち着いた内外装で、60歳は過ぎていそうな夫婦とアルバイトらしい女の子の3人で、だいたいやっている。通りから路地へ、少し入ったところにあるので、あまり繁盛はしているようではないのだけれど、私たちにはそこがいい。店内にはマスターの描いたものらしい絵が二、三飾ってあり、奥さんが花を控えめに、趣味よく飾りつけた花瓶もやはり二、三置いてある。ワインを何種類か置いている。料理は、それほど高くはなくて、みなおいしい。特に、じっくり煮込んだシチューがいい。アルバイトの女の子は、何人か居るようだけれど、皆おっとりした印象の子ばかりで、ひとり、おっとりしすぎて気のきかない子がいる。けれども、それもまた、何か、いい。好きな店なのである。篤志もそれはどうやら同じようだ。そういえば、「有犀」って、私たちは「ゆさい」って読んでいるけれど、ほんとはなんて読むのだろう。何度も行っているけれど、いまだに知らない。ああ、行きたいな。今日は早く帰りましょう。
 電車は途中で、小さな川をひとつ跨ぐ。
(2002.8.21)-1
夏終われりと呟きし君の掌乾いており
(2002.8.21)-2
うん、駄句。さあ、今日も張り切って参りましょう。
(2002.8.21)-3
 電車は途中で、小さな川をひとつ跨ぐ。小さなアパートやら古い家屋やらがごたごたと敷き詰められたその間をぬって蛇行する、3m程の高さのコンクリートで縁取られた小さなどぶ川である。この川を北へ少し遡った川沿いに篤志の勤め先がある。篤志は釜屋傍訓という洋画家を祈念した美術館のスタッフをしている。美術館は、建物のたてこんだこの辺りの一画に、何だか唐突にぬっとあらわれている黒っぽい煉瓦造りの洋館である。釜屋傍訓という洋画家は大正から昭和の初期にかけて活躍した人で、詳しい経歴などは忘れてしまったし、私は美術に詳しくないので、よくわからないのだけれど、いちど観に行ったことがあって、東京の街並やそこで暮らす人々の画を多く描いている人のようである。私は、その絵を観て、煙るような、力強い絵を描く人だとぼんやり思った。なかに、夕暮れどきの造船所を描いた絵があったのだけれど、そのなかで、二人の若い行員が肩を組んで歩いている姿が描かれていて、私はその絵がすごく好きだ。隣りに立っていた篤志にそう言ったら、「お前は、男みたいな趣味をしているな」と言われた。それで私が少しむっとしていると、篤志は続けて、「俺もこの絵はすごく好き。百年前も悪くないな、と思う」と言って、じっと観入った。「そこまで昔じゃないよ」と返して私も、もう一度絵に観入った。
 篤志の自転車にお金をかける趣味は、私にはほとんど理解できないのだけれど、それでも私と篤志は、つきあう人間同士なんてものは、だいたいそんなものなのかも知れないのだけれど、その他については妙に私と篤志は好みがあうのである。篤志と親しくなったのも、私の前の仕事に関係して開かれたパーティーの、その会場のすみっこで、「立会人」という別段新しくもないB級映画のなかの登場人物である、妙な風采の弁護士の話題で盛り上がったのがきっかけなのである。
 パーティーは、始まって一時間ほどがようやく過ぎて、私もそろそろ、いろいろの附き合いから解放されて、ひとりすみっこの椅子に腰かけて一息ついて、ぼんやり会場を眺めていた。そして私は、出席者たちのなかに、その「立会人」に出てくる弁護士によく似た男を見つけたのだった。男は目だって小柄で、そのうえ猫背、頭はもう大きく禿げ上がっているが、その天辺付近にだけは、まだ少し髪が残っている。顔には大きな黒縁の眼鏡をかけて、眼の細く、その脇には人当たりのよさそうな皺が深く刻まれいる。鼻は大きすぎるくらいに大きく、そのせいもあってか、反対に口は小さすぎるくらいに思える。動作は、ひとつひとつが何だかやたらに小ぢんまりしており、その分、ちょこちょこと目立って機敏である。抜けめのない狡猾な小男そのものの風采をしているのである。映画は英国のものなので、映画の弁護士も当然英国人なのだが、よく見れば見るほど、目の前の男はその弁護士にそっくりだと私には思われた。
 しばらく私は、その男の仕草のいちいちを、ああ似ているなあ、と思いながら眺めて、それから、他にも面白そうな人は居ないかしら、なんてあちこちきょろきょろ首を振ると、私の坐っている椅子から左に三つ隣の椅子に篤志が坐っていたのだった。私は、篤志に何となく惹かれるものがあったのか、それは今もよくわからないのだけれど、篤志の横顔を眺めた。篤志も私と同じように、そこで一息ついているのだというのは、その手持ち無沙汰な様子から見てとれた。そのまま、しばらく何となしに篤志を見ていると、何やら熱心に観察らしきことをしているようである。私は篤志の視線の先を探った。その先には、その「立会人」の弁護士に似た男がいたのである。この人も、あの男の人が気になるのかしら、私は篤志の観察の対象が「立会人」の弁護士なのかどうか、確かめた。篤志は、ときどき微かに笑うような仕草をしていた。それは「立会人」の弁護士の動作によるものだということは、すぐに確かめられた。その男の、もみ手の仕草や、あからさまな追従の仕草などは、見ていて非常に滑稽なのである。私はわくわくした。「立会人」の弁護士と、篤志を交互に何度も眺めた。
 突然、篤志が私の方へ振り向いた。どうやら、私があんまりきょろきょろしながら、見つめていたので、それに気づいたようだ。
「あの、何か」
「あ、いや、あの」
私はすっかりまごついてしまった。けれども、いま篤志が、「立会人」の弁護士に似た男を観察していたのかが、どうしても気になったので、私は男を指さして、
「あの人のこと、見ていたんですか」
篤志はそれにあわせて振り向き、指の先を追って、
「ああ、そう。あの小さい人」
なぜだろう、私はすっかり嬉しくなって、変にはしゃいでしまって、余計なことまで口走った。
「やっぱり。やっぱり、気になりますよね、あの人。おかしいですよね。はげちゃびん」
「はげちゃびん、て。そんな、失礼な。まあ、そうだけど。いや、やっぱり違うな。そんなに可愛くはないよ、あの人」
篤志の方がより多く余計なことを言った。私は笑って、男が「立会人」という映画の登場人物に似ている、と言うと、「ぼくもそう思っていたんですよ。あの映画、観たことあるんですか」となって、それから、私と篤志はその退屈なパーティーのお仕舞いまで、そこでなんやらかやら喋って、なぜだか、名刺の交換までして、パーティーが終ると、お酒を飲むこと忘れていたことに気づいて、じゃあ飲みなおし、ふたりで二次会ということになり、それからまた、細々としたことを経て、なんだかつきあう、ということになったのだった。
 (その後、私は仕事を止めることにして、篤志も引越したいところでもあったので、今の部屋を借りてふたりで住むことにしたのである。)
(2002.8.22)-1
最果てに我が身横たえつつ朽つるのを待つ
(2002.8.22)-2
行く水分つ石ほとりアメンボウ流れては
山頭火

(2002.8.22)-3
む、やはりプロは違う。
(2002.8.22)-4
 つきあいはじめて半年ほど経った、去年の秋のはじめ、私はいまの仕事を止そうと思っていると篤志に話すと、「そうか」と言って、ちょっと言葉を区切り、それから、
「じゃあ、いい機会だし、一緒に暮さないか。仕事場の近くにいい部屋があるのを、この前ぶらぶら散歩しているときに見つけたんだ。だけど、ひとりで住むのには少し広すぎて。惜しいなあ、なんて思っていたところなんだ。ふたりで住めば、一人で住むよりもいろいろと効率的になるからな。仕事辞めるなら、生活費やら節約したいだろう」
見れば、なぜか篤志は額に汗していた。私はそれがくすぐったくて、やさしい気持になって、できるだけそっけなく「いいよ」と言ってあげようと思ったのだけれど、つられて私もなんだか妙に緊張して、「それじゃあ、よろしくお願いします」なんてこわばった声で応え、お辞儀までしてしてしまって、それからふたり、その日はそのまま、わけも無く緊張して、いつもよりもだいぶ口数が少なくなった。黙ったまま、長いこと手を繋いで歩いた。私はしげしげと篤志の手の大きさや形や温度などを確かめていた。それで、ちょっともぞもぞやったりすると、篤志は大袈裟にくすぐったがった。それが、その妙な日ぜんたいの印象になっている。それからほどなくして私は仕事を辞め、今の部屋に引越して、私たちは一緒に暮し始めたのである。
 こうして今、ひと月ふた月と数えてみれば、あらもう、はや一年近くになる、など驚いたりもするのだけれども、数えることをやめて気持ちだけでみてみると、まだ一年も経っていないのだと驚いてしまう。そうだ、私は篤志と一緒に暮していない時間のほうが、まだずっと、何十倍も長いのですね。私はどうも、今が、過去よりも、また未来よりも、ずっとずっと永いようです。私は、私の時間は、前にも後ろにも、この今というやつがずっとただ伸びていって、地平の向う、見えないところまで行ってしまっているような気がしているのです。そうして、ずっと前、生まれる前から、私はこうして暮して来たのだと、だから、この先もずっと今の少しも変わらないものに違いないと、普段の私は何を疑うでもなく当り前にしているけれど、こうして、あらたまって数えてみれば、この今が、まだ一年にも満たないのだと気づいて、びっくりする。一年も経っていないというのは、あんまりにも短すぎるように思われて、なんだか残酷にすら思えて、わけなく不安になったりもする。私の立っている場所やら、こじんまりとでも、私のこれまでしてきたことやら、私の頼みにしているいろいろなものが、なんだか急に力を無くしてしまうように思える。もし神さまが目の前で笑っていたら、きっと私は少し憤りをこめてたずねるでしょう。私が篤志といることは決まったことではないのですか。
 ああ、やっぱり今日は早く帰らないと。満員電車のドアにへばりつきながら、私は急に寂しくなってしまった。気づけば、窓ガラスの外には背の高いオフィスビルや雑居ビルが立ち並んでいる。電車は急いでホームに滑り込んで止まって、私は人を掻き分けてというよりも、隙間から搾り出されるようにして反対側のドアから降りる。私は背が小さいので、歩くのもあまり速くなくて、ラッシュ時の駅の人の流れにあわせるのは、ひと仕事なのである。つまらない感傷を持って歩くこともできない。私はきもち大股に歩いて、階段をはきはき上り、改札を抜ける。もう、見慣れてしまって、なんの見栄えもしない駅前の風景を一応、ひととおり眼で撫でてみて、やっぱり今日も暑くなりそうですね。歩きだすと、同僚の有沢さんが後ろから肩を叩いた。
「おはようございます」お互いに挨拶をして、それに続けて有沢さんは、

(2002.8.23)-1
ぼくはあなたのために用意した言葉を実際に使ったことは一度もありません。ときどき、自分の弱さがたまらなく憎くなることがありますが、これを思い出すことも、そのひとつです。
(2002.8.23)-2
「疲れた顔をしていますね」と並びのよい白い歯を見せて、朝からすずしく笑った。有沢さんは、私の部署の係長で、歳ははっきりとは知らないのだけれど、三十歳前後だと思う。背の高い面長の好紳士で、丸眼鏡がとてもよく似合う。姿勢がよくて、さくさくと歩く姿がとても印象的である。お天気お兄さんに、少し、感じが似ているけれども、有沢さんはスポーツマンには見えないが、知的な感じである。私は今の会社に入ってから、この人のお世話になり通しなのである。私はいつもどこかひとつ、ポトリと抜けているようなところがあって、ひとつをきちんとやれば、もうひとつはどこか忘れている。もうひとつをきちんとやれば、またもうひとつ、どこかで忘れている。そうやって、ずっとぐるぐる、ぐるぐる廻ってばかりいて、いつまで経っても、きちんとできない。十点の試験でも、百点の試験でも、満点が取れないのである。ほんの小さな完璧も、作り出すことができないのである。それは自分でも情けないやら、悲しいやら、歯がゆいやらで、このことを考えると、恥ずかしくて、いつも身体が熱くなってしまうのだけれど、もう二十何年も生きて来て、これはどうしようもない、それも確かだということも、私は知っている。そんな私なので、有沢さんには、入社以来、大きなこと、小さなこと、いろいろと大変に迷惑をかけて、その度にさわやかに笑って赦してもらっているのである。
 そんなだから、私は「そんなことないですよ。このとおり、」元気いっぱいだ。と言おうとしたのだけれど、失敗した。有沢さんの笑顔はとてもまぶしくて、それに較べて、この自分でもわかるくらいの力ない笑顔。続く言葉も自然にしぼんでしまった。へしょげた私を、有沢さんはすずしく笑って、
「このところ、随分遅くまで、社に残っているようですね。がんばるのはよいことですけれど、無理、にまでなってしまうのはあまり感心しませんね。特に、○○ちゃんのうかない顔はあんまり格好よくありませんから、適当に力を抜いたほうがいいと思います」
大股で歩きながらそんなことを言う。有沢さんは、私をちゃん付けで呼ぶのである。私は、自分ではもう、「ちゃん」の年齢ではないと思っていたので、はじめてそう呼ばれたときには、嬉しいような、馬鹿にされたような、変な気がしたけれど、今は、もう慣れた。有沢さんに確かに私は「○○ちゃん」と呼ばれるのが相応しいような状態なのである。
 私はそれに遅れないよう、駅の構内よりもまだ早足でちょこちょこくっついて歩きながら、有沢さんの言葉が、少し嬉しく、
「でも、まだいろいろと慣れないものですから。一日の分を終えるまで居ようとすると、どうしても遅くなってしまうんです」
など、当り前のことをまた有沢さんに訴えてしまう。
「それは確かにそうでしょうね。けれども、そこはなんと言いますか、やりようと言いますか、気の持ちようと言いますか。そういう中にあっても、上手に息抜き、リフレッシュをするようにしてゆかないと、今の○○ちゃんのような顔になってしまいます」
やはり、すずしく笑って言う。それで、私はまたへしょげて、
「私の顔、そんなにひどいですか」
「ええ、ひどいです」
「そうですか」
もう私は、がっくりとうなだれて、思わず右手で頬を撫でてしまった。歩みも遅れて、有沢さんは先へ行ってしまいそうになる。それに気づいた有沢さんは歩調を落して、私の隣にまで戻って、
「そんなにショックを受けないでください。冗談です。けれども、疲れているのは、やっぱりわかりますよ。冗談ですけれども、このままどうにかしないでいたら、きっと本当に、ひどい顔になってしまいますよ」
「そうですね」私はうなだれたまま、頬を撫でなで相槌をうつばかりである。
「ほら、元気を出して、しゃきっと歩かないと、遅刻ですよ」
有沢さんは、私の背中をポンと叩いて、元気づけようとしてくれる。私は、それでようやく小さい笑みを返して、大股に歩きだした。私はまた朝から、有沢さんのお世話なっているのである。
 駅から会社までの途中、小さな公園を通り抜ける。その会社側の入り口の脇にポプラの木が一本立っている。私たちがその前を足早に通り過ぎようとすると、蜩の声がひとつ止んだ。歩きながら、私は振り返って、そのポプラの木を見た。有沢さんも、ちょっと振り返って、
「蝉が、とまっていたんですね」
「ええ」私は、もう一度振り返ってポプラの木を見た。木の背は高さは5mほどもあるようである。私はその木は有沢さんに似ているな、と思って、じゃあ、そこへとまっているあの蜩は、私ですね、とも思った。それでまた、有沢さんから遅れたので、少し小走りして追いつきながら、しっかりしたいと、しみじみ思った。始業には、何とか、間に合った。課長の厭味、どうやら聞かずにすんだ。

(2002.8.23)-3
「ぼくやあなたも、自分の声で、やがて祝える日が、あるとして。。。」
「創、歓びも、明日の夢。ふわっと、みんな大空を舞うとして。。。」
さぁ、舞い上がれ。さぁ、上がれ。さぁ、舞い上がれ。願いを、言え。
中村一義「ハレルヤ」から

(2002.8.23)-4
この汚濁は、ただ一点、ありふれている、という点においてのみ、救われうるのか。
(2002.8.24)-1
とぽとぽ歩く女の子がか細い腕で両眼を拭うのを見た。季節が変わる。
(2002.8.24)-2
輪廻を語るのは、自らの乗り込んだ列車の外見や、その猛スピードで通り過ぎてゆくさまを、車中にて仔細らしく述べるのに酷似している。その滑稽に、その虚無に、いずれ必ず喰われるのは、道理である。芥川も、やはり、喰われた。たしかに阿呆であった、と溜息をつく。成仏も、してはおるまい。
(2002.8.24)-3
 そういう訳で、今日の私はやたらに気合が入っているのである。倍速で仕事を片づけてゆくのである。冴えわたる脳みそ、煌く機転、鋭い舌鋒、エトセトラ。W課長のねちっこい婉曲的な厭味や要求にも屈しないのである。反対に、やりこめてやるのである。そうしたら、課長はびっくりしていた。「三沢クンも、いつの間にか、すっかり一人前になりおって」などぶつぶつ言ってお茶をすすっていた。面白かった。有沢さんも、笑って、
「その意気です。けれども、あまり無理しないように。あ、それから、ここ、間違えてますよ」
 がっくり。とほほ。けれども、今日の私はひと味違うのである。気合が入っているのである。鼻息が、荒いのである。めげずに、ばりばり片っ端からかたづけていった。
 三時を過ぎた頃に、篤志からメールが入った。
『頑張ってる?今日は早く帰れそう?帰れたら、ご希望どおり有犀へ行きましょう。楽しみにしています』
変な文面である。おそらく、私の朝のメールに合わせたものだと思われる。普段の篤志は、こんなメールは書いてこない。これはどうやら、私のメールはうまいこと伝わってくれたようである。ありがたい。三時だし、私もちょっと息抜きしましょう。返事のメールを書いた。
『たぶん大丈夫。いや、絶対。必ず帰る。放り出して、帰る。雨降るし。台風だし。おごれ』
送信して、すぐに篤志の返事のメールが来た。
『厚かましいヤツだ。ちゃんと帰って来いよ』私は「ハイ」と声に出して言っていた。周りの人たちの何人かが、ちらと私を見るので、私はちょっと肩をすくめて、メールにも『ハイ』と書いて、それだけで送った。
 陽が落ちる少し前、夕焼けの朱に空がぼんやり染まっている頃に、ふと窓の外を見れば、灰色の重苦しい雲の群がかなたからやって来ているのが見えた。雲は、腹の下辺りを夕焼けに焼かれて真赤になっており、反対に上のほうは、真っ黒に近い灰色で、ひとつひおとつが分厚くとぐろを巻いているようであった。それが幾重にも重なって、そろそろと迫って来ている。確かに、嵐の前のいやな空模様。どこかの映画では、こんな空が、破滅の前の一シーンとして挿入されていたことが何となく思い出される。
 しかし、こうして、もう日も暮れるというのに、私の仕事は終らないのである。早く帰る、と宣言したものの、終らないので、やはり帰れないのである。せめて、切りのよいところまでは、片づけてしまいたいのである。どうやら、これはどうあってもあと一時間くらいは帰れそうにない。けれども、一時間あれば、終わりそうではある。やれやれ、仕方がない。片づけてから帰ることにしましょうか。
 そんなことを考えながら作業していると、有沢さんが、帰りがけに声をかけてくれた。
「○○ちゃん、たまには早く帰りなさい。ほら、これから、雨も降るようだし」
と言って、窓の外にじわじわ広がってきているどす黒い雨雲の群を指さした。私は、それを見ながら、
「はい。ちゃんと帰ります。これをちょっと片づけてしまってから」
「そうですか。じゃあ、それまで雨が降り出さないことをお祈りして、ぼくは先に帰らせて頂きます。それでは」
有沢さんは、さわやかに笑って去っていった。さて、私もラストスパート。ほんとに、降り始めないうちに、片づけてしまわないと、今日はそのつもりで傘を持ってきていないのだから。それに、篤志も、待っている。有犀の料理と、ワインも待っている。あら、これって、結構ふんばる動機になりますのね。そろそろ、お腹も減ってきた。
(2002.8.25)-1
このお人形。まるで、生きているみたい。そう言ってほしくて。
(2002.8.25)-2
 有沢さんが帰ってしまってから、もう30分ほどして、私もようやく帰り支度が済んだ。その頃には、外はもう真暗で、オフィスの中からでは明るくて、外の様子を窺うことができなかった。大急ぎで会社の入っているオフィスビルから出てみると、辺りには雨の気配が何となく漂っているように思える。
 私は首をすくめて、足早にまっすぐ駅へ向って歩き始めた。できれば、雨が降りだす前に、部屋に着いていたい。空を見上げてみれば、もう雨雲が私の真上も覆ってしまって、オフィスやショップの明りや、街灯、車のフロントライト、夜の都会から射しあがる様々な色した光の束を反射して、くすんだ灰色をしてドームの天井のように低く浮かび上がっている。都会の曇りや雨の夜は、こうして晴れて月の出ている夜よりもよほど明るくなる。私は、この雨雲に覆われた明るい空を見上げるたびに、自分がいまどうしても都会にいるのだ、ということを意識する。なぜここに居るんだろう。ここで暮しているのだろう。この空の下で、これからも私は生きてゆくのだろうか。そんなことを瞬間的に思う。けれども、それ以上のことは、いつも考えない。安っぽい感傷だと、小さく笑って道を急ぐのである。
 駅のすぐ手前の信号で待っていたら、とうとう雨が振り出してしまった。となりの人が片手をかざしている。見あげる私の頬にも、雨粒があたる。間にあいませんでした。けれども、とりあえずは駅の構内に入ってしまえば、大丈夫。急いでおいてよかった。やがて信号が変わる。横断歩道を渡っていると、アメリカンバイクに乗って、サングラスをかけた若いお兄さん空を見上げて、口をゆがめていた。そうね、バイクは、つらいですわね。私は少し同情したけれど、雨足は加速度的に強くなって、こちらもそれどころではないのである。アスファルトはもう黒い斑点が集って、大きなしみに変わりはじめている。頭に手をあてると、かなり濡れてきているのがわかる。辺りの人も、もう何人かは駆け足で先へ行ってしまった。傘を持っている人々は傘を開いている。私も、失礼して、走ることにします。
 駅に着いて、後ろを振り返ると、雨はもう相当に強くなっており、白い雨の筋がはっきりと見てとれた。私はハンカチを取り出して、スーツの肩を払い、頭を軽く拭いてから、改札を抜けた。ホームへ行くと、電車は丁度出てしまったところで人は少なかった。私はここでようやく、今日は早く帰れるのだ、ということを再確認して、嬉しく、人が見ていないのを確認して、腰のところでガッツポーズをした。「ふふふん、有犀でディナー。有犀でワインー」雨降りもなんのその、へんてこな小唄を歌ってしまうほど、上機嫌になった。
 けれども、見れば、雨はもうサーッという音を立てて白く煙っている。そして、私は傘を持たないのである。これは、困りました。どうしようかな、鼻歌にも飽きて、まだ電車も来ないので、私はそれを考えていた。
 そうだ、篤志に、駅まで迎えに来させましょう。どうせ、部屋で私の帰りを待って、テレビを見ているのだから、構わないでしょう。名案名案。早速、篤志に電話をかけた。
「もしもーし。あつしー。いま、うん、仕事終ったよー。いま、駅で電車待っているところ。でさあ、そっちは雨降ってる?こっちの方は、もう振りだしちゃってるんだ。。。それでさ。あのさ、篤志。駅まで、迎えに、来てよ、ねえ」
電話の向うの篤志は「えー」だの「うー」だの、イヤイヤ言っている。それと一緒に、テレビから流れるバラエティー番組か何かの笑い声が混じっている。篤志の声にも、それにあわせるようにして、「ふっ」と笑う息が混じる。私は腹が立った。てめえ、テレビ見てるんじゃん。この私が、たまに仕事を早く済まして、帰ろうとしているところ、あいにくの雨降りで、駅から部屋まで濡れて帰らなければならないかも知れないというのに、あなたは、部屋で寝ころがってダラダラとテレビを見て笑っているのですか。どうなのよ、それって、ねえ。愛が。愛が、足りなくねえ?
 お願いではなくて、命令、に切り替えました。
「篤志!テレビばっかり見てないで、たまには愛しの○○を駅まで迎えにいらっしゃい!」とは、さすがに言わなかったけれど、少し声に凄みを入れてあげて、命令口調で言ったら、篤志はしぶしぶテレビを消した。少ししたら、傘を持って出ると言う。それでも、「んもー、わがままだなあ」などと、切る直前まで、ぶつくさ不平を言っている。まあ、いいか。とにかく、これで、大丈夫。久しぶりに楽しい帰途になりそうだ。
(2002.8.25)-3
ま、間違えた。雨は降り始めてはいけない、のだった。ああああああああ、もう、くそう、書き直しかよ。これだから、惰性でだらだら続けるのは駄目なんだよなあ。
(2002.8.25)-4
 有沢さんが帰ってしまってから、もう30分ほどして、私もようやく帰り支度が済んだ。その頃には、外はもう真暗で、オフィスの中からでは明るくて、外の様子を窺うことができない。私はもう降りだしているのではないかしらと不安で、大急ぎで会社の入っているオフィスビルから出てみると、辺りには雨の気配が何となく漂っているようだが、まだ降ってはいなかった。
 よかったと、私は首をすくめて、足早にまっすぐ駅へ向って歩き始めた。できれば、このまま雨が降りだす前に、部屋に着いていたい。空を見上げてみれば、もう雨雲が私の真上も覆ってしまって、オフィスやショップの明りや、街灯、車のフロントライト、夜の都会から射しあがる様々な色した光の束を反射して、くすんだ灰色をしてドームの天井のように、低く浮かび上がっている。都会の曇りや雨の夜は、こうして晴れて月の出ている夜よりもよほど明るくなる。私は、この雨雲に覆われた明るい空を見上げるたびに、自分がいまどうしても都会にいるのだ、ということを意識する。なぜここに居るんだろう。ここで暮しているのだろう。この空の下で、これからも私は生きてゆくのだろうか。そんなことを瞬間的に思う。けれども、それ以上のことは、いつも考えない。安っぽい感傷だと、小さく笑って道を急ぐのである。都会の夜空には、そんな深さは微塵もないのである。
 ポプラの木の公園を抜けて、コーヒーショップの前を通り過ぎ、今日もまた行列のできているラーメン屋に並ぶ人々を横目にちらと見て、私は駅まで急いだ。いつもは、終電に乗り遅れないのように急いでいて、今日のように早く帰れるときくらいはゆっくり明りの灯った店舗の様子を眺めながら歩きたい、とも思うのだが、白灰色して浮かび上がる低い夜空がそれをさせてはくれない。結局、私はいつもと同じように、会社から駅まで急いでいるのである。歩きながら、それに気づいて、私は多少苦笑の態だった。
 改札を抜けて、ホームに出ると、電車はすでに出てしまったらしく、人影は少なかった。これでは、駅まで急いで歩いてきた意味があまりないが、仕方がない。次の電車が来るまでに少し間があるので、篤志にメールを入れておくことにした。
『いま、××駅に着きました。これから帰ります』
メールを書いているうちに、今日は早く帰れるのだ、という喜びが、何だかふつふつ沸いてきて、私はつい下らない小唄をうたってしまった。
「早くおかえり。待ってるよー
 今日はおかえり。待ってるよー
 篤志も、お部屋で、待ってるよー
 あめあめ、ふりふる。待ってくれー
 お腹もへったし、待っとくれー
 おいしいディナー、待っててくれー」
我ながら、ひどい歌である。いいのだ。機嫌が、よかったのだ。けれども、さすがにそこまで歌って、歌詞のねたも尽きてきて、馬鹿らしさにも気づいたので、歌を止して、私はひとり、へらへら笑った。「篤志も、お部屋で、待っているー」そんなに、悪くも、ないじゃない。
 電車は、朝のラッシュほどではないけれども、やはり混んでいた。でも今日は、それもあまり苦にはならない。少し、遅くなってしまったから、篤志も、退屈して待っていることでしょう。有犀は、遅くまでやっているから、大丈夫だろうけれど。吊革につかまりながら、篤志のこと、仕事のこと、これまでのこと、これからのこと、台風のこと、中吊りの女性誌の広告にあった言葉、「やっぱりもてたい」「恋愛失敗談」「こんな女には絶対ならない」などについて、いろいろなことを取りとめもなく、考えては、その端から忘れていった。
 (二つ前の駅を出たあたりから、雨がぱらつきだしたようだった。車窓に、雨の描く細い線が斜めに、すっすっと入ってゆく。時計を見れば、もう七時を廻っている。天気予報はあたったようだ。もう十五分、待っていてくれたら、よかったのに。仕事が、もう十五分、早く終ったら、よかったのに。私が、もう十五分早くこなせるようであれば、よかったのに)
(2002.8.26)-1
「どうにか、なる」どうにもならんよ。息が熱いだけだ。
(2002.8.26)-2
 もう、駅もあと二つというところで、とうとう雨がぱらつき出した。車窓に、雨粒の描く水滴の細い線が斜めに、すっすっと少しずつ入ってゆく。時計を見れば、もう七時をとうに過ぎている。今朝の天気予報は当ったようだ。台風が、やってきたのだ。けれども、もう十五分、待っていてくれたら、よかったのに。いや、もう十五分、仕事が早く片付けばよかったのに。あと十五分分だけ、私がなんでも早くこなせてしまうようであれば、よかったのに。そうしたら、無事に部屋まで帰りついたのに。私は、少し、口惜しかった。
 電車を降りると、涼しさを感じた。錯覚かも知れない。ホームの照明はいつものように、薄暗く、黙ったまま階段へと吸い込まれてゆく人の列を照らしている。少し余裕が私にはあったのだろう。私は、階段を下る人の列の最後尾について歩きながら、ふいにそこに静けさを感じた。これも、錯覚と言っていいのかも知れない。電車の去ったホームにはただ人々の靴音だけが淡々と、あった。私は、まだ雨足が強くなっていないことを願った。
 雨は、まだ、それほど強くなっていなかった。私は駅の出口で立ちどまり、黒い空を見上げた。私と他に数人の人もそうしていた。傘をもつ人びとは、ためらわずに傘を広げて、黙々と通りへと歩き去っていった。雨は、街灯に白く照らされて、闇の中から、湧き出すように降りそそいでいる。何もないところから、水滴が生れて来ているように見えた。
 この程度なら、傘なしでも部屋まで歩いて帰ることができそうである。どういうわけだか、先ほどまでの、小唄をうたったほどの、安楽でうきうきとした気分は、どこかへ行ってしまっていた。私は一刻も早く部屋に戻りたかった。随分と長いこと篤志の顔を見ていないような気がした。朝、キスをしないで部屋を出たことが、急に熱を持って私の心臓をちくちくと刺すような気がした。降り始めてしまった雨は、その罰のように思われた。篤志が、朝と同じように、部屋のドアを開けて出迎えてくれたなら、私から、そうしようと、決めた。私は、急かされるようにして、小雨の中を歩き始めた。風が、少し吹きはじめているようだった。
 歩きだして五分ほど、部屋までもう半分くらいのところで、急に雨が強くなり始めた。玉が大粒になって、家々の屋根や地面を叩いて、ボタボタという音を立て始めた。私は口を固く結んで、前かがみになって、急いで大股に歩いた。なんだか意地悪をされているような気がした。途中、二つの信号で、たっぷり待たされた。その間中、私は信号機を睨んで、はっきりと聞こえ出した雨音を聞いた。前髪の先から、水滴がこぼれて頬をつたった。それがむず痒くて、私は手の甲で思いきり、大きく頬を拭った。寂しくて堪らなくなって、腹さえ立ってきた。足下にあった、小石を、蹴った。小石は、前を走る車の車体の下に巻き込まれて消えた。青になった信号の、横断歩道を渡りながら、私は濡れた髪を右手で掻き揚げて、くしゃくしゃしにした。頬をひっぱたいてから、キスすることにしよう、驚いて、それから怒りだしても、知ったことではない。そう決めて、ふんふん大股に歩いた。
 したたかに濡れて、ようやくたどり着いた部屋は、暗く、ドアには鍵がかかっていた。私は随分とひどい裏切りを受けたような気がして、あやうく泣き出しそうになった。それは頑張って我慢をして、鞄の中を玄関照明は灯っていたので、その明りを頼りに、部屋の鍵を探った。なかなか見つからないのだった。私は、鞄をひっくり返して、中身をぶち撒けてしまいたいのを堪えながら、ごそごそやっていた。
 ようやく鍵を見つけて、ドアを開けると、部屋の中は、やはり真暗だった。篤志は、どこへ行ったのだろう。買い物だろうか。雨も降りだしたというのに。これから帰ると、メールしておいたのに。様々なくらい考えが頭をよぎった。捨てられた。とすら、一瞬だけ思った。身体から力が抜けてゆこうとするのを抑えるように、私は大きく息を吐いた。それから、とりあえず、濡れた髪と、スーツとをどうにかしようと思い、靴を脱いで、明りをつけ、鞄をテーブルに置き、棚からタオルを一枚取りだして、頭にのせた。
 (ときどき、頭を掻くようにして、タオルで濡れた髪を拭きながら、スーツを脱いで、ハンガーにかける。濡れたところをタオルで軽く拭いて、スカートも脱いだ。ストッキングも脱いだ。雨はもう随分と強く、締め切った窓を通しても、雨音が室内に静かに響いてくる。私は、鞄から携帯を取り出して、篤志の携帯にかけた。)

(2002.8.27)-1
「書くことは、楽しい。生きているというきがする」
ばか。ウソだ。

(ぺたぺたさん)
川上弘美
 ぺたぺた、という音がしたので、ふりむいた。パンの棚とおむすびの棚の間を、男が一人、行ったり来たりしている。男は、はだしだ。大きくてひらたいその足が、ぺたぺたと音をたてている。
 眺めていると、男はにっこりと笑い、「ぺたぺたいうでしょう」と言った。はあ、とあいまいに頷くと、すっと寄ってきた。反射的に後じさると、またすっと寄る。ちょうどわたしと男とで、ワルツかなにか踊っているような感じだった。
 同じ店で、以前ずるずる様につかまってしまったことがある。ずるずる様は、ストローで紙パック飲料をずるずると飲む中年女性である。飲料がなくなってからではなく、まだパックがいっぱいの時にも、たいそう上手にずるずるいう音をさせる。つぎからつぎへとレジで飲料を買い求め、景気よくずるずる音をたてるので、思わず拍手したら、部屋までついてきてしまった。三日ほど居ついたが、部屋にずるずるいわせるものがあまりなかったせいか、四日めに突然いなくなった。
 ぺたぺたさんは邪気のない笑顔で笑っている。我慢しきれずに、わたしは「よくもまあそれだけぺたぺたいうもんですねえ」と言ってしまった。ぺたぺたさんは喜び、今までにも増してぺたぺたぺたぺたぺたぺたと歩きまわった。それからわたしのうしろにまわり、そっとわたしの靴を脱がせた。そのままぺたぺたさんと一緒に夜道へ出て、二人で歩いた。自分には土踏まずなんかないってつもりになって。地面とは仲良くね。そんなふうに指導するぺたぺたさんにくっついて、町内をひとまわりした。
 ふたたび店の前に戻り、ぺたぺたさんがドアを開けて店の中に入ろうとしたところへ、わたしは立ちはだかった。わたしの部屋に行こうよ。そう頼んだ。ぺたぺたさんは頷いた。二人でぺたぺたと部屋まで歩いた。その夜はぺたぺたさんと深く愛しあい、夜明けがたになってから眠りについた。
 ぺたぺたさんはそれからしばらくわたしと一緒に住んだ。二人でフローリング床を朝昼晩ぺたぺたと歩き、コンビニエンスストアにもしょっちゅう行っては、高らかにぺたぺたと音をたてた。わたしはぺたぺたさんと結婚するつもりにまでなって、区役所に用紙をもらいにいった。
 ぺたぺたさんがいなくなってしまったのは、わたしが区役所の夜間受付に行っていた間らしい。一人なった次の日の夜、マカロニサラダとポテトサラダを買いに店に行くと、顔見知りの店員さんが「いつも十一時ごろに来る、ものすごくきゃしゃなミュールをはいてて、必ず鮭のり弁当とトマトジュースを買う女の子に、ついてっちゃったみたいですよ」と教えてくれたのだ。
 店員さんに、わたしは丁寧にお礼を言った。それから靴を脱いで、店内を一周した。ぺたぺたといい音がした。店のドアを開け、ピンポーンといわせながら、外へ出た。
 月の明るい夜だった。わたしは店のゴミ箱の横にうずくまった。ゴミ箱は硬くてひんやりしていて、夏の夜のすいか畑みたいな匂いがした。ぺたぺたさんを思って、わたしは少し泣いた。
 泣きやんでから、はだしのまま、夜道へ踏みだした。アスファルトは昼間の熱をまだ残している。一人で、ぺたぺたと、部屋まで歩いて帰った。

(2002.8.27)-2
 ときどき、頭を掻くようにして、タオルで濡れた髪を拭きながら、スーツを脱いで、ハンガーにかける。髪を拭いているタオルでそのまま、スーツの濡れた部分を軽く叩くようにして水気を取り、スカートも脱いでしまった。ストッキングも脱いだ。ぐしゃぐしゃと髪を掻きまわす手を少し止めれば、外の雨はもう随分と強く、締め切った窓を通しても、雨音が室内に静かに響いてくる。私は、鞄から携帯を取り出して、ソファに身体を投げるようにして持たれかかり、篤志の携帯にかけた。電話が繋がるまで、液晶に浮かび上がる番号を黙って睨んでいた。
 繋がってみれば、部屋の隅から着信音が聴こえてくるのである。それを聴いていると、今日の疲れが一度に噴き出してきた。私は大きく溜息をついて、のろのろとソファから音のするほうへ這って行った。棚の三段目には、着信音にあわせて明滅する光源が見える。折りたたまれた篤志の携帯は、財布と一緒にあった。私は、その携帯をつかんで、その液晶に表示されている私の名前を苦々しく眺めた。そして、折りたたまれているそれを開いて、電源を、切った。財布も、携帯も持たずに篤志はどこへ行ったのだろう。わからないな。煙草でも、買いに出たのだろうか。どちらにしろ、じきに帰ってくるでしょう。ああ、もう、疲れたなあ。私はそのまま、その場にうつ伏せになってしばらくじっとしていた。軒先からこぼれる水滴が規則的な周期でベランダのアルミ製の手すりを叩いて、高くて軽い音を立てる。私は時折、思い出したように頭の上に乗ったタオルをくしゃくしゃやりながら、ぼんやりとその音を聴いた。眠気が覆い被さるようにして、やってくる。
 けれども、お腹が、なったのである。その音で、私はいっぺんに目が醒めてしまった。私は、また苦笑して、のろくさと起き上がり、お腹をおさえたまま、しばらく手持ち無沙汰で、つっ立っていた。とてもお腹がすいたけれど、これから有犀へ行くはずなので、この空腹はどうにかしたものか。とりあえず、雨に濡れたためか、少しの肌寒さを感じたので、私はきちんと着換えをして、化粧を落して顔を洗ってから、湯を沸かそうと、薬缶に水を入れて火をかけた。コンロの火を見つめながら、私は随分とぼんやりしていて、お湯が沸いたのを、忘れていた。
 沸かしたお湯で、インスタントコーヒーを作って、ソファの真中にちょこんと坐って、少しずつすすった。部屋が明るいような気がしたので、立って部屋の明りを消し、電気スタンドのスイッチをオンにした。そして、また、ソファにもとのようにちょこんと坐る。コーヒーは温かくて、その熱が私の身体を伝わってゆくのが、はっきりとわかった。私はその熱気を込めて、何度も溜息をついた。考えごとはみな、かたまりにならずにすぐに散ってしまう。私はまた、いつの間にか、カップを両手で握ったまま、頭を垂れて、うつらうつらしていた。
 部屋のドアの鍵穴に鍵を挿しこむ音がして、私は目を醒ました。篤志が戻ってきたのだ。目ざめてみれば、ちょうど今から怖い夢を見はじめるところだったような気がした。私は、それを振り払うようにして、頭を軽く振って立ち上がり、ドアへ向った。まさか、私が篤志をお出迎えすることになるとは、思いもよりませんでした。はいはい、いま開けますよ。
 ドアノブをつかもうとするところで、ちょうどドアが開いた。篤志は私と目を合わせると、とても驚いて、声をあげた。私は、部屋を暗くしていたので、帰っているとは思っていなかったのだろう。
「なんで、おまえが部屋にいるんだよ」
どうやら、篤志は私が部屋に居るのがお気に召さないようだ。私は「何よ。帰ってちゃ悪いの?」と、つっけんどんな言葉を返すと、篤志は応えて、
「かなり悪いね。一体いつ頃帰ったんだよ」
かなりご機嫌斜めなのである。けれども、私のほうも、今までどこへ行っていたのか、と聞いてやりたい気持ちが大いにあったので、私も毒のこもった言葉を吐いた。
「ずっと前よ。あなたこそ、どこへ行ってたのよ。私がせっかく一生懸命仕事を早く終らせて、早く帰ってきたのに。こんな雨の中、コンビニに立ち読みにでも行っていたのかしら。財布も、携帯も、持たずに、ふらふらふらふら。私はね、駅からここまで歩いている途中で、雨が強くなってしまって、ずぶ濡れになって帰ってきたんだよ。ほら、あそこ、スーツを見てよ。もう、あんなに濡れてしまって、一度クリーニングに出さなければならないじゃない。あなたなんて、雨も振り出す前に、台風も来てしまう前に、仕事が終って、部屋に戻ってきて、私が一生懸命仕事を片づけているときに、きっと欠伸をして、『あの野郎、遅せえなあ。早く帰るって、あんなに鼻息荒くしてたくせに。ああ、腹が減った』なんて、テレビを見ながらぼやいていたんだわ。それで、私がやっと帰れるようになって、メールを出して、あなた、それを読んだくせに、もうすぐ帰るってわかってるくせに、私へのあてつけみたいにして、ふらふら外へ出たんだ」
余計なことまで、随分と言い出してしまっていた。けれども、言葉があとからあとから溢れ出してきて、全部吐き出してしまうまでは、どうにも止めることができない。
「私だってね、もっと早く帰ろうとしたんだよ。有沢さんだって、疲れているようだし、早く帰ったほうがいいって、言ってくれていたし。だから、台風が来るってわかっているのに、傘も持たずに出かけたんだよ。帰るつもりだったんだよ。でもね、やっぱり終らないんだもん。仕方がないじゃない。早く、できないんだもの、仕方がないじゃない。そう、そうよ。そうですわね。私が、もっと早くいろいろできれば、いいのよ。篤志も、欠伸をして待たなくてもよかったし、私も、ずぶ濡れになって帰ってくることも、なかった。そうだ、私が、みんな、悪いんだ。全部、私のせい」
泣けてきた。
「そうね、だから、篤志が怒るのも、当然ね。私が、悪いんだから。謝るわ。ゴメンナサイ。私が悪う御座いました。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ」
 やってしまった。私は、もう何がなんだかよくわからなくなって、眼にたくさん、涙が溜まってしまって、少しでも動くと溢れ出してしまいそうで、まくし立てるのも止めて、固くなった。滲む視界の向うで、篤志は、溜息をついている。篤志を、怒らせてしまった。もうお仕舞いだ。そう思ったら、涙がポロと音を立ててこぼれた。私は恥ずかしいやら、口惜しいやらで、顔を赤くして、急いで涙を拭ってうつむいた。もう、鼻がぐしゅぐしゅいい始めていた。
 少し間を空けて、篤志は、一度深く息を吐いてから、「わかった。わかった」と、私の背中を撫でた。やさしい声だった。怒っていない、私はとてもほっとして、うつむいたまま薄目を開けて、篤志を見た。篤志の右手には、二本の傘が握られていた。私は、はっとして、急いで篤志の顔を見た。

(2002.8.28)-1
君は土の味を憶えているか。
(2002.8.28)-2
 篤志は、穏やかに、笑っている。つられて私にも笑顔が浮びかけたけれど、それは笑顔になりそこねて、変な、きたない、くちゃくちゃの、ひきつった表情になってしまった。私は、自分でもそれがよくわかったので、恥ずかしく、またわっと篤志の胸に顔を埋めて泣いてしまった。どうやら、私はまたやってしまったらしい。篤志は、さすがに困ってしまったのか、背中を撫でながら、
「その『今から帰る』っていうメールが来て、それから少し経ったら、雨が降り出して来てさ。今日の朝、おまえが息巻いて、わざわざ傘を持っていかなかったのを思い出して、それから、ちょうど煙草が切れたところだったから、買いに行くついでに、駅まで迎えに行ってやろうかなあって、思って。それで、ほら」
篤志は、右手に持った二本の傘を、所在なげに少し持ち上げて見せる。私は「もうわかってるから」と言おうと思うのだけれど、涙が溢れて、鼻もぐじゅぐじゅで、うまく言葉にできない。仕方なく、胸の中でしゃくりあげながら、何度も頷くだけだ。それで、篤志はまだつづけて、
「そうしたら、知ってるだろう。いつも買っている煙草の自販機が、通りに出たところにあるものだから、そっちまわりで、そこで煙草を買ってから、駅へ行くことにしたんだ。それできっと、すれ違っちゃったんだろうなあ」
 確かに、部屋の中ではいつも一緒にまとめて置いてある、財布と携帯と煙草とライターのうち、携帯といっしょにあったのは、財布だけだった。篤志は、煙草を買う小銭とライターと、それから傘を二本、それだけ持って部屋を出たのだ。途中で煙草を買って、その場で包みを開けて、さっそく一本火を点けて、プカプカやりながら、私の傘を片手にのんきに歩いて迎えに来てくれていたのだ。けれども、私はそのときにはもう駅に着いて、部屋に向って真っ直ぐに、歩きだしてしまっていたのだ。
 私は、顔をあげて、親指で涙を拭いながら、鼻声で、「うん、わかった。ありがとう。ごめんなさい」と言って、篤志の持っていた二本の傘を受取って、傘立てにさした。
「うん。こっちこそ、タイミングが悪くて、スマン」
「こういう日も、あるね」
お互い笑って、それから、「じゃあ、そういうことで、お腹もとても空いたことだし、晩飯を食いに、行きましょうか」と、約束どおり、有犀へ行く支度をした。私は、鼻をかんで、顔を洗った。乱れた髪を、少し整えた。篤志は、財布と携帯を、きちんとポケットに入れた。雨は、やはりだいぶ強く降っている。部屋を出るとき、私は自分の傘を持たないで、篤志の傘に入って行きたいと思ったが、さすがにそれは止すことにした。有犀までのみちみち、私は篤志について歩きながら、傘を打つ雨の音がうるさくて、篤志には私の呟く声は聞こえないのはずなので、
「迎えに来てくれて、ありがとう。嬉しかったです。ほんとよ。なのに、さっきは取乱して、ひどいこと言って、ごめんなさい。それから、今日は、そんなに早く帰ってこれなくて、待たせてしまって、ごめんなさい。あと、いつも、わがままばかりで、ごめんなさい。もう、うんざり、とか言わないで、これからも、よろしくお願いします。私の愛しい、」旦那さま。
 この雨のせいだろう、有犀の客は、私たちだけだった。


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