tell a graphic lie
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(Break These Chain)

自分のしたことに 驚いて泣きたくなる
考えてる余裕ないよ だって、
その声をもう一度聴けるなら・・・・・・

あたしのお願いを 聞いてくれるつもりなら
明日会えるでしょう?
怖い顔したりしないから

もう、戻れないの?

あの人に嫌われる・・・無関心よりましね・・・・・・
男だから仕方ないこと・・・なんて、納得できるような大人になんて

あたしのお願いを聞いてくれるつもりなら
明日会えるでしょう? 怖い顔したりしないから・・・・・・

ねえ、あなたから、手をのばして
手を、・・・・・・あなたから・・・・・・

「もっとそばにおいで」って言って・・・
頭の中で言うのよ いいえ、嫌われてもいいのよ
泣かないで 誰も悪くない

ほんとのこと・・・・・・
ほんとの気持ち・・・・・・

あたしのお願いを、聞いてくれるつもりなら
明日会えるでしょう?・・・怖い顔したりしないから・・・

ねえ・・・ねえ・・・ねえ・・・ねえ・・・あなたから・・・・・・手をのばして
・・・・・・手を、手をあなたから・・・・・・


いいの? はなれてもいいの? 会いたいでも・・・・・・手をはなす彼

Chara "Sweet"

(2002.11.13)-1
 ぼくは結局 Chara の曲の中では、単体としてはこの初期のものが一ばん好きなのだけれど、今日ね、なんかすごくこれが聴きたくなって、Chara のライブアルバムの方に入っているのを聴いてみたら、その途中で急に鼻声になってるのを確認して、苦笑い。「誰も悪くない」ってところのあとで、Charaらしくフンフンやるんだけれど、その途中で声が詰まって歌じゃなくなっちゃうの。で、そのあとの「ほんとのこと ほんとの気持ち」がもう、もろに鼻声で、なんだ、このねえちゃん、いい歳して人前で、しかも自分の6年も7年も前に作った歌うたって嗚咽ですか。ちょっと、それは、どうなんですか。まあ、そんでも一応最後まで歌っているからよしなんでしょうか。
 いや、なんで、こんなものを今更にピックアップしているのかというとね、なんか、これだなあ、って、いま思ったからなんだよ。ぼくは Chara のどこがどういいのか、うまく説明することはできないけれど、ぼくが今細々と書いている話というのは、この曲がベースになっているのかなあ、って、もちろん、これだけでは決してないのだけれど、でも、この曲が実にダイレクトに表現している、ある種の感覚というのを言い換えているだけなのかな、って思うんだ。いや、それは、やっぱりうまく説明できなくて、だから話になってしまうのだろうけれど、なんというか、いや、やっぱりなんとも言えないな。
 とにかく、この"Break These Chain"では実際的なものとして扱われている、ある種の危機、というものに対する、恒常的、恒久的な不安というものについて、差し迫ったものとしてあるわけでは決してないけれども、それでも、という部分について。こんなにギリギリではないんだけれど、それに似たものは常に私のうちにはあって、それは確かに私から自由を奪い続けて、それから、大切な人をいつも大切にする、し続けるための何かを私に、、、、うん、やっぱりうまく言えないな。やっぱり、話を書くしか、ないんだろうな。

(2002.11.13)-2
 ちなみにこのライブアルバム、「やさしい気持ち」という歌を、めいっぱい吠えて歌う、というものが入っている。それは実に面白くて、「手を!その手を!」という1フレーズを、聴衆と一緒になって延々と地声でがなりたてるというもので(そう、それは"Break These Chain"と全く同じモチーフ、感覚である)、全然「やさしい」気持ちな感じではないんだけれど、それはやっぱりこのライブアルバムの中で一ばんパワーがあるのである。
 それから、新居昭乃氏の歌がこのライブアルバムで既に入っていて、そのつもりで聴いてみれば、確かにそれは新居昭乃氏の声で、だから随分前からぼくは新居昭乃氏の歌を聴いていたことになるのだけれど、やっぱり自分で作った歌の方がいいわねえ。いや、サポート、コーラスだから目立たないというのもあるけれど、いやいや、それぞれ一個としてみてみれば、昭乃氏の作る歌もCharaのものに負けてませんわよ。でも、ただ、昭乃氏の歌は一回、自分の裡にあるフィルタに通してからできるものなので、ナマで出しちゃえ!というCharaの曲よりはインパクトには欠ける、おりこうなものだ、というのはありますけれども。そうだよ、このスベタ、泣いて喚きちらせばいいって思って、実際それでやってきてるもんな。それに較べて昭乃氏の曲は、そこをグッと堪えて、内に溜めてそこから搾ってきているもんな。おお!そうだ!それは「抑制」ではないですか。そうだよ、溢れるままに泣いて喚きちらすのでは、ぼくとそんなに変らないじゃあないか。一度収めて、それを何かに託せる日まで、じっと内に持っておく、というのは、「抑制」そのものではないですか。
(2002.11.13)-3
そうか。ぼくがCharaを聴くのは、結局そういうことなんだなあ。
(2002.11.17)-1
昨日は、教科書が欲しくて仕方がなくなってしまったので、手当たり次第に買ってくる。
 渋谷のなんとかという本屋に小林秀雄全集がおいてあって、あやうく買いそうになるが、一冊だけ包装を解いてあるものがあったので、手にとって開いてみると、至極読みにくい。字は大きくていいのだけれど、これでは正座しなければ読めないではないか。写したりするときには、この大きさの方が都合がよいのかもしれないが、寝ころがって頭の上にかかげて読んだりなどはとてもできない。値段を見れば、一冊8kである。馬鹿馬鹿しい。「一ツの脳髄」やら「女とポンキン」などはこんなハードカバーに入るような代物ではないだろう。先に文庫を探すべきだ。出版界の人間は、もっと機動力を意識した本作りを第一と心得るべきだ。など思い大仰なケースに苦労してまた戻し、棚に収める。そして、全集の隣へと眼を写せば、小林秀雄について何か喋っている本があるようである。著者は保田興十郎とある。こちらも開いてパラパラ見てみれば、なかなかに今日の目的に適いそうな感じのものである。小林秀雄以後が、ぼくはとても欲しいのである。けれども、こちらも全集とまでは行かないけれど、ハードカバーの大きなものなので、とりあえず名前を記憶してその場を去る。そしていつもの本屋(Book1st)で、保田興十郎文庫なる、素晴らしいものを発見したので、一冊、今回の目的にもっともあったものを買ってみる。
 できれば、漱石よりも鴎外の文学評論がよかったのだけれど、とっさに見つかったのは漱石だけだったので我慢する。きっと退屈な本だろう。筒井康隆はご愛嬌。楽しめれば嬉しい。あのおっちゃんはすごくうまいけれど、きっとぼくには何も教えてくれないドケチに違いない(偏見)。
 檀一雄は言わずもがな。直、である。内村鑑三は、太宰の紹介。とりあえず。梶井基次郎も。
「書物」というのは、この中で最大の収穫である可能性がある。まだ読んでいないので、何とも言えないけれど。
 ハイデガーは見かけたので、冒頭を読んでみたら、なかなか読みやすそうだったので、「ぼくは当世哲学者気質ではないので、こういう集大成だけを押えておけばよろしかろう、ふんふん、これは手取り足取りに違いない。偉いぞハイデガー」など、思いつつ三巻。実際読むかどうかは不明。ニーチェはその余勢。
 ファインマンも余勢。こちらはちょっと暴走気味。この人は大変に貴重な人種らしくて、非常に優秀な物理学教育者なのだそうである。大学にいるときには結局少しも読まなかったけれど。
 芭蕉は、芥川の紹介、ということになるだろうか。彼のチョイスは素晴らしい。太宰よりもいいセンス。
 山頭火句集を買ったのは、随筆が入っているから。解説の方は、タイトルがとても気に入ったから。
 ベラミはモオパサッサンの持っていないものだったので。部屋に戻ってから、「上」の文字を発見する。
 しめて20k弱。読み尽くすのに半年以上かかるであろう。途中で逸れていく可能性もおおいにある。
(2002.11.17)-2
見て廻っているとき、「しかし、なんでこういうのって、まんまなマニュアルがないんだ。文章の定義と構成要素と目的、意義などの総論から入って、それぞれについての詳細なる各論があるという。誰か作ったれよ」ぶつぶつやりながら、本屋のなかをうろうろしていたのだけれど、いま「書物」のはしがきを読んでいて、まあ、これに近いんだろうな。など思った。いや、ほんとは、そういうのがきちんとあるということは知ってはいるんだけれども、見つけられなかったので。

(2002.11.17)-3
  はしがき
 「書物」という名の書物を拵えるということが何やら愉快そうで、ついそれを引受けて、二人で協同して執筆することにしたものの、考えてみると、書物の名前が「書物」では、生れた子供に「人間」という名が附けられたようで、第一呼ぶにも工合いが悪い。厄介な書物を引受けたものと、後になって気が附いた。
 書物は無数にある。到るところに存している。書物を主題とした書物を一冊作ることくらい、わけはなかろうと、始は高をくくっていたが、さてかかって見るとそうでもなかった。書いてもよいことと、書かなくてもよいこととの区別が附かぬ。結局「書物に興味を持って書物と共に暮している二人の男のたわごと」とでもいうべき、見事無用の書が出来上がった。云々
「書物」はしがき 森銑三

(2002.11.17)-4
それから、ようやく芥川「歯車」まで読み終える。「蜃気楼」はよかった。芥川は三十過ぎてからようやくこういうものを書き始める人だったらしい。順序がひとと逆だ。「歯車」は、40頁程度ありますが、よく頑張りました。これは量がとても重要な作品なので。即ち、その最後の言葉、「----僕はもうこの先を書きつづける力を持っていない。こう云う気持ちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」それでもこの人は最後まで実にきれいな人だったけれど。馬鹿みたいに不幸だね。悪口を一ぱい言いたいんだけど、止めましょう。もう既に自分で言っていたはずだから。「蜃気楼」はそのうち写すと思います。あと、「おしの」「おぎん」あたりも。そんだけ。
(2002.11.17)-5
引越し先を見てくる。ベランダから多摩川が見えた。
(2002.11.18)-1
ほったらかしにしていた絵の教室から一度来いとの封書が来る。今週末にでも受講証を返して謝ってこよう。ごめんなさい。ぼくは絵描きでありませんでした。
(2002.11.18)-2
「小説太宰治」を読む。太宰のことよりも、書いた檀一雄自身の方へ関心が行く。生きるための、陽性の、人として本来あるべき苦悩の形を見る。実際、文中の太宰には全然存在感がなくて、それはつまり太宰をよく描けているということなのだろうな、などと思う。文中の太宰は、女々しいばかりの、へろへろのただの腰抜けなのである。これでもよく書いている方であろう。太宰がうろうろしているその同じ時に、違う場所で檀一雄もやっぱりうろうろしているのだが、けれどもそれは、本質的には全く別のもので、檀一雄のそれは至極健康的なものなのである。どうしようもなく健康的なのである。どうしようもなく、そこには未来があるのである。穴の底。井戸の底。そこにはいつか必ず陽のさす時がめぐってくる。そこを出て、また潤いと渇きと、昼と夜と、霧と晴れ間、春と冬、営みの存在するあの世界にまた。その汚辱は何れにしろ、いつかは浄化される日が来る。たとえ浄化されずとも、そこには、その先にはあの大いなる強さ、ナウシカのあの。そして、ぼくらは「雲霧の筵」刑場は何処かね。地獄は、この下に?本当にあるのかね。。。陳腐だ。
(2002.11.18)-3
最近、この対極にあるふたつの人種がひとくくりにされていることに多少の興を覚えるとともに、自分としてはできるだけきちんと区別して取り扱うべきだと思っている。即ち、勝者と敗者と。やるからには、必ずそのどちらかに完全に属するべきだ。その間、半端なやつはその名を冠する資格を持たないものだ。贋物だ。ただの真似事だ。比較することすらできない。檀一雄は、勿論勝者だ。鼠を獲る猫。勲章のよく似合う素晴らしい人格だ。人々の、誇りだ。全ての文字は、言葉は先に、まず彼らが使うべきである。その恩恵は、栄光は、神聖は、彼らを導き、輝かしい壇上に立たせるために、まずあるのだ。自然の美しさや、荒々しさ、叙情などは、彼らのためにこそ常に開かれているのだ。その間、ぼくらは無を「無」とただ一字で書きあらわしていよう。
(2002.11.18)-4
いや、久しぶりに無骨で逞しい文章を読んでね、妬いているんだ。この滅茶苦茶な文章に、それでも厳然として存在する太い骨格に嫉妬して苛々しているんだ。そして、この感情の暗く湿っていることに対しても、また苛々して仕様がないんだ。

(2002.11.19)-1
「小説太宰治」の中に、保田興十郎の名前があってちょっとがっかり。もうちょっと後の人だと思っていたのに、太宰と同年代の人のようである。「怪物」という称号をつけられているので、おおいに期待はできそうではあるのだが、これではあまり小林秀雄以後にならない。一向に太宰以後へと進んでゆかない。
 それから、中原中也も出てくる。彼の詩集をもそもそ読んでいくうちに、どうしても表紙などによく使われる帽子を被ったあの写真のイメージから離れてゆくので、おかしいなあ、と思っていたら、あの写真がどうかしているだけだった。奴は太宰以上の、当に正真正銘の「ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ」ではないですか。

 寒い日だった。中原中也と草野心平氏が、私の家にやって来て、ちょうど、居合わせた太宰と、四人で連れ立って、「おかめ」に出掛けていった。初めのうちは、太宰と中原は、いかにも睦まじ気に話し合っていたが、酔が廻るにつれて、例の凄絶な、中原の搦みになり、
「はい」「そうは思わない」などと、太宰はしきりに中原の鋭鋒を、さけていた。しかし、中原を尊敬していただけに、いつのまにかその声は例の、甘くたるんだような響きになる。
「あい。そうかしら?」そんなふうに聞えてくる。
「何だ、おめえは。青鯖が空に浮んだような顔をしやがって。全体、おめえは何の花が好きだい?」
 太宰は閉口して、泣き出しそうに顔だった。
「ええ?何だいおめえの好きな花は」
 まるで断崖から飛び降りるような思いつめた表情で、しかし甘ったるい、今にも泣きだしそうな声で、とぎれとぎれに太宰は云った。
「モ、モ、ノ、ハ、ナ」云い終って、例の愛情、不信、含羞、拒絶何とも云えないような、くしゃくしゃな悲しいうす笑いを泛べながら、しばらくじっと、中原の顔をみつめていた。
「チェッ、だからおめえは」と中原の声が、肝に顫えるようだった。
 そのあとの乱闘は、一体、誰が誰と組み合ったのか、その発端のいきさつが、全くわからない。
檀一雄「小説太宰治」抜粋

 うむ、これこそ、ああいう詩を書いて平気でいる男に似つかわしい横顔である。煮ても焼いても食えない。あの写真はやっぱりおかしい。あんなに品のいいおぼっちゃんのわけがない。あんなの使ってるのは、誰の差し金だ。まさか自分で選んだわけでも、、、流石にそこまで厚顔ではなかろう。うん。。。それから、太宰も「あい」とか言って、たらたらやってるんじゃねえ。顔でけえくせに。

(2002.11.19)-2
でも、「青鯖が空に浮んだような」という表現は素晴らしい。かっぱらうことにする。
(2002.11.19)-3
高村光太郎はいい人だったと思うのね。でも、中原中也はいい人だったとは、どうしても思われなくて。どこがどうとか、あんまり言われないので、あれなのだけれど、「この野郎、書き跳ばしてやがる」っていうのが、何となくむらむらと。いや、なんで、この二人を較べるのかといえば、単に一緒に買ってきたからなんだけど。
(2002.11.19)-4
雑談ついでに。ばあさんが賞をうけたので、祝辞。大道ここに極まれり。あなたのような人を持ったまま我が祖国が新世紀を迎えていることは、我々にとって大変に大きな希望の拠りどころであります。世の中の喚くことと飯を食らうことだけからなっている者どもよ、あれを見よ。そして、働け。彼の道を追え。
(2002.11.20)-1
世の中には「類語辞典」なる、まことに卑怯な代物が存在するようで、これを用いれば、往年のもの書き諸氏が長い期間の精進刻苦の末につちかった言いまわしのボキャブラリを、鼻歌うたいながら頁をペラペラめくって、せんべい袋からガサガサせんべい一まい取り出してくわえながら、見つけた項を斜めに見下ろし、「どーれにしよーかなぁ」など甚だ不真面目なる態度にて選定し、「ふむふむ、これなどはなかなかに技巧を凝らした感じがいたす」などとても他人には聞かせるわけにはまいらないようなことを隠れた笑みと共に呟き書き写して、それをあたかも苦心の業のようにして見せることができるのである。そのはずである。うむ、買おう。
(2002.11.20)-2
 見上げれば葉の無い木
 裸木の幹を枝をぬって白く昼空
 乾いた路面の寒さを話しあわなくなった
 落ち葉が朽ちはじめている歳をとる
 一ぱいのココアを溶かしている女の子と目があって
 見上げて逸らさないので手を振って去る
 歳をとって一年前のことは思い出したくない
 酒を啜って寒さ
 猫が駆けてゆく先の門と人影
 すれ違ったひとの誰一人として覚えていない覚えてくれない
 曇天に冬も沈む
 交わした言葉を夜まで持って今夜の夢のかたち
 柿の熟れて冷たい風のこの風は南風か
 人海の、二人立って指を合わせる
 無いものを数え上げて、今は月がでているのだろうか
 あなたの手が荒れていて指輪を探してくる

(2002.11.21)-1
 定期の期限が切れて更新ついでに二子玉川の紀伊国屋へ行く。買ってまいりました「類語大辞典」。ちょっと、これは本当に極悪非道な辞典かも知れませぬ。ほんとにせんべいばりばりやりながら語を選ぶというようなことをやれるようです。いや、まさにそのために作られたもののようであります。目的の語の探し方は、ネットの検索と酷似しております。すなわち、関連のありそうな語を適当に思いつく限り並べて、エイヤ、とボタンを押すという。まあ、この「類語大辞典」の場合は並べる必要はありませんが、その代りに冊子なので多少の手間がいるというような感じですが、こと言葉に関する検索であるならば、特化され、人の手に依って丁寧に編まれている分だけ「類語大辞典」の方が効率がよいものと思われます。まあ、高級オーダーメイドといったところでしょうか。
 それでは、ちょっと試してみましょうか。例えば、今ぱっと開いたところにありました「居直る」という語は、「類語大辞典」内では、「ふるまう(態度・挙動)」というカテゴリーの、「かしこまる」という小分類(「類語大辞典」用語で、99ある語のカテゴリーのもうひとつ下の分類)に属する語でありまして、この「かしこまる」という小分類には「居直る」のほかに、

  • かしこまる
    • a. 動詞の類
      • かしこまる
        畏まる 改まる 筋張る 角張る 四角張る 形式張る 儀式張る 格式張る 威儀を正す 居住まいを正す 居直る 膝を正す 襟を正す 裃を着る
      • きんちょうする
        緊張する 硬くなる 鯱張る 固唾を呑む 気を張り詰める
      • 緊張したときの様子
        締まる 引き締まる 強張る 息を詰める 息を凝らす 息を殺す 息が詰まる 気が詰まる 気が張る 肩が凝る
      • 小さくなる
        小さくなる 畏縮する
      • 恐れ入る
        恐れ入る 痛み入る 恐縮する 恐懼する 畏怖する
      • へりくだる
        謙る 謙遜する 下手に出る
      • かしこまった態度
        三つ指突く 正座する 端坐する 危座する 正装する 礼装する
    • c. 形容詞の類
      • 堅苦しい
        硬い 堅苦しい 息苦しい しかめつらしい
      • 恐れ多い
        恐れ多い 勿体無い 忝い
    • d. 形容動詞の類
        畏まった 張り詰めた 気詰まりな 気ぶっせいな 謙った 謙虚な 神妙な 低姿勢な
      • 緊張する様子
        かちかちの かちんかちんの こちこちの こちんこちんの 生硬な
    • f. 副詞の類
        謹んで 恐れ乍ら 憚り乍ら 鞠躬如と 恐れ多くも 畏くも ぴんと
    • h. 名刺の類
      • かしこまること
        恐れ 畏敬
      • へりくだること
        謙譲 礼譲
    • z. その他
        如何致しまして
      • 手紙の挨拶の言葉
        かしこ あらあらかしこ めでたくかしこ 恐恐謹厳
     とまあ、こんな感じで矢鱈滅多らに関連のありそうな語が羅列されているわけであります。今気がつきましたが、例としては「居直る」はどうやらかなりよくない語であったもののようです。「居直る」はこの分類中ではかなり異端の語のようであります。例を変えることにしましょう。たとえば、「改まった態度で、云々」ということを、その言い方はさっきも使ったからと、ちょっと違うように書きたいときにはぼくはこの項へやってきて紙面を撫で廻し、「鞠躬如として、云々」やら「膝を正して、云々」など言い換えることを発見し、あとは、さてどれにしたものか。これはもう使った、これはまだ使っていないはずだ、これはちょっと大袈裟すぎる、などしたり顔して撰定、六個くらい抜き出したあとは、サイコロでも転がして、出た目は三、うむ、「襟を正して、云々」に決定致した。など、大仰に頷いてタイプする事になるわけですな。うむ、これは大変に卑劣な道具であります。素晴らしい。
     ただ、この例を見ても、少しわかるんですが、この辞典、はっきりいってまだ青いです。語の数も、まだまだ不十分である様に思われますし、使い始める前に巻頭の「この辞典を世に送り出すにあたって」「この辞典の成り立ち」などの普通の辞典であるならば、もっとも顧みられることの少ない頁、コンセプトに関する文章を読まなければならないというのは、辞典としては問題であります。また、この辞典の命であります、語の分類に関してもまだまだ洗練が足りないようで、更に版を重ねて洗練を加えていくことが必要であろうと思われます。検索の方式についても、尚改良、機能の追加が必要である様に思われます。また、項目のレイアウトも広辞苑などに比するにまだまだ稚拙なる点が多きことが一見して窺い知れるのであります。だいたい、横書きだし。それはどうなんだよ。なんだかそこには強力な意思があるような気はするけれど。いや、ぼくは横書き人間だから全然いいのだけれど。
     しかし、辞典を見て、「青い」と感じるとは、面白いな。けれども10年くらい経って、第三版くらいになれば、これは実によい辞書になるであろう。努力次第では、国語辞典、漢和辞典、類語辞典という風に日本の辞書は三本の体制になるかもしれない。頑張って改良、普及に努めて欲しい。
    (2002.11.21)-2
    それから、ついでにまた数冊購入。
    • 文章読本 谷崎潤一郎 中公文庫
    • 赤と黒(上・下) スタンダール(桑原武夫・生島遼一訳) 岩波文庫
    • ベラミ(下) モオパッサン(杉捷男訳) 岩波文庫
     谷崎「文章読本」はかなりよさそうです。他にも何だかそういうのが並んでいる一角があったので、適当に数冊手にとって見てみるも、なんだか、抽象的な心がまえについての記述ばかりの本が大半、更にはじめから結論は「書け」でしかない、というような投げやりな姿勢なばかり。なんだお前は、それでもテキストのつもりか、など呆れてもの言えず、結局この古典を買ってくることになったのでありました。
    (2002.11.21)-3
    けれども、これにも「書きたくないことを書くにはどうしたらいいのか」ということと、「てめえの書いたものをどう審査すべきか、その手法について」らしきものは見当たらないようで御座います。結局、三時間そこらをうろうろするしかないのか。三日ほったらかしにして、そろそろ何を書いたのか忘れてみたりするしかないのか。
    (2002.11.21)-4
    「あーあ、家に帰りたくないなあ」
     つばめが閉まったドアに寄りかかり、動き出した車両の窓外、闇の中をゆっくりと流れてゆく、陽が暮れるとライトアップされる時計台の大時計を追いながら呟く。
    「何それ。なんかあっち系のやばい発言だね」
     和歌子は、唐突な言葉に振り向いてつばめの顔を見つめながら、それでもとりあえずは茶化すような声で、返事をかえした。
    「うん」
    つばめは表情を変えずにただ頷いて、相変わらず窓外の夜か、ガラスに映りこむ自身の顔を眺めている。和歌子は、少し安心して吊り広告の美容マッサージ器の宣伝文句を何となく頭の中でなぞった。「一日十分。気になる場所に、、、」
    「今、うちの家、ひどいんだよ」
    「え?」
    ひとみが、和歌子よりも先に声を上げたので、和歌子は声を詰まらせて、ただやはり窓ガラスへ顔を向けたままのつばめを見た。
    「両親が、顔をあわせるたびに喧嘩してるの。ときどきお父さんが、お母さんを殴ったりして」
    つばめは和歌子の方を向いて、何か笑みのようなものをたたえながら話し始めた。和歌子は思わず、つばめから目を逸らして隣のひとみを見ると、ひとみは既にひきつった笑いを顔に加えていた。和歌子はつばめから目を逸らしたまま、呆れたような、ひどく他人事のような感じで応えた。
    「へええ。ほんとう。やばいね」
    「でしょ。ほんと、もうやばいんだよ。家に帰ってもさ、御飯が出て来ないの。誰も作らないのね。それから、誰も家事をしないから、洗濯から、掃除から、全部自分でやってるよ」
    「ええー、大変だねえ」
    「うん、すごい」
    和歌子とひとみは顔を見合わせて驚く。つばめは妙な笑みを浮かべたまま、全体に投げやりな口調で話を続ける。
    「試験勉強どころじゃあないっつーの」
    「あ、でも、それなら、夕御飯はどうしているの?それから、朝御飯も」
    ひとみが訊ねた。
    「納豆御飯食べてるよ。私、それしか。何も他に作れないからね。あはは」
    「あはは」
    「お弁当も、作ってくれない」
    「え、じゃあ、昼御飯は?」
    「ないんだもん。食べないよ」
    「ええー、お腹すかないのー?」
    「すくよー。もう今も、おなかペコペコ。あー、そんなこと言ってたら、お腹なっちゃいそう」
    「すごいねー」
    「で、家帰っても御飯ないし。あー、帰りたくなーい」
    つばめはまた窓の外へと視線を移す。和歌子もひとみも目を落して、黙ってしまう。
    「昨日もさー、帰りたくなくて、結構遅く、十時過ぎてから家に帰ったのね。そうしたら、お父さんがすごい顔して出てきて、私、殴られるかと思って覚悟してたんだけど、まあ、殴られなくて。お父さん、そのかわりにね、『家を嫌いにならないでくれ』とか言ってさー。泣きそうになってんのね。はあ、マジかよ、このおやじ。くせーんだよ、おやじ。みたいな」
    つばめの笑いはどこかふらふらとしているが、相変わらず馬鹿にしたような笑みをこぼし続けている。
    「それはちょっとひどいねえ」
    「いい歳して」
    「やってらんないよね」
    笑っている。
    「それでさ、一回部屋戻って、しばらくしてから下におりて行ったらね、お父さんが、ひとりでドンベエ食べてんの。それ見たら、なんか私、可哀相になっちゃってさ。『少しちょうだい』って言ったら、お父さん慌てて、『全部あげるよ』とか言って。どんぶりごと寄越すの。ドンベエの」
    「ドンベエじゃあねえ」
    「ねえ。で、それから、そのままちょっとお父さんと話してさあ、『今日お父さんが一ばん嬉しかったことは、お前と話ができたことだ』とか言って、泣き出して、ひっくひっくやりだすのね。もう、ちょっと、あり得なくない?」
    「うわぁ」
    「馬鹿だよね」
    「うん。ちょっと」
    和歌子もひとみも、つばめに合わせて笑って、ただ茶化すように応える。
    「あーあ、お腹減ったあ」
    そう呟いて、つばめはまた黙り、窓の外に広がる闇を覗き始めた。和歌子とひとみは顔を見合わせて、苦笑いを浮かべた。
     電車は三人の下りる駅へ到着し、目の前のドアが開く。和歌子とひとみはもうどう笑っていいのかわからなくなって、ひとり別れて乗り換えてまだ先の駅へとゆくつばめに、
    「なんか、すごいねえ。まあ、とにかくどうにか頑張ってよ」
    「うん。頑張って」
    かろうじて励ましの声を、それでもいつも三人でたわいもない話をするときと同じ調子、他人の噂話をするような口調、笑いを以てかけたのだった。
    「ありがとー。がんばるよう」
    別れ際のつばめは、その言葉に励まされたような顔をして笑い、手を振った。

    (2002.11.21)-5
    ぼくは耳をふさぐか、うずくまるかしたかったんだけれどね、この子達が、そうしないのにどうしてぼくがそれをすることができるのか。って、思って、
    (2002.11.23)-1
    一日寝て過ごす。今週は、何をしたというわけでもないのに、睡眠時間が短かかったようで、昼すぎの電話で目覚めた後も、眼玉も頭もとろとろ。結局、蒲団にもぐりこんだまま本を読んで、途中でメールを書いたりなどしたものの、そのまままた寝ついてしまう。夜になってまた目覚めると、さらさら雨が降っている。それで、今日はもう全部諦めて、もうひとねむり。10時過ぎ、雨も止んだ頃にようやく起き出して、煙草をくわえながらコンビニへ買い物。雨上がりの夜の路地はいつも静かで、いつもただひとりだと思う。背の高いマンションの天辺には赤い明かりが明滅している。街灯の光は聞えない音を立てて濡れた路面に降り注いでいる。コンビニには、バイク好きの青年達が、きっとそのうちの一人の部屋に集るのだろう、買出しをしていた。彼らの歳は幾つだろう。あまり離れてはいないはずだけれど。なんだか不思議に思う。帰り道でもまた煙草を一本。短くなったそれを、火のついたまま地面に叩きつけたら、きらきらとねずみ花火みたいに飛び跳ねた。誰も見ていないと思っていたのだけれど、それを道路の反対側の歩道で立ちどまって電話をしていた同じくらいの歳の女の子が見ていた。別に、なんでもないんです。途中すれ違った三人の人は、みんな電話をしながら歩いていた。ぼくはうつむいて横断歩道を渡り、夜の雨上がりの路上はみんなひとりになることを思った。
    (2002.11.24)-1
    太陽と向日葵、もしくは炬燵と蜜柑、といったような肌合いのものを、ぼくは持っていないような気がしたので、ちょっと買ってみる。クラムボン「id」。汝、雑音を愛せよ。羽織ったジャケットに附きし耳を取捨てず、却って其を左胸にそっと載せて汝の某日の確かな勲章とし、ゆくらしゆくらしてハンガーにかけ、そうして眠りにつけ。昨日街に貰った雑多な想念、或は邪悪、棄てず懐に収めて汝の体温を護れ、歩み行け。要るときに燃やして、足りない温度の束を補え。隣には誰がいる?意識して、確かめてみなさい。焦燥はきっと向きを転ずる。
    (2002.11.24)-2
    しかし、下手だ。あと五年頑張りなさい。それではまだ霧のようだ。いずれ風に乗りそれぞれがどこか別の違う場所へ運ばれて散り散りになってしまう。そうせずにとり固めるのが、君らの役目だ。自覚したまえ。それは大変にありがたいものだぞ。
    (2002.11.24)-3
    必ず半歩ずつ行くのだ。
    (2002.11.24)-4
    日が暮れてすぐの街には、たくさんの二人連れが往来をとろとろと歩いている。ぼくはそのうちの幾つかの組をぼんやりと眺めながら、自転車をゆっくりと走らせる。おもしろいのは、ぼくが先刻一瞥してきたその十数組ないし、二十数組のカップルは、みなそれぞれに同じようなことを、つまりただ仲睦まじげに連れ立って歩いているだけなのだが、それのどれもが、きちんとそれぞれに別のものにぼくには映ったことだ。みな、それぞれに面白かった。ふたりの間のリンクの様態、形式は、それぞれに固有でそれぞれに面白く、眺めて飽きることのないもののように思われた。そして、それらの人たちの周囲の空間の温度は、確かに他よりもいくらか高いように感じられた。それは、ひとが自然に作り上げるものの最もよきもののひとつであろう。冬の街へ出るのは、それを見るだけでも面白いものなのかも知れない。ぼくは、彼らの二三の簡単なやりとりを通して、うまくすればその独自の形式の一部を正確に転写することが可能かも知れない。それを積み重ねれば、その先に何か聖域のようなものを形づくることができるかも知れないと考えたりした。いや勿論、あのいやなものも同時に、まだ、あるよ!
    (2002.11.24)-5
    もちろん、こんなものを書くのは、小林秀雄の影響に決まっている。「モオツァルト」を読んだんだ。今日はこれでいっぱいです。小林秀雄は、平気で(か、どうかはわからないけれど)天才三人四人を相手取って批評を展開するのだから、恐れ入る。しかも、自身のその行為の本質的な無力を常に抱えながら。彼は常に、受け取れていないものを、そのようにはっきりと申告する。どうしようもない溝を、溝として認識する。天才数人を相手取るにはやはりそのような決然たる態度が必要であろう。下手な見得は禁物である。そんなことをして視界を自ら減ずることなどやっているわけにはいかないのだ。相手はいつも、もうずっと先にいるのだから。
    (2002.11.24)-6
    クラムボンを「下手くそ」と撫で切っているのだけれど、、、まあ、それはそれとして。。。むふふ、進みましたよ。ようやく折り返しました。でも、このまま行くと、前後の比が当初思っていた5対5にならずに、7対3くらいになってしまいそうです。これでは所謂頭でっかち尻すぼみの印象を与えてしまわぬか、ちょっと心配で御座います。いや、基本的にはそれ以前の問題なのだけれども。まあ、とにかく気合で6対4くらいにはなるようにしたいなあ、と思っております。あと、何よりなんとか年内に片づけてしまいたい。歳がカウントされる前にしたい。


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