tell a graphic lie
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(2002.10.7)-1
尉鶲 永き夜は明けぬがよい
(2002.10.7)-2
いちねんに、なる。ぼくといえば、ほら、御覧の通りだ。自分でも、どうしてこんなことをしているのか、ほんとのとこ、よくわからない。しなければならないのか、これはもっとよくわからない。そんな気がする。ただ、それだけでやっている。「やらないほうが、まだましだった」つぶやくことも、ときどきある。楽しい、ということが、どういうことだかよくわからないのだけれど、それでも、もうちょっと楽しくいきていってもいいんじゃあないかな、って思う。楽しいことがわからないので、あれなのだけれど。もうちょっと、やりようはある、そう思うことがある。それでも、ここをくれた、h2oさんには、感謝。ほんと、感謝。うまく言えないのだけれど、「どうせ、ひとつしか、選べないのだし。これも、きっと、そのひとつだ」ともやっぱり思うから。それから、ここを読んでくれている物好きなひとたち(ぼくには、それが誰だか、よく知れないのだけれども)、感謝。何か、お礼ができるといいのだけれど、今ぼくには、本当にあげられるものが何もないんだ。祈ることすら、できない。ごめんなさい。
(2002.10.8)
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(畜犬談)
 私は、犬に就いては自信がある。いつの日か、必ず喰いつかれるであろうという自信である。私は、きっと噛まれるにちがいない。自信があるのである。よくぞ、きょうまで喰いつかれもせず無事に過ごして来たものだと不思議な気さえしているのである。諸君、犬は猛獣である。馬を斃(たお)し、たまさかには獅子と戦ってさえ之を征服するというではないか。さもありなんと私はひとり淋しく首肯しているのだ。あの犬の、鋭い牙を見るがよい。ただものでは無い。いまは、あのように街頭で無心のふうを装い、とるに足らぬものの如く自ら卑下して、芥箱を覗きまわったりなどして見せているが、もともと馬を斃すほどの猛獣である。いつなんどき、怒り狂い、その本性を曝露するか、わかったものでは無い。犬は必ず鎖に固くしばりつけて置くべきである。少しの油断もあってはならぬ。世の多くの飼い主は、自ら恐ろしき猛獣を養い、之に日々のわずかの残飯を与えているという理由だけにて、全くこの猛獣に心をゆるし、エスや、エスやなど、気楽に呼んで、さながら家族の一員の如く身辺に近づかしめ、三歳のわが愛子をして、その猛獣の耳をぐいと引っぱらせて大笑いしている図にいたっては、戦慄、眼を蓋わざるを得ないのである。不意に、わんと言って喰らいついたら、どうする気だろう。気をつけなければならぬ。飼い主にでさえ、噛みつかれぬとは保証でき難い猛獣を、(飼い主だから、絶対に喰いつかれぬということは愚かな気のいい迷信に過ぎない。あの恐ろしい牙のある以上、必ず噛む。決して噛まないということは、科学的に証明できる筈は無いのである)その猛獣を、放し飼いにして、往来をうろうろ徘徊させて置くとは、どんなものであろうか。昨年の晩秋、私の友人が、ついに之の被害を受けた。いたましい犠牲者である。友人の話に依ると、友人は何もせず横丁を懐手(ふところで)してぶらぶら歩いていると、犬が道路上にちゃんと坐っていた。友人は、やはり何もせず、その犬の傍を通った。犬はその時、いやな横目を使ったという。何事も無く通りすぎた、とたん、わんと言って右の脚に喰いついたという。災難である。一瞬のことである。友人は、呆然自失したという。ややあって、くやし涙が沸いて出た。さもありなん、と私は、やはり淋しく首肯している。そうなってしまったら、ほんとうに、どうしようも、無いではないか。友人は、痛む脚をひきずって病院へ行き手当てを受けた。それから二十一日間、病院へ通ったのである。三週間である。脚の傷がなおっても、体内に恐水病といういまわしい病気の毒が、あるいは注入されて在るかも知れぬという懸念から、その防毒の注射をしてもらわなければならぬのである。飼い主に談判するなど、その友人の弱気を以てしては、とてもできぬことである。じっと堪えて、おのれの不運に溜息ついているだけなのである。しかも、注射代など決して安いものでなく、そのような余分の貯えは失礼ながら友人に在る筈もなく、いずれは苦しい算段をしたにちがいないので、とにかく之は、ひどい災難である。また、うっかり注射でも怠ろうものなら、恐水病といって、発熱脳乱の苦しみ在って、果ては貌が犬に似て来て、四つ這いになり、只わんわんと吠ゆるばかりだという、そんな凄惨な病気になるかも知れないということなのである。注射を受けながらの、友人の憂慮、不安は、どんなだったろう。友人は苦労人で、ちゃんとできた人であるから、醜く取り乱すことも無く、三七、二十一日病院に通い、注射を受けて、いまは元気に立ち働いているが、もし之が私だったら、その犬、生かして置かないだろう。私は、人の三倍も四倍も復讐心の強い男であるから、また、そうなると人の五倍も六倍も残忍性を発揮してしまう男なのであるから、たちどころにその犬の頭蓋骨を、めちゃめちゃに粉砕し、眼玉をくり抜き、ぐしゃぐしゃに噛んで、べっと吐き捨て、それでも足りずに近所近辺の飼い犬ことごとくを毒殺してしまうであろう。こちらが何もせぬのに、突然わんと言って噛みつくとはなんという無礼、凶暴の仕草であろう。いかに畜生といえども許しがたい。畜生ふびんの故を以て、人は之を甘やかしているからいけないのだ。容赦なく酷刑に処すべきである。昨秋、友人の遭難を聞いて、私の畜犬に対する日頃の憎悪は、その極点に達した。青い焔が燃え上がるほどの、思いつめたる憎悪である。
 ことしの正月、山梨県、甲府のまちはずれに八畳、三畳、一畳という草案を借り、こっそり隠れるように住み込み、下手な小説あくせく書きすすめていたのであるが、この甲府のまち、どこへ行っても犬がいる。おびただしいのである。往来に、或いは佇み、或いはながながと寝そべり、或いは疾駆し、或いは牙を光らせて吠え立て、ちょっとした空地でもあると必ずそこは野犬の巣の如く、ぞろぞろ大群をなして縦横に駈け廻っている。甲府の家毎、家毎、少なくとも二匹くらいずつ養っているのではないかと思われるほどに、おびただしい数である。山梨県は、もともと甲斐犬の産地として知られている様であるが、街頭で見られる犬の姿は、決してそんな純血種のものではない。赤いムク犬が最も多い。採るところ無きあさはかな駄犬ばかりである。もとより私は畜犬に対しては含むところがあり、また友人の遭難以来一そう嫌悪の念を増し、警戒おさおさ怠るものではなかったのであるが、こんなに犬がうようよいて、どこの横丁にでも跳梁(ちょうりょう)し、或いはとぐろを巻いて悠然と寝ているのでは、とても用心し切れるものでなかった。私は実に苦心をした。できることなら、すね当、こて当、かぶとをかぶって街を歩きたく思ったのである。けれども、そのような姿は、いかにも異様であり、風紀上からいっても、決して許されるものでは無いのだから、私は別の手段をとらなければならぬ。私は、まじめに、真剣に、対策を考えた。私は、まず犬の心理を研究した。人間に就いては、私もいささか心得があり、たまには的確に、あやまたず指定できたことなどもあったのであるが、犬の心理は、なかなかむずかしい。人の言葉が、犬と人との感情交流にどれだけ役立つものか、それが第一の難問である。言葉が役に立たぬとすれば、お互いの素振り、表情を読み取るより他に無い。しっぱの動きなどは、重大である。けれども、この、しっぽの動きも、注意して見ていると仲々に複雑で、容易に読み切れるものでは無い。私は、ほとんど絶望した。そうして、甚だ拙劣な、無能きわまる一法を案出した。あわれな窮余の一策である。私は、とにかく、犬に出逢うと、満面に微笑を湛えて、いささかも害心のないことを示すことにした。夜は、その微笑が見えないかも知れないから、無邪気に童謡を口ずさみ、やさしい人間であることを知らせようと努めた。之等は、多少、効果があったような気がする。犬は私には、いまだ飛びかかって来ない。けれどもあくまで油断は禁物である。犬の傍を通る時は、どんなに恐ろしくても、絶対に走ってはならぬ。にこにこ卑しい追従笑いを浮べて、無心そうに首を振り、ゆっくりゆっくり、内心、脊中に毛虫が十匹這っているような窒息せんばかりの悪寒にやられながらも、ゆっくりゆっくり通るのである。つくづく自身の卑屈がいやになる。泣きたいほどの自己嫌悪を覚えるのであるが、これを行わないと、たちまち噛みつかれるような気がして、私は、あらゆる犬にあわれな挨拶を試みる。髪をあまりに長く伸ばしていると、或いはウロンの者として吠えられるかも知れないから、あれほどいやだった床屋へも精出して行くことにした。ステッキなど持って歩くと、犬のほうで威嚇の武器と感ちがいして、反抗心を起すようなことがあってはならぬから、ステッキは永遠に廃棄することにした。犬の心理を計りかねて、ただ行き当たりばったり、無闇矢鱈にご機嫌とっているうちに、ここに意外の現象が現われた。私は、犬に好かれてしまったのである。尾を振って、ぞろぞろ後について来る。私は、地団駄踏んだ。実に皮肉である。かねがね私のこころよからず思い、また最近にいたっては憎悪の極点にまで達している、その当の畜犬に好かれるくらいならば、いっそ私は駱駝に慕われたいほどである。どんな悪女にでも、好かれて気持ちの悪い筈はない、というのはそれは浅薄の想定である。プライドが、虫が、どうしてもそれを許容できない場合がある。堪忍ならぬのである。私は、犬がきらいなのである。早くからその狂暴の猛獣性を看破し、こころよからず思っているのである。たかだか日に一度や二度の残飯の投与にあずからんが為に、友を売り、妻を離別し、おのれの身ひとつ、その家の軒下に横たえ、忠義顔して、かつての友に吠え、兄弟、父母をも、けろりと忘却し、ただひたすらに飼主の顔色を伺い、阿諛追従てんとして恥じず、ぶたれても、きゃんと言って尻尾まいて閉口して見せて家人を笑わせ、その精神の卑劣、醜怪、犬畜生とは、よくも言った。日に十里を楽々と走破し得る健脚を有し、獅子をも斃す白光鋭利の牙を持ちながら、懶惰無頼の腐り果てたいやしい根性をはばからず発揮し、一片の矜持(きょうじ)無く、てもなく人間界に屈服し、隷属し、同族互いに敵視して、顔つき合わせると吠え合い、噛み合い、もって人間の御機嫌を取り結ぼうと努めている。雀を見よ。何ひとつ武器を持たぬ脆弱の小禽(しょうきん)ながら、自由を確保し、人間界とは全く別個の小社会を営み、同類相親しみ、欣然(きんぜん)日々の貧しい生活を歌い楽しんでいるではないか。思えば、思うほど、犬は不潔だ。犬はいやだ。なんだか自分に似ているところさえあるような気がして、いよいよ、いやだ。たまらないのである。その犬が、私を特に好んで、尾を振って親愛の情を表明して来るに及んでは、狼狽とも、無念とも、なんとも、言いようがない。あまりに犬の猛獣性を畏敬し、買いかぶり、節度もなく媚笑(びしょう)を撒きちらして歩いたがゆえ、犬は、かえって知己を得たものと誤解し、私を組し易し見てとって、このような情けない結果に立ちいたったのであろうが、何事によらず、ものには節度が大切である。私は、未だに、どうも、節度を知らぬ。
 早春のこと。夕食の少しまえに、私はすぐ近くの四十九聯隊(れんたい)の練兵場へ散歩に出て、二、三の犬が私のあとについて来て、いまにも踵をがぶりとやられはせぬかと生きた気もせず、けれども毎度のことであり、観念して無心平静を装い、ぱっと脱兎の如く走り逃げたい衝動を懸命に抑え抑え、ぶらりぶらり歩いた。犬は私について来ながら、途々お互いに喧嘩などはじめて、私は、わざと降りかえって見もせず、知らぬふりして歩いているのだが、内心、実に閉口であった。ピストルでもあったらなら、躊躇せずドカンドカンと射殺してしまいたい気持であった。犬は、私のそのような、外面如菩薩(にょぼさつ)、内心如夜叉(にょやしゃ)の奸佞(かんねい)の害心があるとも知らず、どこまでもついて来る。練兵場をぐるりと一廻りして、私はやはり犬に慕われながら帰途についた。家へ帰りつくまでには、背後の犬もどこかへ雲散霧消しているのが、これまでの、しきたりであったのだが、その日に限って、ひどく執拗で馴れ馴れしいのが一匹いた。真黒の、見るかげもない小犬である。ずいぶん小さい。胴の長さ五寸の感じである。けれども、小さいからと言って油断はできない。歯は、既にちゃんと生えそろっている筈である。噛まれたら病院に三、七、二十一日間通わなければならぬ。それにこのような幼少のものには常識がないから、したがって気まぐれである。一そう用心をしなければならぬ。小犬は後になり、さきになり、私の顔を振り仰ぎ、よたよた走って、とうとう私の家の玄関までついて来た。
「おい。へんなものが、ついて来たよ」
「おや、可愛い」
「可愛いもんか。追っ払って呉れ。手荒くすると喰いつくぜ。お菓子でもやって」
 れいの私の軟弱外交である。小犬は、たちまち私の内心畏怖の情を見抜き、それにつけ込み、図々しくもそれから、ずるずる私の家に住みこんでしまった。そうしてこの犬は、三月、四月、五月、六、七、八、そろそろ秋風吹きはじめて来た現在にいたるまで、私の家に居るのである。私は、この犬には、幾度泣かされたかわからない。どうにも始末ができぬのである。私は仕方なく、この犬を、ポチなどと呼んでいるのであるが、半年も共に住んでいながら、いまだに私は、このポチを、一家のものとは思えない。他人の気がするのである。しっくり行かない。不和である。お互い心理の読み合いに火花を散らして戦っている。そうしてお互い、どうしても釈然と笑い合うことができないのである。
 はじめこの家にやって来たころは、まだ子供で、地べたの蟻を不審そうに観察したり、蝦蟇(がま)を恐れて悲鳴を挙げたり、その様には私も思わず失笑することがあって、憎いやつであるが、これも神様の御心に依ってこの家へ迷い込んで来ることになったのかも知れぬと、縁の下に寝床を作ってやったし、食い物も乳幼児むきに軟かく煮て与えてやったし、蚤取粉などからだに振りかけてやったものだ。けれども、ひとつき経つと、もういけない。そろそろ駄犬の本領を発揮して来た。いやしい。もともと、この犬は練兵場の隅に捨てられて在ったものにちがいない。私のあの散歩の帰途、私にまとわりつくようにしてついて来て、その時は、見るかげも無く痩せこけて、毛も抜けていてお尻の部分は、ほとんど禿げていた。私だからこそ、之に菓子を与え、おかゆを作り、荒い言葉一つ掛けるではなし、腫れものにさわるように鄭重にもてなして上げたのだ。他の人だったら、足蹴にして追い散らしてしまったにちがいない。私のそんな親切のもてなしも、内実は、犬に対する愛情からではなく、犬に対する先天的な憎悪と恐怖から発した老獪な駈け引きに過ぎないのであるが、けれども私のおかげで、このポチは、毛並みもととのい、どうやら一人まえの男の犬に成長することをえたのではないか。私は恩を売る気はもうとう無いけれども、少しは私たちにも何か楽しみを与えてくれてもよさそうに思われるのであるが、やはり捨犬は駄目なものである。大めし食らって、食後の運動のつもりであろうか、下駄をおもちゃにして無残に噛み破り、庭に干して在る洗濯物を要らぬ世話して引きずりおろし、泥まみれにする。
「こういう冗談はしないでおくれ。実に、困るのだ。誰が君に、こんなことをしてくれとたのみましたか?」と、私は、内に針を含んだ言葉を、精一ぱい優しく、いや味をきかせて言ってやることもあるのだが、犬は、きょろりと眼を動かし、いや味を言い聞かせている当の私にじゃれかかる。なんという甘ったれた精神であろう。私はこの犬の鉄面皮には、ひそかに呆れ、之を軽蔑さえしたのである。長ずるに及んで、いよいよこの犬の無能が曝露された。だいいち、形がよくない。幼少のころには、も少し形の均整もとれていて、或いは優れた血統が雑っているのかも知れぬと思わせるところ在ったのであるが、それは真赤ないつわりであった。胴だけが、にょきにょき長く伸びて、手足がいちじるしく短い。亀のようである。見られたものでなかった。そのような醜い形をして、私が外出すれば必ず影の如くちゃんと私につき従い、少年少女までが、やあ、へんてこな犬じゃと指さして笑うこともあり、多少見栄坊の私は、いくら澄まして歩いても、なんにもならなくなるのである。いっそ他人のふりをしようと足早に歩いてみても、ポチは私の傍を離れず、私の顔を振り仰ぎ振り仰ぎ、あとになり、さきになり、からみつくようにしてついて来るのだから、どうしたって二人は他人のようには見えまい。気心の合った主従としか見えまい。おかげで私は外出のたびごとに、ずいぶん暗い憂鬱な気持にさせられた。いい修行になったのである。ただ、そうして、ついて歩いていたころは、まだよかった。そのうちにいよいよ隠して在った猛獣の本性を曝露して来た。喧嘩格闘を好むようになったのである。つまり、かたっぱしから喧嘩して通るのである。ポチは足も短く、若年でありながら、喧嘩は相当強いようである。空地の犬の巣に踏みこんで、一時に五匹の犬を相手に戦ったときは流石に危く見えたが、それでも巧みに身をかわして難を避けた。非常な自信を以て、どんな犬にでも飛びかかって行く。たまには勢(いきおい)負けして、吠えながらじりじり退却することもある。声が悲鳴に近くなり、真黒い顔が蒼黒くなって来る。いちど子牛のようなシェパアドに飛びかかっていって、あのときは、私が蒼くなった。果して、ひとたまりも無かった。前足でころころポチをおもちゃにして、本気につき合ってくれなかったのでポチも命が助かった。犬は、いちどあんなひどいめに逢うと、大へん意気地がなくなるものらしい。ポチは、それからは眼に見えて、喧嘩を避けるようになった。それに私は、喧嘩を好まず、否、好まぬどころではない、往来で野獣の組打ちを放置し許容しているなどは、文明国の恥辱と信じているので、かの耳を聾(ろう)せんばかりのけんけんごうごう、きゃんきゃんの犬の野蛮のわめき声には、殺してもなおあき足らない憤怒と憎悪を感じているのである。私はポチを愛してはいない。恐れ、憎んでこそいるが、みじんも愛しては、いない。死んで呉れたらいいと思っている。私にのこのこついて来て、何かそれが飼われているものの義務とでも思っているのか、途で逢う犬、逢う犬、必ず凄惨に吠え合って主人としての私は、そのときどんなに恐怖にわななき震えていることか。自動車呼びとめて、それに乗ってドアをばたんと閉じ、一目散に逃げ去りたい気持なのである。犬同士の組打ちで終るべきものなら、まだしも、もし敵の犬が血迷って、ポチの主人の私に飛びかかって来るようなことがあったら、どうする。ないとは言わせぬ。血に飢えたる猛獣である。何をするか、わかったものではない。私はむごたらしく噛み裂かれ、三七、二十一日間病院に通わなければならぬ。犬の喧嘩は、地獄である。私は、機会のあるごとにポチに言い聞かせた。
「喧嘩しては、いけないよ。喧嘩をするなら、僕から離れたところで、してもらいたい。僕は、おまえを好いてはいないんだ」
 少し、ポチにもわかるらしいのである。そう言われると多少しょげる。いよいよ私は犬を、薄気味わるいものに思った。その私の繰り返し繰り返し言った忠告が効を奏したのか、あるいは、かのシェパアドとの一戦にぶざまな惨敗を喫したせいか、ポチは、卑屈なほど柔弱な態度をとりはじめた。私と一緒に路を歩いて、他の犬がポチに吠えかかると、ポチは、
「ああ、いやだ、いやだ。野蛮ですねえ」
 と言わんばかり、ひたすら私の気に入られようと上品ぶって、ぶるっと胴震いをさせたり、相手の犬を、仕方のないやつだね、とさも憐れむように流し目で見て、そうして、私の顔色を伺い、へっへっへっと卑しい追従笑いするかの如く、その様子のいやらしいったら無かった。
「一つも、いいところないじゃないか、こいつは。ひとの顔色ばかり伺っていやがる」
「あなたが、あまり、へんにかまうからですよ」家内は、はじめからポチに無関心であった。洗濯物など汚されたときにはぶつぶつ言うが、あとはけろりとして、ポチポチと呼んで、めしを食わせたりなどしている。「性格が破産しちゃったんじゃないかしら」と笑っている。
「飼い主に、似て来たというわけかね」私は、いよいよ、にがにがしく思った。
 七月に入って、異変が起こった。私たちは、やっと東京の三鷹に、建築最中の小さい家を見つけることができて、それの完成し次第、一ヶ月二十四円で貸してもらえるように、家主と契約の証書交して、そろそろ移転の支度をはじめた。家ができ上がると、家主から速達で通知が来ることになっていたのである。ポチは、勿論、捨てて行かれることになっていたのである。
「連れて行ったって、いいのに」家内は、やはりあまりポチを問題にしていない。どちらでもいいのである。
「だめだ。僕は、可愛いから養っているんじゃないんだよ。犬に復讐されるのが、こわいから、仕方なくそっとして置いてやっているのだ。わからんかね」
「でも、ちょっとポチが見えなくなると、ポチはどこへ行ったろう、どこへ行ったろうと大騒ぎじゃないの」
「いなくなると、一そう薄気味が悪いからさ。僕に隠れて、ひそかに同志を糾合しているのかもわからない。あいつは、僕に軽蔑されていることを知っているんだ。復讐心が強いそうだからなあ、犬は」
 いまこそ絶交の機会であると思っていた。この犬をこのまま忘れたふりして、ここへ置いて、さっさと汽車に乗って東京へ行ってしまえば、まさか犬も、笹子峠(ささごとうげ)越えて三鷹村まで追いかけて来ることはなかろう。私たちは、ポチを捨てたのではない。全くうっかりして連れて行くことを忘れたのである。罪にはならない。またポチに恨まれる筋合も無い。復讐されるわけはない。
「大丈夫だろうね。置いていっても、飢え死にするようなことはないだろうね。死霊の祟りということもあるからね」
「もともと、捨犬だったんですもの」家内も、少し不安になった様子である。
「そうだね。飢え死にすることはないだろう。なんとか、うまくやって行くだろう。あんな犬、東京へ連れて行ったんじゃ、僕は友人に対して恥ずかしいんだ。胴が長すぎる。みっともないねえ」
 ポチは、やはり置いて行かれることに、確定した。すると、ここに異変が起った。ポチが、皮膚病にやられちゃった。これが、またひどいのである。さすがに形容をはばかるが、惨状、眼をそむけしむるものがあったのである。折からの炎熱と共に、ただならぬ悪臭を放つようになった。こんどは家内が、まいってしまった。
「ご近所にわるいわ。殺して下さい」女は、こうなると男よりも冷酷で、度胸がいい。
「殺すのか?」私は、ぎょっとした。「も少しの我慢じゃないか」
 私たちは、三鷹の家主からの速達を一心に待っていた。七月末には、できるでしょうという家主から言葉であったが、七月ももうそろそろおしまいになりかけて、きょうか明日かと、引越しの荷物もまとめてしまって待機していたのであったが、仲々、通知が来ないのである。問い合わせの手紙を出したりなどしている時に、ポチの皮膚病がはじまったのである。見れば、見るほど、酸鼻の極である。ポチも、いまは流石に、おのれの醜い姿を恥じている様子で、とかく暗闇の場所を好むようになり、たまに玄関の日当りのいい敷石の上で、ぐったり寝そべっていることがあっても、私が、それを見つけて、
「わあ、ひでえなあ」と罵倒すると、いそいで立ち上がって首を垂れ、閉口したようにこそこそ縁の下にもぐり込んでしまうのである。
 それでも私が外出するときには、どこからともなく足音を忍ばせて出て来て、私について来ようとする。こんな化け物みたいなものに、ついて来られて、たまるものか、とその都度、私は、だまってポチを見つめてやる。あざけりの笑いを口角にまざまざと浮べて、なんぼでも、ポチを見つめてやる。これは大へん、ききめがあった。ポチは、おのれの醜い姿にハッと思い当たる様子で、首を垂れ、しおしおどこかへ姿を隠す。
「とっても、我慢ができないの。私まで、むず痒くなって」家内は、ときどき私に相談する。「なるべく見ないように努めているんだけど、いちど見ちゃったら、もう駄目ね。夢の中にまで出て来るんだもの」
「まあ、もうすこしの我慢だ」がまんするより他はないと思った。たとえ病んでいるとはいっても、相手は一種の猛獣である。下手に触ったら噛みつかれる。「明日にでも、三鷹から、返事が来るだろう。引越してしまったら、それっきりじゃないか」
 三鷹の家主から返事が来た。読んで、がっかりした。雨が降りつづいて壁が乾かず、また人手も不足で、完成までには、もう十日くらいかかる見込み、というのであった。うんざりした。ポチから逃れるためだけでも、早く、引越してしまいたかったのだ。私は、へんな焦燥感で、仕事も手につかず、雑誌を読んだり、酒を呑んだりした。ポチの皮膚病は一日一日ひどくなっていって、私の皮膚も、なんだか、しきりに痒くなって来た。深夜、戸外でポチが、ばたばたばた痒さに身悶えしている物音に、幾度ぞっとさせられたかわからない。たまらない気がして、いっそ、ひと思いにと、狂暴な発作に駆られることも、しばしばあった。家主からは、更に二十日待て、と手紙が来て、私のごちゃごちゃの忿懣(ふんまん)が、たちまち手近のポチに結びついて、こいつ在るがために、このように諸事円滑にすすまないのだ、と何もかも悪いことは皆、ポチのせいみたいに考えられ、奇妙にポチを呪詛し、或る夜、私の寝巻に犬の蚤が伝播(でんぱ)されて在ることを発見するに及んで、ついにそれまで堪えに堪えて来た怒りが爆発し、ひそかに重大の決意をした。
 殺そうと思ったのである。相手は恐るべき猛獣である。常の私だったら、こんな乱暴な決意は、逆立ちしたって為し得なかったところのものなのであったが、盆地特有の酷暑で、少しへんになっていた矢先であったし、また、毎日、何もせず、ただぽかんと家主からの速達を待っていて、死ぬほど退屈な日々を送って、むしゃくしゃいらいら、おまけに不眠も手伝って発狂状態であったのだから、たまらない。その犬の蚤を発見した夜、ただちに家内をして牛肉の大片を買いに走らせ、私は、薬屋に行き或る種の薬品を少量、買い求めた。これで用意はできた。家内は少なからず興奮していた。私たち鬼夫婦は、その夜、鳩首(きゅうしゅ)して小声で相談した。
 翌る朝、四時に私は起きた。目覚時計を掛けて置いたのであるが、それの鳴り出さぬうちに、眼が覚めてしまった。しらじらと明けていた。肌寒いほどであった。私は竹の皮包をさげて外へ出た。
「おしまいまで見ていないですぐにお帰りになるといいわ」家内は玄関の式台に立って見送り、落ち付いていた。
「心得ている。ポチ、来い!」
 ポチは尾を振って縁の下から出て来た。
「来い、来い!」私は、さっさと歩きだした。きょうは、あんな、意地悪くポチの姿を見つめるようなことはしないので、ポチ自身も自分の醜さを忘れて、いそいそ私について来た。霧が深い。まちはひっそり眠っている。私は、練兵場へいそいだ。途中、おそろしく大きい赤毛の犬が、ポチに向かって猛烈に吠えたてた。ポチは、れいに依って上品ぶった態度を示し、何を騒いでいるのかね、とでも言いたげな蔑視をちらとその赤毛の犬にくれただけで、さっさとその面前を通過した。赤毛は、卑劣である。無法にもポチの背後から、風の如く襲いかかり、ポチの寒しげな睾丸をねらった。ポチは、咄嗟(とっさ)にくるりと向き直ったが、ちょっと躊躇し、私の顔色をそっと伺った。
「やれ!」私は大声で命令した。「赤毛は卑怯だ!思う存分やれ!」
 ゆるしが出たのでポチは、ぶるんと一つ大きく胴震いして、弾丸の如く赤犬のふところに飛び込んだ。たちまち、けんけんごうごう、二匹は一つの手毬みたいになって、格闘した。赤毛は、ポチの倍ほども大きな図体をしていたが、だめであった。ほどなく、きゃんきゃん悲鳴を挙げて敗退した。おまけにポチの皮膚病までうつされたかもわからない。ばかなやつだ。
 喧嘩が終って、私は、ほっとした。文字どおり手に汗して眺めていたのである。一時は、二匹の犬の格闘に巻きこまれて、私も共に死ぬるような気さえしていた。おれは噛み殺されたっていいんだ。ポチよ、思う存分、喧嘩をしろ!と異様に力(りき)んでいたのであった。ポチは、逃げて行く赤毛を少し追いかけ、立ちどまって、私の顔色をちらと伺い、急にしょげて、首を垂れてすごすご私のほうへ引返して来た。
「よし!強いぞ」ほめてやって私は歩き出し、橋をかたかた渡って、ここはもう練兵場である。
 むかしポチは、この練兵場に捨てられた。だからいま、また、この練兵場へ帰って来たのだ。おまえのふるさとで死ぬがよい。
 私は立ちどまり、ぽとりと牛肉の大片を私の足もとへ落して、
「ポチ、食え」私は、ポチを見たくなかった。ぼんやりそこに立ったまま、「ポチ、食え」足もとで、ぺちゃぺちゃ食べている音がする。一分たたぬうちに死ぬ筈だ。
 私は猫脊になって、のろのろ歩いた。霧が深い。ほんのちかくの山が、ぼんやり黒く見えるだけだ。南アルプス連峰も、富士山も、何も見えない。朝露で、下駄がびしょぬれである。私は一そうひどい猫脊になって、のろのろ帰途についた。橋を渡り、中学校のまえまで来て、振り向くとポチが、ちゃんといた。面目無げに、首を垂れ、私の視線をそっとそらした。
 私も、もう大人である。いたずらな感傷は無かった。すぐ事態を察知した。薬品が効かなかったのだ。うなずいて、もうすでに私は、白紙還元である。家へ帰って、
「だめだよ。薬が効かないのだ。ゆるしてやろうよ。あいつには、罪が無かったんだぜ。芸術家は、もともと弱い者の味方だった筈なんだ」私は、途中で考えて来たことをそのまま言ってみた。「弱者の友なんだ。芸術家にとって、これが出発で、また最高の目的なんだ。こんな単純なこと、僕は忘れていた。僕だけじゃない。みんなが、忘れているんだ。僕は、ポチを東京へ連れて行こうと思うよ。友達がもしポチの格好を笑ったら、ぶん殴ってやる。卵あるかい?」
「ええ」家内は、浮かぬ顔をしていた。
「ポチにやれ。二つ在るなら、二つやれ。おまえも我慢しろ。皮膚病なんてものは、すぐなおるよ」
「ええ」家内は、やはり浮かぬ顔をしていた。
太宰治

(2002.10.10)-1
空気が冷たくなってきたね。寒い、とは少し違う、この時期特有の、心地よい冷気。何も考えずにただ歩いていると、ふと気づくような。薄れてきていた想いが季節の移り変わりと共に甦ってくるというのは、どうやらほんとみたいだね。体温がいとおしくなる季節、かな。大事なひとを、一ばん好きなやり方で、大事にしてあげてください。それから、風邪はひかないようにね。風邪は、ぼくが引き受けて、かわりにひきますよ。
(2002.10.10)-2
ああ、いいことがしたいなあ。いいことが、したい。でも、いいことって、なんだろうな。うん、よくわからない。いいこと、いいこと。いいこと、いいこと、ぼくがする、いいこと。あ、ひとつ、あった。けど、やめた。言わない。
(2002.10.10)-3
「畜犬談」についてのコメントを忘れていた。

〜むかしポチは、この練兵場に捨てられた。だからいま、また、この練兵場へ帰って来たのだ。おまえのふるさとで死ぬがよい。〜

この一文をさらりと流して、コメディにまで昇華させて書けるというのが、中期太宰の素晴らしいところだ。実にベタな話を書くのだけれど、その中にすごく恐ろしいものが、「極めて自然に」挿し込まれている。そして、この文を成立させてしまう太宰特有のロジックが話の根底には、ある。

「なんじら断食するとき、偽善者のごとく、悲しき面容をすな。彼らは断食することを人に顕さんとて、その顔色を害うなり。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報を得たり。なんじは断食するとき、頭に油をぬり、顔を洗え。これ断食することの人に顕れずして、隠れたるに在す汝の父にあらわれん為なり。さらば隠れたるに見たまう汝の父は報い給わん。」

つまり、このスタンスね。ああ、あまり説明しない方が、きっといいな。そんな気が、すごく、してきたよ。

「ほんとうに、言葉は短いほどよい。それだけで、信じさせることができるならば」

太宰が小説を書くのは、それ以上短く言うことができないからだよ。
(2002.10.10)-4
この場合の「言う」というのは、ただ口にする、ということではなくて、我の思うところ、感覚するものを確実に伝えんが為に、その最善かつもっとも適切なる伝達形式を選定し、その形式を十分に活用し得ている表現のみからなる、一連の言葉を発する、ということだよ。
(2002.10.11)-1
 ちょっと前から「そうかな、そうかな」思っていたのだけれど、Charaのリリース方式は、シングルシングルシングル、集めてアルバム化、という形をとらないようで、シングルは、単純に比較的短いスパンでパッケージを制作したもので、アルバムは、半年から一年前後の長いスパンで積んでいく、ということで制作したパッケージのリリース形式であって、すなわち、製作日数の長短が、Charaのシングルとアルバムの間の違いであるようなのである。つまり、シングルカット、というのは、存在しないようなのである。このため、CharaのCDは、アルバムが出るまで待って、というぼくの従来のCDの買い方の意識でいてはだめなようなのである。
「マドリガル」のときも、「アルバムやっと出たあ」よろこび勇み、いそいそイヒイヒ自転車こいでCD屋さん、店の棚の前、眼を細めて曲目リストを見てみると、あら、知っている曲が見当たらない。半年くらい前に出たはずのシングルの曲が入っていないのである。どうやら皆、このアルバムの為に書き下ろされた曲ばかりのようである。いや、いいのである。買って帰って、早速聴けば、これは、実によいのである。そうして作られただけのことはあって、アルバム全体のトーンがきちんと整って、おちついていて、素晴らしいのである。あからさまに、Charaの(一ばんよい出来、という意味の)ベストアルバムなのである。けれども、未だそれを聴かぬ店頭で曲のリストを眺めるぼくは、多少拍子抜けというか、一抹の寂しさというか、なんだか物足りない心もちになったのである。待っていたシングルの曲が聴けない。ぼくは、我慢して待っていたのである。物足りない。げんに、「午後の紅茶」のCMに使われていた曲などは、結局未だに聴いていないのである。
「シングルを買え」と、君、言うことなかれ。それでは、この文を書く意味がどこにもなくなるではないか。確かに、シングルを買って聴けば、いいのである。いいのであるが、だめなのである。シングルは、短すぎるのである。15分程度で終られては、ぼくは困るのである。ぼくの部屋のオーディオは、CDが一枚しか入らないのである。15分でシングルが終るたびにいちいちCDを入れ換えたり、再度はじめから再生したりするのは、なんともおっくうなのである。15分に一度、次のCDを選んだりするのは、いやなのである。疲れるのである。それから、シングルCDには、分量を水増しするためだけの、インスト版などという余計なものが入っていたりなどして、余計なのである。不快なのである。実は、Charaのシングルには、冒頭の理由から、入っていなかったりなどするのだが、それでも、シングルはできれば、いやなのである。
「そもそも、お前は、アルバムを買っても、中の一曲を6時間も7時間も、延々と流しつづけるなどという、偏執狂まがいのことをするのだから、15分がどうのこうの、インストがどうのこうの、いうのは、単なるこじつけではないのか」と言われれば、これは、確かにそうだけれど、けれども、それは購入直後の一週間、長くて半月ひと月くらいのことであり、それが済んで平静になれば、ぼくだってアルバムをきちんとアルバムとして聴くのである。そうなれば、やはりある程度の長さがあって欲しいのである。余計なものは、入っていてほしくないのである。
「それなら、MDを使って編輯をすればよい」と、君言うことなかれ。部屋のMDは録音機能が壊れているのである。全くの、役立たず、なのである。修理に持っていったら、「1万7千円」と言われて、その金が何となく、まるで無駄な金、であるような気がして、いかにも惜しく、断念して、それきりなのである。今は、MDはただ、DAの1st,2ndミニアルバムを連結して、一枚のアルバム程度の長さにしたやつを、時折再生するだけである。
「パソコンを持っているなら、ディスクにコピーして、聴けばいいじゃないか」これは、駄目である。全然、駄目である。CDプレーヤの性能は、とても重要なのである。ディジタルをアナログに変換する装置がよくないと、いくらアンプがよくても、スピーカがよくても、よい音が、出ないものなのである。と、同期が言っている。実際、CDプレーヤに良いD/Aコンバータをかませたら、あからさまに音が良くなった、と同期が言っている。そこまでやらないとしても、プレーヤは、重大なる要素なのである。パソコンのおまけについている貧弱なものでは、とても駄目なのである。
「なら、CD-Rを使って、再度CDに落して使えばいいじゃないか」君、これを決して言うこと無かれ。これを言ってしまうとこの話が、破綻してしまう。これは、決して言ってはならない。「シー!」禁忌、秘密である。なぜぼくがそれをしないかといえば、そのやり方を知らないからである。それだけである。知ってしまうと、極めて真面目に容量の制約などを考慮しつつ、マイベストを撰定せねばならなくなる。それは面倒で、いやなので、調べないのである。調べたくないのである。ということも、言えなくもないのであるが、いかにも、こじつけ、である。やはり、言ってはならない。
 とにかく、シングルは、駄目なのである。アルバムで、まとめて欲しいのである。ぼくは我慢して待っていたのである。待っていたのだから、違わず、入っていて欲しいのである。
 さて、もう満足。なんだかけっこう長々と、Charaのアルバムにはシングルの曲が入っていないことについての不平不満を述べてみたのであるが、何のことはない、要するに、この文はCharaの紹介なのである。今日、ラジオでCharaの新しいシングルの曲を聴いたのである。それで、リンクを張りたく思ったので、こんなことを書いているのである。ぼくは、ぼくがどうしてChara好きなのか、Charaのどのあたりが好きなのか、未だによくわかっていないのである。他の、ぼくの好きな歌をうたう人たちを、ぼくはどうして好きなのかは、よくわかっているつもりなのだけれど、Charaだけは、いつまで経っても、よくわからないのである。ぼくは、ぼくにフィットする歌をうたう人しか、好きにならないのだけれども、Charaには、その理由らしきものが特に見当たらないのである。聴き始めて、もう、5年?くらいになるけれど、まるでわからない。わからないけれども、ときどき、Charaについて何か書きたくなることがあって、いつもは少しも書けないので、止めてしまうのだけれど、直接でないことならば何か書けるかも、ということで、こんなことを書いてみたら、書けてしまって、それもこんなに長々としてしまったのである。
 まあ、そんなぼくの事情はいいとして、紹介である。Charaはインターネットで、2週にいっぺんラジオをやっている。
i-radio。ラジオは、いい。眠れぬ夜の友である。Charaはかなり主婦主婦オバサンしているので、結構おかしい。子供もダンナも壮健のようで、何よりである。今回はツアー前で特別に、ここ4,5年、Charaのツアーに同行している新居昭乃という人がゲストできていたのだが、この人は、なんというか、あんまり上手ではない(歌が、というよりも、詩の技術が)のだけれど、ぼくには何だか非常に懐かしい感じの歌をうたう人で(つまりそれは、ぼくが極くたまに、出鱈目につくってうたう歌の感じによく似ている、ような気がする。気がするんだ。。。そういうことって、普通、やるよな?やるよな!)、あ、これはぼくの好きな人の新しいひとりかも知れない、と思いうれしく、「明日買ってこようか」イヒイヒしているので、その勢いもあって、こんなに長いのである。ごめんなさい。
(2002.10.12)-1
全部飲み込んで、全部がそのまま流れてゆく。
(2002.10.12)-2
以下、小川未明、三連。ひとことで言ってしまえば、「無常」なのだけれど、これは、乱暴な言葉だから。いのちひとつを無視しないで、追ってあげる。
(飴チョコの天使)
 青い、美しい空の下に、黒い煙の上がる、煙突の幾本か立った工場がありました。その工場の中では、飴チョコを製造していました。
 製造された飴チョコは、小さな箱の中に入れられて、方々の町や、村や、また都会に向かって送られるのでありました。
 ある日、車の上に、たくさんの飴チョコの箱が積まれました。それは、工場から、長いうねうねとした道を揺られて、停車場へと運ばれ、そこからまた遠い、田舎の方へと送られるのでありました。
 飴チョコの箱には、かわいらしい天使が描いてありました。この天使の運命は、ほんとうにいろいろでありました。あるものは、くずかごの中へ、ほかの紙くずなどといっしょに、破って捨てられました。また、あるものは、ストーブの火の中に投げ入れられました。またあるものは、泥濘(ぬかるみ)の道の上に捨てられました。なんといっても子供らは、箱の中に入っている、飴チョコさえ食べればいいのです。そして、もう、空き箱などに用事がなかったからであります。こうして、泥濘の中に捨てられた天使は、やがて、その上を思い荷車の轍(わだち)で轢(ひ)かれるのでありました。
 天使でありますから、たとえ破られても、焼かれても、また轢かれても、血の出るわけではなし、また痛いということもなかったのです。ただ、この地上にいる間は、おもしろいこと、悲しいことがあるばかりで、しまいには、魂は、みんな青い空へと飛んでいってしまうのでありました。
 いま、車に乗せられて、うねうねとした長い道を、停車場の方へといった天使は、まことによく晴れわたった、青い空や、また木立や、建物の重なり合っているあたりの景色をながめて、独り言をしていました。
「あの黒い、煙の立っている建物は、飴チョコの製造される工場だな。なんといい景色ではないか。遠くには海が見えるし、あちらにはにぎやかな街がある。おなじゆくものなら、俺は、あの街へいってみたかった。きっと、おもしろいことや、おかしいことがあるだろう。それだのに、いま、俺は、停車場へいってしまう。汽車に乗せられて、遠いところへいってしまうにちがいない。そうなれば、もう二度と、この都会へはこられないばかりか、この景色を見ることもできないのだ」
 天使は、このにぎやかな都会を見捨てて、遠く、あてもなくゆくのを悲しく思いました。けれど、また自分は、どんなところへゆくだろうかと考えると楽しみでもありました。
 その日の昼ごろは、もう飴チョコは、汽車に揺られていました。天使は、真っ暗な中にいて、いま汽車が、どこを走っているのかということはわかりませんでした。
 そのとき、汽車は、野原や、また丘の下や、村はずれや、そして、大きな河にかかっている鉄の橋の上などを渡って、ずんずんと東北の方に向かって走っていたのでした。
 その日の晩方、あるさびしい、小さな駅に汽車が着くと、飴チョコは、そこで降ろされました。そして汽車は、また暗くなりかかった、風の吹いている野原の方へ、ポッ、ポッと煙を吐いていってしまいました。
 飴チョコの天使は、これからどうなるだろうかと、半ば頼りないような、半ば楽しみのような気持でいました。すると、まもなく、幾百となく、飴チョコのはいっている大きな箱は、その町の菓子屋へ運ばれていったのであります。
 空が、曇っていたせいもありますが、町の中は、日が暮れてから、あまり人通りもありませんでした。天使は、こんなさびしい町の中で、幾日もじっとして、これから長い間、こうしているのかしらん。もし、そうなら退屈でたまらないと思いました。
 幾百となく、飴チョコの箱に描いてある天使は、それぞれ違った空想にふけっていたのでありましょう。なかには、早く青い空へ上ってゆきたいと思っていたものもありますが、また、どうなるか最後の運命まで見てから、空へ帰りたいと思っていたものもあります。
 ここに話をしますのは、それらの多くの天使の中の一人であることはいうまでもありません。
 ある日、男が箱車を引いて菓子屋の店頭(みせさき)にやってきました。そして、飴チョコを三十ばかり、ほかのお菓子といっしょに箱車の中に収めました。
 天使は、また、これからどこかへゆくのだと思いました。いったい、どこへ行くのだろう?箱車の中にはいっている天使は、やはり、暗がりにいて、ただ車が石の上をガタガタと踊りながら、なんでものどかな、田舎道を、引かれてゆく音しか、聞くことができませんでした。
 箱車を引いていく男は、途中で、誰かと道づれになったようです。
「いいお天気ですのう」
「だんだん、のどかになりますだ」
「この天気で、みんな雪が消えてしまうだろうな」
「おまえさんは、どこまでゆかしゃる」
「あちらの村へ、お菓子を卸しにゆくのだ。今年なって、はじめて東京から荷がついたから」
 飴チョコの天使は、この話によって、この辺には、まだところどころ田や、圃に、雪が残っているということを知りました。
 村に入ると、木立の上に、小鳥がチュン、チュンといい声を出して、枝から、枝へと飛んではさえずっていました。子供らの遊んでいる声が聞えました。そのうちに車は、ガタリといって止まりました。
 このとき、飴チョコの天使は、村へ来たのだと思いました。やがて箱車のふたが開いて、男ははたして、飴チョコを取り出して、村の小さな駄菓子屋の店頭に置きました。また、ほかにもいろいろのお菓子を並べたのです。
 駄菓子屋のおかみさんは、飴チョコを手に取りあげながら、
「これは、みんな十銭の飴チョコなんだね。五銭のがあったら、そちらをおくんなさい。この辺りでは、十銭のなんか、なかなか売れっこはないから」
といいました。
「十銭のばかりなんですがね。そんなら三つ四つ置いてゆきましょうか」と、車を引いてきた若い男はいいました。
「そんなら、三つばかり置いていってください」と、おかみさんがいいました。
 飴チョコは、三つだけ、この店に置かれることになりました。おかみさんは、三つの飴チョコを大きなガラスのびんの中にいれて、それを外から見えるようなところへ飾っておきました。
 若い男は、車を引いて帰ってゆきました。これから、またほかの村へ、まわったのかもしれません。同じ工場で造られた飴チョコは、同じ汽車に乗って、ついここまで運命をいっしょにしてきたのだが、これからたがいに知らない場所に別れてしまわなければなりませんでした。もはや、この世の中では、それらの天使は、たがいに顔を見合すようなことはおそらくありますまい。いつか、青い空に上っていって、おたがいにこの世の中で経てきた運命について、語り合う日よりほかになかったのであります。
 びんの中から、天使は、家の前に流れている小さな川をながめました。水の上を、日の光がきらきら照らしていました。やがて日は暮れました。田舎の夜はまだ寒く、そして、寂しかった。しかし夜が明けると、小鳥が例の木立にきてさえずりました。その日もいい天気でした。あちらの山のあたりはかすんでいます。子供らは、お菓子屋の前にきて遊んでいました。このとき、飴チョコの天使は、あの子供らは、飴チョコを買って、自分をあの小川に流してくれたら、自分は水のゆくままに、あちらの遠いかすみだった山々の間を流れてゆくものをと空想したのであります。
 しかし、おかみさんが、いつかいったように、百姓の子供らは、十銭の飴チョコを買うことができませんでした。
 夏になると、つばめが飛んできました。そして、そのかわいらしい姿を小川の水の面に写しました。また暑い日盛りごろ、旅人が店頭にきて休みました。そして、四方(よも)の話などをしました。しかし、その間だれも飴チョコを買うものがありませんでした。だから、天使は空へ上ることも、またここからほかへ旅をすることもできませんでした。月日がたつにつれて、ガラスのびんはしぜんに汚れ、また、ちりがかったりしました。飴チョコは、憂鬱な日々を送ったのであります。
 やがてまた、寒さに向かいました。そして、冬になると、雪はちらちらと降ってきました。天使は田舎の生活に飽きてしまいました。しかし、どうすることもできませんでした。ちょうど、この店にきてから、一年めになって、ある日のことでした。
 菓子屋の店頭に、一人のおばあさんが立っていました。
「なにか、孫に送ってやりたいのだが、いいお菓子はありませんか」と、おばさんはいいました。
「ご隠居さん、ここには上等のお菓子はありません。飴チョコならありますが、いかがですか」と、菓子屋のおかみさんは答えました。
「飴チョコを見せておくれ」と、つえをついた、黒い頭巾をかぶった、おばあさんはいいました。「どちらへ、お送りになるのですか」
「東京の孫に、もちを送ってやるついでに、なにかお菓子を入れてやろうと思ってな」と、おばあさんは答えました。
「しかし、ご隠居さん、この飴チョコは、東京からきたのです」
「なんだっていい、こちらの志だからな。その飴チョコをおくれ」といって、おばあさんは、飴チョコを三つとも買ってしまいました。
 天使は思いがけなく、ふたたび、東京へ帰っていかれることを喜びました。
 あくる日の夜は、はや、暗い貨物列車の中に揺すられて、いつかきた時分の同じ線路を、都会をさして走っていたのであります。
 夜が明けて、あかるくなると、汽車は、都会の停車場に着きました。
 そして、その日の昼過ぎに、小包は宛名の家へ配送されました。
「田舎から、小包がきたよ」と、子供たちは、大きな声を出して喜び、躍り上がりました。
「なにがきたのだろうね。きっとおもちだろうよ」と、母親は、小包の縄を解いて、箱のふたを開けました。すると、はたして、それは、田舎でついたもちでありました。その中に、三つの飴チョコがはいっていました。
「まあ、おばあさんから、おまえたちに、わざわざ買ってくださったのだよ」と、母親は、三人の子供に一つずつ飴チョコを分けて与えました。
「なあんだ、飴チョコか」と、子供らは、口ではいったものの喜んで、それをば手に持って、家の外へ遊びに出ました。

 まだ、寒い、早春の黄昏方でありました。往来の上では、子供らが、鬼ごっこをして遊んでいました。三人の子供らはいつしか飴チョコを箱から出して食べたり、そばを離れずについている、白犬のポチに投げてやったりしていました。その中に、まったく箱の中が空になると、一人は空箱を溝(どぶ)の中に捨てました。一人は、破ってしまいました。一人は、それをポチに投げると、犬は、それをくわえて、あたりを飛びまわっていました。
 空の色は、ほんとうに、青い、なつかしい色をしていました。いろいろの花が咲くには、まだ早かったけれど、梅の花は、もう香っていました。この静かな黄昏がた、三人の天使は、青い空に上ってゆきました。
 その中の一人は、思い出したように、遠くの都会のかなたの空をながめました。たくさんの煙突から、黒い煙があがっていて、どれが昔、自分たちの飴チョコが製造された工場であったかよくわかりませんでした。ただ、美しい燈(ひ)が、あちらこちらに、もやの中からかすんでいました。
 青黒い空は、だんだん上がるつれて明るくなりました。そして、行く手には、美しい星が光っていました。
小川未明

(牛女)
 ある村に、脊の高い、大きな女がありました。あまり大きいので、くびを垂れて歩きました。その女は、おしでありました。性質は、いたってやさしく、涙もろくて、よく、一人の子供をかわいがりました。
 女は、いつも黒いような着物をきていました。ただ子供と二人きりでありました。まだ年のいかない子供の手を引いて、道を歩いているのを、村の人はよく見たのであります。そして、大女でやさしいところから、だれがいったものか「牛女」と名づけたのであります。
 村の子供らは、この女が通ると、「牛女」が通ったといって、珍しいものでも見るように、みんなして、後ろについていって、いろいろのことをいいはやしましたけれど、女はおしで、耳が聞えませんから、黙って、いつものように下を向いて、のそりのそりと歩いてゆくようすが、いかにもかわいそうであったのであります。
 牛女は、自分の子供をかわいがることは、一通りでありませんでした。自分が不具者だということも、子供が、不具者の子供だから、みんなにばかにされるのだろうということも、父親がないから、ほかにだれも子供を育ててくれるものがないということも、よく知っていました。
 それですから、いっそう子供に対する不憫がましたとみえて、子供をかわいがったのであります。
 子供は男の子で、母親を慕いました。そして、母親のゆくところへは、どこへでもついてゆきました。
 牛女は、大女で、力も、またほかの人たちよりは、幾倍ありましたうえに、性質が、やさしくあったから、人々は、牛女に力仕事を頼みました。たきぎをしょったり、石を運んだり、また、荷物をかつがしたり、いろいろのことを頼みました。牛女は、よく働きました。そして、その金で二人は、その日、その日を暮していました。
 こんなに大きくて、力の強い牛女も、病気になりました。どんなものでも、病気にかからないものはないでありましょう。しかも、牛女の病気は、なかなか重かったのであります。そして働くこともできなくなりました。
 牛女は、自分は死ぬのではないかと思いました。もし、自分が死ぬようなことがあったなら、子供をだれが見てくれようと思いました。そう思うと、たとえ死んでも死にきれない。自分の霊魂(たましい)は、なにかに化けてきても、きっと、子供の行く末を見守ろうと思いました。牛女の大きなやさしい目の中から、大粒の涙が、ぽとりぽとりと流れたのであります。
 しかし、運命には牛女も、しかたがなかったとみえます。病気が重くなって、とうとう牛女は死んでしまいました。
 村の人々は、牛女をかわいそうに思いました。どんなに置いていった子供のことに心を取られたろうと、だれしも深く察して、牛女をあわれまぬものはなかったのであります。
 人々は寄り集まって、牛女の葬儀を出して、墓地にうずめてやりました。そして、後に残った子供を、みんながめんどうを見て育ててやることになりました。
 子供は、ここの家から、かしこの家へというふうに移り変って、だんだん月日とともに大きくなっていったのであります。しかし、うれしいこと、また、悲しいことがあるにつけて子供は死んだ母親を恋しく思いました。
 村には、春がき、夏がき、秋となり、冬となりました。子供は、だんだん死んだ母親をなつかしく思い、恋しく思うばかりでした。
 ある冬の日のこと、子供は、村はずれに立って、かなたの国境の山々をながめていますと、大きな山の半腹に、母の姿がはっきりと、真っ白な雪の上に黒く浮き出して見えたのであります。これを見ると、子供はびっくりしました。けれど、このことを口に出してだれにもいいませんでした。
 子供は、母親が恋しくなると、村はずれに立って、かなたの山を見ました。すると、天気のいい晴れた日には、いつでも母親の黒い姿をありありと見ることができたのです。ちょうど母親は、黙って、じっとこちらを見つめて、我が子の身の上を見守っているように思われたのでありました。
 子供は、口に出して、そのことをいいませんでしたけれど、いつか村人は、ついにこれを見つけました。
「西の山に、牛女が現れた」と、いいふらしました。そして、みんな外に出て、西の山をながめたのであります。
「きっと、子供のことを思って、あの山に現れたのだろう」と、みんなは口々にいいました。子供らは、天気のいい晩方には、西の国境の山の方を見て、
「牛女!牛女!」と、口々にいって、その話でもちきったのです。
 ところが、いつしか春が来て、雪が消えかかると、牛女の姿もだんだんうすくなっていって、まったく雪が消えてしまう春の半ばころになると、牛女の姿は見られなくなってしまったのです。
 しかし、冬となって、雪が山に積もり里に降るころになると、西の山に、またしても、ありありと牛女の黒い姿が現れました。村の人々や子供らは冬の間、牛女のうわさでもちきりました。そして、牛女の残していった子供は、恋しい母親の姿を、毎日のように村はずれに立ってながめたのであります。
「牛女が、また西の山に現れた。あんなに子供の身の上を心配している。かわいそうなものだ」と、村人はいって、その子供のめんどうをよく見てやったのです。
 やがて春がきて、暖かになると、牛女の姿は、その雪とともに消えてしまったのでありました。
 こうして、くる年も、くる年も、西の山に牛女の黒い姿は現れました。そのうちに、子供は大きくなったものですから、この村から程近い、町のある商家へ、奉公させられることになったのであります。
 子供は、町にいってからも、西の山をみて恋しい母親の姿をながめました。村の人々は、その子供がいなくなってからも、雪が降って、西の山に牛女の姿が現れると、母親と、子供の情合(じょうあ)いについて、語り合ったのでありました。
「ああ、牛女の姿があんなにうすくなったもの、暖かになったはずだ」と、しまいには、季節の移り変わりを、牛女について人々はいうようになったのでした。
 牛女の子供は、ある年の春、西の山に現れた母親の許しも受けずに、かってにその商家から飛び出して、汽車に乗って、故郷を見捨てて、南の方の国へいってしまったのであります。
 村の人も、町の人も、もうだれも、その子供のことについて、その後のことを知ることができませんでした。そのうちに、夏も過ぎ、秋も去って、冬となりました。
 やがて、山にも、村にも、町にも、雪が降って積もりました。ただ不思議なのは、どうしたことか、今年にかぎって、西の山に牛女の姿が見えないことでありました。
 人々は、牛女の姿が見えないのをいぶかしがって、
「子供が、もう町にいなくなったから、牛女は見守る必要がなくなったのだろう」と、語り合いました。
 その冬も、いつしか過ぎて春がきたころであります。町の中には、まだところどころに雪が消えずに残っていました。ある日の夜のことであります。町の中を大きな女が、のそりのそりと歩いていました。それを見た人々は、びっくりしました。まさしく、それは牛女であったからであります。
 どうして牛女が、どこからきたものかと、みんなは語り合いました。人々はその後もたびたび真夜中に、牛女がさびしそうに町の中を歩いている姿を見たのでありました。
「きっと牛女は、子供が故郷から出ていってしまったのを知らないのだろう。それで、この町の中を歩いて、子供を探しているのにちがいない」と、人々はいいました。
 雪がまったく消えて、町の中には跡おも止めなくなりました。木々は、みんな銀色の芽をふいて、夜もうす明るくていい季節になりました。
 ある夜(よ)、人は牛女が町の暗い路地に立って、さめざめと泣いているのを見たといいます。しかしその後、だれひとり、また牛女の姿を見たものがありません。牛女はどうしたことか、もはやこの町にはおらなかったのです。
 その年以来、冬になっても、ふたたび山には牛女の黒い姿は見えなかったのであります。
 牛女の子供は、南の方の雪の降らない国へいって、そこでいっしょうけんめいに働きました。そして、かなりの金持ちとなりました。そうすると、自分の生まれた国がなつかしくなったのであります。国へ帰っても、母親もなければ、兄弟もありませんけれど、子供の時分に時分を育ててくれたしんせつな人々がありました。彼は、その人たちや、村のことを思い出しました。その人たちに対して、お礼をいわなければならぬと思いました。
 子供は、たくさんの土産物と、お金とを持って、はるばると故郷に帰ってきたのであります。そして、村の人々に厚くお礼を申しました。村の人々は、牛女の子供が出世したのを喜び、祝いました。
 牛女の子供は、なにか、自分は事業をしなければならぬと考えました。そこで村に広い地面を買って、たくさんのりんごの木を植えました。大きないいりんごの実を結ばして、それを諸国に出そうとしたのであります。
 彼は、多くの人を雇って、木に肥料をやったり、冬になると囲いをして、雪のために折れないように手をかけたりしました。そのうちに木はだんだん大きく伸びて、ある年の春には、広い畑一面に、さながら雪の降ったように、りんごの花が咲きました。太陽は終日、花の上を明るく照らして、みつばちは、朝から日の暮れるまで、花の中をうなりつづけました。
 初夏のころには、青い、小さな実が鈴生(すずな)りになりました。そして、その実がだんだん大きくなりかけた時分に、一時に虫がついて、畑全体にりんごの実が落ちてしまいました。
 明くる年も、その明くる年も、同じように、りんごの実は落ちてしまいました。それはなんとなく仔細のあるらしいことでありました。村のもののわかったじいさんは、牛女の子供に向かって、
「なにかのたたりかもしれない。おまえさんには、心あたりになるようなことはないかな」と、あるとき、聞きました。牛女の子供は、そのときは、なにもそれについて思い出すことはありませんでした。
 しかし、彼は、独りとなって、静かに考えたとき、自分は町から出て、遠方にいった時分にも、母親の霊魂(たましい)に無断であったことを思いました。また、故郷へ帰ってきてからも、母親のお墓におまいりをしたばかりで、まだ法事も営まなかったことを思い出しました。
 あれほど、母親は、自分をかわいがってくれたのに、そして、死んでからもああして自分の身の上を守ってくれたのに、自分はそれに対して、あまり冷淡であったことに、心づきました。きっと、これは母の怒りであろうと思いましたから、子供は、懇ろに母親の霊魂を弔って、坊さんを呼び、村の人々を呼び、真心をこめて母親の法事を営んだのでありました。
 明くる年の春、またりんごの花は真っ白に雪のごとく咲きました。そして、夏には、青々と実りました。毎年このころになると、悪い虫のつくのでありましたから、今年は、どうか満足に実を結ばせたいと思いました。
 すると、その年の日暮れ方のことであります。どこからともなく、たくさんのこうもりが飛んできて、毎晩のようにりんご畑の上を飛びまわって、悪い虫をみんな食べたのであります。その中に、一ぴき大きなこうもりがありました。その大きなこうもりは、ちょうど女王のように、ほかのこうもりを率いているごとく、見えました。月が円く、東の空から上る晩も、また、黒雲が出て真っ暗な晩も、こうもりは、りんご畑の上を飛びまわりました。その年は、りんごに虫がつかずよく実って、予想したよりも、多くの収穫があったのであります。村の人々は、たがいに語らいました。
「牛女が、こうもりになってきて、子供の身の上を守るんだ」と、そのやさしい、情の深い、心根を哀れに思ったのであります。
 また、つぎの、つぎの年も、夏になると、一ぴきの大きなこうもりが、多くのこうもりを率いてきて、りんご畑の上を毎晩のように飛びまわりました。そして、りんごには、おかげで悪い虫がつかずによく実りました。
 こうして、それから四、五年の後には、牛女の子供は、この地方で幸福な身の上の百姓となったのであります。
小川未明

(金の輪)
  一
 太郎は長い間、病気で臥していましたが、ようやく床から離れて出られるようになりました。けれどまだ三月の末で、朝と晩には寒いことがありました。
 だから、日の当っているときには、外へ出てもさしつかえなかったけれど、晩方になると早く家へ入るように、お母さんからいいきかされていました。
 まだ、桜の花も、桃の花も咲くには早ようございましたけれど、梅だけが垣根のきわに咲いていました。そして、雪もたいてい消えてしまって、ただ大きな寺の裏や、圃(はたけ)のすみのところなどに、幾分か消えずに残っているくらいのものでありました。
 太郎は、外に出ましたけれど、往来にはちょうど、だれも友だちが遊んでいませんでした。みんな天気がよいので、遠くの方まで遊びにいったものとみえます。もし、この近所であったら、自分もいってみようと思って、耳を澄ましてみましたけれど、それらしい声などは聞えてこなかったのであります。
 独りしょんぼりとして、太郎は家の前に立っていましたが、圃には去年取り残した野菜などが新しく緑色の芽をふきましたので、それを見ながら細い道を歩いていました。
 すると、よい金の輪の触れ合う音がして、ちょうど鈴を鳴らすように聞えてきました。
 かなたを見ますと、往来の上を一人の少年が、輪をまわしながら走ってきました。そして、その輪は金色に光っていました。太郎は目をみはりました。かつてこんなに美しく光る輪を見なかったからであります。しかも、少年のまわしてくる金の輪は二つで、それがたがいに触れ合って、よい音色をたてるのであります。太郎はかつてこんな手際よく輪をまわす少年を見たことがありません。いったいだれだろうと思って、かなたの往来を走ってゆく少年の顔をながめましたが、まったく見覚えのない少年でありました。
 この知らぬ少年は、その往来を過ぎるときに、ちょっと太郎の方を向いて微笑しました。ちょうど知った友だちに向かってするように、懐かしげに見えました。

  二
 輪をまわしてゆく少年の姿は、やがて白い路の方に消えてしまいました。けれど、太郎はいつまでも立って、その行方を見守っていました。
 太郎は、「だれだろう」と、その少年のことを考えました。いつこの村へ越してきたのだろう?それとも遠い町の方から、遊びにきたのだろうかと思いました。
 明くる日の午後、太郎はまた田圃の中に出てみました。すると、ちょうど昨日と同じ時刻に、輪の鳴る音が聞こえてきました。太郎はかなたの往来を見ますと、少年が二つの輪をまわして、走ってきました。その輪は金色に輝いて見えました。少年はその往来を過ぎるときに、こちらを向いて、昨日よりもいっそう懐かしげに、微笑んだのであります。そして、なにかいいたげなようすをして、ちょっとくびをかしげましたが、ついそのままいってしまいました。
 太郎は、圃の中に立って、しょんぼりとして、少年の行方を見送りました。いつしかその姿は、白い路のかなたに消えてしまったのです。けれど、いつまでもその少年の白い顔と、微笑とが太郎の目に残っていて、取れませんでした。
「いったい、だれだろう」と、太郎は不思議に思えてなりませんでした。いままで一度も見たことがない少年だけれど、なんとなくいちばん親しい友だちのような気がしてならなかったのです。
 明日ばかりは、ものをいってお友だちになろうと、いろいろ空想を描きました。やがて、西の空が赤くなって、日暮れ方になりました。太郎は家の中に入りました。
 その晩、太郎は母親に向かって、二日も同じ時刻に、金の輪をまわして走っている少年のことを語りました。母親は信じませんでした。
 太郎は、少年と友だちになって、自分は少年から金の輪を一つ分けてもらって、往来の上を二人でどこまでも走ってゆく夢を見ました。そして、いつしか二人は、赤い夕焼け空の中に入ってしまった夢を見ました。
 明くる朝から、太郎はまた熱が出ました。そして、二、三日めに七つで亡くなりました。
小川未明

(2002.10.12)-3
渋谷にいる人間が、みな目に見えるもの、それも、すぐに手に入るものだけを求めて、あくせく歩きまわっているように見える。みな、海を漂う油の粒だ。そして、そこにいれば、ぼくもまた、当然そのひとりだ。
(2002.10.12)-4
みんなが祝福されて生きてゆけたら、それが一ばんしあわせなのだけれど
(2002.10.12)-5
出家したいなあ。ぼくが生かされている、ということを明確にしたい。物乞いになりたいんだ。ぼくは、ぼくが存在することを、自ら明確に規定するちからがないんだ。誰の許可も得ずに生きてゆくのは、ぼくには辛いんだよ。硬貨や米粒を誰かから貰うことで、その日いちにちぼくが息をする許しを貰いたいんだ。死ねなかったぼくは、それだからといって、生きていていていいのか、教えてください。ぼくは、ぼく自身では、ぼくに言ってあげることができないんだよ。得度も、悟りも要らないから、ただ一日生きていていいという、確かなゆるしが、ぼくは欲しい。
(2002.10.12)-6
ぼくはまるでハイエナのようだから
(2002.10.13)-1
 相変わらずろくでも無いことばかりだ。戸籍のある死人が、土にも還らず、アスファルト、コンクリート、タイル張りの床、絨毯の上をうろうろして暮していると、こういうことがときどき起きるものらしい。ぼくがきっと悪いんだろうな。ぼくがそこに居なければよかったんだ。ぼくがこんなでなければよかったんだ。
 ぼくの日曜はアンジェリーナで小説を読みながらランチを食べてコーヒーを飲むことから始まるのが、もうほとんど固定された習慣になっている。今日も昼過ぎに起き出して、お腹がすいた。顔を洗って、服を着換えて、部屋を出る。自転車に跨って、煙草に火を点ける。よく晴れた日だ。雲ひとつ見当たらない。快晴。何の変哲もない休日の午後だ。ぼくはゆっくりゆっくり自転車をこいでアンジェリーナに向かう。部屋から、2、300mの距離で、ちょうど煙草を吸い終わるくらいで、いつもたどり着く。今日は店の入り口の前に、なんだか変な人が数人立っている。けれども、あまり気にせず、ぼくは店の前の、彼らと反対側の隅に自転車を並べて停めて、入り口のドアの方へ向き直ると、TVカメラが三脚に据えてある。本格的なごついヤツだ。どうやら、カメラの向きを見れば、どうやらアンジェリーナを撮りに来ているらしい。カメラマンらしき男性が覗き込んでレンズをまわしてピントを合わせている。人数は多くないので、何かの撮影ではなくて、きっと取材であろう。まあ、ぼくには関係がない。ぼくはただ、店の隅の方のテーブルに坐って、ランチを食べて、それから、コーヒーを飲みながら、持ってきた小林秀雄「Xへの手紙・私小説論」と高村光太郎「智恵子抄」を読めればいいのである。ぼくは入り口を塞いでいる彼らのひとりの顔を見て、店に入りたい、ということを、いま撮っているようだったら声を出すとまずいので、ドアを指さして伝えた。その男は、店の前に置かれた木の椅子に腰かけてフォーカスいじりをしているカメラをぼんやり見つめていたが、ぼくのジェスチャーを見つめて、「何をしているのか」というような表情を浮かべたので、ぼくが仕方なく「入っていいですか」というようなことを何だかぼそぼそと言うと、聞えていなかったのかも知れないが、やはり、「何をしているのか」というような顔をして、ぼんやりしている。そこには、カメラの前を横切ろうとする人間を制止しなければならない、と思っているようなふうはなかったので、ぼくはもう、いちいちその男性の了解を取り付けるための新たな努力をせずに、別にかがんでみたりするわけでもなく、ずかずかとカメラの前を横切って、ドアを開けて店内に入った。
 店内に入ると、真ん中のテーブルに10人ほどの熟年の団体が席を占めて、昼食をとっているのがまず目についた。ぼくは入り口の傍で店内をざっと見回して、開いているテーブルを探す。今日はあいにく、いつもぼくがまず坐ろうとする椅子には人影があって、それから、第二候補のテーブルにも荷物が置かれてあって、使えそうにない。ぼくは仕方なく、一ばん入り口近くの4人がけのテーブルを使わせてもらうことにした。ウエストバッグを取りはずして、中から煙草とライター、それから、文庫本2冊を取り出して、隅の椅子に坐る。ウェイターのねえちゃんが、「いらっしゃいませ」テーブルに投げ出された文庫本の上にメニューをパサと置く。ぼくはとりあえず、いつものように煙草を一本取り出して、火を点けながら、今日のランチメニューを確認する。もうタイミングを知られているので、すぐにウェイターのねえちゃんがオーダーを取りに来る。ぼくは煙草の煙を吐きながら、「サーモンソテーお願いします」「かしこまりました」ねえちゃんは、サッとメニューを回収して去る。ぼくはメニューの下敷きになっていた文庫本を手にとって、ページを開く。「Xへの手紙・私小説論」小林秀雄の若い時分の作品は、ぎちぎちに詰まっていて読むと疲れるので、それで高村光太郎を持って来たのである。先頭の「一ツの脳髄」などは、二十歳そこそこで書かれたものなので無理もないが。この男どうやら、神経衰弱にかかっていたらしい。旅先の宿の女中の馬鹿馬鹿しい善良な顔に「ツルツルの脳髄」を見出したり、睡眠薬なしでは寝つくことのできない自分の脳髄を汚らしさを思ったりするような話だ。そして、唐突に途切れる。読んで、疲れるのである。それでも、こうして落ち着いて読んでみれば、表現のいくつかには光るものがあり、なかなかに侮れない。「やはりこちらへ持って来たのは正解だった」など思いながら、読み進めているうちに、ランチが来る。ぼくは本を閉じて、空腹を満たすのを優先し、それを平らげる。店の真ん中に陣取った熟年の団体の、中のひとりが、戸塚にある女子大の教授であるようで、そんなようなことをなにやらぺちゃぺちゃ話をしていて、騒がしい。みな血色がよく、ぼくなどよりよほど長生きをしそうな顔をしている。いや、おそらくするだろうと思う。しかし、それももうどうでもいいことだ。ぼくはただランチを頬張って空腹を満たしてゆく。
 そこへ、もうひとりのウェイターの女の人がやって来て、ささっとエプロンをして働き始めた。どうやら、取材があるので、今日はふたりがかりということのようである。そういえば、取材はもう始まっているのだろうか。ふたりめがやって来たことからして、もう済んでしまっていた、ということはなさそうだけれど。先ほど表にいた数人は、店内に入ってくる様子もない。準備に、それほど時間がかかるのだろうか。まあ、どうだっていい。ぼくには、関係のないことだ。食べ終って、ぼくはまた煙草に火を点け、一息ついて、宙を見つめる。すると、あとからやって来たほうのウェイターの女の人が、すっとやってきてぼくの空いた皿を片づけて持って行った。ぼくはまた小林秀雄の続きを開いて、先を読み進め始める。
 ふたつほど読み終えて、疲れたので「智恵子抄」を開いて、ゆっくりと読む。高村光太郎は、うまい。大した人である。高潔なる精神の持主である。水の流れるような詩ばかりである。あー、いいなあ。こーゆーのが書けたらなあ。思いながら読んでいるとようやく、熟年団体の昼食は済んだようで、中のひとりが荷物を椅子に置き忘れたりなどしながら、どやどやと出て行った。店が一度に静かになる。だめだ、高村光太郎も全然重たいわ。全然息抜きにならない。しょうがない、小林秀雄から片づけてしまおう。ふたつめの「人に」まで読み進めて、また小林秀雄を開いた。また、しばらくして、いつもいる方のウェイターのねえちゃんがどこかに買出しに出かけて行った。大分経ってから、戻ってきて、「お財布わすれちゃった」などと、もうひとりに向かって、実に情けない声で言って、奥の棚をごそごそやって、また出ていった。ぼくは途中、数本の煙草を吸い切りながら、黙々と読み進めてゆく。また、随分たって、買出しから戻ってくる。いつもの日曜のそこでの時間が、流れてゆく。
 コーヒーもとっくに飲み切ってしまって、そろそろ沙翁「ハムレット」を材に採った小品を読み終えようとしているころ、ようやく取材グループの若いスタッフが店に入って来て、店内に残っていた客の、ひとりに声をかけた。これから、カメラが入りますが、どうか自然に、いつも通りに、云々、というようなことを言っている。その人に言い終えてしまうと、若いスタッフはぼくのところへやって来て、全く同じことをぼくに言った。「すいません。テレビ東京ですけれども、これからカメラが入ってきますが、どうか自然に、いつも通りにしていらして結構です」ぼくは頷きながら、それの意味するところをぼんやりと思った。
 その若いスタッフはまた店から出て行った。ぼくはつぎの「Xへの手紙」を読み始める。これは、表題作になるほどの、小林秀雄の一到達点であるらしいものである。これまで読みきってしまってから、ぼくはここを出たい。取材なんか、カメラなんか、どうだっていい。ぼくが邪魔だろうが、なんだろうが、ぼくはここの客だ。そりゃあ、いつもランチを頼むだけで、コーヒーのおかわりも、ケーキを頼んだりもしないで、1、2時間も本を読んで、姿勢も悪いし、煙草ブカブカやってるし。カメラに収めたくないような客かも知れないけれど、知ったことか。ぼくはこの「Xへの手紙」をいまここで、読みたいのだ。テレビなんかクソくらえだ。ぼくはまた煙草を咥えた。読み終えるまでは、居座ってやる。ぼくの前に声を掛けられた人、その人は常連の親父なのだけれど、今すぐに取材が入ることに気づいて「ええ、今から?いいよ。いいよ。俺、飲んで、出るよ」と言って、居なくなってしまっていたのである。店内には、ぼくとOLのような感じの女性の三人組みだけしか残っていない。そして、取材は、なかなか始まらない。カメラは、入ってこない。
 5ページほど読み進めると、マスターがぼくに声をかけてきた。さっきの若いスタッフと同じようなことを言う。「これから、アドマチックテンゴクの取材のカメラが入りますけれど、どうか自然に、いつも通りのふうで居ていただいていいので・・・」番組名が知れた。そして、マスターの意図も知れた。ぼくに出て行ってほしいわけだ。それでも、ぼくは出て行きたくなかったので、困った顔をして、「それは、出た方がいい、ということですか」「いや、そういうことではなくて。その、いつも通りに、自然に、していただいて。できれば、居て欲しい、ということでして」甚だ歯切れが悪い。ぼくには、意味がわからない。なんだ、その態度は。ぼくは気味悪いですか。気味悪くて、居てほしくないなら、はっきりとそう言えばいいじゃないか。別に怒らないし、もう来ない、ということもないですよ。ぼくは、自分がそういうふうだというのを知っていますから。ぼくはあなたのお店が好きだから、少しのお金だけれども、それはそういう値段がついているから、そうするのだけれど、お払いして、混んでいないときにだけ、邪魔でないときだけ、片隅のテーブルを使わせて貰っていれば、もうそれだけで十分なのです。今日は取材が入るから邪魔なので、出て行ってくれ、とあなたが言うのなら、出て行きますよ。ぼくはマスターの、へんてこな言い回しがとても悲しくて、よっぽどそう言おうかと思ったけれど、やっぱりこの店が好きなので、言ってしまったら、もう二度と店に来れなくなってしまうような気がして、それは言わなかった。かわりに、「いつも通りと言っても、今もいつもどおりで、いつも煙草も吸いますし、姿勢もいつもよくないですし」など、ぼそぼそとこちらも異様に歯切れの悪い受け答えをすると、マスターは何もかも曖昧なままぼくの傍を離れていった。ぼくはそれでも、まだ続きを読みつづけた。少し意固地がかっていた。カメラはまだ中に入ってこない。1、2ページ読んで、ぼくは出てゆくことにした。バイバイバイ。
 ぼくはもぞもぞと文庫本二冊をしまって、のろのろとウェストバックをつけて、ジャージをはおって、レジに向かう。マスターが「ありがとうございます。940円です」と応じた。ぼくにはその声が、どういうものなのか、よくわからなかった。けれども、ぼくが出ようとしてドアへ向かうと、カメラを抱えたスタッフを含む数人が入れ替わりに入ってきた。ぼくは狭い入り口のところですれ違って外に出て、全部閉じてしまってから、空を見上げた。莫迦みたいにいい日だ。まだ、ぼくの今日はこれからなのだ。自転車にキーを挿して跨り、また煙草を点けた。そして、完全に読み方を失敗してしまった「Xへの手紙」のことをちょっと思った。
 ぼくのいつも行っている「喫茶アンジェリーナ」という店が、テレビ東京系列の「アド街ック天国」という番組で近いうちに紹介されることと思います。いい店ですので、見てあげてください。
(2002.10.13)-2
このまま部屋に戻って、引き篭もってもよかったのだけれど、そうするとやることはわかりきっている、どうせろくでもないことに違いないので、ほら、こんなにいい天気だし、とりあえずどこかへ行こう、とぼくはそのまま、割ってしまってまだ代わりを購入していないウィスキーを飲むためのグラスを探しに、恵比寿から青山あたりを廻ってみようと思って、部屋を素通りして、恵比寿までふらふらと自転車をこいだ。恵比寿から代官山へ向かう通りに手ごろな雑貨屋があって、そこで目星をつける。もう一軒、よい食器屋も目に入ったのだけれど、そこへ入るとまた、高いグラスを買ってしまいそうなので、そこは素通りして、恵比寿駅へ。通り過ぎるあたりで、目黒の方へ無性に行きたくなったので、明治通り沿いをふらふらと目黒方面へ向かう。どこをどう通ったのか、よくわからないのだけれど、東京都庭園美術館に行き当たったので、予定変更、中へ入る。芝の庭園には、秋の一日をのどかに過ごす家族やら、カップルやらが、置かれた椅子や、ベンチに腰かけたり、芝に寝ころがったりして思い思いに、よい秋の一日を過ごしている。ぼくはそこをふらふらとうつろに歩きまわったあとで、美術館に入って銀器を観る。元迎賓館であるこの美術館は、フロアやら、リビングやら、書斎やらに他の調度品と共に実際に銀器を使用する形で展示されてあるので、大変によろしい。銀器はそれのみで展示されていると、さして面白みがないが、それに相応しい部屋、相応しい家具と共に、花器には実際に花を活けたりなどして置かれてあると、見違えるほどによい。工芸品は展示などせずにこうして見せるものだとしみじみ思う。銀のナイフは皆よかった。ナイフはどうやら、フォーク、スプーンよりも特別な品であったようで、みな凝った装飾、デザインをしている。特にそのフォルムは唸るほどよいものが多くある。「銀のナイフ」という言葉が特別な響きを持たせられている理由を知った。美術館を出ると、もう陽が傾きかけている。グラスを買うのは諦めて、新居昭乃の残りの3枚を買ってしまうために、渋谷へ向かった。二日続けて、渋谷へ来るとなんだかひどい気分になる。夢遊病を思う。タワーレコードで引っ手繰るようにして、3枚のCDを買い込んで、すぐに帰る。息が詰まりそうだ。途中ハンドルに下げていたタワーレコードのビニル袋が切れ、CDが落ちて、ばりん、という音を立てた。早く帰りたかった。
(2002.10.13)-3
確かにあれらは、喉を切る為に、突く為に用いるのが相応しい。血を吸わせれば、もっと美しくなる。
(2002.10.13)-4
それでは、ぼくはどこに居るべきかといえば、それはやはり、世界有数のクソ汚い、この空の下だ。
(2002.10.13)-5
星のなる木の話が書きたい。毎晩、陽が落ちるときまって、キラキラ瞬く小さな実を、その枝いっぱいにつける木の話。小さな、三つ編みの、ひとりぼっちの女の子が、毎晩のその下にたって、星の実を見上げるんだ。そして、、、その先は、どうしていいのか、よくわからないけれど、待ってて。そのうちに、きっと、書くよ。
(2002.10.13)-6
もう、自分の孤独をこねくりまわして、ひとに喰わせようとするのはやめろ!

(2002.10.14)-1
 今日はほとんど一日中、新居昭乃を聴いているわけだが、何か言うようなことは、まだない。五枚もあるので、一まわりするのに四時間強かかるようである。途中ちょっと休憩を入れつつ、二まわりして、やはり最も出来のよいと思われる最新のものだけをもう一度聴くことをすれば、それでもう一日が終ってしまう。今はまだ、直接的な力の大きい曲たちを撫でているというような状態である。詩がへたくそ、と数日前に書いた記憶があるが、あれは撤回である。あのとき、ぼくの頭には高村光太郎があって、それと比較していた。「智恵子抄」を基準として批評してしまえば、この世の中の詩の九割九分九厘以上は、下手くそな詩で、ひとまとまりにされてしまうだろう。高村光太郎の詩はあくまで文学としての詩であって、音楽としての詩の基準にするには多少不適当な部分がある。また、ぼくの高村光太郎を評価する際に用いる観点は、にわか仕込みのかなり古臭くて格式ばったもので、女性の書くものを評価するに足りない。それは、ぼくの貧弱な感覚からすら、離れてしまうもので、ぼくが先へ進むにはどうしても要るだろうと思うけれど、それをそのままひとに対して適用するのは正しくない。いま言えるのは、新居昭乃はぼくにとって、ある種の価値を再評価させてくれるものだった、ということだろうか。それは主に、ぼくが「アオクサイ」と言って切り捨てようとしていた部類のもので、「現時点のお前自身がその『アオクサイ』であるのに、それを以て切り捨ててしまうのは、実に馬鹿げている」というような考えを起してくれたんだ。それはね、中学生の必ず通るあの反抗期、それ以前くらいまでに持っていたはずの、潔癖というのとも少し違う、ただ「きれいな」「清潔な」というような印象の感覚、夢想だよ。「無垢な」というやつなのかな、よくわからないのだけれど、そこにスポットを当てると素晴らしく抑制のきいた、言葉の表面の印象だけを借りてきて表すならば、ピューリタンなインパクトを生み出すことができる、ということだよ。試しに、例をひとつあげてみようか。しかし、何も書くことがないと言った割には、やれやれ。。。

 「空の青さ」

 空のあの青さは
 この胸に残るだろうか
 すべて失う今でも
 心は君に

 そばにいる いつもそばに
 風が肩を抱くように守るよ

 日射し強すぎたら
 この腕をかざしてあげよう
 愛に包まれる日には
 白い花咲かそう

 夢を見て 僕の夢を
 そうしてもう振り向かず歩いて・・・

 君が涙を流す時には
 好きだった蜜の香り 届けよう
 君の指に光っていた・・・

 そばにいる 黙ってそばに
 君のその笑顔が僕のしあわせ
 空のあの青さに映る
 君が そう信じてる未来の道が
 続くよ

 どうかな。欠伸が出たかい?それから、こんなものをピックアップするぼくの基準を疑ってみたくなったりも、したかい?確かに、これは死ぬほど凡庸な詩なのだけれども、この曲こそが昨日今日と聴いてきた中で、ぼくには最も力を持った曲だったんだ。そして、そのことこそが、目下ぼくには重要なんだよ。こいつがパワーを持つのはどうしてなのか。その印象が嘘だ、と言おうとするのは、ありえないことで、実際にぼくはこの曲だけを抜き出して何度か聴いたりもしたのだから、それよりは、ぼくの理窟の中に足りないものがあるから、それを言いあらわすことができない、理解できないでいるのだ、と言うのが自然だろう。詩のみではこれだけ拙いものであるにも関わらず、曲として精製し、彼女が歌うことによって、大きな力をもつようになる。それは、どうしてなんだろう。それを考えて、探しながら聴くのは、ぼくにはとても自然なことで、それがぼくが新居昭乃を楽しむ、ということなんだ。
 ということで、少し彼女の歌、および詩の特徴について、書こうと思う。彼女は、少し高めの音の扱いが普通でない人で、ひずむというか、たわむというか、そもそもずれているというか、これは、聴くの一番はやいので、
RGBの、"10.花のかたち"あたりが一ばんわかりやすいだろうか。な、おかしいだろ。ちょっとずれてるだろ。まあ、そこが彼女の歌の大きな特徴なっている。それから、詩は、これはぼくが一ばん理解できない類のよさを持った詩なのだろう。よく言えば、「言葉の扱い方」にではなくて、「言葉自体の持つ強さや、性質」に基づいて作られた詩といえるだろうか。悪く言えば、女子高生か、あるいは女子中学生が作るような詩だ。けれども、注意して歌詞カードを読んでいると、どちらかというとよく言った前者のような気が何となくするのが、ぼくはセンスが無いから、その辺りがいまいちわからないようである。だいたいぼくは、おおよそこういった詩は傑作だけがかろうじて理解できる程度でしかないのである。
 けれども、「空の青さ」の詩自体は、間違いなく凡庸な詩である。どこかで見たような詩である。どこでも見るような詩である。だから、この場合は、その凡庸な詩を却下せず、しかも一度も詩のリピートをせずに、それでも七分にも及ぶ曲に仕立て上げたところに、彼女の詩のよさがある。それは、そういう詩を作りえる人でなければできないことだ。そして、そこに彼女の少し変な音の使い方の特徴を乗せると、どうやらこの「空の青さ」という曲が、非常に素晴らしいものなるようなのである。それは即ち、極度の抑制、それの表現である。この抑制というのは、彼女の重要な良さのひとつでもあるようである。抑制というのは、これはスタンスの問題である。基本的な姿勢の問題である。それは、ストイックというよりも、慎ましさというようなもので、「呟く」とか、「ささやく」とか、「搾る」とか、そういう行為が想起されるような類のものである。それだから、この曲は彼女が歌うのでなければ、きっと実に取るに足らない、只ひどい詩をした曲であるだけだと思う。そして、ぼくがある歌手に対して求めるのは、まさにその「その人でなければならない」という一点なのである。言い過ぎを恐れなければ、全人格の反映としての歌、を求めるのである。
 さて、まだ今はインパクトの強い曲にしか、フォーカスをあてられないでいるけれど、彼女のよさは、寧ろ単純なインパクトを持たない曲にあると思うので、もう少し聴き込んだら、また何か、もう少しまともなものが、もしかしたら書けるかもしれない。それにしても、どうもぼくは、何より「抑制」というやつがが好きなようである。思うに最もぼくに足りぬ資質であるからであろう。あーあ、はじめは、新居昭乃を聴きながら読んでいた小林秀雄のコメントも書くつもりだったのにな。
(2002.10.14)-2
抑制というのは、ぼくには宗教に結びつくイメージを持った言葉で、新居昭乃さんはきっと無信仰だろうけれど、だいたい現代日本において信仰を持ったアーティストがいるのかどうか、甚だあやしいのだけれども、まあ、それだから、ちょっと信仰を絡めた話があると面白いなあ、と思うんだ。別に聖歌を唄うだけが、歌としての信仰の顕れではないからね。微妙に一神教がかっているキリスト教を思い浮かべると、そうなる傾向があるけれども、何か主義、とまではいかなくても、根本的なスタンス、生活信条の具現、偶像としての宗教というのは、あってもよくて、、、うん、この話は、嘘かも知れない。よくわからないままで、書いている。
(2002.10.14)-3
彼女と信仰を結びつけるとしたら、それは、でかい大聖堂でグレゴリオ聖歌を合唱するようなものではなくて、やはり、夜中にベッドをそっと抜け出して、家にある小さな祭壇の前、ひとり跪いてするささやかなお祈りのようなもので、日本的なふうに言えば、夏休みに田舎に遊びに行って、仏間に寝かされた夜に、微かな御香のかおりによってもたらされる不思議な夢のようなものだ。日常の実生活からほんの少しだけ、離れるか離れないかくらいに少しだけ浮き上がったところに位置するもので、つまり大部分の人の持つ信仰との関わり程度のものだ。それでも、彼女と信仰とを結び付けたくなるのは、彼女の言う「どこかに行ける音楽」の「どこか」は、彼岸か、エデンか、ユートピアか、極楽浄土か、桃源郷か、なんだか知らないけれど、そういうものを指しているように思えるので、少し関連づけてみたいと思うんだ。ぼくが宗教を持たないので、実際には難しいのだけれどね。
(2002.10.14)-4
ああ、もうだんだん断片的になってくるな。。。
彼女がアニメの仕事をしているというのは、とても納得できることで、それはぼくのある種のアニメに対するイメージによることなのだけれど、そのある種のアニメと言うのは、つまり、宗教的色彩を有したアニメのことで、例えば劇場版「風の谷のナウシカ」などは、メシアを扱った話に他ならない。宮崎駿の話は基本的にそういう色彩が強くて、それが欧州でも受け入れられる要因だと思うのだけれど、まあ、それはいいとして、確かに日本には、自覚してかしないでか、ぼくははっきりとは知らないけれど、一見して宗教的、道徳的な色彩の強い一群の作品があって、見てないくせにやっつけで入れてしまうのだけれど、「エヴァンゲリオン」なども入るだろうし、まあ、だいたい現代に巨大ロボットを出現させて、世界観に色付けしてゆくとどうしてもそうなってゆくものなのだろうけれど、いかん、文が終端しない、、、まあいいや、だいたい日本のアニメは、終末とか、崩壊とか、再生とか、その辺が好きで、宗教の話に登場する固有名詞を矢鱈滅多らに引っぱってくるわりには、宗教自体はタブーで、だからきっとあるところまで行くとうまく行かなくなるんだ。そんなのをねじ伏せられるのは、自分で黙示録を書ける宮崎駿くらいのものじゃないか。そんなことにも気づかずに、あのバケモノができたんだから、「ぼくらにもできるはずだ」と、まるでガキだ。話にならない。だから、表面上のやりとりを必死で追いかけて、それだけで終ってしまうんだ。あいつらのいうところの名ゼリフがある話は、総じて下らない。実際にそのひとことにしか、その作品の話のよさがないので、それを持ち上げて、クローズアップしてみているだけだ。いま、ぼくは自分の現状を一切省みずにこれを書いているので、ご容赦願いたい。その問題は、そのままぼく自身に適用可能な部分が多くあるんだ。あれ、何の話しだったっけ。そうか、新居昭乃がアニメの仕事をしているというのは、実に納得できる話で、それはアニメの一つの大きなモチーフに宗教というものが、暗黙のうちにあるような気がぼくにはしていて、その観点、つまり新居昭乃にぼくは宗教を見、アニメの一部にも宗教を見る、という点からみれば、新居昭乃がアニメの仕事をするのは納得できるということだな。そうか、ぼくはどうやら新居昭乃に宗教を強く見ているらしい。いや、宗教というよりも、宗教的な問題を扱っている、宗教を知らぬもの、を見ているというのが、正しそうだ。それは、ぼくに新居昭乃の歌がフィットする一因かな。よくわからないや。
(2002.10.14)-5
ぼくが宗教を扱えないのは、例えば、自身がそれを扱うに相応しいほどに清潔ではない、ということや、宗教に対して根本的に無智である、ということに起因する、と言ってみると、、、何も見えない。
(2002.10.15)-1
この一週間、やたらに量ばかりが多いようだが、実際には、ひとのを写していたり、そのコメントだったりと、何ひとつ書いているわけではないので、いやな焦燥感がそろそろ溜まってきている。それは、ドーピングなどして話を進める手がかりとしようと考えてのことで、注入量ばかり多いわりには、肝心の話の方は3文しか増えていない。

「そう。それじゃあ、私と同じようなものね」
「うん。同じようなものだ」
篤志は、こちらを向いてにっこり笑った。

これだけ。。。一体、何の文だ。

ど、どうにか、してくれ。。。新居昭乃の詩が下手だとか言ってる場合じゃないだろう。日本アニメを罵倒している場合じゃあないだろう。
(2002.10.15)-2
饒舌の沈黙
(2002.10.15)-3
明日は急に出張することになって、6時54分新横浜発のこだまに乗って、浜松へ行かなければならないので、今日は早く寝なければならないのである。ぼくは完全なおまけなので、実に気楽なのである。「ワーイ、しんかんせーん。しんかんせーーん。びゅわー、びゅわー。はやーい。はやいー」など、お気楽お馬鹿な歌を発明しつつ富士山を眺めて、お茶とお弁当を食べて、川上弘美を読み飛ばし、高村光太郎を読み飛ばし、「まーだですかー」などいい加減に先輩を急かして、お昼御飯にはうなぎを食べて、帰りにうなぎパイを買って帰ってくるのである。そのはず、である。わーい。うわーい。ということで、今日はひとつご容赦ねがいます。
(2002.10.15)-4
「〜と思っている」という言い回しが純血であったことは、いまだかつて、この世に一度たりとも在ったことがない。マルかバツか。
(2002.10.16)-1
眠い眠い。部屋に戻ったのは結局10時半ごろだった。浴室で4時間以上寝てしまって、今は6時である。そろそろ外が明るい。眠い眠い。それから、身体がしわしわだ。
(2002.10.16)-2
出先のクリーンルームの中で、新居昭乃を頭でかけながら過ごす。うーん、それにしても、こんなにはまるとは思わなかったな。
(2002.10.16)-3
「抑制」という言葉は、どうやらキーワードになりそうだ。彼女の詩の内容上の基本性質のひとつである、ような気がしている。また、曲の性質、長短強弱遅速などにおける基本姿勢のようである。つまり、流れからいってそのままぐわっと盛り上がってもよさそうなのだけれど、ふっと落してしまう。もう一語おける間があるにも関わらず、おかない。そもそも、スローテンポな曲が多い、というようなお話。それから、彼女の詩における空および宇宙についてや、Charaの影響についてなどにも興味がある。
(2002.10.16)-4
それから、「抑制」とぼくの嗜好との関連については、ええと、小谷美紗子や、小沢健一や、Coccoについてもその部分はありそうだし、それから、太宰、山頭火、小川未明などについて個別にそれを抽出して、関連させることができそうだ。それから、h2oをそこに加えることもできる。いや、その話をする場合には、まずもって置かなければならないのだろうと思う。けれども、ぼくのそういう話の中には、どうも暴言に類する言葉を平気で、というよりも寧ろ好んで使う傾向があるので、混ぜてしまっていいものか、ためらうのである。言いっぱなしで済むほうが、やはり楽でいいのである。ときどき、ぼくはh2oをこういった話に混ぜて扱う、というようなことをいうのだが、実際に混ぜて考えてみたことは、実はあんまりない。というのは、これらの中の文章を書く人については、引用を多用せざるを得ないので、h2oについては一応それはしないということに、今のところしているのと、日記というのは、あくまでその日その日の気分の反映したもので、すなわち点の集合、もしくは精神ベクトルの集合体でしかなく、引用などをして、言葉尻をひとつひとつとらえていじりまわすのは、その性格上よろしくない。しかし、その全体的な傾向、色調には、ぼくはやはり「抑制」を見出すので、この話をするなら、入れなければならないだろうとも思う。入れようとする場合は、まじめに代表するようなものを選定しなければなるまい。これは、詩や小説に比べて、要素が拡散している日記においてはなかなかに困難な作業であって、ぼくにそれができるかどうか、甚だ自信がない。
(2002.10.16)-5
「抑制」という言葉を軸に何か話をするのであれば、まず先にその「抑制」ということ自体についての意味付けなり、ぼくの姿勢なりを置く必要があるはずだが、ぼくにはよくわからないのである。だから、寧ろぼくは「抑制」について話をすることで、それらを固めようということなのかも知れない。
(2002.10.16)-6
ここに映画も混ぜることができれば、それはとてもよいのだろうけれど、ぼくは映画を観ないので、それができない。残念である。映画なら「つまりこれだ」といってポンと書いて終えることが、きっとできたろうに。おかげで拙い言葉を紡がなくてはならない。その成果物は、きっと十分に不十分なものであろう。
(2002.10.16)-7
スイマセン、ほとんどひとりごとですね。それも、つまらないそれだ。
(2002.10.17)-1
新居昭乃を新井昭乃と、誤表記していました。訂正してお詫びいたします。もちろん、本人に。ぼくがすずききよひとと呼ばれるようなものだ。名前を間違うということは
(2002.10.17)-2
どうして、こうぼくは迂闊なんだろう。ひとりで有頂天、間抜け面さ。
(2002.10.17)-3
にしても、風呂敷を広げすぎた。全く思考は滅裂である。この分では、土日はまたうろうろすることになるだろう。晴れたら河へ行こう。いや、河では聴けないから、やはり部屋にこもるのだろうか。
(2002.10.18)-1
いやいや、小林秀雄は素晴らしい。なんでも教えてくれる。また、丸写しですが、現時点では、ぼくにはこれを咀嚼して示すことは、ここ二三日の頭のふらつき具合からも、無理であることがあきらかでありますので、なにとぞおつき合い願います。大丈夫、面白いから。
(2002.10.18)-2
文中の下線は、ぼくがつけたものです。教科書というわけさ。
(表現について)-1
 私は、若い頃から、音楽が非常に好きだった。ただ好きなだけで、専門的知識なぞ一向ない。今も控室で、此処の蓄音機から、バッハの組曲が聞えて来て、大変楽しい気持で坐っていた。まことに嘘も冗談も災いもない、幸福なしかも真面目な世界です。そういう世界が、スウィッチ一つ入れれば、ほんとうに現れる、魔術でも幻でもない。私は、そう信じているだけなのでして、音楽の専門の方々に立ち混って、専門的なお話をする資格はない。私が、これから思いつくままにお話ししたいのは、芸術の表現というものについて、平素考えている事であります。お話をするについて音楽を例に取りたい、そういう考えで参ったに過ぎない。何かを例にとってお話ししないと、表現 expression という言葉の曖昧さのなかに、道を失って了う恐れがある。ダアウィンが「人間と動物に於ける感動のエクスプレッション」を研究する時に、エクスプレッションという言葉をどう解釈していたか、二十世紀初頭のエクスプレッショニスムの芸術家達の間では、それはどういう意味であったか、というあんばいである。音楽を例にとりたいというのは、音楽という極めて純粋な芸術形式に照らしてお話しすると、お話がしやすかろうと考えたまでで、うまく行くかどうかは、お話してみないとわからない。私は音楽史なぞにも暗いので、音楽史的解釈に関しては、パウル・ベッカーの音楽史に現れた考え、私はたまたま読んで大変正しい考えの様に思われたので、それを頼りとしてお話したい。
 手短なところから始めましょう。音楽の好きな人達で、この音楽は一体何を表現しているのだろうかという問題を、考えてみなかった人はあるまいと思う。例えば、ベエトオヴェンの作品二十七番のソナタの一つは、普通、「月光曲」と言われている。これはベエトオヴェン自身が名附けたのではない。或る男が、あの有名なアダジオを聞いて、まるで湖上を渡る月の様だと言ったところが、いかにもそういう静かな気分の曲だという事になって了った。ある男の気まぐれが、このソナタの第一楽章の内容を決定して了ったという事になります。私は嘗てこんな映画を見た事がある。夜中に、女が一人、ピアノの前に坐っている。突然、男が闖入(ちんにゅう)して来る予感に捕えられる。女は男を憎んでいるのか愛しているのか、自分でもよく分らぬ、来て欲しいし、来られたら困る。彼女の指は、われ知らずキイの上を動く、闇の中に、じっと眼を据えて、無意識に弾き出したのは、驚いた事には「月光曲」であった。テムポは、次第に早くなる、もう疑う余地はない、それは完全に女の心の不安と動揺を表現していました。フランスの国家の「ラ・マルセイエーズ」は、誰もが知っている様に、大変勇ましい曲であるが、ゲエテは、マインツの包囲戦の時、退却するナポレオン軍が、この曲を奏するのを聞き、復讐の毒念の如き、何んとは知れぬ恐ろしい、暗い、人の心を傷つける様なものを感じて、慄然としたと言っております。音楽というものは、聞く人のあらゆる気紛れを許す、その時々のあらゆる感情を呑み込んで平気な顔をしている様に見える。ベエトオヴェンの六番シンフォニイは「田園」という表題を持っている。これは他人が勝手につけた名ではない。ベエトオヴェン自身、このシンフォニイによって、田園生活の感情なりを表現しようとしたものであり、楽章ごとに「小川の辺」だとか「夕立と嵐」だとかいう名前がついている事は、誰も知っていることころです。しかし、例えば彼の八番シンフォニイを、自分は、田園と呼びたい、最終楽章は、嵐の後の喜びを現したものと解したい、と言い張る人があったとしても、ベエトオヴェンに、充分根拠ある異議を唱える事が出来たであろうか。無論気紛れで、シンフォニイは書けないだろうが、書いているシンフォニイを、田園と呼ぼうとする時は、気紛れが物を言う、少なくとも田園という表題は、音楽が表現する何か言うべからざるものを暗示する記号に過ぎない、そういう次第のものではあるまいか。極く手短な話でも、表現という問題は、もうかなり面倒な表情を呈します。

(表現について)-2
 expression の表現という訳語は、あまりうまい訳語とは思えませぬ。expression という言葉は、元来蜜柑を潰して蜜柑水を作る様に、物を圧(お)し潰して中味を出すという意味の言葉だ。もし芸術の表現の問題が、一般芸術上の浪漫主義の運動が起って来た時から、喧(やかま)しくなったという事に注意すれば expression という言葉のそういう意味合いを軽視するわけにはゆかぬという事が解る。古典派の時代は形式の時代であるのに対し、浪漫派の時代は表現の時代であると言えます。常に全体から個人を眺めていた時代、表現形式のうちに、個性が一様化されていた時代に、何を表現すべきかが、芸術家めいめいの問題になった筈がない。圧し潰して出す中味というものを意識しなかった時代から、自明な客観的形式を破って、動揺する主観を圧し出そうという時代に移る。形式の統制の下にあった主観が動き出し、何もかも自分の力で創り出さねばならぬという、非常に難しい時代に這入るのであります。ベエトオヴェンは、こういう時代の転回点に立った天才であった。青年期にフランス革命を経験した彼には、個人の権利と自由との思想は深く滲透していたのであるが、音楽を教会と宮廷とから奪回して、自由な市民の公共の財産とする為には、単なる観念上の革命では足りぬ。全く新しい音楽を実際に創り出さねばならぬ。表現するとは、己れを圧し潰して中味を出す事だ、己れの脳漿を搾る事だ、そういう意味合いでの芸術表現の問題に最初に出会い、この仕事を驚くほどの力で完成した人である。ここで忘れてはならぬのは、ベエトオヴェンは、自己表現という問題を最初から明らかに自覚した音楽家であったが、自分の意志と才能の力で新しくつくり出すところは、又万人の新しい宝であるという不抜の信仰を抱いていたという事です。個人の独創により、普遍的人間性を表現しようとする十九世紀理想主義の権化たる点に於いて、ベエトオヴェンは、文学の世界で言うならゲエテやバルザックに比すべき稀有な芸術家であったのであって、そういう人達が実現した具体的な範型を思わずに、芸術表現の問題を論じても仕方がないのであります。彼らが遺した芸術表現の範型は、まことに及び難い高所にあるのでありまして、その後浪漫派芸術家達は、いよいよ表現の問題に苦しむ様になったが、誰にも、これを突破して進む事は適わなかった。彼らの表現は寧ろ、この頂上から次第に顛落(てんらく)し、分裂して行った様に思われます。
(表現について)-3
 個性や主観の重視は、各人に特殊な心理や感情や思想の発見とその自覚を生む。己れの生活経験に関する、独特の解釈とか批判とかが必要になって来る。こういう仕事をやるのに最も便利な道具は、言うまでもなく言葉という道具です。従って、浪漫主義の運動は、先ず文学の上に開花したのであるが、やがて、音楽もこの影響を受けずにはいない。嘗て、音という普遍的な運動の中に溶け込んでいた音楽家の意識の最重要部が、言葉の攻撃を受けるという仕儀になった。こういう攻撃に堪えるには、余程の力が要る。今日から見てベエトオヴェンが古典派と浪漫派との間を結ぶ天才と映るのも、音と言葉、音の運動の必然性が齎す美と、観念や思想に関する信念の生む真の驚くべき均衡を、私達は彼の作品に感ぜざるを得ないからであります。そしてこれがどんなに常人の及びもつかぬ力技であったかは、彼の後に来た豊かな才能を抱いた多くの浪漫派音楽家の苦しみを見れば、合点がゆくのである。ベエトオヴェンに於ける個性や主観の強調は、第九シンフォニイの「喜びへの讃歌」という信念に保証されている。ただこの信念の正しさは、ベエトオヴェンという一個の天才の力によって支えられていたのであって、嘗ての教会という社会的な組織の力によってではなかった。そういうところに、歴史というもののどうにもならぬ残酷な動きがあるのでありまして、彼の後に来たものは、既に失われたこの天才の力を再び取り上げようとして、その力の不足を歎ぜざるを得なかったという事になった。自己表現欲だけはいよいよ盛んになり、複雑なものになり、又、その表現手段としての和声的器楽の形式も豊富なものになったが、自己の行方は次第に見定め難くなり、各人が各人独特の幸福や不幸を抱いて孤立して行くという傾向を辿ったのである。ゲエテが早くも気付いていた「浪漫主義という病気」に、芸術家達はかかった。いや、進んで、良心をもって、かかったのである。新しい芸術の表現形式が成立する為には、己れの感情や心理の特異な使役、容易に人に語り難い意識や独白に関する自覚、そういうものが必要になって来るという事は、芸術家の仕事を大変苦しいものにします。必要は愛着を生む。人は苦しみを愛し始めます。この事は、ウェーバーやシュウベルトやメンデルスゾオンやシュウマンの早熟早世と決して無関係ではありますまい。
 前に申した通り、浪漫派音楽の骨組は、音と言葉との相互関係、メンデルスゾオンが「無言歌」を作った様に、如何にして音楽を音の言葉として表現しようかというところにあった。これは、対称のない純粋な音の世界に、感情や心理という対象、つまり言葉によって最もよく限定出来る内的風景が現れ、その多様性を表現せんとする事が音楽の形式を決定する様になったと言えます。純粋な音楽の世界から、言わば文学的な音楽の世界への移行は、非常な速度で進んだ。どんな複雑な微妙な感動でも情熱でも表現出来るという、音楽の表現力の万能に対する信頼は、遂にワグネルに至って頂点に達した。彼の場合になると、シュウマンの詩的主題も、リストやベルリオーズの標題楽的主題も、もはや貧弱なものと見えた。主観の動きを表現する音楽の万能な力は、ワグネルにあっては、ある内容の表現力と考えるだけでは足りず、そういう音楽現象を、彼の言葉で言えば、音の「行為」Tat、合い集って、自ら一つの劇を演じている「行為」に外ならない。音という役者は、和声という演技を見せてくれる筈である。これがワグネルという野心的な天才の歌劇とか祝典劇とかの、殆ど本能的な動機です。彼は、これを「形象化された音楽の行為」と呼んだ。
 ニイチェの死ぬ前年の作に「ニイチェ対ワグネル」というものがあります。「パルジファル」の哲学が、腹に据えかねたニイチェの苛立たしさを割引してみれば、ワグネルに於いて、空前の豊富さに達した音楽の表現力が露(あら)わにした音楽の危機について、これほど鋭い観察を下した人はない。彼は、ワグネルの達した頂に、「終末」と「デカダンス」とが、既に生まれている事を看破したのである。ニイチェはワグネルを、「微小なるものの巨匠」と呼びます。彼に言わせればワグネルという人は、非常に苦しんだ音楽家だ、おし黙った悲惨に言葉を与え、苛まれた魂の奥に音調を見出す自在な力を持っていた、「隠された苦痛、慰めのない理解、打明けぬ告別のおどおどした眼差し」、そんな音楽にもならぬものまで音楽にする驚くべき才を持っていた。要するに、これはニイチェ独特の表現であるが、「魂の持つ様々な、実に微細な顕微鏡的なもの、言わばその両棲動物的天性の鱗屑(りんせつ)」を表現した巨匠だと言うのです。これも、いかにもニイチェらしい言い方だが、「芸術家は、しばしば自分の一ばんよく出来る事を知らないのである」。表現の自在を頼み過ぎたこの音楽家は、やたらに大きな壁画を作ろうとした。大袈裟な「救い」の哲学を、劇場で、腑抜けた賤民どもの前に拡げて見せた。まことに己れを知らぬ野心家である、とニイチェは怒る。しかし、ワグネルは自分には気付かず、隠れたまま、自分自身にも隠れたまま、ささやかな彼本来の傑作を、到るところにばらまいている。そして、成る程それは傑作であるが、決して健康な音楽とは言えぬ、そういうニイチェの観察には、非常に正しいものがある様に思われます。

(表現について)-4
 ニイチェが、「ワグネル論」を書いたのは、一八八八年であるが、ワグネルの大管絃楽が、浪漫派文学の中心地パリで爆発したのは、それより二十年も前の事であった。これは非常な事件だったので、人々はこの新音楽の応接に茫然たる有様だったが、そこに、詩の表現に関する一大啓示を読みとった詩人があった。それがボオドレエルであります。当時文学界に君臨していたのは、言うまでもなくヴィクトル・ユーゴーであって、彼の詩を音楽に譬えれば、あらゆる旋律、和声、転調を駆使した大管絃楽だったのであるが、ボオドレエルは、この浪漫派の巨匠から脱出する道を、譬え話でない本物の大管絃楽に見付けた。ワグネルの音楽が、文学の侵入を受け、殆ど解体せんとする和声組織の上で、過剰な表現力を誇示していたという様な事は、二十年後に、ニイチェが言う事であって、ボオドレエルの関知するところではない。音楽に於ける浪漫主義が、そこまで達した時、この先見の明ある詩人は、文学に於ける浪漫主義の巨匠の表現が、余りに文学的である事に気付いた。ワグネルの歌劇が実現してみせた数多の芸術の総合的表現、その原動力としての音楽の驚くべき暗示力、これがボオドレエルを、最も動かしたものであって、言ってみれば、これは、音楽の雄弁に詩の饒舌をはっきり自覚した、嘗て言葉の至り得なかった詩に於ける沈黙の領域に気付かせたという事だ。ニイチェが微小なるものの巨匠と巨大なるものの道化師を見たところに、ボオドレエルは、彼の言葉を借りれば、引力の繋縛(けいばく)から逃れ、強度の光の中を駆ける逸楽と認識とからなる恍惚を味わった。無論ワグネルの哲学なぞ問題ではなかった。これはまことに面白い事です。人は誰も自分の欲するものしか見ない様だ。いや、それよりも、芸術家にとって表現の問題は、単なる頭の問題ではない、音だとか言葉だとかという扱う材料の性質に繋がる、それぞれ固有な技術の問題なのであります。
 個人の自由や解放に関する主張だけでは、芸術家はどう仕様もない。浪漫派音楽家達が、大いに羽を延ばす事が出来たのも、楽器の発明改良というものが物を言ったのである。例えばピアノという楽器の急速な進歩による、その自在な表現力は、シュウマンの詩情の表現に関する喜びや苦しみと離す事が出来ない。更に言えば、ソナタ形式という、主観の運動の表現に適した動的な表現形式も、何も音楽家が頭で考え出したわけではない、単独で、数多の楽器を集合した効果が出せるように改良されたピアノという楽器のメカニスムが齎した、音感覚の分析から生じて来るのであります。ワグネルの野心的な歌劇も、いよいよ豊富になった管絃楽の構成により、音の量感であれ、色彩感であれ、あらゆる和声の運動の実現が可能になるにつれて、この運動そのものが劇的な動きと感ぜられるに至ったというところから来ている。ある伝説を素材として、いかなる思想を表現しようかという彼の企図も、先ず基本和声が現れ、それが展開し、動揺し、不安定な状態に入り、最後に、和声は平衡を取戻さなければならぬという、和声楽器の構造の必然性に左右されるのであります。
 しかし、これは音楽の非常な強みであり、文学となると違ってきます。これは彼等の扱う根本の素材の相違から来る。私達の耳の構造は、噪音(そうおん)から楽音をはっきり区別して感受する様に出来ている。よく調律されたピアノの発する一音符は、耳に快適な音であるという理由で、既に独立した音楽の世界を表現しています。そればかりではない。物理学は、この音の計量的性質を明らかにして、音響学を可能にする、そこから、音の快感と音の軽量との間に、はっきりとした関係が成り立つ。ピアノという楽器は、音楽家の自己表現の道具であるとともに、物理学者の音響計量の実験器である。音という素材は、明瞭に定義された実体として、音楽家の組合せを待つばかりである。こんな幸運には、詩人は出会っておりませぬ。音の単位というものがあるから音響学は成立するのだが、詩学を作ろうにも、詩的言語単位というものを得る事が出来ない。詩人は日常言語の世界という、驚くほど無秩序な世界を泳ぎ廻っているのだが、その中から詩的言語というものを、はっきり認識するいかなる便利な能力も持っておりませぬ。音叉もメトロノームもない。詩作の一定の方法なり、詩の一定の形式なりを保証するものは、伝統という曖昧な力だけだ。詩の秩序は、常に言葉の本質的な無秩序の攻撃に曝されている。音楽の形式は変遷するが、それは音楽という固有な世界の中での秩序の移り変わりである。つまり音楽は音楽たる事を止めはしないが、詩は、扱う素材の曖昧さの為に、詩でもないものに顛落する危険を自ら蔵しているものなのであります。
 私達は、苦もなく自然主義に対して浪漫主義という事を言い、理性や観察を重んずる傾向に対し、情熱や想像力を尊重する傾向を考える。リアリストは、侮蔑的にロマンチストという言葉を使う。しかし、音楽の上でも文学の上でも、浪漫主義の動きは、十八世紀の啓蒙思想という批評精神から生まれたものであり、その性質は決して簡単なものではありませぬ。啓蒙時代の選良達は、伝統破壊者としては自由主義者であり、何を措いても理性を尊重し、信仰を否定する主知派であり、不合理な習慣による社会的権威を認めぬ点で、個人主義者であり、自然主義者でもあった。かような複雑な性質が集って、自己批評、自己解放の一途を辿ったのである。外的な束縛を脱した自己が自由に考えたところを、自由にかんじたところを、そのまま表現する。従って、浪漫派文学の時代は、告白文学の時代であり、自由な告白には、約束の多い詩の形式より散文が適するから、これは又散文の時代を招来しました。文学の romantisme を宰領したのは、roman(小説)だったのであります。浪漫派の大詩人達は、すべて告白を、小説を書いた。ユーゴーの決定的な成功は「レ・ミゼラブル」によって定まったのである。つまり、これは、詩はその伝統的な形式の枠の中で、饒舌の為に平衡を失った内容で、はち切れんばかりになり、いつでも自由な散文形式に逸脱しようとする状態にあったという事であり、これが、ボオドレエルが感じた危機であります。では、彼が得た音楽からの啓示とはどんな性質のものであったか。
(表現について)-5
 もともと言葉と音楽とは一緒に人間に誕生したものである。一つの叫び声は一つの言葉です。リズムや旋律の全くない言葉、私達は喋ろうにも喋れない。歌はそこから自然に発生した。古い民謡は、音楽でもあり、詩でもある。しかも歌う人は、両者の渾然たる統一のなかにあるから、その統一さえ意識しませぬ。彼はただ歌を歌うのだ。ただ歌を歌うのであって、いかなる歌詞をいかなる音楽によって表現しようかという様な問題はそこにはないのであります。
 こういう問題が現れて来る為には、表現力に於いて、人声という楽器を遥かに凌ぐ楽器の出現が必要だった。人間の声にある男女の別や個人差を全く消し去って、常に同一な純粋な音を任意に発生させ、人声を使用しては到底成功覚束(おぼつか)ない豊富な和音や、正確な迅速な転調が、易々と出来る様な楽器の出現、つまり、非人間的な音のメカニズムが発明され、それが人間に対立するという事が必要だったのであります。ここに非人間的楽器が、いかにして人間的内容を表現し得るかという問題が自覚される。勿論、一方、これに、時代思想は、個人の発見、自覚、内省という方向に動いて行き、表現すべき人間的内容に関する意識は、いよいよ複雑なものになり、到底、単純な表現手段では間に合わなくなって来るという事情が、照応しているのであります。
 音楽家は、批判的精神によって複雑な自己を表現する必要に迫られた時、和声的楽器という素晴らしい形式を発見した。これは前に申し上げた様に、楽音という素材に固有な性質から来たのである。これが、ボオドレエルがワグネルの音楽から直覚し驚嘆したものなのであって、彼は歌を聞いたのではない、管絃楽器の大建築を見たのだ。詩人は、長い間、同じ歌を歌っていた。彼の知っていた音楽は、人声という単純な楽器の発する音楽であった。詩の内容の複雑さが、単純な詩形に堪えられなくなった時、彼には器楽の発明の如き好都合な新しい表現形式が見つからぬままに、散文に走るより他はなかった。フランスの古典詩でも、十七世紀の後半には、もう散文化の傾向をとっていたのであります。これも前に述べた様に、言葉という素材に固有な性質から来ているのです。さて、諸君には、もう充分御推察がいったであろうと思うが、ボオドレエルが決意した仕事は、詩形の改良という様な易しい事ではなかった。詩の世界の再建であった、音楽家の創作方法に倣って、詩という独立世界を構成する事であった。
 ボオドレエルの「ワグネル論」のなかに、こういう言葉があります。「批評家が詩人になるという事は驚くべき事かも知れないが、一詩人が、自分のうちに一批評家を蔵しないという事は不可能である。私は詩人を、あらゆる批評家中の最上の批評家と見なす」。これは、次の様な意味になる。天賦の詩魂がなければ詩人ではないだろうが、そういうものの自然的展開が、詩である様な時は既に過ぎたのである。近代の精神力は、様々な文化の領域を目指して分化し、様々な様式を創り出す傾向にあるが、近代詩は、これに応ずる用意を欠いている。詩人のうちにいる批評家は、科学にも、歴史にも、道徳にもやたらに首をつっ込み、詩人の表現内容は多様になったが、詩人には何が可能かという問題にはまともに面接していない、散文でも表現可能な雑多な観念を平気で詩で扱っている。それというのも、言葉というものに関する批判的意識が徹底していないからだ。詩作とは日常言語のうちに、詩的言語を定立し、組織するという極めて精緻な知的技術であり、霊感と計量とを一致させようとする恐らく完了する事のない知的努力である。それが近代詩人が、自らの裡(うち)に批評家を蔵するという本当の意味であって、もし、かような詩作過程に参加している批評家を考えれば、それは最上の批評家と言えるだろう。恐らくそういう意味なのであります。
 ボオドレエルは、こういう考えを既に、エドガア・ボオの詩論から得ていたのであるが、恐らくワグネルのうちに鳴り響いていたものは、理想的詩論そのものの様に思えたでありましょう。「悪の華」には歴史も伝説も哲学もない、ただ詩という言い難い魅力が充満している。言葉はひたすら普通の言葉では現し難いものを現さんとしているのであります。音楽から影響されて、音楽的な詩を書いたという様な事ではない。音楽家が楽音を扱う様に言葉を扱わんとしているのである。言葉の持つ実用的な性質、行為の手段としての言葉、理解の道具としての言葉、そういうものから、いかにして楽音の如く鳴る感覚的実体としての言葉を掬い上げるか。そして、そういうものを如何にして或る階調に再組織するか。それがつまりは、内的な感動を表現する諸条件を極めるという事だ。「悪の華」は、言葉に関するそういう驚くべき意識的な作業の成果であって、ボオドレエルを継ぐ象徴派詩人達の活動は、「悪の華」の影響なしには、到底考えられないのである。私は、ここで象徴派詩人達についてお話を進める気はない。ただ表現の問題で一番苦しんだのは彼等であり、この問題で、音楽はいつも彼等の仕事の範型となって現れていたという事を申し上げて置けばよいのであります。

(表現について)-6
 現代は散文の時代である。詩は散文の攻勢に殆ど堪えられない様になっている時代であるとは、皆様御承知の事ですが、この事を表現という問題から考えてみたら、どういう事になるか。これは一般に、あまり注意されていない様に思われます。前に expression という言葉は、元来物を圧し潰して中味を出すという意味合いの言葉であるという事を申し上げたが、散文では、そういう意味合いでの表現という言葉は、次第にその意味が薄弱になって来た、その代りに広い意味で、描写という言葉が使われだしたと考えてよかろうと思う。表現するのではない、描写するのである。言うまでもなく、こういう傾向は、実証主義の思想が齎した観察力の重視から来た。表現が描写に変ったという様な言い方は、まことに乱暴な様であるが、これは結局十九世紀小説の自然主義とか現実主義とかいう言葉よりは、はっきりした概念を語る事が出来るのではあるまいかと考えます。
 人間を、事物を正確に観察し、それをそのまま写し出す。対象の世界は、いくらでも拡がります。観察をしている当人の主観はと言えば、これ又心理学の発達により、心理的世界という対象に変じます。観察の赴くところ、すべてのものが外的事物と変ずる。作者は圧し潰して中味を出そうにも、中味が見当たらなくなる。極端に言えば、自己は観察力の中心となり、言葉は観察したものを伝達する記号となります。こういう傾向が非常に強くなった文学が、ナチュラリスムの小説とかレアリスムの小説とかだと考えると、そこで言葉というものの扱われ方が、詩人の場合とはまるで異なっていることに気付く筈です。詩人は、ワグネルが音楽を音の行為 Tat と感じた様に、言葉を感覚的実体と感じ、その声調された運動が即ち詩というものだと感じている。無論言葉では音楽の様に事がうまくはこばないが、ともかく詩人はそういう事に努力している。従って詩では、言葉が意味として読者の頭脳に訴えるとともに、感覚として読者の生理に働きかける。つまり詩という現実の運動は、読者の全体を動かす、私達は私達の知性や感情や肉体が協力した詩的感動を以って、直接に詩に応ぜざるを得ない。これが詩の働きのレアリスムでありナチュラリスムである。対象の言葉による合理的な限定を根本とする描写尊重の小説では、言葉は実体を持っていない、専らわれわれの観念を刺戟する目的の為の記号である。小説のうちにある作者の意見や批評は勿論の事だが、小説のあらゆる描写は、直接に読者の頭脳に訴えるもので、そこに対象を見るような錯覚を生じさせれば、それでよい。読者の頭だけが働く、肉体は休んでいます。或る人間が動いているのを見る様な錯覚に捕えられる。すると自分が動いている様な気がする、気がするだけで実際には動いていない、動いていないどころではない、息を殺して、身動きも出来ない様な状態を拵(こしら)えないと、充分に自分が動いているという錯覚が得られない。小説を、夢中になって読んでいる人を、観察してみれば、直ぐわかる事です。彼は、事実、夢の中にいる。
 小説家は、読者に現実の錯覚を起させる目的の為には、手段を選ばぬ様に見えます。詩語であれ、抽象語であれ、実用語であれ、何でも構わぬ。彼は、言葉自体の魅力なぞは殆ど信用していない。言葉は彼等の対象ではない。対象は事物である。対象の錯覚を読者に与える為に、言葉という道具を動員するのである。だから、観察の深浅という事は勿論別だが、大小説も見聞を語る普通人の話と表現の上では本質的な違いはないと言えます。小説の読者は、小説の形式の美しさに心を惹かれるのではない。描かれた事件や物語に身をまかせるのだ。活字が眼に這入れば、もう言葉は要らぬ。勝手に人生の方に歩き出す気になればよい。詩人は言葉の厳密な構成のなかに、人を閉じ込めようと努めますが、小説家は事物の描写や事件の演繹(えんえき)によって、文学形式という枠から読者を解放します。従って、ここに驚くほど無秩序な小説が現れたとして、作者が、無秩序は自分の責任ではない、私の忠実に描いた無秩序な社会生活の責任であると言ったとしても、彼の弁解に全く道理がないとは言えないのであります。私達が理解している近代小説には、すべてそういう強い傾向が現れている。
 無論、私は極端なお話をしているので、実際には、詩と散文とがはっきり区別されて世に現れるものではない。ボオドレエルでさえ、ある自作には「散文詩」という名を与えているのですし、全く詩の性質を含まぬ小説というものもない。しかし、傾向としては、以上述べた様な事は、疑いのないところなのであって、一般の情勢は内的なものに自ら形を与えるという意味での表現というものから、外的なものをそのまま写し出す描写というものに進んで行った。ゾラのナチュラリスムが現れる頃には、絵画の方でも描写の極端なものとしてのアンプレッショニスムが現れると言った様なものである。そういう芸術家達が、どうして外的な真実を写し出す事に専念し、写し出す主体の問題に心を労しなかったかというと、これは当時の科学万能の思想の裏付けに依るのである。人格的意識は、事物のエピフェノメノン、附帯現象であろうという科学的態度が、知らず識らずの間に、芸術家の制作態度の裡に深く滲透していたからであります。自己解放の意志が、表現という言葉を生んだのだが、解放された自己の表現は、観察力の絶え間ない導入によって、外的事物のうちに解消して行ったのである。
 言うまでもなく反動というものはやって来る。科学の進歩は、決して停止しやしないが、科学の思想、科学的真理のの解釈の仕方は変って来る。十九世紀に科学思想が非常な成功をかち得たというのも、科学が人間の正しい思考の典型であると考え、思想のシステムの完全な展開は、自分のシステムに一致するという信仰によったのであるが、そういう独断的な考えも科学の進歩に伴い、十九世紀末には、科学者自身の間から否定される様になりました。科学の成立する過程が、生得の観念からの厳密な演繹と必ずしも一致しないという事は、科学上の諸発見によって、次第に明らかにならざるを得なかったものでありますが、遂には、両者は本質的に異るものだ、科学の成立条件は、人間の意志活動、或は人間の有機的構造や環境の偶然と離す事は出来ぬ、という、例えばポアンカレの様な考えが現れて来たのであります。嘗て真理と言えば、科学的事実の異名の如き観を呈していたが、もうそんな事では駄目で、言わば、真理というものの次元が変ってきて来る時が来た。所謂合理主義、主知主義の哲学に疑いを抱いた思想家のうちで最も影響力を持ち、又事実最も精緻な哲学的表現をした思想家は、ベルグソンであります。ここではお話に必要な事だけを申し上げるのだが、ベルグソンの哲学は、直感主義とか反知主義とか呼ばれているが、そういう哲学の一派としての呼称は、大して意味がないのでありまして、彼の思想の根幹は、哲学界からはみ出して広く一般の人心を動かしたところのものにある、即ち、平たく言えば、科学思想によって危機に瀕した人格の尊厳を哲学的に救助したというところにあるのであります。人間の内面性の擁護、観察によって外部に捕えた真理を、内観によって、生きる緊張の裡に奪回するというところにあった。そういう反動期を経た今日では、小説家も、もはや往年の自然主義、写実主義の信奉者ではなくなっている。という事は、浪漫派文学が齎した自我の重みを、又新しい形でめいめいが負わなければならない仕儀に立ち至っている。科学思想は、もはや彼らを丸め込む力を失ったかも知れぬ。その代り組織化された政治思想のメカニズムが、新しい強い敵手として、現れかけているかも知れぬ。それはともかく、歴史の上に来る反動というものは、決して過去の重荷を取り除いていくれるものではない。私達は一ったん得たものを捨て去る事は出来ない様に作られている。私達は、浪漫主義の運動は、いかにも大きな運動であった、と今更のように思うのであります。これに反抗した様に見えた様々の運動も、この大運動の生んだ子供だった。文学の世界でも、ピアノはやはり発明されたのである。科学思想も、作品を創らねばならぬ作家の側から言えば、新しい観念形態として利用すべきピアノの如きものであったに相違ない。文学に於ける科学思想のメカニスムも、音楽に於ける和声形式のメカニスムも、もともと分析の原理にはっしているのでり、その拡大は当然解体による拡大であった。ニイチェは、早くもワグネルにその危機を見た。分散した音を、いかにして再び単音の充実した一元性に戻そうかという苦しみは、今日の散文家が、何処に新しい詩という故郷を発見すべきかという苦しみに似ています。一ったん得たものを、捨て去る事は出来ない苦しみである。しかし、表現の問題を、そんなに広汎な範囲まで拡げるわけにはいきませぬ。

(表現について)-7
 ボオドレエル以後の象徴派詩人達の運動は、文学の散文化による自我の拡散に抗して、個性的な内的な現実を守りつづけてきた運動だと言えます。浪漫派文学は、先ず自己告白によって口火を切った。偽りの外的形式を否定して真の内容の吐露がしたかった。それはいい。ところが、吐露する形式はどういう事にならねばならぬか。そういう事まで考える余裕はなかったのである。ただ何もかも吐き出して了いたかった。その自由と無秩序との裡に、せっかく現そうとした自己の姿が迷い込んで了ったのである。この告白の嵐に、一つの大きな秩序を与えたものが、合理的な観察態度なのである。ところが、この態度が齎した正確な描写という手法は、文学の新しい秩序を創りだしたというより、寧ろ文学によって事物の秩序を明るみに出した。告白の嵐の中に道を失った自我は、観察機械たる自己を発見するという始末になった。これは発見とは言えまい。新しい型の紛失です。そこで、こういう問題が現れます。一般の趨勢(すうせい)に抗して、象徴派の詩人達は、内的現実を守った、つまり自己表現の問題から眼を離さなかったのであるが、彼等が詩人の本能から感得していた自己とは、告白によっても現れないし、描写の対象となる様なものでもなかった。自己とは詩魂の事である。それは represantaion(明示)によって語る事は出来ない。詩という象徴 symbole だけが明かす事が出来る。しかし symbole という言葉を使うなら、その最も古い意味合いで、詩人は自ら創り出した詩という動かす事の出来ぬ割符に、日常自らもはっきりとは自覚しない詩魂ちう深くかくれた自己の姿の割符がぴったり合うのを見て驚く、そういう事が詩人にはやりたいのである。これはつまるところ、詩は詩しか表現しない、そういう風に詩作したいという事だ。これは、まさしく音楽に固有な富である。
 ボオドレエルが奪回しようと思ったのは、音楽の富であって、文学化された音楽の富ではない。音による言葉とは比喩である。浪漫派音楽は、詩的とか劇的とかいう大きな比喩の中を動いていたのだと言えます。シュウマンは古代人の歌を聞いていたのではない、この分析的な意識家はピアノの前に坐って考え込んでいたのである。詩と音楽との相互関係という思想とは、ピアノの魔術の様な表現力の計量模索の果てを形容する言葉に過ぎない。ワグネルが、舞台の上に音楽を形象化したという事も、和声的器楽の膨大なメカニスムの正確極まる絶対的な把握、そこに生じた音楽への溢れる様な信頼の情を語るを考えるのが、正しいであろう。彼は、何も形と音とを結合しようと思ったのではない。音楽は、いつも到るところで、純粋だったのであります。
 最初に、音楽は、どんな気紛れな解釈でも平気で呑み込む様に思われるというお話をした。だが、最も無秩序な不純な散文という形式は、又、最も読者の気紛れな解釈に堪えるでしょう。それを考えれば、音楽が聞く人の気紛れな解釈に堪えるのは、裏返してみれば音楽の異常な純粋さを証するものだと直ぐ気が付く筈です。音があらゆる種類の感情を暗示する力があるという事は、例えばCの音はCの音ただそれだけを明示しているという事と同じ事です。人々が勝手な感情を、そのまま音楽に映し、音楽がたしかにそういう感情を表現していると考えるのもまことに自然な事です。ただ少々自然過ぎる、でなければ表現という言葉が曖昧過ぎる。犬が或る表情をする時、ダアウィンは、犬が喜びを表現したと考える。私は笑った時に、おかしさを表現したと考える。しかし芸術家にとっては、それではただ生活しているだけの事であって、表現しているのではない。生活しているだけでは足りぬと信ずるところに表現が現れる。表現とは認識なのであり自覚なのである。いかに生きているかを自覚しようとする意志的な意識的な作業なのであり、引いてはいかに生くべきかの実験なのであります。こういうところで、生活と表現は無関係ではないが、一応の断絶がある。悲しい生活の明瞭な自覚はもう悲しいものとは言えますまい。人間は苦しい生活から、喜びの歌を創造し得るのである。芸術の成立を歴史的に社会学的に解明しようとする思想は、表現という言葉の持つ意志的な意味を台無しにして了った。環境の力はいかにも大きいが、現に在る環境には満足出来ない、いつもこれを超えようとするのが精神の最大の特徴であります。
 言葉を聞くとは、その暗示力に酔う事ではありますまい。誰でも酔う事から始めるものだ。やがて、それなら酒に酔う方が早道だと悟るのです。音楽はただ聞えて来るものではない、聞こうと努めるものだ。と言うのは、作者の表現せんとする意志に近付いて行く喜びなのです。どういう風に近付いて行くか。これは耳を澄ますより外はない、耳の修練であって、頭ではどうにもならぬ事であります。現代人は、散文の氾濫のなかにあって、頭脳的錯覚にかけては、皆達人になっております。一方強い刺戟を享楽して感覚を陶酔を求めているので、耳を澄ますという事も難しい事になっている。黙って、どれだけの音を自分の耳は聞き分けているか、自ら自分の耳に問うという様な忍耐強い修練をやる人は少なくなっている。しかし、そこに一切があるのだ。例えば、私が、梅原龍三郎氏と一緒に同じ絵を黙って見ています。二人とも言葉では、いい絵だと同じ事を言います。しかし、恐らく梅原龍三郎氏の眼玉には、私の眼玉に映る何十倍かの色彩が現に映っている筈であるという事を考えざるを得ない。そこに一切がある。これは恐ろしい事なのであります。耳は馬鹿でも、音楽について、悧巧に語る事も出来る。つまり音楽を小説の様に読んでいる人は、意外に多いものであります。
 耳を澄ますとは、音楽の暗示する空想の雲をめぐって、音楽の明示する音を、絶対的な正確さで捕えるという事だ。私達のうちに、一種の無心が生じ、そのなかを秩序整然たる音の運動が充たします。空想の余地はない。音は耳になり耳は精神になる。そういう純粋な音楽の表現を捕えて了えば、音楽に表題がなくても少しも構わない、又、あっても差支えはない。音楽の美しさに驚嘆するとは、自分の耳の能力に驚嘆する事だ、そしてそれは自分の精神の力に今更の様に驚く事だ。空想的な、不安な、偶然な日常の自我が捨てられ、音楽の必然性に応ずるもう一つの自我を信ずる様に、私達は誘われるのです。これは音楽家が表現しようとする意志を或は行為を模倣する事である。音楽を聞いて踊る子供は、音楽の凡庸な解説者より遥かに正しいのであります。ベエトオヴェンの最後の管絃四重奏曲の最後の楽章に「困難な解決」という題が付けられている事は、よく知られています。最初のグラーヴェの主題には「そうでなければならないか」とある。彼は、次のアレグロの主題には「そうでなければならぬ」と書いた。表現する事は解決する事です。解決するとは、形を創り出す事です。グラーヴェの主題の形を創り出さねば、「そうでなければならないか」という問いさえ無意味なのであります。圧し潰して中味を出す。中味とは何か。恐らく音という実体が映し出す虚像に過ぎまい。それほど音楽家は、音楽という美しい実在を深く信じているものなのであります。
(以上は、一九七四年鎌倉にて、音楽講座の為に講演したものである。)

(2002.10.18)-3
文中の定義に従えば、確かに太宰は自ら宣言するとおり浪漫派であろう。
「檻に入れられたら、入れられたまま檻ごと歩く」
(2002.10.18)-4
これは失礼な言い方かもしれないけれど、小林秀雄は超一流芸術家達を踏み台にして高く飛ぼうとしていた人であると言える。めずらしい人ではある。ボオドレエルにただならぬ共感を抱くのも、まさにそのためだと思われる。ただ、ボオドレエルは詩人であったが、小林秀雄は根っからの批評家だった。超一流芸術家達を踏み台にすることによって、彼の書く文章は難解を克服した。曖昧なほのめかしを克服した。平易な文芸というのを、行いえた人は仲々居ない。小林秀雄は、彼の文章を読んだら読んだだけ理解してゆけるのである。あれだけ「わかってもらう」ということを重視した太宰ですら、固定した像を仲々結んでくれないのだから、これは多分すごいことなのだろう。彼ほど自らの位置する座標を自身精確にプロットできていた芸術家は、おそらくなかなか居まい。芸術家というのは、普通はうろうろずるずるそこらを這いまわっているだけの人種なのだから。
(2002.10.18)-5
「今日描く絵は、もしかしたら今日しか描けない絵かも知れないじゃないですか」そう MAYA MAXX は言って、一年に180点以上の1m*1m以上の大きな絵を描き続ける。君、こういう人間が一体どういう生活をしているのか、ということについて一度でも考えてみたことはあるかね。彼女は結局、「インスピレイションを得るため」の他にはろくな外出もできないのさ。そうだよ、それが芸術家だ。実に悲惨な生きものさ。それでも、彼女の描く絵は実に素晴らしくて、生きる力に満ちあふれている。彼女にかかれば、屍体ですらこの世のものとして描かれる。そういう大きな力に満ちあふれている。彼女の描く骸骨が、ピストルが、正確な意味で攻撃性の象徴たり得るのは、そのためだ。それが、人を呪うことは決してしないし、そこから撃ち出される弾丸が人の身体に穴を開けることは、決してないんだ。
(2002.10.18)-6
どんな文にも数%の呪詛が必ず混入するぼくの書くものとは決定的に違う。
(2002.10.19)-1
ぼくはこうしていま新居昭乃について、そのよさをどうにかして言明しようとしているのだが、そもそも、なぜ雲の数ほどいるかと思われる他の似たようなアーティストではなく、新居昭乃なのかといえば、これは新居昭乃をはじめて聴いたときに「この人は」と思ったのであって、はやい話が、つまりは肌が合ったのだ、ということなのである。その意味で、ぼくのいう新居昭乃のよさは、ぼくにとっての新居昭乃のよさであって、それから脱することは、おそらくできないのである。結局のところ、その肌の合いかたは一体どのようなものであるかを言おうとしているに過ぎないのである。このようなことを思うとき、ぼくはやはり、まずは新居昭乃が他のアーティストよりも随分と優れているからだと、言おうと考えるのだが、失礼ながらどうにもそれは疑わしく思えてならない。まず、ぼくはそんなに多くの人たちを比較検討して新居昭乃を選び出したというわけではない。そして、そもそも新居昭乃のよさというのは実に微妙なもので、それは万人を蹴倒すようなものでは無いように思えるのである。何より、他よりうまいというのは、ぼくの中の価値としてはさして大きなものではないのである。他人10人がよいと言っても、ぼくがさして楽しむことができないのなら、申し訳がないのだけれど、それはいらないのである。そういう姿勢なのだから、この歌はうまいと思うと言うとき、ぼくは新居昭乃の一連の曲の中でよい出来である、ということを言っているに過ぎない。それでも、ぼくは新居昭乃がいい、と言うのである。言いたいので、言うのである。その手段として、とりあえずぼくは「抑制」という言葉を見つけてみたので、それをもとにして何か話を展開することで、ぼくとは違って、新居昭乃が肌に合わないであろう、他の多くの方々にも、多少なりともぼくの考える新居昭乃のよさというものを、思ってみてもらえればと思うのである。
(2002.10.19)-2
新居昭乃の声は張り上げようとすると、自らの特徴である声質によって、ある高さ(「高い」声といわれる高さではない。うまくいえない)で収束する事を余儀なくされる。透明のケースに入れられた風船を吹いて膨らませようとするとある大きさ以上に大きくなることができずにそこで緊張しつづける様子に似ていると言うのが多少わかりよいかもしれない。これはどうやら、彼女の詩の性質と非常に向いた声の質であるようで、それによって、ぼくのいう「抑制」を非常に効果的に見せることができているように思われる。そのような声の質はともすると、声量が足りない、というネガティブな要素のようにも思われるが、しかし、これは声量の問題というよりも、おそらく発声法の問題であろうと思う。ぼくはその辺については、もうほんとに何も知らないので、なんとも言い難いのだが、彼女には、その天井なりガラスケースなりを回避して声を伸ばして歌う事は決して不可能なことではないようである。まだ五枚のアルバムのそれぞれを構成する曲のリストを作成して、はっきりと場所を特定していないので、曲を指定することができないが、(「そんな状態で話を始めるな」と言われれば、これはそのとおりである)明らかに普通あるような声の使い方をし、高音における伸びのある歌が一つ二つある。そして、そんな歌の方が彼女の歌には珍しい。彼女がその辺りをどう考えて、彼女の声質を使っているのか、つまり、ぼくのいう「抑制」と同じようなものを意識して、その声質を選択しているのかどうか、ぼくには知る術もないが、彼女の歌を聴いていて、ハッとさせられて、ニヤリとなるフレーズはみな、その独特の発声法を使用しているフレーズである。
(2002.10.19)-3
昨日の「
表現について」は、実によいタイミングで読むことができたと思っている。小林秀雄は実にいろいろのことを教えてくれるけれども、あれらは全て「男」に対してしか適用できないもののように思えてならない。彼のいう基準では、どんな女性の作るものも理解した気になることができない。どうやら小林秀雄の時代はまだ女性の作るものに対しての考察が必要でなかったらしい。ぼくは基本的に太宰以前のものしか読んでいないので、女のかたの書いたものを多少なりとも評価することができないのである。それらは、なんだかとてもよいような、男には決してできないものであるような気がとてもとてもするのだけれど、よくわからないのである。音楽であるだけの音楽、詩であるだけの詩、浪漫派、表現と描写、なんだか、みな男の世界だけに通用する観念のように思えてならない。「猿、人。ではなくて、猿、男、女、というように生物学上の分類があってしかるべきだ」というような話はあちこちで見かけるけれど、最近ぼくも、作品をみる場合においてすら、そろそろこれに首肯しなければならないような気がしてきている。女のひとのものを見ていると、何かを完成させることなど、本当は重要ではないのではないか、というような心もちになって仕方がないのである。誰が誰よりもうまくやったとか、こういう時代の、こういう流れの中にあって、そこで何をするのか、そういうことではなくて、ただそのもの自体がよければ、いや、このよい、という言い方すらぼくには不満である。うまく言えないので、これはそういうものを表す概念が存在しないためではないかとすら思えるのだが、乱暴に言ってしまうと、女の人のつくるものは、他人よりよいだのわるいだの、うまいだのへただの、そういうもの、比較を超越している。そこにはただそれだけしかないのだから、それは何かと比較しようがない、とでも言うような力を感じるのである。男の場合は、男を取り巻く環境におけるその作品の位置付けのようなものが、どうしても入っている。けれども、それは果して必要なのか。そんなものは、作品にとって全然必要なものではないのではないか。上達、進歩などというものは、そもそも馬鹿げた話で、単なる幻想でしかないのではないか。そういうような気が、とてもとてもしてくるのである。わからないのである。言いあらわしようがないのである。そして、そういうようなものを作る人たちが、この世の中の半分を占めているのである。これを思うと、小林秀雄の視点も実に頼りなく思えてきてしまう。それで、ぼくは「女は表現では悩まない」と試しに呟いてみてみるが、これは本当だろうか。
(2002.10.19)-4
ただ、「音楽は、生まれたときから既に音楽であり、心地よいものである」というものや、「詩における音楽の絶対的な優位性」という簡潔なる言明には実に納得した。
(2002.10.19)-5
死のうと思わないと、この世は実に冗長で退屈だ。どうもそれで、こんな暇つぶしをしてみたくなるものらしい。世の中にはよいものが沢山ある。
(2002.10.19)-6
こんななんともない気分の日を使って、書いたものを読み返してみれば、まんざらでもないように思えるから不思議である。相変わらず次の一行は思いつかないので、先へは進めないが。
(2002.10.19)-7
けれども、よい文というのは、そこにはひとつも見当たらない。はやく片づけてしまいたい。まだ試したいことが山ほどあるのだ。無能は無能なりに、やりたいことがあるのだ。
(2002.10.19)-8
あなたの言う「オモテ」はあんまり信用できませんねえ。ぼくはあなたを実際に見たとしても、そこに「カタマリ」を見ると思いますよ。まるっこくて、ころころところがるやつ。「オモテ」も「ウラ」もない。そして、手に持って陽にかざしてみれば、その中も透けて見える。あなたと顔をつきあわせて暮しているひとが、そんなに馬鹿でいられるとは、ぼくにはちょっと思えないんです。
(2002.10.19)-9
あ、でも、それは決して「ウラ」「オモテ」を軽視していいとか、そういうことではないんです。下世話な話ですが、「ウラ」のよい女は飽きませんから。そこから滲み出してくるものが、「オモテ」に潤いを与えるのですから。男は勿論、それを喜びますよ。いや、ほんと。好きな人がきれいなのは、とても嬉しいし、楽しい。と思う。
(2002.10.19)-10
ち、しかし、こんなことをあったこともない女の人に向かって、それも書いて伝えるなんてことをしなくちゃあならない、このぼくの生活というものの貧困を思わざるを得ないなあ。それは当に自業自得で、ぼくには生身の手がどこにも見当たらないせいで、もうそれはどうしようもないことなのだけれど、やはり貧しいとは思う。退屈だから、明日死にたい、というのは、実にけしからん姿勢だけれども、ぼくはむしろこちらに多くの根拠を見出すかもしれない。一片のスリルが欲しくて、死んでみる。相応しい気がする。
(2002.10.19)-11
など、自殺願望を弄んでみる。やはり退屈である。
(2002.10.20)-1
否定しろよう。まったく。慎ましさのない女はキライだな(ニヤリ)。
(2002.10.20)-2
など、下らないことを言っている場合ではない。けど、下らないついでに、少し走り書き。
もう、なんだか随分と深入りしてきてしまった感のある新居昭乃の歌についてであるが、具体的に曲をピックアップして何か書く場合、一曲一曲コメントをつけてゆくというのは、これはいかにも冗長なので、三四曲まとめて、「ほらほらここだよ。こういうところが、」とやるのが妥当だろうけれど、それもやったもんかどうか。せっかく「抑制」というキーワードを見つけたのだから、なんというか、どこぞの馬鹿エッセイばりに、まずは自身の身近な話題に関するところから「抑制」というものを取りあげ、そこに自身の考えを付加してゆく過程で、おもむろに新居昭乃の詩を持ち出す、というのが、自然な流れであろう。など、目下夢想中であるわけなのだが、うーん、「抑制」ねえ。なんもねえよ。そんな都合のいいネタは。小谷氏のときはあったけど。(「馬鹿は死ななきゃ直らない」)ああ、そうか。もうそういうのは一度やっているわけだ。あんましうまくいかなかったけどな。じゃあ、童話書くか。小川未明に倣って。なるほど、それはいい。あ、けど、それなら、太宰の「魚服記」写して終るのがいい気がするしなあ。でも折角だから、グリム童話から一本かっぱらってきて、新居昭乃の詩ぃつけてリメイクかけるってえのは、どうだ。(小谷氏のは、結局失敗したけどな。いや、これはそのうちリベンジするはずだけど)そうだな、これらはなかなかよい案で、ぼくが今よりかなり文章書くのがうまければできそうだな。なんだ、じゃあ結局いまは無理ってことか。となると、真面目に小林秀雄スタイルで、「表現について」ならぬ、「抑制の表現について」を書こうと試みるのは、どうだ。うん、駄目だ。これも手に余る。全部、無理だ。やれやれ、ということで、素直に三四曲ピックアップして、それぞれについて下らん感想をだらだらとひろげつつ、少しぼく自身に絡ませた話をしようと試みる、というのに落ち着きそうです。明日以降、少しずつやってゆくことにします。気分次第ですけど。
(2002.10.20)-3
ちょっとだけ進む。進むのはいいが、あらぬほうへ進んで行っているような気がする。夜道は駄目だ。危険だ。

「そうね。下らないことばかり、あんなにいっぱい。飽きずに」
「うん、よくもまあ飽きもせずに、だらだらと」
そう言って、ふたり小さく深呼吸をする。また、言葉が少し途切れた。私は、ふらふらと辺りへ眼を泳がせる。すると、篤志のカーキ色のコートに白い大きな糸くずが付いていいるのに気が付いた。私はそれをそっと摘んで取って、
「こういう感じよね」
篤志に見せる。
「そう、そういう感じだ」
私が摘んだ指を広げると、その白い糸くずは夜風に舞い上がり、街灯の強いオレンジ色の光の中へ吸い込まれて消えた。

このままいくと、お持ち帰りペースのいやな予感がするので、とりあえず、今日は止めて反省。
(2002.10.20)-4
次は何を読もうかな。古いのではなくて、新しいのが、読みたいな。欲の皮の突っ張った小説ではなくて、あっさりしたやつ。現代版チュホフともいうべきような小説が読みたいな。だれか、いい人知りませんか。
(2002.10.20)-5
あ、でもソトガワをダイヤカットにすると、ウチガワがよく見えなくなって、何だか信用できない。ぼくは不器用な形でもあなたの息を吹き込まれて形づくられたガラスの入れ物のほうが好きだ。その不器用な形による像の歪みも含めて、それはあなたそのものだ。そこに土を詰めて、オオイヌノフグリをひとつ真ん中に植えてあげる。このほうがダイヤカットより、よっぽど。いや、これは単なるいやみです。
(2002.10.20)-6
 など、至極真面目な顔をして言う。それだから、私は思わず吹き出してしまって、その言葉のおかえしに頭を何度かくしゃくしゃしてあげる。彼はそれが不服であるらしく、口を膨らませて、いかにも「ぼくは本気で言っているんだ」というような顔をする。それがまたおかしくて、幼い。「あなた、歳はいくつ?」思わず、そう茶化してみたくなる。私が、そんなことを思いながら、頭を撫でまわしていると、彼は私の手を乱暴に振り払い「あなたはぼくを理解しようとしない」と少し上ずった声で叫んだ。私はそれがますます面白くて、「何をいうか」こちらもわざとムキになって答える。「ぼくは子供じゃない。ぼくはあなたを愛している。それは、あなたの子供としてではなく、きちんとした一個の大人としてだ」そう言う眼が、既に少し潤んでいるのが、私にも見てとれた。「ぼくは男の子じゃあないんだ。ぼくは男だ。あなたよりも、ずっと力の強い、一個の男だ。あなたはそうやって、いつもぼくを嘲うけれども、その気になれば、ぼくはあなたに何でもできるんだ。いいかね、何でもできるんだよ。冗談ではなく」けれども、私は少しも動じず「やってごらん」昂然と言い放つ。彼の眼には、理由の定かではない涙がいよいよ満ちて来ている。「あなたは卑怯だ。卑劣だ。ぼくを弄んでいる。そうして、ぼくの何かを勝手に吸い取って、自分だけ満足している。あなたは、吸血鬼だ。そして、ぼくはあなたに血を吸われた、憐れな」少し涙声になった言葉が、そこで一度途切れた。「憐れな、化け物だ。餓えた野獣だ。ぼくは狂ってしまった。あなたのせいで狂ったんだ。こんな、こんな、あなたが無ければ生きておかれない身体になってしまった。どうにかしてくれ。どうにか」そう言って、彼は頭を抱えて悶える。
 この子は、私のもの。本当に馬鹿な子だ。私は何にもできないのに、私に何かを求めるなんて。この子は、可哀想な子。私はあなたと遊ぶことしかできないの。わかる?あなたは私の可愛い玩具。おもちゃ。飽きてしまえば、私はあなたをきっと棄てる。棄ててあげる。私は、強く彼を抱き寄せる。「あなたは卑怯だ。ぼくを返せ」彼は私の胸の中で、震える小声、何度も何度も呟いている。私はいつか、この子を解き放つことができるのだろうか。とても可哀想なこの子を。私は、ますます強くきつくこの子を胸に押し付けるようにして抱いて、窓の外に舞う粉雪を眺めている。
 私の罪は、この雪のように真白い。けれどもそれは、やがて彼と私の身を凍らせるに違いない、とてもはっきりとした私の罪の結晶だ。
(2002.10.21)
雨の滴に濡れたハンドルを握って、自転車を走らせる。手の甲に染み入る冷たさが、ぼくにそれを教える。冷気は骨に添って真っ直ぐ根を這わせ、ぼくは急速に成長するそれをこめかみで感ずる。この躰だけがぼくのものだ。行き場などここには無く、ここにはただ濡れた闇が天から等速に降りて、アスファルト、コンクリートを越えて地表深く浸透し、また沁みだし立ち昇った深淵の冷気があるのみ。また、この季節がやって来た。信じろ。ぼくは誰も必要としない。ぼくは誰にも必要とされない。ただこれを、信じろ。


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