tell a graphic lie
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(2002.8.29)-1
 できるだけ、頭の中にある言葉どおりに書きとることをしてみる。それがそのまま文字として落ちてきたことは、一度もない。それらは全て、また常に、何十語という音声化されない、前提としてある語の上にあり、それらを代表するかたちで思念上に顕れるので、一語一語直列に繋いで文をなし、一文一文をまた直列に接続して製する文章とは、その形式、即ち日本語である、ということから見れば、それらは同一のものであるようにも思われるのだが、実際には全然別のものである。という断定を試みる。これで、ぼくは何を示したいのかといえば、思念をそのまま書き取ることは不可能だ、ということを証明したいのである。それは、ぼくにはそれを行う能力が備わっていないということではなく、不可能な作業である、としたいということだ。
(2002.8.29)-2
 自分の人生がいまだかつて、他の人間から決定的な影響を受けたこともなければ、また与えたこともないのだということを認識すると、ぼくは過呼吸に陥る。ぼくは孤独であるようだ、という「直接的な言及」。ぼくは人のこころに触れたことがない。こう書けば、そこにセンチメンタルな色調が加わって、多少ピントをぼかすことができる。ぼくは人に触れたことがない。これは完全な事実ではないが、しかしおそらく、「最も事実に近い記述」である、と思われる。
 「人はみな孤独だ」という、満ち足りた人間が、暖かい夕食を平らげたあとの安穏な気分でこぼす優雅な感傷ではなく、それはぼくのこれまでの生活の状態についての、簡明な記述である。こう書くこと自体が、センチメンタルな孤立主義であることを期待して、ぼくはぼくの持つ記憶を検証する。結果は、言わない。

(2002.8.29)-3
 ぼくは人に触れないので、人のこころに触れることもない。これまで生きてきた時間は、変わらずそうしてきたので、これからも多分そうしてゆくことになるというのが、最も自然ななりゆきだろう、と考えている。この流れに、どこか不備はあるだろうか。

(2002.8.29)-4
 ぼくが、23歳のこのときを、こう過ごしているとかつて予想したことがある。それは、記憶しているだけでも、15歳16歳17歳18歳19歳20歳21歳22歳と、大きくはずれたことはない。今も、はずれていない。

(2002.8.29)-5
 ぼくは人を信じないので、ぼくも本当のことを言わない。また、本当のことをしない。これを言うことは、「信じる」という行為についての定義を持ったうえでのことだと思われるかもしれないが、実際には、「信じる」以外の言葉をあてはめることができなかったためにそう記述されているに過ぎない。

(2002.8.29)-6
 「資格」というものが「自然な」ものであるとすれば、以下のことを言ってもよい。「ぼくは、少なくとも、自身でそれに気づいたときには既に、欠格者だった」

(2002.8.29)-7
 あの子に抱いていた感情や、あの子のことを思うときにあった感覚が、恋愛感情であったと思いたいのだが、あまり自信が持てない。では、何であったか、と問われると、代わる説明もあるわけではない。ただ、そこにはまだ可能性がある、としたいようだ。終わっているとは、なかなか、言えない。

(2002.8.29)-8
 ぼくは孤独であることを選択している。選択している、というのは、望んでいる、というのと同じであるか。同じであろう、と思う。ぼくが、今ここで孤独に暮しているというのは、ぼく自身が望んだことなのである。その観点から言えば、孤独がぼくを苛むことは起りえないはずである。では、なぜ胸につまるものがあるのか。孤独から来るものでなければ、それは何なのか。

(2002.8.29)-9
 人を知らない。と、この言葉にもセンチメンタルがあり、陶酔は必ず感覚を麻痺させ、事実を誤認させるものである。それは、心地よく、ときには美しくすらあるが、役に立たない。

(2002.8.29)-10
 人を求めない。これには多少、実態の描写として適切なところがあるが、あくまで相対的なものでしかなく、事実、ぼくはこれをインターネット上にデータを上げて、他人が読むことを可能にしている。可能にしている、というのは、そのまま、して欲しいと思っている、というのとイコールになるか。答え、「なる」それは正当なことか。「問いとして、適当な表現でない」自然なことか。「ならば、何故ぼくはそれに違和感を感ずるのか」それは多分、ぼくがぼく自身を信じていないからだ。いや、信用していないからだ。「その答えには『逸らし』があるようだ。もう一度、今度はこちらから問おう。ぼくは、他人と比較して実に弱いもでのはあるけれども、人を求めている、という部分が存在するか」観念的な話だね。『人を求める』というのは、具体的にはどういった事柄、行為を指すのかね。

(2002.8.29)-11
 しかしやはり、現実として、ぼくは過呼吸に陥るのである。この過呼吸というのは、正式のそれではなく、ぼくが感ずる、胸の中心を周囲から圧縮されるような感覚と、気管の首のつけ根あたりの位置を搾り狭められるような感覚のことを指している。実際に、呼吸困難になるわけではない。そうなりそうな気がする、というだけである。

(2002.8.29)-12
 全て自慰、またはそれに類する回避的な措置とでもいう行為によって、まかなうことができる。食欲、睡眠欲、性欲、支配欲、被支配欲、功名心、自殺願望、理解して欲しい衝動、理解したい衝動、友情らしきもの、恋らしきもの、愛らしきもの、躰、こころ。そのほとんどを、自らが代替として提案し、供給するなんらかによってまかなうことができる。残りも、金銭等を介した、事務的な手続きを経て消費される。

(2002.8.29)-13
 確かに「余生」と表現しても差し支えないでもないが、それはやはり適当でない。ぼくはまだ実際にどれも経験したことがないので、それは「余」生ではない。「未」生とでも言ったほうが、まだ適当であるとも思える。

(2002.8.29)-14
 一個の装置としての自分。ただ、有する機能には用途がないのが、通常のものと異なる。河の水の一部を汲み取って濾過し、精製された水をまた元の河に戻し、かつ濾過した汚物をもまた元の河に溶かし込むといったような。インプットがあって、それに対して同等のアウトプットをする。それだけである。その総量は、目減りもしなければ、増えもしない。
(2002.8.29)-15
 ぼくがかつて一度でも、「屈託のない笑顔」と書かれるような笑顔をしたことがあるかどうかについて。また、他人のするそれを、これまでに見たことが本当にあるのか、どうか。
 去年の秋、ぼくは、このような、完全に正確には知りえていない、と自身感ずる言葉を、知らないままで使うことに決めた。それまでは、少なくとも、ぼくの神経が行き届く範囲に於いては、そのような言葉の使用はしてこなかったし、また、できずにいた。
 しかし、更にそのひと月ほど前の、二本の尖塔の両脇腹に航空機が、ひとつ、ふたつとつっこんだあの映像を目にして、それから数日間行った、この世で最も甘美な昂奮と陶酔を以て、天界の扉をこじ開けて昇って行ったあいつらに対しての、ぼくの卑屈で微弱な抗議の試みの際に、そのようにして、自身の感覚と、自身の言葉を完全に一致させておくことに、ぼくははじめて不都合を感じた。ぼくの持っている言葉は、ごく僅かだった。その言葉たちだけでは、何も書けないと言ってよかった。三つ四つの言葉のみからなる、ごく単純な文すら成立しなかった。抗議の試みを開始してから数日して、ぼくはそのような認識に至り、その作業を一度中断して、問題に対してある決断をしなければならくなった。それはつまり、「ぼくは嘘をつかなければならないのだ」ということだ。ぼくは、嘘をつくことにした。と、ぼくは、その決定までの過程については、書かない。なぜなら、ぼくはそれを、「さも誇らしげに」書くであろうからだ。
 それを解禁することは、他のいくつかの規制についても、その存在する理由を失わせることを意味した。ぼくは、それを一ことで言うことができる。ぼくはオリジナリティを放棄したのだ。それは、少なくともぼく自身にとっては、よいことだった。なぜなら、ぼくは全ての言葉を使用してみる権利を得たのであるし、更には、今までそれらの規制によって、試すことを止められていた幾つかの事柄を実現することが可能になったからだ。即ち、模倣すること、盗むこと、借りること、土台とすること、賛同すること、批判すること、和すること、等々。そして、その手始めとして、ぼくはここを貰うことにしたのである。それは、そのまた一年以上前から漠然と希望していたことだった。ここならば、その時点でぼくが実際に駆使することのできる言葉を極大にすることが可能だと思われた。
 一二通のメールのやりとりをして、すんなりとそれは為った。そして、ぼくはその上で嘘をつきはじめた。そこで使われる言葉の多くは、ぼくの実体からかけ離れた、観念的な言葉であった。しばしば妄想じみてすらいた。
(2002.8.29)-16
米国ニューヨーク時間の9月11日は祈念日である。


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