tell a graphic lie
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(2002.10.22)-1
あなたは何を望んでいる
(2002.10.22)-2
飲みすぎのせいで一日中脳がふやけているような感覚のままだ。そしてまた飲み始める。誤魔化したいことが、ある。
(2002.10.22)-3
一人でしなさい。一人になりなさい。ひそかに消えておしまいなさい。
(2002.10.22)-4
皇帝の翼は、鋼鉄の翼。全てを振り切って垂直に飛び立つ。厚い雲を切り裂いて。星の光を遮って。
(2002.10.22)-5
水温を計る。指が融ける。ここを止めたい、と思う。
(2002.10.22)-6
いのちけずりますか
(2002.10.23)
言葉が消える
(2002.10.24)-1
今日も死んでいない。
(2002.10.24)-2
Stand alone.
(2002.10.25)-1
今週はまったくひどい週でした。何にもしませんでしたね。会社に行っても、午前中は二日酔いで頭がふらふらして、朝なども真っ直ぐ歩いているのか不安になったりなどするような有様で、お腹の調子も悪いし、、、それでもまあ、普通に(他人から見て、そう見えていたかどうかは定かではない)仕事はするのだけれども。オブジェクト指向を使ってリリースも随分先な、小ぢんまりとしているけれども、パソコンにおける基本的な処理がきちんと含まれた、プロセスの処理とか、ネットワーク通信とか、ファイルの取り扱いとか、メモリの管理とか、ログの管理とか、異常時の退避策の工夫とか、再利用性の問題とか、まあ、要するにデーモンを作るんだよ、そういうのが含まれたニゥプロダクトを、楽しく作るという、おそらくプログラマとしては最も楽しい部類の作業であろう仕事をぼそぼそとこなして、そうしてようやく頭も酔いから完全に醒めてきそうかな、という辺りで(飲んでから18時間以上経過)部屋に戻れば、今度は眼が冴えてしまって、あのいやなものがじんわりと感じられてきて眠れず、また酒を飲みたくて飲みたくて、「これは飲まずにはおれますまい、こんなときはお釈迦さまでも飲んだに違いない」などひとりいきんで、まだ新しいグラスを買っていないものだから、マグカップの半分くらいに七面鳥さんを注いで、そこにちょっとミネラルウォーターを加え(ウィスキーはミネラルウォーターによって味が変るのだ。ぼくは「南アルプスの天然水」が一番好みである)、そうして七面鳥さんの野暮ったいアルコールの臭いが鼻に入ると、「ああ、いやだ。まただ」と少し思うのだけれど、そこはちょっと我慢、その琥珀色の液面をじっと見つめて、今夜も酔っ払い、ですます、です。ごめんなちゃい。など鼻息荒めにぐいぐい呷って、二口で飲み干せば、ぼくは酒に強いわけではないのである、それで明日の最低がまた確定する。次をまた注いで、同じやり方でもう一度。はい、これでもう何にも書けません。何も読めません。寒くて震えて、そうして意識が途切れるのを唯じっと待つのであります。うん、これは確かに、馬鹿であります。あー、もう、先に酒を飲むのは、だめよぉ。終ってから飲まないと。頭ぐらぐらじゃあ書きたいことも書けないわよ。と言って、今もまた飲んでいるのである。言葉にならない部分が一ばんこわいんだよ。
(2002.10.26)-1
ぼくは新しく何かを書かなければならない、というわけでは別にないんだ。
(鴎)-ひそひそ聞える。なんだか聞える。
 鴎というのは、あいつは、唖の鳥なんだってね、と言うと、たいていの人は、おや、そうですか、そうかも知れませんね、と平気で首肯するので、かえってこっちが狼狽し、いやまあ、なんだか、そんな気がするじゃないか、と自身の出鱈目を白状しなければならなくなる。唖は、悲しいものである。私は、ときどき自身に、唖の鴎を感じることがある。
 いいとしをして、それでも淋しさに、昼ごろ、ふらと外へ出て、さて何のあても無し、路の石塊を一つ蹴ってころころ転がし、また歩いていって、そいつをそっと蹴ってころころ転がし、ふと気づくと、二、三丁ひとつの石塊を蹴っては追って、追いついては、また蹴って転がし、両手を帯のあいだにはさんで、白痴の如く歩いているのだ。私は、やはり病人なのであろうか。私は、間違っているのであろうか。私は、小説というものを、思いちがいしているのかも知れない。よいしょ、と小さい声で言ってみて、路のまんなかの水たまりを飛び越す。水たまりには秋の青空が写って、白い雲がゆるやかに流れている。水たまり、きれいだなあと思う。ほっと重荷がおりて笑いたくなり、この小さい水たまりの在るうちは、私の芸術も拠りどころが在る。この水たまりを忘れずに置こう。
 私は醜態の男である。なんの指針も持っていない様子である。私は波の動くがままに、右にゆらり左にゆらり無気力に漂う、あの、「群衆」の中の一人に過ぎないのではないだろうか。そうして私はいま、なんだか、おそろしい速度の列車に乗せられているようだ。この列車は、どこに行くのか、私は知らない。まだ、教えられていないのだ。汽車は走る。轟々の音をたてて走る。イマハ山中、イマハ浜、イマハ鉄橋、ワタルゾト思ウ間モナクトンネルノ、闇ヲトオッテ広野ハラ、どんどん過ぎて、ああ、過ぎて行く。私は呆然と窓外の飛んで飛び去る風景を送迎している。指で窓ガラスに、人の横顔を落書して、やがて拭き消す。日が暮れて、車室の暗い豆電燈が、ぽっと灯る。私は配給のまずしい弁当をひらいて、ぼそぼそたべる。佃煮わびしく、それでも一粒もあますところ無くたべて、九銭のバットを吸う。夜がふけて、寝なければならぬ。私は、寝る。枕の下に、すさまじい車輪疾駆の叫喚。けれども、私は眠らなければならぬ。眼をつぶる。イマハ山中、イマハ浜----童女があわれな声で、それを歌っているのが、車輪の怒号の奥底から聞えて来るのである。
 祖国を愛する情熱、それをもっていない人があろうか。けれども、私には言えないのだ。それを、大きい声で、おくめんも無く語るという業が、できぬのだ。出征の兵隊さんを、人ごみの陰から、こっそり覗いて、ただ、めそめそ泣いていたこともある。私は丙種である。劣等の体格を持って生れた。鉄棒にぶらさがっても、そのまま、ただぶらんとさがっているだけで、なんの曲芸も動作もできない。ラジオ体操さえ、私には満足にできないのである。劣等なのは、体格だけでは無い。精神が薄弱である。だめなのである。私には何も言えない。なんだか、のどまで出かかっている、ほんとうの愛の宣言が私にも在るような気がするのであるが、言えない。知っていながら、言わないのではない。のどまで出かかっているような気がするのであるが、なんとしても出て来ない。それはほんとうにいい言葉のような気もするのであるが、そうして私も今もその言葉を、はっきり掴みたいのであるが、あせると尚さら、その言葉が、するりするりと逃げ廻る。私は赤面して、無能者の如く、ぼんやり立ったままである。一片の愛国の詩も書けぬ。何にも書けぬ。ある日、思いを込めて吐いた言葉は、なんたるぶざま、「死のう!バンザイ」ただ死んでみせるより他に、忠誠の方法を知らぬ私は、やはり田舎くさい馬鹿である。
 私は、矮小無力の市民である。まずしい慰問袋を作り、妻にそれを持たせて郵便局へ行かせる。戦線から、ていねいな受取通知が来る。私はそれを読み、顔から火の発する思いである。恥ずかしさ。文字のとおりに「恐縮」である。私には、何もできぬのだ。私には、何一つ毅然たる言葉が無いのだ。祖国愛の、おくめんも無き宣言が、なぜだか、私には、できぬのだ。こっそり戦線の友人たちに、卑屈な手紙を書いているだけなのである。(私は、いま何もかも正直に言ってしまおうと思っている)私の慰問袋の手紙は、実に、下手くそなのである。嘘ばかり書いている。自分ながら呆れるほど、歯の浮くような、いやらしいお世辞なども書くのである。どうしてだろう。なぜ私は、こんなに、戦線の人に対して卑屈になるのだろう。私だって、いのちをこめて、いい芸術を残そうと努めている筈では無かったか。そのたった一つの、ささやかな誇りをさえ、私は捨てようとしている。戦線からも、小説の原稿が送られて来る。雑誌社へ紹介せよ、というのである。その原稿は、洋箋(ようせん)に、米つぶくらいの小さい字で、くしゃくしゃに書かれて在るもので、ずいぶん長いものもあれば、洋箋二枚くらいの短篇もある。私は、それを真剣に読む。よくないのである。その紙に書かれてある戦地風景は、私が陋屋の机に頬杖ついて空想する風景を一歩も出ていない。新しい感動の発光が、その原稿の、どこにも無い。「感激を覚えた」とは、書いてあるが、その感激は、ありきたりの悪い文学に教えこまれ、こんなところで、こんな工合に感激すれば、いかにも小説らしくなる、「まとまる」と、いい加減に心得て、浅薄に感激している性質のものばかりなのである。私は、兵隊さんの泥と汗と血の労苦を、ただ思うだけでも、肉体的に充分にそれを感取できるし、こちらが、何も、ものが言えなくなるほど崇敬している。崇敬という言葉さえ、しらじらしいのである。言えなくなるのだ。何も、言葉が無くなるのだ。私は、ただしゃがんで指でもって砂の上に文字を書いては消し、書いては消し、しているばかりなのだ。何も言えない。何も書けない。けれども、芸術に於いては、ちがうのだ。歯が、ぼろぼろに欠け、脊中は曲り、ぜんそくに苦しみながらも、小暗い露地で、一生懸命ヴァイオリンを奏している、かの見るかげもない老爺(ろうや)の辻音楽師を、諸君は、笑うことができるであろうか。私は、自身を、それに近いと思っている。社会的には、もう最初から私は敗残しているのである。けれども、芸術。それを言うのも亦、実に、てれくさくて、かなわぬのだが、私は痴(こけ)の一念で、そいつを究明しようと思う。男子一生の業として、足りる、と私は思っている。辻音楽師には、辻音楽師の王国が在るのだ。私は、兵隊さんの書いたいくつかの小説を読んで、いけないと思った。その原稿に対しての、私の期待が大きすぎるのかも知れないが、私は戦線に、私たち丙種のものには、それこそ逆立ちしたって思いつかない全然新しい感動と思索が在るのではないかと思っているのだ。茫洋とした大きなもの。神を眼のまえに見るほどの永遠の戦慄と感動。私は、それを知らせてもらいたいのだ。大げさな身振りでなくともよい。身振りは、小さいほどよい。花一輪に託して、自己のいつわらぬ感激と祈りとを述べるがよい。きっと在るのだ。全然新しいものが、そこには在るのだ。私は、誇りを以て言うが、それは、私の芸術家としての小さな勘でもって、わかっているのだ。でも、私には、それを具体的には言えない。私は、戦線を知らないのだから、自己の経験もせぬ生活感情を、あてずっぽうで、まことしやかに書くほど、それほど私は不遜な人間ではない。いや、いや、才能が無いのかも知れぬ。自身、手さぐって得たところのものでなければ、絶対に書けない。確信の在る小さな世界だけを、私は踏み固めて行くより仕方がない。私は、自身の「ぶん」を知っている。戦線のことは、戦線の人に全部を依頼するより他は無いのだ。
 私は、兵隊さんの小説を読む。くやしいことには、よくないのだ。ご自分の見たところの物語を語らず、ご自分の曾つて読んだ悪文学から教えられた言葉でもって、戦争を物語っている。戦争を知らぬ人が戦争を語り、そうしてそれが内地でばかな喝采を受けているので、戦争を、ちゃんと知っている兵隊さんたちまで、そのスタイルの模倣をしている。戦争を知らぬ人は、戦争を書くな。要らないおせっかいは、やめろ。かえって邪魔になるだけではないのか。私は兵隊さんの小説を読んで、内地の「戦争を望遠鏡で見ただけで戦争を書いている人たち」に、がまんならぬ憎悪を感じた。君たちの、いい気な文学が、無垢な兵隊さんたちの、「ものを見る眼」を破壊させた。これは、内地の文学者たちだけに言える言葉であって、戦地の兵隊さんには、何も言えない。くたくたに疲れて、小閑を得たとき、蝋燭の灯の下で懸命に書いたのだろう。それを思えば、芸術がどうのこうのと自分の美学を展開するどころでは無い。原稿に添えて在るお手紙には、明日知れぬいのちゆえ、どうか、よろしくたのみます、と書いているのだ。私は、その小説を、失礼だが、(私には、その資格がないのだが)少し細工する。そうして妻に言いつけて、そのくしゃくしゃの洋箋の文字を、四百字詰の原稿用紙に書き写させる。三十何枚、というのが、一ばん長かった。私は、それを、ほうぼうの職業雑誌に、たのむのである。「割に素直に書かれて在ると思いますから、いい作品だと思いますから、どうかよろしくお願いいたします。私みたいな、不徳の者が、兵隊さんの原稿を持ち込みするということに、唐突の思いをなされるかも知れませんが、けれども人間の真情はまた、おのずから別のもので、私だって」と書きかけて、つい、つまずいてしまうのだ。何が「私だって」だ。嘘も、いい加減にしろ。おまえは、いま、人間の屑、ということになっているのだぞ。知らないのか。
 私は、それを知っている。いやになるほど、知らされている。それだからこそ、つい、つまずいてしまうのだ。私は、五年まえに、半狂乱の一期間を持ったことがある。病気がなおって病院を出たら、私は焼野原にひとりぽつんと立っていた。何も無いのだ。文字どおり着のみ着のままである。在るものは、不義理な借財だけである。かみなりに家を焼かれて瓜の花。そんな古人の句の酸鼻が、胸に焦げつくほどわかるのだ。私は、人間の資格をさえ、剥奪されていたのである。
 私は、いま、事実を誇張して書いてはいない。十分に気をつけて書いているのであるから、読者も私を信用していいと思う。れいのひとりよがりの誇張法か、と鼻であしらわれるのが、何より、いやだ。当時、私は、人から全然、相手にされなかった。何を言っても、人は、へんな眼つきをして、私の顔をそっと盗み見て、そうして相手にしないのだ。私ついての様々の伝説が、ポンチ画が、さかしげな軽侮の笑いを以て、それからそれと語り継がれていたようであるが、私は当時は何も知らず、ただ、街頭をうろうろしていた。一年、二年経つうちに、愚鈍の私にも、少しずつ事の真相が、わかって来た。人の噂に依れば、私は完全に狂人だったのである。しかも、生まれたときからの狂人だったのである。それを知って、私は爾来、唖になった。人と逢いたくなくなった。何も言いたくなくなった。何を人から言われても、外面ただ、にこにこ笑っていることにしたのである。
 私は、やさしくなってしまった。
 あれから、もう五年経った。そうして今でもなお私は、半きちがいと思われているようだ。私の名前と、そうしてその名前にからまる伝説だけを聞き、私といちども逢ったことの無い人が、何かの会で、私の顔を、気味わるそうに、また不思議なものでも見るような、なんとも言えない失敬な視線で、ちらちら観察しているのを、私はちゃんと知っている。私が厠に立つと、すぐその背後で、「なんだ、太宰って、そんな変ったやつでも無いじゃないか」と大声で言うのが、私の耳にも、ちらとはいることがあった。私は、そのたびごとに、へんな気がする。私は、もう、とうから死んでいるのだ。おまえたちは、気がつかないのだ。たましいだけが、どうにか生きて。
 私は、いま人では無い。芸術家という、一種奇妙な動物である。この死んだ屍を、六十歳まで支え持ってやって、大作家というものをお目にかけてあげようと思っている。その死骸が書いた文章の、秘密を究明しようたって、それは無駄だ。その亡霊が書いた文章の真似をしようたって、それもかなわぬ。やめたほうがいい。にこにこ笑っている私を、太宰ほうけたな、と囁いている友人もあるようだ。それは間違いないのだ、呆けたのだ、けれども、----と言いかけて、あとは言わぬ。ただ、これだけは信じたまえ。「私は君を、裏切ることは無い」
 エゴが喪失してしまっているのだ。それから、----と言いかけて、これも言いたくなし。もう一つ言える。私を信じないやつは、ばかだ。
 さて、兵隊さんの原稿の話であるが、私は、てれくさいのを堪えて、編輯者にお願いする。ときたま、載せてもらえることがある。その雑誌の広告が新聞に出て、その兵隊さんの名前も、立派な小説家の名前とならんでいるのを見たときは、私は、六年まえ、はじめて或る文芸雑誌に私の小品が発表された、そのときの二倍くらい、うれしかった。ありがたいと思った。早速、編輯者へ、千万遍のお礼を述べる。新聞の広告を切り抜いて戦線へ送る。お役に立った。これが私に、できる精一ぱいの奉公だ。戦線からも、ばんざいであります、という無邪気なお手紙が来る。しばらくして、その兵隊さんの留守宅の奥さんからも、もったいない言葉の手紙が来る。銃後奉公。どうだ。これでも私はデカダンか。これでも私は、悪徳者か。どうだ。
 しかし、私はそれを誰にも言えぬ。考えてみると、それは婦女子の為すべき奉公で、別段誇るべきほどのことでも無かった。私はやっぱり阿呆みたいに、時流にうとい様子の、謂わば「遊戯文学」を書いている。私は、「ぶん」を知っている。私は、矮小の市民である。時流に対して、なんの号令も、できないのである。さすがにそれが、ときどき侘びしくふらと家を出て、石を蹴り蹴り路を歩いて、私は、やはり病気なのであろうか。私は小説というものを間違って考えているのであろうか、と思案にくれて、いや、そうでは無いと打ち消してみても、さて、自分に自信を特筆大書の想念が浮ばぬ。確乎たる言葉が無いのだ。のどまで出かかっているような気がしながら、なんだか、わからぬ。私は漂泊の民である。波のままに流れ動いて、そうしていつも孤独である。よいしょと、水たまりを飛び越して、ほっとする。水たまりには秋の空が写って、雲が流れる。なんだか、悲しく、ほっとする。私は、家に引き返す。
 家へ帰ると、雑誌社の人が来て待っていた。このごろ、ときどき雑誌社の人や、新聞社の人が、私の様子を見舞いに来る。私の家は三鷹の奥の、ずっと奥の、畑の中に在るのであるが、ほとんど一日がかりで私の陋屋を捜しまわり、やあ、ずいぶん遠いのですね、と汗を拭きながら訪ねて来る。私は不流行の、無名作家なのだから、その都度たいへん恐縮する。
「病気は、もう、いいのですか?」必ず、まず、そうきかれる。私は馴れているので、
「ええ、ふつうの人より丈夫です」
「どんな工合だったんですか」
「五年まえのことです」と答えて、すましている。きちがいでした、などとは答えたくない。
「噂では」と向うのほうから、白状する。「ずいぶん、ひどかったように聞いていますが」
「酒を呑んでいるうちに、なおりました」
「それは、へんですね」
「どうしたのでしょうね」主人も、客と一緒に不思議がっている。「なおっていないのかも知れませんけれど、まあ、なおったことにしているのです。際限がないですものね」
「酒は、たくさん呑みますか?」
「ふつうの人くらいは呑みます」
 その辺の応答までは、まず上出来の部類なのであるが、あと、だんだんいけなくなる。しどろもどろになるのである。
「どう思います。このごろの他の人の小説を、どう思います」と問われて、私は、ひどくまごつく。敢然たる言葉を私は、何も持っていないのだ。
「そうですねえ。あんまり読んでいないのですが。何か、いいのがありますか?読めば、たいてい感心するのですが、とにかく、皆よく、さっさと書けるものだと、不思議な気さえするのです。皮肉じゃ無いんです。からだが丈夫なのでしょうかね。実に、皆、すらすら書いています」
「Aさんの、あれ読みましたか」
「ええ、雑誌をいただいたので読みました」
「あれは、ひどいじゃないか」
「そうかなあ。僕には面白かったんですが。もっと、ひどい作品だって、たくさんあるんじゃ無いですか?何も、あれを殊更に非難するては無いと思うんですが。どんな、ものでしょう。何せ、僕は、よく知らんので」私の答弁は、狡猾の心から、こんなに煮え切らないのでは無くて、むしろ、卑屈の心から、こんなに、不明瞭になってしまうのである。皆、私より偉いような気がしているし、とにかく誰でも一生懸命、精一ぱい生きているのが判っているし、私は何も言えなくなるのだ。
「Bさんを知っていますか?」
「ええ、知っています」
「こんど、あのひとに小説を書いていただくことになっていますが」
「ああ、それは、いいですね。Bさんは、とてもいい人です。ぜび書いてもらいなさい。きっと、いま素晴らしいのが書けると思います。Bさんには、以前、僕もお世話になったことがあります」お金を借りているのだ。
「あなたは、どうです。書けますか?」
「僕は、だめです。まるっきり、だめです。下手くそなんですね。恋愛を物語りながら、つい演説口調になったりなんかして、ひとりで呆れて笑ってしまうことがあります」
「そんなことは無いだろう。あなたは、これまで、若いジェネレエションのトップを切っていたのでしょう?」
「冗談じゃない。このごろは、まるで、ファウストですよ。あの老博士の書斎での呟きが、よくわかるようになりました。ひどく、ふけちゃったんですね。ナポレオンが三十すぎたらもう、わが余生は、などと言っていたそうですが、あれが判って、可笑しくて仕様が無い」
「余生ということを、あなた自身に感じるのですか?」
「僕は、ナポレオンじゃ無いし、そんな、まさか、そんな、まるで違うのですが、でも、ふっと余生を感じることがありますね。僕は、まさか、ファウスト博士みたいに、まさか、万巻の書を読んだわけでは無いんですが、でも、あれに似た虚無を、ふっと感じることがあるんですね」ひどくしどろもどろになって来た。
「そんなことじゃ、仕様が無いじゃないですか。あなたは、失礼ですけど、おいつくですか」
「僕は、三十一です」
「それじゃ、Cさんより一つ若い。Cさんは、いつ逢っても元気ですよ。文学論でもなんでも、実に、てきぱき言います。あの人の眼は、実にいい」
「そうですね。Cさんは、僕の高等学校の先輩ですが、いつも、うるんだ情熱的な眼をしていますね。あの人も、これからどんどん書きまくるでしょう。僕は、あの人を好きですよ」そのCさんにも、私は五年前、たいへんな迷惑をかけている。
「あなたは一体」と客も私の煮え切らなさに腹が立って来た様子で語調を改め、「小説を書くに当ってどんな信条を持っているのですか。たとえば、ヒュウマニティだとか、愛だとか、社会正義だとか、美だとか、そんなもの、文壇に出てから、現在まで、またこれから持ちつづけて行くだろうと思われるもの、何か一つでもありますか」
「あります。悔恨です」こんどは、打てば響くの快調を以て、即座に応答することができた。「悔恨の無い文学は、屁のかっぱです。悔恨、告白、反省、そんなものから、近代文学が、いや、近代精神が生れた筈なんですね。だから、----」また、どもってしまった。
「なるほど」相手も乗り出して来て、「そんな潮流が、いま文壇に無くなってしまったのですね。それじゃ、あなたは梶井基太郎などを好きでしょうね」
「このごろ、どうしてだか、いよいよ懐かしくなって来ました。僕は、古いのかも知れませんね。僕は、ちっとも自分の心を誇っていません。誇るどころか、実に、いやらしいものだと恥じています。宿業という言葉は、どういう意味だか、よく知りませんけれど、でもそれに近いものを自身に感じています。罪の子、というと、へんに牧師くさくなって、いけませんが、なんといったらいいかなあ、おれは悪い事を、いつかやらかした、おれは、汚ねえ奴だという意識ですね、その意識を、どうしても消すことができないので、僕は、いつでも卑屈なんです。どうも、自分でも、閉口なのですが、----でも」言いかけて、またもや、つまずいてしまった。聖書のことを言おうと思ったのだ。私は、あれで救われたことがある、と言おうと思ったのだが、どうもてれくさくて、言えない。いのちは糧にまさり、からだは衣に勝るならずや。空飛ぶ鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず。野の百合は如何にして育つかを思え、労せず、紡がざるなり、されど栄華を極めしソロモンだに、その服装(よそおい)この花の一つにも如かざりき。きょうありて明日、炉に投げ入れらるる野の草おも、神はかく装い給えば、まして汝らおや。汝ら、之よりも遥かに優るる者ならずや。というキリストの慰めが、私に、「ポオズでなく」生きる力を与えてくれたことが、あったのだ。けれども、いまは、どうにも、てれくさくて言えない。信仰というものは、黙ってこっそり持っているのが、ほんとうで無いのか。どうも、私は、「信仰」という言葉さえ言い出しにくい。
 それから、いろいろとまた、別の話もしたが、来客は、私の思想の歯切れの悪さに、たいへん失望した様子でそろそろ帰り支度をはじめた。私は、心からお気の毒に感じた。何か、すっきりしたいい言葉が無いものかなあ、と思案に暮れるのだが、何も無い。私は、やはり、ぼんやり間抜顔である。きっと私を、いま少し出世させてやろうと思って、私の様子を見に来てくれたのにちがいないと、その来客の厚志が、よくわかっているだけに、なおさら、自身のぶざまが、やり切れない。お客が帰って、私は机の前に呆然と坐って、暮れかけている武蔵野の畑を眺めた。別段、あらたまった感慨もない。ただ、やり切れなく侘びしい。
 なんじを訴うる者と共に在るうちに、早く和解せよ。恐らくは、訴うる者なんじを審判人(さばきびと)にわたし、審判人は下役にわたし、遂になんじは獄に入れられん。誠に、なんじに告ぐ、一厘も残りなく償わずば、其処を出ずること能わじ。(マタイ五の二十五、六)こりゃあ、おれにも、もういちど地獄が来るのかな?と、ふと思う。おそろしく底から、ごうごうと地鳴が聞えるような不安である。私だけであろうか。
「おい、お金をくれ。いくらある?」
「さあ、四、五百円はございましょう」
「使ってもいいか」
「ええ、少しは残して下さいね」
「わかってる。九時ごろ迄には帰る」
 私は妻から財布を受け取って、外へ出る。もう暮れかけている。霧が薄くかかっている。
 三鷹駅ちかくの、すし屋にはいった。酒をくれ。なんという、だらしない言葉だ。酒をくれ。なんという、陳腐な、マンネリズムだ。私は、これまで、この言葉を、いったい何百回、何千回、繰りかえしたことであろう。無智な不潔な言葉である。いまの時勢に、くるしいなんて言って、酒をくらって、あっぱれ深刻ぶって、いい気になっている青年が、もし在ったとしたなら、私は、そいつを、ぶん殴る。躊躇せず、ぶん殴る。けれども、いまの私は、その青年と、どこが違うか。同じじゃないか。としをとっているだけに、尚さら不潔だ。いい気なもんだ。
 私は、まじめな顔をして酒を呑む。私はこれまで、何千升、何万升、の酒を呑んだことか。いやだ、いやだ、と思いつつ呑んでいる。私は酒がきらいなのだ。いちどだって、うまい、と思って呑んだことが無い。にがいものだ。呑みたくないのだ。よしたいのだ。私は飲酒というものを、罪悪であると思っている。悪徳にきまっている。けれども、酒は私を助けた。私は、それを忘れていない。私は悪徳のかたまりであるから、つまり、毒を以て毒を制すというかたちになるのかも知れない。酒は、私の発狂を制止してくれた。私の自殺を回避させてくれた。私は酒を呑んで、少し自分の思いを、ごまかしてからでなければ、友人とも、ろくに話のできないほど、それほど卑屈な、弱者なのだ。
 少し酔って来た。すし屋の女中さんは、ことし二十七歳である。いちど結婚して破れて、ここで働いているという。
「だんな」と私を呼んで、テエブルに近寄って来た。まじめな顔をしている。「へんな事を言うようですけれど」と言いかけて帳場のほうをひょいと降りむいて覗き、それから声を低めて、「あのう、だんなのお知合いの人で、私みたいのを、もらって下さるようなかた無いでしょうか」
 私は女中さんの顔を見た。女中さんは、にこりともせず、やはり、まじめな顔をしている。もとからちゃんとした真面目な女中さんだったし、まさか、私をからかっているのでもなかろう。
「さあ」私も、まじめに考えないわけにいかなくなった。「無いこともないだろうけれど、僕なんかにそんなんことたのんだって、仕様がないですよ」
「ええ、でも、心易いお客さん皆に、たのんで置こうと思って」
「へんだね」私は少し笑ってしまった。
 女中さんも、片頬を微笑でゆがめて、
「だんだん、としとるばかりですし、ね。私は初めてじゃないのですから、少しおじいさんでも、かまわないのです。そんないいところなぞ望んでいませんから」
「でも、僕は心当りないですよ」
「ええ、そんなに急ぐのでないから、心掛けて置いて下さいまし。あのう、私、名刺があるんですけれど」袂から、そそくさと小さい名刺を出した。「裏に、ここの住所も書いて置きましたから、もし、適当のかたが見つかったら、ごめんどうでも、ハガキか何かで、ちょっと教えて下さいまし。ほんとうに、ごめいわくさまです。子供が幾人あっても、私のほうはかまいませんから。ほんとうに」
 私は黙って名刺を受け取り、袂に入れた。
「探してみますけれど、約束はできませんよ。お勘定をおねがいします」
 そのすし屋を出て、家へ帰る途々、頗るへんな気持ちであった。現代の風潮の一端を見た、と思った。しらじらしいほど、まじめな世紀である。押すことも引くこともできない。家へ帰り、私は再び唖である。黙って妻に、いくぶん軽くなった財布を手渡し、何か言おうとしても、言葉が出ない。お茶漬けをたべて、夕刊を読んだ。汽車が走る。イマハ山中、イマハ浜、イマハ鉄橋ワタルゾト思ウマモナク、----その童女の歌が、あわれに聞える。
「おい、炭は大丈夫かね。無くなるという話だが」
「大丈夫でしょう。新聞が騒ぐだけですよ。そのときは、そのときで、どうにかなりますよ」
「そうかね。ふとんをしいてくれ。今晩は、仕事は休みだ」
 もう酔いがさめている。酔いがさめると、私は、いつも、なかなか寝つかれない性分なのだ。どさんと大袈裟に音たてて寝て、また夕刊を読む。ふっと夕刊一ぱいに無数の卑屈な笑顔があらわれ、はっと思う間に消え失せた。みんな、卑屈なのかなあ、と思う。誰にも自信が無いのかなあ、と思う。夕刊を投げ出して、両方の手で眼玉を押しつぶすほどに強くぎゅっとおさえる。しばらく、こうしているうちに、眠たくなって来るような迷信が私にはあるのだ。けさの水たまりを思い出す。あの水たまりの在るうちは、----と思う。むりにも自分にそう思い込ませる。やはり私は辻音楽師だ。ぶざまでも、私は私のヴァイオリンを続けて奏するより他はないのかも知れぬ。汽車の行方は、志士にまかせよ。「待つ」という言葉が、いきなり特筆大書で、額に光った。何を待つやら。私は知らぬ。けれども、これは尊い言葉だ。唖の鴎は、沖をさまよい、そう思いつつ、けれども無言で、さまよいつづける。
太宰

(2002.10.26)-2
寒い。寒いね。
(2002.10.26)-3
本当に、寒い。お酒が飲みたくて仕方が無いんだ。
(2002.10.26)-4
神さまがほんとうに居るのなら、「なぜ死ななければならない人間ができるのか」という内に抗議を含んだ問いを発することが、きっとできる。
(2002.10.26)-5
文中の"----"を、ぼくはきちんと補完することが出来ると思うよ。自惚れではなく。でもね、ぼくもやっぱり、それは言わないんだ。
(2002.10.26)-6
明日、話の続きを書くことができなければ、新居昭乃について、少し書いてみようと思う。いつまでも、酒を飲んでばかりいるわけにはいかないから。いや、ほんとはそれでも全然構わないのだけれども、それだといつまで経っても終われないから。酒を飲みつづけて、それで終れるのなら、それが一ばん
(2002.10.26)-7
いや、全部嘘だ。虚言だ。騙されるな。ぼくの嘘は、ぼく自身をすら、まんまと騙しおおせる。信じるな。ぼくは、全く信用ならない。
(2002.10.26)-8
なぜぼくは、あのとき死ねなかったのだろう。死ななかった、ということに、何か意味があるのだろうか。この世の中にいる、あらゆる死にぞこないに聞いてみたい。「死にぞこなうということには、何か価値がありますか。意味が、ありましたか。生き恥、ただそれだけでは、ないのですか」
(2002.10.27)-1
「鴎」は三十一歳。「父」は三十九近く。地獄地獄地獄

(父)
イサク、父アブラハムに語りて、
父よ、と曰う。
彼、答えて、
子よ、われ此にあり、
といいければ、
----創世記二十二ノ七

 義のために、わが子を犠牲にするという事は、人類がはじまって、すぐその直後に起った。信仰の祖といわれているアブラハムが、その信仰の義のために、わが子を殺そうとした事は、旧約の創世記に録されていて有名である。
 エホバ、アブラハムを試みんとて、
 アブラハムよ、
 と呼びたもう。
 アブラハム答えていう、
 われここにあり。
 エホバ言いたまいけるは、
 汝の愛する独子(ひとりご)、すなわちイサクを携え行き、かしこの山の頂に於て、イサクを燔祭(はんさい)として献ぐべし。
 アブラハム、朝つとに起きて、その驢馬に鞍を置き、愛するひとりごイサクを乗せ、神のおのれに示したまえる山の麓にいたり、イサクを驢馬よりおろし、すなわち燔祭の柴薪(たきぎ)をイサクに背負わせ、われはその手に火と刀を執りて、二人ともに山をのぼれり。
 イサク、父アブラハムに語りて、
 父よ、
 と言う。
 彼、こたえて、
 子よ、われここにあり、
 といいければ、
 イサクすなわち父に言う、
 火と柴薪は有り、されど、いけにえの子羊は何処にあるや。
 アブラハム、言いけるは、
 子よ、神みずから、いけにえの子羊を備えたまわん。
 斯くして二人ともに進みゆきて、遂に山のいただきに到れり。
 アブラハム、壇を築き、柴薪をならべ、その子イサクを縛りて、之を壇の柴薪の上に置(の)せたり。
 すなわち、アブラハム、手を伸べ、刀を執りて、その子を殺さんとす。
 時に、エホバの使者、天より彼を呼びて、
 アブラハムよ、
 アブラハムよ、
 と言えり。
 彼言う、
 われ、ここにあり。
 使者の言いけるは、
 汝の手を童子より放て、
 何をも彼に為すべからず、
 汝はそのひとりごをも、わがために惜まざれば、われいま汝が神を畏るるを知る。
 云々というような事で、イサクはどうやら父に殺されずにすんだのであるが、しかし、アブラハムは、信仰の義者(ただしきもの)たる事を示さんとして躊躇せず、愛する一人息子を殺そうとしたのである。
 洋の東西を問わず、また信仰の対象の何たるかを問わず、義の世界は、哀しいものである。
 佐倉宗吾郎一代記という活動写真を見たのは、私の七つか八つの頃の事であったが、私はその活動写真のうちの、宗吾郎の幽霊が悪代官をくるしめる場面と、それからもう一つ、雪の日の子わかれの場を、いまでも忘れずにいる。
 宗吾郎が、いよいよ直訴を決意して、雪の日に旅立つ。わが家の格子窓から、子供らが顔を出して、別れを惜しむ。ととさまえのう、と口々に泣いて父を呼ぶ。宗吾郎は、笠で自分の顔を覆うて、渡し舟に乗る。降りしきる雪は、吹雪のようである。
 七つ八つの私は、それを見て涙を流したのであるが、しかし、それは泣き叫ぶ子供に同情したからではなかった。義のために子供を捨てる宗吾郎のつらさを思って、たまらなくなったからであった。
 そうして、それ以来、私には、宗吾郎が忘れられなくなったのである。自分がこれから生き伸びて行くうちに、必ずあの宗吾郎の子別れの場のような、つらくてかなわない思いをする事が、二度か三度あるに違いないという予感がした。
 私のこれまでの四十年ちかい生涯に於いて、幸福の予感は、たいていはずれるのが仕来りになっているけれども、不吉の予感はことごとく当った。子わかれの場も、二度か三度、どころではなく、この数年間に、ほとんど一日置きくらいに、実にひんぱんに演ぜられて来ているのである。
 私さえいなかったら、すくなくとも私の周囲の者たちが、平安に、落ちつくようになるのではあるまいか、私はことし三十九歳になるのであるが、私のこれまでの文筆に依って得た収入の全部は、私ひとりの遊びのために浪費して来たと言っても、敢えて過言ではないのである。しかも、その遊びというのは、自分にとって、地獄の痛苦のヤケ酒と、いやなおそろしい鬼女とのつかみ合いの形に似たる浮気であって、私自身、何のたのしいところも無いのである。また、そのような私の遊び相手になって、私の饗応を受ける知人たちも、ただはらはらするばかりで、少しも楽しくない様子である。結局、私は私の全収入を浪費して、ひとりの人間をも楽しませる事が出来ず、しかも女房が七輪一つ買っても、これはいくらだ、ぜいたくだ、とこごとを言う自分勝手の亭主なのである。よろしくないのは、百も承知である。しかし私は、その癖を直す事が出来なかった。戦争前もそうであった。戦争中もそうであった。戦争の後も、そうである。私は生れた時から今まで、実にやっかいな大病にかかっているのかも知れない。生れてすぐにサナトリアムみたいなところに入院して、そうして今日まで充分の療養の生活をして来たとしても、その費用は、私のこれまでの酒煙草の費用の十分の一くらいのものかも知れない。実に、べらぼうにお金のかかる大病人である。一族から、このような大病人がひとり出たばかりに、私の身内の者たちは、皆痩せて、一様に少しずつ寿命をちぢめたようだ。死にゃいいんだ。つまらんものを書いて、佳作だの何だのと、軽薄におだてられてたいばかりに、身内の者の寿命をちぢめるとは、憎みても余りある極悪人ではないか。死ね!
 親が無くても子は育つ、という。私の場合、親が有るから子は育たぬのだ。親が、子供の貯金をさえ使い果している始末なのだ。
 炉辺の幸福。どうして私には、それが出来ないのだろう。とても、いたたまらない気がするのである。炉辺が、こわくてならぬのである。
 午後三時か四時頃、私は仕事に一区切りをつけて立ち上がる。机の引出しから財布を取り出し、内容をちらと調べて懐にいれ、黙って二重廻しを羽織って、外に出る。外では、子供たちが遊んでいる。その子供たちの中に、私の子もいる。私の子は遊びをやめて、私のほうに真正面向いて、私の顔を仰ぎ見る。私も、子の顔を見下ろす。共に無言である。たまに私は、袂からハンケチを出して、きゅっと子の洟(はな)を拭いてやる事もある。そうして、さっさと私は歩く。子供のおやつ、子供のおもちゃ、子供の着物、子供の靴、いろいろ買わなければならぬお金を、一夜のうちに紙屑の如く浪費すべき場所に向かって、さっさと歩く。これがすなわち、私の子わかれの場なのである。出掛けたらさいご、二日も三日も帰らない事がある。父はどこかで、義のために遊んでいる。地獄の思いで遊んでいる。いのちを賭けて遊んでいる。母は観念して、下の子を背負い、上の子の手を引き、古本屋に本を売りに出掛ける。父は母にお金を置いて行かないから。
 そうして、ことしの四月には、また子供が生れるという。それでなくても乏しかった衣類の、大半を、戦火で焼いてしまったので、こんど生れる子供の産衣やら蒲団やら、おしめやら、全くやりくりの方法がつかず、母は呆然として溜息ばかりついている様子であるが、父はそれに気附かぬ振りをしてそそくさと外出する。
 ついさっき私は、「義のために」遊ぶ、と書いた。義?たわけた事を言ってはいけない。お前は、生きている資格も無い放埓病の重患者に過ぎないではないか。それをまあ、義、だなんて。ぬすびとたけだけしいとは、この事だ。
 それは、たしかに、盗人の三分の理にも似ているが、しかし、私の胸の奥の白絹に、何やらこまかい文字が一ぱいに書かれている。その文字は、何であるか、私にもはっきり読めない。たとえば、十匹の蟻が、墨汁の海から這い上がって、そうして白絹の上をかさかさと小さい音をたてて歩き廻り、何やらこまかく、ほそく、墨の足跡をえがき印し散らしたみたいな、そんな工合の、幽かな、くすぐったい文字。その文字が、全部判読できたならば、私の立場の「義」の意味も、明白に皆に説明できるような気がするのだけれど、それがなかなか、ややこしく、むずかしいのである。
 こんな譬喩を用いて、私はごまかそうとしているのでは決してない。その文字を具体的に説明して聞かせるのは、むずかしいのみならず、危険なのだ。まかり間違うと、鼻持ちならぬキザな虚栄の詠歎に似るおそれもあり、または、呆れるばかりに図々しい面の皮千枚張りの詭弁、または、淫祠(いんし)邪教のお筆先、または、ほら吹き山師の救国政治談にさえ堕する危険無しとしない。
 それらの不潔な虱(しらみ)と、私の胸の奥の白絹に書かれてある蟻の足跡のような文字とは、本質に於いて全く異るものであるという事には、私も確信を持っているつもりであるが、しかし、その説明は出来ない。また、げんざい、しようとも思わぬ。キザな言い方であるが、花ひらく時節が来なければ、それは、はっきり解明できないもののように思われる。
 ことしの正月、十日頃、寒い風の吹いていた日に、
「きょうだけは、家にいて下さらない?」
 と家の者が私に言った。
「なぜだ」
「お米の配給があるかも知れませんから」
「僕が取りに行くのか?」
「いいえ」
 家の者が二、三日前から風邪をひいて、ひどいせきをしているのを、私は知っていた。その半病人に、配給のお米を背負わせるのは、むごいとも思ったが、しかし、私自身であの配給の列の中にはいるのも、頗るたいぎなのである。
「大丈夫か?」
 と私は言った。
「私がまいりますけど、子供を連れて行くのは、たいへんですから。あなたが家にいらして、子供たちを見ていて下さい。お米だけでも、なかなか重いんです」
 家の者の眼には、涙が光っていた。
 おなかにも子供がいるし、背中にもひとりおんぶして、もうひとりの子の手をひいて、そうして自身もかぜ気味で、一斗ちかいお米を運ぶ苦難は、その涙を見るまでもなく、私にもわかっている。
「いるさ。いるよ。家にいるよ」
 それから、三十分くらい経って、
「ごめん下さい」
 と玄関で女のひとの声がして、私が出て見ると、それは三鷹の或るおでんやの女中であった。
「前田さんが、お見えになっていますけど」
「あ、そう」
 部屋の出口の壁に吊り下げられている二重廻しに、私はもう手をかけていた。
 とっさに、うまい嘘も重いつかず、私は隣室の家の者には一言も、何も言わず、二重廻しを羽織って、それから机の引出しを掻きまわし、お金はあまり無かったので、けさ雑誌社から送られて来たばかりの小為替を三枚、その封筒のまま二重廻しのポケットにねじ込み、外に出た。
 外には、上の女の子が立っていた。子供のほうで、間の悪そうな顔をしていた。
「前田さんが?ひとりで?」
 私はわざと子供を無視して、おでんやの女中にたずねた。
「ええ。ちょっとでいいから、おめにかかりたいって」
「そう」
 私たちは子供を残して、いそぎ足で歩いた。
 前田さんとは、四十を越えた女性であった。永い事、有楽町の新聞社に勤めていたという。しかし、いまは何をしているのか、私にもわからない。そのひとは、二週間ほど前、年の暮に、そのおでんやに食事をしに来て、その時、私は、年少の友人ふたりを相手に泥酔していて、ふとその女のひとに話しかけ、私たちの席に参加してもらって、私はそのひとと握手をした、それだけの附合いしか無かったのであるが、
「遊ぼう。これから、遊ぼう。大いに、遊ぼう」
 と私がそのひとに言った時に、
「あまり遊べない人に限って、そんなに意気込むものですよ。ふだんケチケチ働いてばかりいるんでしょう?」
 とそのひとが普通の音声で、落ち着いて言った。
 私は、どきりとして、
「よし、そんならこんど逢った時、僕の徹底的な遊び振りを見せてあげる」
 と言ったが、内心は、いやなおばさんだと思った。私の口から言うのもおかしいだろうが、こんなひとこそ、ほんものの不健康というものではなかろうかと思った。私は苦悶の無い遊びを憎悪する。よく学び、よく遊ぶ。その遊びを肯定する事が出来ても、ただ遊ぶひと、それほど私をいらいらさせる人種はいない。
 ばかな奴らだと思った。しかし、私も、ばかであった。負けたくなかった。偉そうな事を言ったって、こいつは、どうせ俗物に違いないんだ。この次には、うんと引っぱり歩いて、こづきまわして、面皮をひんむいてやろうと思った。
 いつでもお相手をするから、気のむいたときに、このおでんやに来て、そうして女中を使って僕を呼び出しなさい、と言って、握手をしてわかれたのを、私は泥酔していても、忘れてはいなかった。
 と書けば、いかにも私ひとり高潔の、いい子のようになってしまうが、しかし、やっぱり、泥酔の果の下等な薄汚いお色気だけのせいであったのかも知れない。謂わば、同臭相寄るという醜怪な図に過ぎなかったのかも知れない。
 私は、その不健康な、悪魔の許にいそいで出掛けた。
「おめでとう。新年おめでとう」
 私はそんな事を前田さんに、てれ隠しに言った。
 前田さんは、前は洋装であったが、こんどは和服であった。おでんやの土間の椅子に腰かけて、煙草を吸っていた。痩せて、脊の高いひとであった。顔は細長くて蒼白く、おしろいも口紅もつけていないようで、薄い唇は白く乾いている感じであった。かなり度の強い近眼鏡をかけ、そうして眉間には深い縦皺がきざまれていた。要するに、私の最も好かない種族の容色であった。先夜の酔眼には、も少しましなひとに見えたのだが、いま、しらふでまともに見て、さすがにうんざりしたのである。
 私はただやたらにコップ酒をあおり、そうして、おもに、おでんやのおかみや女中を相手におしゃべりした。前田さんは、ほとんど何も口をきかず、お酒もあまり飲まなかった。
「きょうは、ばかに神妙じゃありませんか」
 と私は実に面白くない気持で、そう言ってみた。
 しかし、前田さんは、顔を伏せたまま、ふんと笑っただけだった。
「思い切り遊ぶという約束でしたね」と私はさらに言った。「少し飲みなさいよ。こないだの晩は、かなり飲みましたね」
「昼は、だめなんですの」
「昼だって、夜だって同じ事ですよ。あなたは、遊びのチャンピオンなんでしょう?」
「お酒は、プレイのうちにはいりませんわ」
 と小生意気な事を言った。
 私はいよいよ興覚めて、
「それじゃ何がいいんですか?接吻ですか?」
 色婆め!こっちは、子わかれの場まで演じて、遊びの附合いをしてやっているんだ。
「わたくし、帰りますわ」女はテーブルの上のハンドバッグを引き寄せ、「失礼しました。そんなつもりで、お呼びしたのでは、・・・・・・」と言いかけて、泣き面になった。
 それは、実にまずい顔つきであった。あまりにまずくて、あわれであった。
「あ、ごめんなさい。一緒に出ましょう」
 女は幽かに首肯き、立って、それから、はなをかんだ。
 一緒に外へ出て、
「僕は野蛮人でね、プレイも何も知らんのですよ。お酒がだめなら、困ったな」
 なぜこのまますぐに、おわかれが出来ないのだろう。
 女は、外へ出ると急に元気になって、
「恥をかきましたわ。あそこのおでんやは、わたくし、せんから知っているんですけど、きょう、あなたをお呼びしてって、おかみさんにたのんだら、とてもいやな、へんな顔をするんですもの。わたくしなんかもう、女でも何でも無いのに、いやあねえ。あなたは、どうなの?男ですか?」
 いよいよキザな事を言う。しかし、それでも私は、まださよならが言えなかった。
「遊びましょう。何かプレイの名案が無いですか?」
 と、気持とまるで反対の事を、足もとの石ころを蹴って言った。
「わたくしのアパートにいらっしゃいません?きょうは、はじめから、そのつもりでいたのよ。アパートには、面白い友達がたくさんいますわ」
 私は憂鬱であった。気がすすまないのだ。
「アパートに行けば、すばらしいプレイがあるのですか?」
 くすっと笑って、
「何もありゃしませんわ。作家って、案外、現実家なのねえ」
「そりゃ、・・・・・」
 と私は言いかけて口を噤んだ。
 いた!いたのだ。半病人の家の者が、白いガーゼのマスクを掛けて、下の男の子を背負い、寒風に吹きさらされて、お米の配給の列の中に立っていたのだ。家の者は、私に気づかぬ振りをしていたが、その傍に立っている上の女の子は、私を見つけた。女の子は、母の真似をして、小さい白いガーゼのマスクをして、そうして白昼、酔ってへんなおばさんと歩いている父のほうへ走って来そうな気配を示し、父は息の根のとまる思いをしたが、母は何気無さそうに、女の子の顔を母のねんねこの袖で覆いかくした。
「お嬢さんじゃありません?」
「冗談じゃない」
 笑おうとしたが、口がゆがんだだけだった。
「でも、感じがどこやら、・・・・・・」
「からかっちゃいけない」
 私たちは、配給所の前を通り過ぎた。
「アパートは?遠いんですか?」
「いいえ、すぐそこよ。いらして下さる?お友達がよろこぶわ」
 家の者にお金を置いて来なかったが、大丈夫なのかしら。私は脂汗を流していた。
「行きましょう。どこか途中に、ウイスキイでも、ゆずってくれる店が無いかな?」
「お酒なら、わたくし、用意してありますわ」
「どれくらい?」
「現実家ねえ」
 アパートの、前田さんの部屋には、三十歳をとおに越えて、やはりどうにも、まともでない感じの女が二人、あそびに来ていた。そうして色気も何もなく、いや、色気におびえて発狂気味、とでも言おうか、男よりも乱暴なくらいの態度で私に向って話しかけ、また女同士で、哲学だか文学だか美学だか、なんの事やら、まるでちっともなっていない、阿呆くさい限りの議論をたたかわすのである。地獄だ、地獄だ、と思いながら、私はいい加減のうけ応えをして酒を飲み、牛鍋をつつき散らし、お雑煮を食べ、こたつにもぐり込んで、寝て、帰ろうとはしないのである。
 義。
 義とは?
 その解明はできないけれども、しかし、アブラハムは、ひとりごを殺さんとし、宗吾郎は子わかれの場を演じ、私は意地になって地獄にはまり込まなければならぬ、その義とは、義とは、ああやりきれない男性の、哀しい弱点に似ている。
太宰

(2002.10.27)-2
 えと、2200って何枚?5枚?5枚。よしよし、おれ、今日は頑張った。お持ち帰りも、回避した。いやいや、これでこの一週間酒飲んで過ごしたかいがあったってえもんだ。いや、あんまり関係ないけど。いやいや、そうだ。かいがあったに違いない。違いない!(力こぶしにぎり)あー、もう今日は終わりー終わりー。ざまあ見ろってえんだ。これで、厳しいところは乗り切った。これはきっと終わりまでいくぞ。名前つけてあげられるぞ。ラストのセリフはもう決まっているんだ。そこを書いているときに、いい名前がパッと思い浮かぶのさ。おうよ。そんなことを、真面目に信じてるぜえ。そんなのでも信じないと、とてもやってられないよ。そうさ。もう、終わりまでいってくれれば、面白くなくても、全然いいや。どうせ下らない話さ。こんなものにもうふた月もかかってしまっているのだから、はっきりしてしまっている。ぼくには才能なんてないんだ。確定だ。けれども、そんなことは知ったことか。名前をつけてあげられれば、もうそれでいいんだ。ぼくの小さな理想が詰まった、この二人にきちんとした名前が与えられれば、もうそれで、いいんだ。これを書き終えてしまって、そうして、それをぼくから切り離すんだ。永遠にね。
「不幸を逃れる唯一つの道は、芸術に立籠り、他は一切無と観ずるにある。僕は富貴にも恋にも慾にも未練がない。僕は実生活と決定的に離別した」
そう、フロオベルが24の時に書いたそうだが、おれの方が一年早い。ざまあみろ。ベロベロバアだ。


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