tell a graphic lie
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(2002.10.28)-1
 新居昭乃の曲を踏まえて何かを言おう、という話。そろそろ曲の目星がついてきて、10曲くらいピックアップできるような気がしてきたので、ためしに一曲とりあげてなんぼか書いてみようか、など思い、とりあえずのところは、良し悪し好き嫌いというよりはむしろケチのつけ易い曲という基準で一曲抜き出そうか、と歌詞カードを引っ掻きまわしていたのだが、うむむむ、むむむ。なんて曖昧な詩なんだ。。。とりあえず、しゅ、主語をつけなさい。主語を。でないと、何の話だか、さっぱりわからないよ。など、実に呆けたコメントしか浮んで来ず、悶絶、ほうり出してしまった。わーい、歌詞カードはよく舞い上がるなあ。ああ、ちきしょう。いや、いちおう、モチーフ、ミクロ的なテーマに関する具体的な記述というのは、だいたい一フレーズ目に固まっているらしいので、そこから話を持っていけば、まあ、そんなに外れたものにはならないのだろうけれども、ああ、またこういう傾向、的な話になってゆくな。まあ仕方がない。ひとつずつ潰してゆこう。別に焦ることはない。どうせ、ぼくの好きでやっていることなのだから。。。
 突然ですが、ここを読まれている方々は自ら詩を書かれてみたことはありますでしょうか。恥ずかしながらわたくしは少々試みたことがありまして、とは言っても、ここに於いて、すでに何度か試みております呪詛の詩などを見ればお判りになりますように、その度にことごとく失敗しているというような、私自身は至極頼りない者ではあるのですが、まあ、それでも詩というのは、漫然と書きゃあいいってえわけであない、ということくらいは何となくわかってきている、つもりになってきているのであります。詩というのは、普通に文を作ってゆく、例えば、今この文を書く、というようなものとは、本質的にも表面的にもまるで違うことなのであります。言ってみれば、詩は気合が命の体育会系の文なのであって、筋肉が弛緩していては決して書けないものなのであります。号令一下気合一発大いに力んで書き始めるものなのであります。誓って言いますが、いや、こんなことは誓うようなことでもないのですが、暇なので誓いましょう、誓って言います、この文のように「新居昭乃の曲を踏まえて何かを言おう、という話」などという、へらへらと腑抜けた書き出して始まる詩というのは、絶対にありえないのであります。「何か」と書いて、さらにそれを「という話」などと落す。最低であります。そこには微塵の誠意も感じられません。このように、はじめっから、まあ、なんだっていいじゃん、的な文では、詩にはならないのであります。詩は、なんだかよくわからない(この、なんだかよくわからない、というのが、ぼくの詩がだめだめである主な要因であると思われますが、それは今はおいておきまして)深いところから言葉を持って来て作るのであります。それには、溜めて吐き出すか、のびやかに吹き出すか、いずれかしかないのであります。ほんとうかな。まだ、ある気がするな。まあ、いいや。まあ、だいたいそんな感じで作るんだよ。あはは。
 と、まあ、随分大きな話になってしまいましたが、これは単に話の展開が失敗しているだけでありまして、今ぼくが何をとりあえず言いたいのかといいますと、詩は気合で作るものだ、ということが言いたいのであります。そして、ぬるい言葉から入った文に、それに足るだけの気合が入ることは滅多にないのであります。まあ、要するに短距離種目であるわけです。それをうまくやるには、先ず何より最低限のスタートの馬力が必要なのであります。中盤の伸びも、ラストの追い込みも、力強いスタートダッシュがあればこそであります。
 そうなりますと、何はともあれ詩を書き始めるには、詩としての文で、本文を書き始める必要があります。そうしないと、書き出したその文は詩にはなってくれません。世の人々みながそうだ、とは流石に言いませんが、これはおそらく大部分の人に確かなことであろうと思われます。そして、このことが生み出される詩に対してどのような影響を与えるかと言いますと、ここからが本題です、詩中において最も具体的な像を持った記述は、その一ばんはじめの一フレーズである、というような傾向が生れてくるのであります。これは実に自然なことであります。なぜなら、詩としての文を書き始めるには、今しがた得た鮮烈な印象、インパクトを、劣化せぬうちにそのまま文に落し、それを以て詩を書き始めるというのが、もっとも自然な詩を書き始める方法であるからであります。それを得たその場で手帳を開いて、鉛筆舐めて走り書きする人もあるでしょうし、そっとそっと大事にその感覚を壊さぬよう部屋に持ち帰って、深呼吸してから書き始める人もあるでしょうが、そのどちらにおきましても、まず書かれるのは、詩を書き始めさせてくれたそのイメージそのものに対する、その人なりの具体的な記述からであります。これは、洗濯物を干しているときに与えられても、ひとり沈み込んで長いこと押し黙っているときに与えられても同じであります。闇が来たのなら、「闇が来た」とまず書く。例えがそんななのは、書いているのがぼくだからです。気にしてはいけません。そうして、それを書いてから、そこから派生して産まれたイメージをそれぞれの技倆、感性に基づいて展開してゆくのであります。これが、ぼくの思う詩の一般的な構築法であると思います。いや、いま適当にまとめたんだけど、でも、そんなには間違ってねえべ。
 さて、そのようにして、はじめの一フレーズ目のイメージを基にして、言葉を紡いでいきますと、当然の事ながら、記述はだんだんと抽象的なものになってゆきます。はじめに得た視覚なり、触角なり、感覚なりの直接的に生れたイメージに対する記述から、イメージによって生れたイメージ、イメージのイメージへとだんだんと記述は移行してゆくのであります。
 長いな、これ。どうしようか。もう、二時半なんだけど、まだ風呂入ってないんだけど。微妙に眠いんだけど。まあ、もうちょっと続けてみよう。何かわかるかも知れない。。。
 ということで、詩の記述が進むにつれて、だんだんと対象が曖昧なものになっていってしまうのですが、詩のすごくうまい、高潔なる精神を持った人は、そのように曖昧なイメージになってしまっても、普遍性と独自性を両立させるような文をどこやらから探して来るものなのですが、ぼくのようにセンスがない、精神力もない人間が、詩を書きすすめてゆきますと、どこかで必ず自分でも何を言っているのかよくわからなくなります。こうなったらもうだめなのであります。自分が何を書いているのかわからなくなった時点で、緊張が途切れてしまうのです。緊張が途切れて、それでも書きつづけるとどうなるか。これは単純であります。どこぞで見たような、見飽きた言葉をポイポイと置くようになるのであります。はじめの具体的なイメージとは離れて、一般的な、何となくよい、何となくきれい、な記述になってゆくのであります。抽象化とは曖昧にすることでは決してありません。それは、大変に上手な詩を書く人たちの詩を見れば明らかであります。それはデフォルメなのであります。今、実に久しぶりに広辞苑を引いて「デフォルメ」の意味を調べたところ、たいへんによい記載がありました。「デフォルメ [deforme 仏]絵画・彫刻などで、対象や素材の自然な形態を意識的・無意識的に変形すること。歪形。デフォルマシオン」だそうであります。決してぼかすことではないのです。ここをはきちがえると、詩はどうでもいいものになってゆくのであります。はきちがえないためには、どうやら、書き始めるとき以上の気合が必要なようです。スタートダッシュが無ければ、詩は始まりませんが、詩としてまともなものにするには、やはり中盤の伸びと、ラストの追い込みが必要なのであります。そして、それをよく為遂げるのは、優れた詩人においてもなかなかに至難のことなのではないか、とぼくは思うのであります。
 では、そのように最後まで気合を保つことが出来なかった詩がどうなるのか、と言いますと、簡単です。一フレーズ目が一ばんよい、なんでもない詩の失敗作になるのです。さて、この文章もそろそろ、何を言いたいんだったか忘れそうになってきました。思い出しましょう。うん。。。
 そうでした、詩はその一フレーズ目に最も具体的なる記述を持つものが多くなる、という話でした。そして、下手くそな詩人さんは、その一フレーズ目が一ばん良い、というよりも、その一フレーズ目しか良くない、というようなものを書き勝ちだ、という風に話をつなげていったつもりだったのでした。修正加えずに文を書いていますが、どこか破綻していましたでしょうか。読み直してないのでわかりません。破綻していたら、ここで意識をそのように修正してください。もう結論だけですから。
 ということで、結論です。新居昭乃の詩の多くは、その一フレーズ目に最も具体性を持った表現があるようで、それは彼女の解説からも確認できるのであります。そして、、、と、これは書くのはやめましょう。。。。ということで、以上、彼女の詩がコメントしづらいことに対してのぼくの婉曲的な(実際そうなっているかどうかはまた別)いやみ、不平でありました。さあ、風呂入って寝るぞー。(読み返さず、失礼)
(2002.10.28)-2
しかし、これでは、詩を全部打ち込んで、キーワードの出現回数から彼女の詩に於けるモチーフの傾向を割り出して、エクセルグラフにする、などという、夏休みの自由研究ばりの間抜けなことしかできない、ということなのだろうか。「空、星、昼、鳥、風、音」きっと間の抜けた結果になる。動詞なら、もうすこしましになるかな。。。
(2002.10.28)-3
次は、音楽における作詩について、です。お楽しみに。ほんとうかな?
(2002.10.29)-1
 昨日夜更かしをしたから眠いのです。それからやんわりとした頭痛が頭蓋骨に添って、頭を取り巻くようにしてあって、腹がたつのです。「あ゛ー、あだまいでえよう。いでえよう」と、ぷんぷんしているのです。昨日の文には語の使い方に混乱がありましたね。一つの言葉の意味するところが、文によって異なってくる、というのはどうやら仕方の無いことのように思えますが、、、「え、ちょっと、なんで?なんでよ」など、いま自分に突っ込まれましたので、最近の気分として、これには応えずにはおれますまい。
 一つの語は必ずある幅の意味を持っているものなのです。この世に幅がゼロの物体は存在しません。そりゃあ、偉い物理学者さんたちに、そういうことを言うと、ふふん、と嘲われてしまうものなのかも知れませんが、ぼくらの日常的な感覚の範囲内においては、そう言って差支えない。それと同じようにして、言葉、この場合はより限定して単語というほうがいいかもしれませんが、、、ね、わかりました?この「言葉」と「単語」という関係が示すように、単語にはその取り扱う範囲というのが、必ずあるんですよ。なんであるかというと、基本的には短く言うためです。いちいち、この場合の「言葉」というのは、云々、などと全ての文章でやっているわけには行きません。それでは、日が暮れてしまいますし、第一、読みにくくて適いません。哲学者(ぼくはいまニーチェを思っています)の文章は読みにくいでしょう。英語の構文で考えると判りやすいのですが、"A is B."という文があったとして、この A,B 双方に that を接続して意味を限定してゆくと、大変に読みにくくなるのです。"A that is 云々... is B that is 云々..." 文法的に許されているのかどうか、よく覚えていませんが、この that 節を更に入れ子構造にして、中のある単語についても意味の補足などをしてゆくと、これはなかなか大変な事になっていきます。まあ、ですから、普通は "A is B." と書いて、あとは読む人にとっての A と B が、書くほうと一致していることを期待する、というのが普通なのであります。そして、この単語の取り扱う範囲というのは、困った事に文章ごとに多少異なるものなのであります。そうなってしまうのは、主に人の記憶力のせいであると思われますが、つまり、そんなに細分化して語を作り出しても、とても使えないどころか、覚えてすらいられないという、記憶力の問題が一ばん大きいと思われるのであります。分厚い辞典に載っている単語を全て識って、なおかつそれを使用することが出来ている人はおそらく居ないでしょう。このため、人は同じ単語を話している内容に応じて、多少意味を、その扱う範囲を変えて、話しているものなのであります。そして、この場合においても、やはり書き手と読み手の暗黙の了解が必要なのであります。言葉というのは、そのようにして使われるものなのです。ちなみに、言葉のあや、というのは、これはまた少し別の話であるように思われますが、まあ、このような言葉の基本的な性質を悪用したものであると言えると思います。悪さというのは、楽しいものなので、みなこれを喜んでやるものと思われます。
 それから、ちなみに小説と言うのは、この暗黙の了解を取り扱うものなのであります。that 節を五百度繰り返すわけにはいかないので、作家はお話を書くのです。少なくとも、浪漫派の作家にとっての小説とはそのようなものであると、ぼくは思います。とりあげた最近の例では、「」などは、その良い例であると言えると思います。あそこで言う「義」とは、一般的な「義」とはあまりにもかけ離れているように見えるため、ああして長々と話を書いて、太宰は読者との暗黙の了解を共通化しようとしているのであります。もちろん、それはあの「父」という話だけでは成功しませんでした。その成功は、「人間失格」まで待たねばなりませんでした。あれこそが、白絹に散された蟻ん子の足跡、であります。あれを読んで初めて、太宰の言う「義」が、われわれの思う「義」と一致するのであります。「父」を読んだだけでは、どう贔屓目に見たって太宰には「義」はあるとは思えない。奥さんを大事になさい。子を可愛がりなさい。そう言われておしまいであります。それを言われてしまうというのは、つまりは、意識の共通化の努力が成功していないからであります。「人間失格」を読んだぼくらはそれでも、やっぱり彼の正義は贋物だ、と言わねばなりませんが、けれども涙を流して「贋物だ」と言うのであります。「よくわかった。わかったから、安心して死ね。お前は生きていてはならない」
『私がいまその人に一つまみのパンを与えます。その人は、ずいぶん不仕合せな男なのです。ほんとうに、その人は、生れて来なかったほうが、よかった。』
太宰は、実によくやったのであります。ああ、頭が痛い。。。
 激しく脱線してしまいました。しかも、少し喋りすぎたようです。昨日の文における意味の混乱した語を簡単にあげて終わりにしましょう。「新居昭乃の詩が曖昧だ」という部分での「曖昧」と、「曖昧とデフォルメ」という部分での「曖昧」とは、意味が少々異なります。少なくとも、ぼくは違うつもりで書いていたと思います。前者は、具体的な話として、見えない、ということを言っているのであり、後者は表さんとしているところからピントが外れて行っている、ということを言っているのだと思います。多分。ひとつの塊の中で、このような意味の違う同じ単語を用いるのは、よろしくありません。これでは、錯誤を起されても、文句は言えません。敢えて、それを狙ってやってゆく、というのは、これはつまり言葉のあや、悪いイタズラであります。なので、この場合は、素直に違う単語を用いるのがよかったのだろうと思います。ちょっといま咄嗟に思いつかないんだけれどもね。
 いや、それにしても、一日も早くこのような駄文をだらだらと書くような気分でなくなることを祈らずにはおれません。こんなもの、なんの役にもたちません。詩、とまでは行かなくても、やっぱりそれなりに気合の入った文が書きたい。では、そういうことで、頭が痛いので、今日は早く寝ます。おやすみなさい。
(2002.10.30)-1
 ぼびぼびぼびぼび。んー、そろそろ、普段の感じに戻って欲しいんですけど、、、駄目みたいですね。仕方がありません。新居昭乃、新居昭乃、と連呼する割には、氏に関する直接的なコメントが全くないという、新居昭乃の歌を踏まえて何かを言ってみよう、の話。の続きです。ほんとに踏まえてんのか?など、つっこんではいけません。氏のアルバムは毎日聴いているのであります。現に今も、聴いております。歌詞カードなども、折々ちょっと開いてみては、いけねえ、いけねえ、とてもかなわねえ、などと呟いて、またパタと閉じたりなどしてはいるのです。流石にこれだけ毎日飽きもせずに聴きつづければ、いい加減に歌詩も覚えて、あわせて歌えるようになってくるようですが、けれども一緒には歌わずに、主にコーラスが入る部分にさしかかると途端に、というような感じでして、いまかかっているのは「仔猫の心臓」という歌ですが、これなども「んダン、んダン」「ーァイ、ヤイヤイヤイ」などやっておる次第で、、、って、これ、字にするとひでえなあ。赤面した。。。と、脱線しましたが、とにかく、きちんとぼくは新居昭乃を聴いていてはいるのです。安心なさってください。
 確か一昨日、次は音楽における作詩について書くというようなことを書いたと思いますので、ではまあ、そういうことで話を進めてみようかなあ、と思います。しかしながら、わたくし、基本的に音楽に関してはズブのド素人ですので、おそらくロクなことは言い出さないのではないかな、と思いますので、お暇でない方は、さっさとh2oを読んで寝てしまってください。ついでに、今週いっぱいくらいはこの調子だろうと思いますので、少々うんざりしてきている方は、他の良いサイトにおきましてまだ辿っていないリンクへ飛んでみる、などすることをお勧めいたします。まあ、来週になれば、たぶん元に戻っていることだろうと思われますので、来週あたりに気が向きましたら再訪して頂く、というのが、ちょっと賢い時間の使い方であろうと思います。ちょっと、ですけどね。そもそも、こんなところを覗いていること自体、、、やめましょう。
 さて、これで先に言い訳は済ませましたので、気楽にやりましょう。テーマは、「音楽における作詩について」です。とは言いましても、このテーマは少々スコープが広すぎますので、話題は目下わたくしの関心の的であります、新居昭乃氏のようなポップスと呼ばれるジャンルの、それも主に自身で作詩と作曲を手がけられるような方における作詩というところから話題を始めて、そうして極力その中で終りたいと思います。もし話を拡張するのであれば、それは作詩の類型を多く取り扱う、ということではなく、詩と音の関係、詩と歌うことの関係、というような方向へ話を持っていけたりすると、おそらく新居昭乃について直接言及するためのよい寄り道になるのではないかな、など自分では思って居ります。うまく行くでしょうか。うまく行かない気がします。
 前ふりが長くなりました。ほとんど、全部言い終わってしまった気もします。けれども、読んでいらっしゃる方には、いまいちよくわからないかも知れませんので、やはり頑張って、少しずつ細かく呟いていってみましょう。
 ちょっと待ってくださいね。いま、小林秀雄の書いたものの中から、ひとつ言葉を引っぱってきて、それを以て書き出しとしようと思って探しているのですが、見つからないんです。待ってくださいね。おかしいなあ。。。
   検索中。。。(少々お待ちください)
   検索中。。。(少々お待ちください)
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      こんなことを書いていないで、早く探せ!
   検索中。。。(少々お待ちください)
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         見つからない。。。。。
   検索中。。。(少々お待ちください)
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   検索中。。。(少々お待ちください)
   検索中。。。(少々お待ちください)
   検索中。。。(少々お待ちください)
 お待たせ。見つかりました。やれやれ。では、はじめると致しましょう。小林秀雄「オリムピア」からの引用です。
『詩人とっては、たった一つの言葉さえ、投げねばならぬ鉄の丸であろう。ドガが慰みに詩を作っていた時、どうも詩人の仕事というのは難しい、観念(イデ)はいくらでも湧くのだが、とマラルメに話したら、詩は観念で書くのではない、言葉で書くのだ、と答えたと言う。』
 はあ、疲れた。いい言葉でありますが、これを今回の話に結びつけるのは、ちょっと強引にやらねばならないので、12時になったし、風呂入ってリフレッシュしてからにしようと思います。では。
(2002.10.30)-2
 はあ、いいお湯でございました。お酒が飲みたいですね。飲みたいですね。飲みたい。が、我慢。先週飲み過ぎただろ、な。な。。。よし、踏み止まった。では、先を続けましょう。
 さて、上記引用ですが、読まれてすぐに「なんだ、これは書く詩の話じゃあないか。これから話すのは、確か音楽における作詩について、だったよなあ。さては、早速尻尾を出しやがったな。案の定、とんでもないはき違いをしていやがる」と思った方は、非常にありがたい眼をしていらっしゃいます。そう思ってくれてこそ、これからの話の展開もあるというものであります。確かに、上記の問答において、ドガとマラルメが扱っているのは、おそらく書くことに依って作られる詩なのではないかと思われます。更に、こちらはぼくの都合のよい解釈かも知れませんが、この場合の詩は、朗読されることすらない、完全に文字のやり繰りによってのみ作られた詩であろうと思われます。つまり、詩吟ではない詩です。ほら、「書く」と書いていることですし、ここはこの後の都合もありますので、そう解釈することにしましょう。まあこのあたりに、これからの話のロジックがあるわけです。
 マラルメの扱う、書くことによって作る詩のことを、どう呼べばよいのか、きっと名前があると思うのですけれど、ぼくは知りませんので、仮にここでは「書く詩」と呼ぶことにします。そして、上記引用を多少言い換えてみますと、次のようなことがいえます。即ち、「書く詩」は言葉の上に成り立つものである。その土台としては、観念までを否定しているのですから、言葉"のみ"と言い切ってしまっても良いかも知れません。これはおそらく、、、ん、これはこの文章の重心となる文に違いない。これが間違っていると、きっと全部間違っているな。うむ、言ってみよう。この「書く詩」が言葉のみの上に成立する事ができるのは、それが音声では成らないからだ。はい、いかがでしょう。微妙ですね。ああ、不安になって来た。まあ、仕方がないですね、続けることにしましょう。。。
 そういうわけで、「書く詩」は言葉のみから生み出してよいものであるようなのですが、それはあくまで「書く詩」の場合にのみ言えることであり、それをそのまま、詩、という大きな集合に対して適用することはできないのであります。音声を伴っている詩では、そういうわけにはいかない。それは、言葉、とあと他の何かによって成っているものなのであります。ここでようやく、今回のテーマ、音楽における作詩、が出てくるのであります。言葉と、それから音楽の、歌の上に成立している詩というものは、いったいどのようにしてできるものなのか。何で書かれるものなのか。「書く詩」が一見、それでもよさそうに見える、観念から書く、ということが誤っているのと同じように、素晴らしい歌詩を作る、ということにも、何やら厳しい掟のようなものがありそうな気がします。それがわかれば、新居昭乃の詩はうまいのかどうか、ということがその生成手法の正当性から判断できる、のではないか。。。どこか、順番が逆のような気もしますが、気にしてはいけません。二週間頑張ってよくわからなかったんだ。いろいろやってみるより他はないだろう。
 ところで、こういうことは、音楽雑誌、例えば Rockin'on などを読むと載っているのでしょうか。業界紙には載っていそうな気がしますが、どうなんでしょう。まあ、いいや。別におれあプロでねえし。コンフォータブルな視点など必要ではない。あ、開き直った。どうやら、わたくし、今後のロジックにいささか不安があるようでございます。
 まあ、とにかく続けましょう。歌詩の立脚するものに関する考察をするのでした。けれども、わたくしはじめにも申し上げましたように、なにぶんド素人でありまして、以降の話は、ほとんど手さぐりで、そろそろ進めてゆく程度でしか、正直言ってありませんので、とりあえずは、歌詩の作成に影響を与えるものを整理することからはじめましょう。そして、この作業も、歌詩以外の詩との比較によって進めてみることに致しましょう。
 歌詩の、他の詩との最大の相違点は、言うまでもなく、音楽、曲に収まるようでなければならない、ということであります。ああ、いかん。わからないや。
 。。。だめですね、これは。やっぱり、わからない。歌って作るべきなのか、書いたものを歌にすべきなのか。音楽にのせて歌い、それが詩になるべきなのか。楽器を触ることは?歌にならないささやきは?言葉ではない声は?だいたい、歌詩という単位で評価しようとすること自体が阿呆なのではないか。歌うこと。歌うこと。歌うこと。歌うこと。歌うことによって表現するということ。歌、とはやはり言語ベースであるということ。意味のある言葉の羅列を歌う言葉として持たない歌がなぜ少ないのか、ということ。一楽器としての歌。そもそも歌というのは、音楽というのは、人に対してどういうものであるのか。歌に思いを乗せる。乗せる乗せる乗せる。乗せるとどうなるんだ?それは何に対して届くものなんだ?何に触れるものなんだ?前に書いたが、全人格の反映としての歌、その象徴としての。なんだそれは?それは一体何を意味しているんだ?意味。意味?君、観念は捨てたまえ。使うべきは、そもそもそれではないよ。感性だ。センスだよ。うるさい。それが無いから、こうやってやっているんじゃあないか。きみ、それじゃあ君は、ぼくには歌を聴く権利がないというのかね。そこから何かを受けることはできないというのかね。では、何故ぼくは音楽を、歌を聴くのかね。なぜ、Charaや、小谷美紗子や、Coccoや、新居昭乃や、中村一義や、小沢健二や、DAや、そういう人たちの作ったものだけを選び出すのかね。その理由は歌には無いというのかね。なら、一体それは何から来ているのかね。ぼくの錯覚かね。そうなのかね。いや、確かにそうかも知れないな。何せ、ぼくにはセンスが無いのだからね。
 やめだやめだ。


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