tell a graphic lie
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(2002.10.31)
寒ん空、葉の無い桜の木が切り倒されて見当たらない
あなたが愛しあっている空が青く抜ける
土に寝そべる青い魚の片目には冬空 水無川の
編物をする 薬罐が揺れ始める 秒針の音 揺れる椅子 呼吸 響く呼吸 あなたのくちびる
飼犬の見上げる飼主を越えて冬空
夜風に手の痛みが 振りあげて空
決して言われぬ言葉とコートにくるまって
澄んだ眼で見たくないあなたの笑顔の 明日はきっと霜が立つ
離すことが無い 脊骨の節を撫でて数える
あたしは宝石が欲しいあの日の雪よりも綺麗な宝石が欲しい眼を奪われたい
ひとりと呟いてひとり
電話をしないので電話が鳴らないそんなものかと溜息をついて絆について
終るなら冬がよい 冬眠は永眠であるとよい 凍る息、音のない雪
木の虚で眠る君は正しいことをしたのか
鷲をおもい雀をおもい飛べるわけもない
あなたの匂いの沁み込んだ畳に蒲団を延べて夢も無い夜
肌を切る寒さの肌を切れくちびるを切れ
見えない見えないなんて言って泣かないの、その瞳に映る私の顔、からだ
水色の血 指で掬ってあなたに舐めさせてあげる
躰がないと思えばぼくは鳥である
道を渡る蛙の伸びる道の延長線に浮いて名月
パンを買って帰ったよ、買って帰るあなたの顔が見たい
ハウスシチューのCMを、冬の部屋
手を引く手は白骨
長き夢は悪夢であった 目覚めても頭痛の、その日を生きて
人の血が見たい人の血が見たい人の肉を切りたい人を斬りました一夜明けました言うべき言葉を得ました大切なものを知りました慙愧です
犬には尻尾があるのかあなたには尻尾があるのかあなたの尻尾は黒くて先が矢じりぼくは抱かれる抱かれて眠る
踊る踊るくるくるとくるくるとだんだんに舞い上がる月の空に舞い上がる澄んだ闇に踊る舞い上がる踊る踊る闇の中踊る
地下鉄のホームにも木枯らし
あなたが桃を食べるからぼくは見ているからあなたは
できてしまった人間を抱えて天井
(2002.11.1)
酔って速くなった脈を計っている。その矛盾には、もう興味が無い。
(2002.11.2)-1
ずっとほったらかしにしていたラジオチューナーにアンテナをつける。ここは思っていたよりも、ずっと沢山のチャンネルを聴くことができるようだ。新居昭乃にも少し疲れて来たので、AM/FM あれこれと聴いてみてから、結局NHK-FMのジャズ番組を聴くことに決めてしばらく聴いてみる。ジャズはいい。いいジャズは、曲名も、人名も、楽器の名前も、その人たちがどれくらいうまいかも、何にも要らない。ただ、ジャズがそこに流れている。それだけでジャズはジャズとしての全部であれる、そこには人がない、人がなくなれるほどの、など訳のわからぬことを思い、ほっとしてそれから、少し哀しく、またチャンネルを転じて、今度は落語を聴きながら、机に頬杖ついて散り散り切れ切れ、また何の関連もないような事柄をあれこれと考えていると、ふいにぼくやあなたが暮している世界がテレビでみるようなまっ平らな板になって、その上にぽつぽつとぼくやあなたがピンでプロットされて、彼やあの子もプロットされて、テレビで見るだけの人や、今流れているチャンネルとは別のチャンネルで放送されているラジオの、スタジオでマイクを前に喋っている女の人や、それを見ているエンジニアや、今この瞬間に必ずみんなどこかに居るのだから、その居るところにぽつぽつぽつプロットされていって、それから、ぼくの両親や、弟や、ぼくの知っている人も、全然知らない人たちも同じ様にして、人々みんなが順々にプロットされていって、ついにはその世界の板はプロットされたピンで埋め尽くされてしまう。ピンの数は、大きな板が隙間なく埋め尽くされてしまうほどに厖大なのだけれども、ぼくはその一本一本をきちんと識別することができて、そして、ぼくはみんなのことをひとりひとり思って、みんなどんなに寄り添って立っていても、触れ合っていても、それぞれひとつのピンで、一本二本、ぼくは見分けて、そして数えて、だから、みんながみんなひとりひとりどうしようもなく分けられていると、それは孤独だ、と思う。そんなようなことをなんだか考えていて、落語は面白くて、上手で、ぼくはその板を眺めているのだから、ぼくはそこにぎゅうぎゅうに敷き詰められているみんなを孤独だと思うけれど、その中にぼくは見当たらない。ぼくはそれを眺めているだけで、ぼくは触れ合っていないだけで、みんながみな孤独であるのなら、今のこのぼくの状態には、きっと名前もつかないのだろうな。落語のおちは実にしっかりと成ったおちで、流石だったので、ぼくはまたこの部屋の中に戻ってきて、あれはなんだったのだろうと、また散り散り切れ切れの続き。続く。続かない。「きみは何をしているのか」満つる日がどうかあらんことを。
(2002.11.3)-1
秋葉原へ買出し。CDプレーヤ、アンプ、キーボードを買う。CDプレーヤ、C.E.C.製(よく知らないところ。外国のメーカらしい)30k、アンプは古いもので(メーカ忘れた。配達なので、まだ部屋にはない)30k、キーボードは業務用のタッチ感、耐久性に優れたもので、16k。
部屋に戻って、早速CDプレーヤだけを変えてみたら、楽器の音があからさまによくなった。みな厚みをもつようになった。ギターも、ピアノも、ベースも、ドラムも、なにもかも。それから、新居昭乃氏、小谷美紗子氏をとりあえず聴いてみているのだけれど、思わず「あんた、歌うまくなったねえ」など、わけのわからない言葉が漏れるほどである。聴いているのは、もちろん同じCDだ。伸ばすところでの、声の伸びが全然違うのである。透明度も良くなっているのである。テクニカルな感じで、渋くよくなっているのである。まだ到着していないアンプの方は、左右にドレスアップのための木目調のパネルがつくくらいのものなので、CDプレーヤ変えただけでこれなんだから、到着が実に楽しみだ。
キーボードはいちまんろくせんえん、と異常な値段なんだけど、ほんとにいいんだよ。それだけのお金を出すだけの価値は、ある、と思う人にはあって、今も、もうそれで書いているのだけれど、タイプする速度が速くなるほどに、タッチ感覚が普通のとは違うんだ。業務用の、業務というのは、データ入力業務などに使われているということらしくて、名前がまた、業務用だけにひどくて"
Realforce 106
"というんだ。見ての通り、外身は実に地味で、ちょっと見ただけじゃあ、せんえんキーボードと何も変らないように見えるんだけどね。叩いて見ると、「あっ、何これ」ってえなるわけさ。ぼくも、やたらに字数だけは叩くようになって来たから、こういうのを見ると欲しくなるんだよ。
それから、iPod を見る。知ってる?
iPod
. ハードディスク内蔵型ポータブルMP3プレーヤなのだけれど、サイズが MD プレーヤと同じくらいか小さいくらいで、さすがにちょっと厚いのだけれども、もうすごい小さくて、そんなんでハードディスク容量が 5G, 10G, 20G もあるんだよ。すげえだろ。20G っていったら、部屋のマシンと同じだよ。どうするよ。などと、握り締めながらひとりで興奮する。欲しい。電池も10時間持つそうだから、十分使用に耐えうるであろう。欲しい。ぼくはアップル社の製品にはあまり興味が無いのだけれど、いや、あのファンなしG4-Cubeにはうっとりとしたのだけれど、あれは結局いまいちで、別売りファンがあるらしいと知って、なあんだ、ちょっとがっかり、なんて思っていたんだけど、これは素晴らしい。欲しい。
(2002.11.4)-1
夜の訪れの早さが私たちをどうにかしてしまいませんように。
(2002.11.4)-2
なんも書けんくなってしまった。幸せを祈るときに言葉は要らないんだよ。
(2002.11.4)-3
Oh, my MOTHER ! 助けてくれ。ぼくはもう、ぼくの中から言葉が無くなるのに堪えることができない。
(2002.11.4)-4
「光の穴」に頼ろうとするけれど。ぼくは身の危険を感じて、固く丸まる小さな虫だ。何もできなければ、ただ震えて硬くなるよりほかに術を持たない。自分のことをお祈りする神さまもいない。
(2002.11.4)-5
ぼくには作品がひとつもない。
(2002.11.5)-1
だめ。ばっちょん。
(2002.11.5)-2
路を渡るもにょもにょ毛虫を踏まずに済んだ
裏庭に積もった落ち葉の仔猫が駈け廻る
手が冷たい手袋をしたあなたの手の温度がわからない、冬
(2002.11.6)-1
ええ、そろそろ機は熟しましたでございます。今回は、新居昭乃氏のおそらく初のアルバム単体作品であります「降るプラチナ」から、アルバムの表題作でもあります「降るプラチナ」をひとつ取りあげて少々雑記を致したいと思います。
(2002.11.6)-2
この「降るプラチナ」というアルバムは、依頼を受けて歌をつくることの多い氏の作品の中では、きわだって私的な色彩の強い一枚であります。そして、それだけに氏にとっては思い入れの強い一枚であり、所謂ひとつの金字塔といえる作品であるとわたくしは思っております。今回はその中でも、最も私的な作品であります表題作「降るプラチナ」を取りあげて、氏の抱く「おもい」の最も根幹となる部分についての言及を試み、それをもってわたくしが氏の作品をよりよく理解する助けとしようと思うのであります。
では、先ずは「降るプラチナ」の詩を御覧頂き、それに続きまして、氏のHPから曲の簡明なる解説が御座いますので、拝借させていただくことにしまして、それを御覧いただいてから、不肖わたくしの多少見当外れの駄文をはじめさせていただきたいと思います。ちなみに、わたくしの駄文のおおまかなテーマは「欠落について」です。以前、前置きに多少あげておりました、「抑制について」は、少々難しいテーマのようでして、まだ全くなにも言えるような事柄がございませんので、刻む、とでも言いましょうか、より個々の作品と直接に関連のありそうなテーマを取り上げていって、徐々にそれに迫って参りたいと思っておりますので、その辺はなにとぞご容赦願います。
(降るプラチナ)
ねぇ、私が生まれた時
パパはどんな気持がした?
遠くでおんなじ夕日を見ているの?
まぶしすぎて歩けない
突然の天気雨
世界中が反射する
歌いはじめるように
降るプラチナ
降るプラチナ
この胸に思いに降り注ぐ
まだ孤独を
まだ知らない頃に
こんな景色を予感していた
誰か触れて この背中に
探せるのなら
羽のあとを
フィルムの夕日は銀の色
忘れていたやさしい日々
腕の中で目が覚めたあの朝に
ひきさかれた怖くて暗い夜に
降るプラチナ
降るプラチナ
ただ人を愛したいだけ
いつ会えるの?
いつ心に・・・
今 指が羽に触れた
降るプラチナ
降るプラチナ
この胸に思いに降り注ぐ
降るプラチナ
降るプラチナ
ふと薄くまばたきして
空を見上げた
新居昭乃「降るプラチナ」より
(2002.11.6)-3
10 降るプラチナ
作詞 新居昭乃 作曲 新居昭乃 編曲 保刈久明
子供の頃の私の憧れは父でした。8歳の時、父が家に帰らなくなり、その頃から私は曲を書き始めました。父が出ていったのは自分のせいだと、子供はどこかで思ってしまうものですが、去年の初夏、すべてを浄化し、許し、癒してくれるような美しい光景に出会いました。そして浮かんだのがこの曲です。チェンバロとピアノとサンプリングで組立てられた音が、その時の情景描写になっています。
cut and paste this comment from the
liner notes about "FURU PULATINUM"
(2002.11.6)-4
さて、準備はよろしいでしょうか。できれば、曲を聴いていただくとよいのですが、まあ仕方がありません。はじめましょう。テーマは「欠落について」でした。しかしぼくは相変わらず、既に何も書く必要のない状態からはじめるのが好きなようです。ということで、とりあえずいつも通りに風呂に入ってきましょう。何か、よい言葉が浮ぶかもしれない。
(2002.11.6)-5
風呂上り。とりあえず、この「ございます」は止めよう。それから、文の構成に気を遣うのもやめ。喋り過ぎないように、そろそろとやろう。
(2002.11.6)-6
このアルバムが出たのが、2000.5.24 だから、解説にある「去年の初夏」は 1999年の初夏という事になる。だから、氏は8歳の時から1999年の初夏まで、「父親が出ていったのは自分のせいだ」と思いつづけていた、という事になる。解説では、「子供はどこかで思ってしまう」とあるが、この場合の「子供」は年齢的なものを言うのではなくて、関係を言うのである。失礼ながら、氏は1999年当時、既に三十代半ばに差し掛かっていたであろうから、約四半世紀に渡って、氏は、「父親が出ていった」ことを抱えつづけて生きて来たことになる。解説において言及されているように、この事実は氏が歌を書き始める相当に直接的な要因になったものと思われるが、また、これはあくまでぼくの推測に過ぎないのだが、氏はいまだ未婚であり、未婚であり続ける理由の多くは、この8歳のときに「父親が出ていった」ことに由来するのではないかと思われる。
(2002.11.6)-7
「降るプラチナ」の詩は、あくまで現在形である。
(2002.11.6)-8
その欠落について、思いたまえ。「父親が出ていった」ことに対する自身の罪はいかにして贖われるべきであるか。また、いかにして当事者の一人でありながら、完全に無力である、当時8歳であった氏がそれを贖いえたか。欠落について思いたまえ。欠けているのは、自身と共にある父親、という存在と、それから、それを招いた自身の罪を贖う直接的な手段だ。歌を始めるということは、8歳の氏にとって唯一の、そして、それ以後もおそらく唯一であったであろうその、
(2002.11.6)-9
歌うことによって、その欠落は埋めえるか。その罪は贖いえるか。思いたまえ。それには、25年という歳月を要したのだ。
(2002.11.6)-10
歌い始めた世界は、彼女にひとつのことを教える。----残念である。ぼくはそれを直接に言い表す言葉を持たない。けれども、氏はそれを「浄化」「昇華」だという。
(2002.11.6)-11
あなたの指が私の脊中、あのとき無くした羽のあとに触れて
私の翼は甦る
再びこの心が、大空を自由に舞う日を得ることができるのだ
人を愛する・・・
(2002.11.6)-12
それは、本当に私の罪だったのだろうか。そうでなかったとしたら、いったい誰の罪なのだろうか。母親の。父親の。違う。罪など、そこにはきっと無かったのだ。けれども、父親は現に、私と共にない。
(2002.11.6)-13
もう一度やってみよう。歌い始めた世界は、彼女に何を与えたのか。赦しか、それともその問いの消滅か、それともその欠落の受容か、あるいは肯定か。「もう、いいんだよ」という、一体何がいいというのだ。光りながら舞い落ちる数千のプラチナの粒は
(2002.11.6)-14
太陽はぼくらの距離を越える。それを見るときのぼくらの眼は、ある意味、光輝く巨大な光速の翼
(2002.11.7)-1
もし私自身がそうであれたなら、どんなにか仕合せなことだろうか。どんなにか素晴らしくて、光に満ち溢れた日々をもたらしてくれるだろうか。って思うのよ。
(2002.11.7)-2
でも、私にはそれは無いの。はじめから決まってるの。
(2002.11.7)-3
誰かに助けてもらうって、どうやってしたらいいんだろう。
(2002.11.7)-4
冷たい冷たい日。左目の内側に鈍い痛みがあり、熱を持っている。
(2002.11.8)-1
まだ左眼が痛い。朝起きて鏡の前に立ってみたら、目蓋が少し腫れている。陰険な顔つきに磨きがかかったようだ。電燈の位置との関係なのだが、腫れたおかげで左眼の眼球には光が当らないため黒目が光の反射を受けられず、電燈の光を反射している右眼と較べると死んだような印象を受ける。目蓋が重い。眼をぎゅっと瞑ってから開くと、完全に開かないので、指で上げてあげないといけない。やれやれ、これはしばらく不快指数が高そうだ。でも、ちょっとだけお岩さん?そう気づいて、笑おうと思ったのだけれど、これはあんまり笑うところじゃなかった。
(2002.11.8)-2
「次の次の春に」と書かれているのを見つける。変な話だけれど、「来世に」というやつを瞬間的に思う。未来の、そのまた先の。それは、恐ろしく遠い話だけれど、「必ず」やってくるものなのだ。
(2002.11.8)-3
見つめ合うのではなく、同じものを見ている。
(2002.11.8)-4
文字からなるものとして足りない部分は補えばいいのである。それをするのは、ひどく傲慢なことなのだろうけれど、それをやろうとせずに何か書こうというのよりは、もしかしたらいくらかはましなのかも知れない。
(2002.11.8)-5
欠けたところが埋まってしまったとして、そのあとどうするんだい?「欠け」が欠けるだけなんじゃあないかい?
(2002.11.9)-1
脳がたるんでいる。
(2002.11.9)-2
こちらでも、冷たくて強い風が吹きました。遠くから運ばれて来た空気は東京の空をいつもよりも少しだけクリアにしてくれていて、そこに淡い太陽光線が混じって、それでぼくは秋がもう無いことを確認してね、脚が冷えるな。もう歳だな。なんてことを思って、、、
(2002.11.9)-3
今日アンプをようやく受取ってね、繋いでみたんだけどさ、体積が今のものの6倍くらいになるのに、音がほんのちょっとしか変らなくて、しかも、BASSとTREBLEのつまみが壊れていて調整ができないし、それから、すぐに手の届く位置がいいって、ディスプレイのとなりに置いたら、その体積の30%程度を閉めているくそでかいトランスのコイルの影響でディスプレイの表示がおかしくなっちゃってね、色がおかしくなったり、画面がぶれたり、なんだよ、これごみごみじゃん。もうあたまきて、また箱に閉まってしまいました。CDプレーヤを変えたらすごくよくなったんだけどなあ。なかなかむずかしいな。
(2002.11.10)-1
うーん、下手だなあ。洒落にもならん。ぼくはどうしてこんなに下手くそなのかしら。脳みそが、足りないのではないかしら。
(2002.11.10)-2
今日はちょっと暖かくて、冬の日射しというのは低いからよく目に入るのだけれど、ぼくはあんまりそれを見てあげない。そのかわり、今日はきれいな人をたくさん見たような気がする。みんなきれいだ。
(2002.11.10)-3
明日は弟の誕生日。たぶん、ぼくと同じように、彼もそれを喜ばないだろう。
(2002.11.10)-4
ぼくはたくさん泣くけれど、ひとが泣いているのは見たくない。
(2002.11.10)-5
カップラーメンがおいしい。ありがたいと思う。"do alive"という正しくない英語が思い浮ぶ。ぼくは丈夫だから。
(2002.11.10)-6
雪、踏んでないな。踏みたいな。
(2002.11.11)-1
ひとつき、ふたつき、みつき、こうしてあらためて篤志と一緒に暮らし始めてから経った月日を数え上げてみれば、もう一年近くにもなる。「ああ、そう。もう一年にもなるのですね。確かに、もうすぐ季節をひとまわり、また秋が来ます。引越しの日の涼しい秋晴れを、思い出します。時の流れは随分と早いものです。あの日から、もう一年が過ぎてしまった。この一年、いろいろなことがあったような気がするけれど」と、私は篤志との思い出をひとつひとつ思い出そうとして、はっとする。そうだ。私はまだ、たった一年しか篤志と一緒に居ないのだ。ひとつき、ふたつき、数えてゆけば、一年も、そう思ってしまうけれど、それは違います。まだ、一年すら経ってはいないのです。篤志と一緒に過ごしていない時間の方が、それよりもまだ何十倍もの大きさで私の中にはあるのだ。私はそうして、ずっと篤志なしで暮してきたのだ。今の私は、私の今の生活のかたちを、それこそ物心ついてからずっと続けてきたように感じているけれど、実際にはまだ一年にも満たない、極く幼い、儚いものなのだ。けれど、私の時の感覚はそんな風にはなってはいない。私の中の時は、この今というものが、過去よりも、また未来よりも、ずっとずっと大きくある。今というものが、私の前にも後ろにも、地平線の向うまで、視界の及ぶずっと先まで伸びて広がっている。私に見ることのできるのは、ただ、この今だけなのだ。そうやって普段の私は、これまでもずっと篤志と暮して来たと思っているし、これからもそれは変わることはないのだと、実にあっけなく、無邪気に信じ込んでしまっている。いや、信じるも何もなく、そういうものだと思って、そうして平気でいる。
けれども、こうして今あらためて、この今の大きさを測りなおしてみると、一年にも満たないのだと、私は急に心細くなるのである。一年にも満たないというのは、あまりにも小さすぎるように、短すぎるように思える。ひどく残酷ですらあるように思えてくる。そうして、私の今立っている場所や、たとえ細々とでも、私のこれまで為してきたこと、そうした漠然と私の頼みとしているものが、なんだか急に萎んで力を失ってしまうように思えてくる。今ある私の生活は、私が篤志と一緒に居ることは、確かな、未来にも決まったことではないのですか。私が今ここに生きて、そうして篤志の隣で息をしていること、それは私の深いところで自然なことではないのですか。ねえ、神さま。いらっしゃるのならどうか、応えてくれませんか。私と篤志とのあいだには、あの赤い。
電車はカーブに差し掛かって大きく揺れ、私はドアと他人の波の狭間でぎゅっと押し潰されそうになりながら、「ああ、やっぱり今日は早く帰らないと」急に寂しくなってしまった。
(2002.11.11)-2
ねえ、朝っぱらからこんなことを考えながら電車に揺られている人って居ると思う?ま、まあいいか。そんなことを今更気にしてみてもはじまらんな。
(2002.11.12)-1
あー、ねむい。ねえ、いちにちがにじゅうななじかんで、まいにちさんじかんよぶんにねれるのと、いっしゅうかんがろくにちでしゅうきゅうふつかなのと、どっちがいい?など、微妙に具体的だけれど、全く意味の無い二択を作って、まじめに考えてみる。んーとね、んーとね、、、
(2002.11.12)-2
あとね、えと、、、なんだっけ。。。。。ああ、そうだ。新居昭乃氏からまた一曲「Flower」か「Orange Noel('e'はウムラウト附き)」か「叶えて」のどれかについて、5行ばかり書くのと、小谷美紗子氏「眠りの歌」について4行書くのと、ボオドレエルについて10行書くのと、どれがいい?ああ、それか、モオパッサンの「悲恋」、途中で投げ出していたのの続きをやるというのもあるよ。うーん、いちにち書いて、一週間休んでちゃあ、いつまで経っても終んないよ。
(2002.11.12)-3
涸れた井戸からそれでも僅かに湧き出してくる泥水を掬って飲めば、
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kiyoto@gate01.com