(Break These Chain)
自分のしたことに 驚いて泣きたくなる
考えてる余裕ないよ だって、
その声をもう一度聴けるなら・・・・・・
あたしのお願いを 聞いてくれるつもりなら
明日会えるでしょう?
怖い顔したりしないから
もう、戻れないの?
あの人に嫌われる・・・無関心よりましね・・・・・・
男だから仕方ないこと・・・なんて、納得できるような大人になんて
あたしのお願いを聞いてくれるつもりなら
明日会えるでしょう? 怖い顔したりしないから・・・・・・
ねえ、あなたから、手をのばして
手を、・・・・・・あなたから・・・・・・
「もっとそばにおいで」って言って・・・
頭の中で言うのよ いいえ、嫌われてもいいのよ
泣かないで 誰も悪くない
ほんとのこと・・・・・・
ほんとの気持ち・・・・・・
あたしのお願いを、聞いてくれるつもりなら
明日会えるでしょう?・・・怖い顔したりしないから・・・
ねえ・・・ねえ・・・ねえ・・・ねえ・・・あなたから・・・・・・手をのばして
・・・・・・手を、手をあなたから・・・・・・
いいの? はなれてもいいの? 会いたいでも・・・・・・手をはなす彼
Chara "Sweet"
(2002.11.13)-1
ぼくは結局 Chara の曲の中では、単体としてはこの初期のものが一ばん好きなのだけれど、今日ね、なんかすごくこれが聴きたくなって、Chara のライブアルバムの方に入っているのを聴いてみたら、その途中で急に鼻声になってるのを確認して、苦笑い。「誰も悪くない」ってところのあとで、Charaらしくフンフンやるんだけれど、その途中で声が詰まって歌じゃなくなっちゃうの。で、そのあとの「ほんとのこと ほんとの気持ち」がもう、もろに鼻声で、なんだ、このねえちゃん、いい歳して人前で、しかも自分の6年も7年も前に作った歌うたって嗚咽ですか。ちょっと、それは、どうなんですか。まあ、そんでも一応最後まで歌っているからよしなんでしょうか。
いや、なんで、こんなものを今更にピックアップしているのかというとね、なんか、これだなあ、って、いま思ったからなんだよ。ぼくは Chara のどこがどういいのか、うまく説明することはできないけれど、ぼくが今細々と書いている話というのは、この曲がベースになっているのかなあ、って、もちろん、これだけでは決してないのだけれど、でも、この曲が実にダイレクトに表現している、ある種の感覚というのを言い換えているだけなのかな、って思うんだ。いや、それは、やっぱりうまく説明できなくて、だから話になってしまうのだろうけれど、なんというか、いや、やっぱりなんとも言えないな。
とにかく、この"Break These Chain"では実際的なものとして扱われている、ある種の危機、というものに対する、恒常的、恒久的な不安というものについて、差し迫ったものとしてあるわけでは決してないけれども、それでも、という部分について。こんなにギリギリではないんだけれど、それに似たものは常に私のうちにはあって、それは確かに私から自由を奪い続けて、それから、大切な人をいつも大切にする、し続けるための何かを私に、、、、うん、やっぱりうまく言えないな。やっぱり、話を書くしか、ないんだろうな。
(2002.11.13)-2
ちなみにこのライブアルバム、「やさしい気持ち」という歌を、めいっぱい吠えて歌う、というものが入っている。それは実に面白くて、「手を!その手を!」という1フレーズを、聴衆と一緒になって延々と地声でがなりたてるというもので(そう、それは"Break These Chain"と全く同じモチーフ、感覚である)、全然「やさしい」気持ちな感じではないんだけれど、それはやっぱりこのライブアルバムの中で一ばんパワーがあるのである。
それから、新居昭乃氏の歌がこのライブアルバムで既に入っていて、そのつもりで聴いてみれば、確かにそれは新居昭乃氏の声で、だから随分前からぼくは新居昭乃氏の歌を聴いていたことになるのだけれど、やっぱり自分で作った歌の方がいいわねえ。いや、サポート、コーラスだから目立たないというのもあるけれど、いやいや、それぞれ一個としてみてみれば、昭乃氏の作る歌もCharaのものに負けてませんわよ。でも、ただ、昭乃氏の歌は一回、自分の裡にあるフィルタに通してからできるものなので、ナマで出しちゃえ!というCharaの曲よりはインパクトには欠ける、おりこうなものだ、というのはありますけれども。そうだよ、このスベタ、泣いて喚きちらせばいいって思って、実際それでやってきてるもんな。それに較べて昭乃氏の曲は、そこをグッと堪えて、内に溜めてそこから搾ってきているもんな。おお!そうだ!それは「抑制」ではないですか。そうだよ、溢れるままに泣いて喚きちらすのでは、ぼくとそんなに変らないじゃあないか。一度収めて、それを何かに託せる日まで、じっと内に持っておく、というのは、「抑制」そのものではないですか。
(2002.11.13)-3
そうか。ぼくがCharaを聴くのは、結局そういうことなんだなあ。
(2002.11.17)-1
昨日は、教科書が欲しくて仕方がなくなってしまったので、手当たり次第に買ってくる。
- 本居宣長(上・下) 小林秀雄 新潮文庫
- 作家の顔 小林秀雄 新潮文庫
- モオツァルト・無常という事 小林秀雄 新潮文庫
- 文学の立場 保田興十郎 新学社
- 文学評論(上・下) 夏目漱石 岩波文庫
- 文学部唯野教授 筒井康隆 岩波現代文庫
- 書物 森銑三・柴田宵曲 岩波文庫
- 小説太宰治 檀一雄 岩波現代文庫
- 代表的日本人 内村鑑三(鈴木範久訳) 岩波文庫
- 梶井基次郎全集 ちくま文庫
- 存在と時間(上・中・下) ハイデガー(桑木務訳) 岩波文庫
- この人を見よ ニーチェ(手塚富雄訳) 岩波文庫
- 物理法則はいかにして発見されたか R.P.ファインマン(江沢洋訳) 岩波現代文庫
- おくのほそ道 芭蕉(萩原恭男校注) ワイド版岩波文庫
- 山頭火句集 村上護編 ちくま文庫
- 山頭火とともに 小野沢実 ちくま文庫
- ベラミ(上のみ。下を買い忘れる。不覚) モオパッサン 岩波文庫
渋谷のなんとかという本屋に小林秀雄全集がおいてあって、あやうく買いそうになるが、一冊だけ包装を解いてあるものがあったので、手にとって開いてみると、至極読みにくい。字は大きくていいのだけれど、これでは正座しなければ読めないではないか。写したりするときには、この大きさの方が都合がよいのかもしれないが、寝ころがって頭の上にかかげて読んだりなどはとてもできない。値段を見れば、一冊8kである。馬鹿馬鹿しい。「一ツの脳髄」やら「女とポンキン」などはこんなハードカバーに入るような代物ではないだろう。先に文庫を探すべきだ。出版界の人間は、もっと機動力を意識した本作りを第一と心得るべきだ。など思い大仰なケースに苦労してまた戻し、棚に収める。そして、全集の隣へと眼を写せば、小林秀雄について何か喋っている本があるようである。著者は保田興十郎とある。こちらも開いてパラパラ見てみれば、なかなかに今日の目的に適いそうな感じのものである。小林秀雄以後が、ぼくはとても欲しいのである。けれども、こちらも全集とまでは行かないけれど、ハードカバーの大きなものなので、とりあえず名前を記憶してその場を去る。そしていつもの本屋(Book1st)で、保田興十郎文庫なる、素晴らしいものを発見したので、一冊、今回の目的にもっともあったものを買ってみる。
できれば、漱石よりも鴎外の文学評論がよかったのだけれど、とっさに見つかったのは漱石だけだったので我慢する。きっと退屈な本だろう。筒井康隆はご愛嬌。楽しめれば嬉しい。あのおっちゃんはすごくうまいけれど、きっとぼくには何も教えてくれないドケチに違いない(偏見)。
檀一雄は言わずもがな。直、である。内村鑑三は、太宰の紹介。とりあえず。梶井基次郎も。
「書物」というのは、この中で最大の収穫である可能性がある。まだ読んでいないので、何とも言えないけれど。
ハイデガーは見かけたので、冒頭を読んでみたら、なかなか読みやすそうだったので、「ぼくは当世哲学者気質ではないので、こういう集大成だけを押えておけばよろしかろう、ふんふん、これは手取り足取りに違いない。偉いぞハイデガー」など、思いつつ三巻。実際読むかどうかは不明。ニーチェはその余勢。
ファインマンも余勢。こちらはちょっと暴走気味。この人は大変に貴重な人種らしくて、非常に優秀な物理学教育者なのだそうである。大学にいるときには結局少しも読まなかったけれど。
芭蕉は、芥川の紹介、ということになるだろうか。彼のチョイスは素晴らしい。太宰よりもいいセンス。
山頭火句集を買ったのは、随筆が入っているから。解説の方は、タイトルがとても気に入ったから。
ベラミはモオパサッサンの持っていないものだったので。部屋に戻ってから、「上」の文字を発見する。
しめて20k弱。読み尽くすのに半年以上かかるであろう。途中で逸れていく可能性もおおいにある。
(2002.11.17)-2
見て廻っているとき、「しかし、なんでこういうのって、まんまなマニュアルがないんだ。文章の定義と構成要素と目的、意義などの総論から入って、それぞれについての詳細なる各論があるという。誰か作ったれよ」ぶつぶつやりながら、本屋のなかをうろうろしていたのだけれど、いま「書物」のはしがきを読んでいて、まあ、これに近いんだろうな。など思った。いや、ほんとは、そういうのがきちんとあるということは知ってはいるんだけれども、見つけられなかったので。