tell a graphic lie
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(2002.11.25)-1
本冬を前に、我が心ぬるま湯の内に在りけむ。今宵抱きし我が懶惰安穏、何の故無きものなり。ひとえに我が精神の傲慢に起こりしものなり。我が芯に一片の情無し。我が脳裡に一言の助無し。我が身に大過無きを以て、我厚顔の鎧を得たり。脂ぬらぬら分厚の甲中、富者の侮蔑、強者の冷厳、唯これのみ有り。我、日常に敗れり。我、暖に溺れけり。独り鈍を貪りて、さても非情。さても無恥。之が我の本性なり。人を殺して顧みぬ、邪悪非道の魔生なり。
(2002.11.26)-1
わあ、これあ、ひでえ。点もつかねえや。どこをどういじるとかいう話じゃあねえ。ひどすぎる。ふしあなだ。べんじょむしだ。始末しまつ。こりゃあ重症だ。まじでたるんでやがる。たのむ!見なかったことにしてくれえ。
(2002.11.26)-2
 ふと顔をあげてみれば、もう日暮れ近く。窓の外、ビルの脇に抜けてのぞく空はまだ夏の夕焼け、外は今日もきっと暑かったのでしょう、(ここ補間すべし。夏の空と空気の感覚をよくあらわしたる色彩、もしくは何らかの喩えの一語を含む一文節。さらっとしたものがよい。埋まらないならこの部分全部書き直し!)。街と空との稜線のすぐ上のあたりには、黒いろ灰いろのなんだか重々しい雲の一団が、屋上に立ったアンテナにぐるぐると巻き付いて、その下腹は夕陽を受け赤紫の内臓を透かし出している。あれが嵐の、台風の雲なのでしょうか。もうあんなところまでやって来ている。私はその雲の群がアンテナを中心に回転しながら膨張して成長し、窓の外の空を埋め尽くしてゆく様が思い浮かぶような気がした。熱くて強い風。稲妻に照らし出される黒い街。雷鳴と豪雨の叩きつける音。大粒の重たい雨粒が地面に跳ね返って作る無数の波紋。ありありと目に浮ぶ気がした。台風が来る。そのとき私はきっと篤志の隣に居なければならない。そうに違いない。ああ、今日は早く、早く帰ろう。帰ろう。

(2002.11.26)-3
少々やりすぎか。わからん。宿題、だれか解いてくれ。
(2002.11.26)-4
中毒る。新居昭乃「覚醒都市」。今は Chara radio で流されたものをいちいちプレイヤのバーをクリックして、リピートかけて聴いている。仕方ない、これは明日にでも買ってこなければなるまい。近くで探そうとせずに、素直にはじめから Tower Record に行こう。もう、少し歌えるよ。「今日も嘘のように磨かれる街並を、目的があるように歩くぼく。泣いて。降りておいで、ささやかな過去たちよ。見上げれば、デジタルのスクリーンに、空が。風の歌を、高い階段を上り聴こうとした。」
(2002.11.26)-5
思うに、この曲が新居昭乃氏の曲の内で最もよく「抑制」的な作品であろう。「東京アンダーグラウンド」エンディングだそうである。全く知らん。格子状に細い溝の入った平面の空。その下で、いつものぼくはポケットに手を突っ込んで、ビルの屋上の縁に座って脚をぶらぶらさせている。そしてある日、ぼくは決心したんだ、上ることを。というような歌だそうだ。実際に頭を抑えつけられている。叫びは近くで木霊して、すぐにぼくに返ってくる。
(2002.11.26)-6
この東京だって、その地下都市とどれだけの差があるというんだ。本当の空は濁った空気の層の向う。風は車の排気と人間の煩悩の混じりこんだ二酸化炭素とでできた霧を運んでくる。ぼくは煙草を吸いながら嘘をつくし、君もきっとぼくの前に出れば、いくつもの要らない言葉をそこに乗せてぼくの耳に入れる。そして、ぼくらはそんなことも忘れて、その空ですら忘れて、携帯電話の画面に見入って、ネオンの煌き、広告の軽薄な文句に見入って、綺麗な子?いい男?化粧の上っ面じゃあないか。もうその眼球は役に立たないね。手さぐりでもうひとつの、つかみとってくれる手を。空気は信用できない。直に伝えないと、手をつないで、そうして。やっぱりここで生きてゆくんだろう?この空間にただ煩わされて、そして何も思わずに。
(2002.11.27)-1
中国の自殺者は、都市より農村、男より女が多いのだそうだ。凄まじくぎりぎりの世界だ。もし、正義が力にではなく理性に拠って成るものを言うのならば、そこは正義の無い土地だ。獣の大地だ。
(2002.11.28)-1
今あるこの場所で生きて、歩いて、喋って、それぞれに与えられた何か、それをして、朝を迎えて夜には眠る、季節を迎える、送る、人に会う、人に会う、何かをあげる、何かをもらう、何かしてしまう、通じ合う、無駄ではないと知る。そうして生きて。ただ、生きて。たったそれだけのことをしてゆくのに、この世界が、社会が、個人が要求する諸条件を充たすことの無いものについて。それでも、死ぬことよりも生きることの、いや死なないで在ることの方が遥かに容易いと、そうできているこの場所について。悲鳴は音にならない方がいいし、涙は伸ばした前髪で隠すのがいい。おまけの涙一滴、溜息ひとつのついた憐れみよりは無関心がいい。ときどき空にかかる虹を必ず見つけていれば、それで。ああ、君はそれを信じるかい。自分だけが見た虹。たった一度のそれがあれば、死ねなかったことの罪は消えなくとも、後悔は無くなる。1000万の眼の渦中で、ただぼくだけが見た虹。君はそれの与えるものを認めるかね。
(2002.11.29)
今日のぼくは、この冬の陽射しがおずおずと差し出しているやさしさに包まれてか何か知らないが、全く、すっかり安心しきってしまっている。服の袖を健気に焦がそうと努めているこの白い陽射しの中でぼくはふんわりと睡魔に誘われながら、自身の顔つきを気にしなくなっている。もう何を言っても大丈夫だ。そんな心もちになってしまっている。ぼくの脳はきっと、どこまで行っても足りないのだ。人間の全員が、ただ歩き行くだけでは、この小さな島の外へ辿りつくことは叶わぬ。満ちては引き下がる潮は決して富士の山頂の根雪を融かすことは無い。白い空を舞う小鳥達はやはりただ舞い続け、大洋を疾駆する回遊魚達は深青の世界に呼吸するのが相応しい。ぼくもまた、この不具の内に生まれたものとしての一編の寓話。止み留まること無く、ぼくは生まれた瞬間から始まったぼくとしてのぼくのままだ。ただ、足りないのだ。これは卑下ではない。ぼくの立ち、呼吸するこの土地も、またその外のいかなる土地も、それぞれに人の暮しゆく世界として足る。人でないぼくに、この土地は何の不服があろう。足りないものは足りないまま、足りないように生くる。そこに何の不足があろう。ぼくはただそんな心地になっているだけだ。ぼくは知り、そのあとに首肯した。ぼくの言葉は常にひ弱な虚言だ。ぼくには本当のことを伝える言葉を作り出す力が無い。本当を伝えよう言葉は、無念力及ばずしてその任を為すこと能わずば、これは偽りなり。全くの、真っ赤な嘘だ。春の枯葉。臨界に達しない核融合。嘲うべき死生児だ。ぼくは理解されない。ぼくが伝えないのだから。その力が無いのだから。ぼくはどこまでもただ嘘つきだ。全部嘘っぱち。鼻紙にでもして使ってくれたまえ。ああ、もう安心だ。ぼくは何でも言える。何もとって置く必要はない。ぼくがどれだけ愛を正義を勇気を希望を情熱を栄誉を実績を自然を人智を温度を善良を悪徳を美を悲惨を生活を恋を語ったところで、ぼくの外に出た瞬間にきれいにきれいに嘘になる。もう安心だ。ぼくは何でも言える。ぼくの中の薄っぺらい真実も、何もかも言ってしまえる。今日の陽射しはやさしい。ぼくはその中に一人の美しい天使を見る。
笑顔

(2002.11.30)-1
百回の施政方針演説に一度の実行。言葉有りて行為在らず。虚勢の民にメモの山。餅の絵はとても上手になりました。いや、世の中に君の口ほど磨耗しない素材もあるまいて。
(2002.11.30)-2
しかし、なんつー制作方法だ。ただディスプレイの前で踏ん張り続けて、書きだせるときを待つしか能がないとは。その間中のぼくはといえば、「ああ」とか「うう」とかうめいて、頭をくしゃくしゃしてみたり。貧乏ゆすりを意識してやってみたり。こんな無意味な文を書いてお茶を濁してみたり。棚から文庫本を取り出して、ぱらぱらペエジをめくって、「ああ、いい文だ」うっとりと読んで、自分でそれを書いた気になろうとしてみたり。へもへれもくもこぺんぺろりん。要らん言葉は書くわけにはいかん。けれども、浮かび上がった要る言葉たちのこの貧弱さはどうすればいいのだ。ノウタリンは何でも言おうとして、全部失敗する。そうだね、無能もまた立派な罪かね。ぷうぷうみるろんぱんぱりぱん。
(2002.12.1)-1
 書けないので、そこらをふらふら徘徊。ようやくに取り出した冬の装備をそろそろ着込んで外へ出ると、うむ、さすがに暖かいわい。はじめの内はそこそこに楽しく、「お、ねえちゃん。もろおれの好み(はーと)」など内心ニヤニヤして煙を吐き、雨に濡れた落ち葉を踏みふみ、手当たり次第に目についた路地に入り込んで、凝ったクリスマスの飾りや、住宅地の一画にぽつりとある畑や、竹林などを面白く眺めたり、明かりの灯った居間で、老夫婦が顔を寄せ合って何やらこねている姿を、通りがかりの外から眺めたり、駅からもうだいぶ離れている道を小さく笑いあいながらきっと家に帰るのだろう若いカップルの足音を聞きながらぼくは電灯を見上げて、うん、この辺りからだんだんとやばくなってくる。すれ違う人たちの仕草や表情のひとつひとつはぼくを一瞬だけ微笑ませて、それからぼくを暗いほうへズルとそれぞれ一押ししてゆく。それにつれて、ぼくの足どりは段々とふらふらしてくる。そうして、車一台も通れるか通れないかくらいの極く狭い路地の傍にあった古い民家(家の玄関がドアでなくて、ガラガラと開く引き戸になっている。それはもうこの辺りじゃあほとんど見かけないんだ)から、テレビを見ていたのだろう、ぼくがその前を通りかかると、閉められた障子の向こうからどっと笑い声が聞こえてきて、ぼくは半べそになっていた。このまま立ちどまって泣いちゃおうかと一瞬思ったけれど、その隣の家からおばあさんが毛むくじゃらの小さい犬を抱えて出てきたので、ぼくは崩した顔を元通りにして、おばあさんの肩越しにぼくを見ている、その白痴そうな犬におべっかを使った。ろくなもんじゃねえ。
 結局そうして路地ろじ路地と歩いているうちにすっかり道に迷って、気づけばマンションに田園調布やら玉川などという名前がつき始めている。「おかしい、引返して駒沢公園に向っていると思っていたのに」首をひねって煙草を取り出し火を点けて、とりあえずどうしようもないので、そのままふらふらと歩き続けていたら、尾山台という駅に行き当たったのでこれを幸い、そこから電車に乗って引返してきた。ろくなもんじゃねえ。

(2002.12.1)-2
あ、でもね、日体大のわきの川には鴨がいたよ。「あ、カモがいる。カモかもカモかも。鴨って、なんて鳴くんだったっけ」ぼくが持っていた傘の先でアスファルトをバチンと叩くと、鴨たちはビクっとしたけど、ただそれだけで、鳴きもしなかったし、飛びもしなかった。ぼくも「ぬ、生意気かも」など愚にもつかぬ感想をつけてから、そこの角を曲って日体大前の通りを歩き始めた。
(2002.12.1)-3
む、ほんとに鴨の鳴き声って、どうだっけか。ぐわぐわやるのはアヒルだべなあ。
(2002.12.2)-1
 ママ、今日は怖い夢で目が覚めました。よくあるような怖い夢。
 朝方、もうそろそろ起きなければならない時間に、ぼくは眠りながら、ふと「朝、遅いな」って思ったの。そうしたら、途端にそのすごく怖い夢が始まったんだ。だから、多分ぼくははじめからそれが夢だって知っていたの。でも、夢の世界では「知っている」なんてことは全く役に立たないみたいだ。
 夢は始まり、ぼくはその夢の中の寝床で目覚めた。そして、「ああ、ぼくは目覚めた」と思う。眠い目で辺りを見回すとそこはいつものぼくの部屋だ。ただ、ちょっといつもよりも広い気がするし、それからカーテンを閉めて真っ暗にして眠った筈なのに、カーテンは完全に引き開かれ、そこから真っ白な日光が差し込んで、部屋の全てを、壁も机も棚も、何もかもちょっとまぶしいくらいに白くしている。ぼくは「ああ、きっとお母さんが開けたんだな。余計なことを」と思っている。だから、その朝はいつもとちょっと違う朝だ。ぼくは素直にもぞもぞと蒲団から抜け出し部屋を出て、階段を下りてゆく。家の中央にある階段は、普段は直射日光に当らないから、こんなに明るいことはないはずなのに、部屋と同じくらいに、階段も壁も天井も真っ白だ。ぼくは少し変だと思う。そして、下りて行くうちに段々とこの夢の仕掛けに気づくんだ。ここはどこだ?ぼくの家だ。ぼくの家?違う、ぼくの家、だったところだ。思い出せよ、もうぼくはこの部屋で目覚めることはないんだぞ。思い出せよ。ぼくは誰だ?ぼくはスズキキヨトだ。そうだ、確かにスズキキヨトだ。じゃあ、スズキキヨトは今何のために目覚めたんだ。決まっている。朝、学校へ行くために起きたんじゃあないか。学校?うん、がっこ、学校?もうぼくは学校へ行けるような人間じゃあない筈だよ。変だ。何か変だ。ここはぼくの家だ。いや、違った。ここはもうぼくの家じゃあない。ぼくの家だったところだ。それから、もうぼくは学生じゃあない。会社に入ってお金を貰っている筈だ。ここは確かにぼくの部屋で、いつもの目覚めだけれど、それは今の「いつも」じゃあない。もう昔に消えてしまった「いつも」だ。何か変だ。絶対に、変だ。そう考えながら、階段を降りきって、ぼくは居間へと向おうとする。居間には、両親と弟がいて、朝食を採っている筈だ。ぼくは居間との間にある六畳の和室に足を踏み入れる。和室は朝の陽射しを入れて、真っ白に明るい。それから、やはり広い気がする。ぼくはそれで少しためらって、部屋を眺め回して見る。違う。今朝がこんなに白いのは、朝陽が入って明るいせいだけじゃあない。見ろ、壁がおかしい。土壁じゃない。白ペンキの塗り壁になっている。それから、床の畳も、おかしい。同じように白ペンキで分厚く固められている。ここはどこだ。「いや、ぼくの家だ」違う。これは夢だ。どうやらこれは夢らしい。ぼくはまた歩き始める。けれども、それはぼくの意思ではない。身体が歩き始めたので、ぼくは歩き始めている。ぼくはここが夢だと知っている。そして、歩き始めたぼくがこの先の居間で何を目にするのかも、もう気づいている。居間もやはり真っ白な光の中にある。ぼくはだんだんと居間へ近付いて行き、ついに両親と弟の座っているはずの食卓が視界に入る。ぼくはこれが夢だと知っている。けれども、それは何の役にも立たない。
 恐怖が先だったのか、それとも、無人の食卓の像を認識する方が先だったのか、今もよくわからない。ぼくの意識は、そこで一瞬不明瞭な混濁を示したのちに、本当の目覚めが来た。見つめる天井は、昨日の記憶と同じものだ。多分、ここは本当のところだろう。ぼくはそう思う。そして、あれは夢だったのだと思う。心臓はぼくの胸の中で激しく振動している。呼吸も走ったあとと同じような状態になっている。ぼくは夢だったのだと思う。けれども、あの感覚は夢と少しも変らない状態で、ぼくの身体と全く同じ形をして、ぼくの中に溶けている。ぼくは何度も、夢だと考えて目を閉じる。目を閉じても意識がはっきりとしていることを確かめる。それを以て、あれは夢だったと、きちんと確認をする。けれども、感覚はそのような思念には全く影響を受けず、相変わらず心臓を激しく鼓動させている。長い間、15分くらい、その動悸は収まらなかったので、ぼくは動けずに目を閉じていた。怖い夢を見た、と思っていた。
(2002.12.2)-2
これあ、いかん。間違いなく終らない。24まで、あと26日。いや、25か。。。いやあ!カウントダウンはやめてくれえ。て、もうやってしまった。。。しかし、はじめてだな。自分の誕生日が漠然とではなく、明確に来て欲しくないと思うのは。年の瀬や、如何に生きん如何に死なんと言ふ身にも、齢ばかりはものも言はずに積まれ行きにけり(2点)
(2002.12.3)-1
言葉に、いや、文字によってなるもののみによって為せることについて。いつぞやに書いたような記憶があるが、ぼくはそれはあると思っている。それがどのようなことをするのかということについても、確かそのときに書いた。100人が受け取るということは、100人が一緒になって、ある塊として受け取ることをいうのではなく、つまり1人が受け取るということが、100個あるということだ。そういう風にする。実に単純な行為だ。共有をさせない。作品と相対するにあたって、他のいかなるものの影響も受けないようにする。他人の意見、他人の都合、おかれた環境、経緯、全てから切り離す。相対すべきは、そういうものを全て踏まえ、内包した存在としての個人だ。言葉が何かターゲットを持っているものとして出てきたのであるならば、それはつまりそういう厳密な意味での個人を指しているのであり、それ以外には考えられない。したがって、多くは感想、意思などとして表出する回答も、そこに立脚するものであることを求める。それは要求と言ってもよい強さを持っている。合議の上で決めることでも、置かれた環境やその時点での都合によって成るものでもなく、あくまで個人として、それら全てを内包した上でのやはり個人としての回答を求める。そしてそれが向けられるのは、ただその作品とそれを書いた者に対してだけだ。その他のつながりは原則として必要でない。

(2002.12.3)-2
「何か読みたいんだけれど、面白い本知らない?」という要望に対する応答として挙げられるものであってはならない。「個によって欲求され、個によって見出され、個によって、個として読み終えられ、解釈され、冊子はそこいらに捨て、中味だけ裡に持って歩き行く」そのようにして出された回答であるのならば、それがどのようなものであれ、ぼくはその回答そのものは、尊重し信頼する。その内容などはさしたる問題ではないのである。したいのは、ただ伝えるということだけだ。あやまたず伝えたいだけだ。「ほんとうに、言葉は短いほどよい。それだけで、信じさせることができるならば」これはスローガンである。掲げて止まぬ理想の旗印である。

(2002.12.3)-3
 作家は、自身の作るものの効果についてはきちんと知っているだろうが、自身の作るもの自体が産む効果についてはよく知らないかもしれない。という仮定を持ち出してみるのは、そんなに悪くない考えかもしれない。少なくとも、言葉という、意味というものとの明確な繋がりを持った道具を扱う作家に対しては、その作品の成り立ちに対するアプローチとしてそれなりに有効であるかもしれない。この場合の「知らないかもしれない」は、「知れないかもしれない」に極く近い。知っているならば、自身の作るものの中へ入れるだろう。けれども、作家の求めるところは、常にそれではないのである。
 直接にあらわすことのできないものを、正確にあらわす。それは極めて単純な行為だが、やはり直接に記述することはできない。「いい音楽」「いい絵」「いい映画」というのは実に単純な事実だが、その実体は「いい音楽」などという言葉には無い。「いい音楽」はいい音楽なのであって、そこに他のものは含まれない。いい音楽はいい音楽のみから成っているのであり、そしてそれはいい音楽以外の何ものも表現しない。一切の置きかえが不可能であるからこそ、それはいい音楽なのである。文章は言葉から成っているので、その関係が多少混乱するように見えるが、けれども、「いい文章」はただいい文章なのであって、そこには「いい文章」というものは含まれない。いい文章は、直接にあらわすことはできない。直接にあらわすことのできないものというのは、量など単純なものに立脚するだけではなく、どうやらそのような構造に基づいて存在しているもののように思われる。
 そして、それはすぐに 0.999... という循環小数が 1 であるというあの下らない証明を想起させる。帰納法だったか。
(2002.12.3)-4
 いや、こんなことを言い出しているのは、書けないので、自分のさして面白くもない作ったものを俯瞰しながら、あれこれと思いを巡らせようとしているうちに、いつの間にか理窟に走ってしまっているからに決まっているのだが、
(2002.12.3)-5
忘年会のお誘いは全て断る。残念なことに年忘れをしているような状態ではない。どちらかといえば「無事に晦日を乗り切り、除夜の鐘を聴いて正月を迎えることができるだろうか」貧乏長屋暮らしの浪人の心もちに近い。もっとも、ぼくの晦日は三日ほど早くやって来るが。
(2002.12.3)-6
眠い。寝る。
(2002.12.4)
ファインマン教授の講演録が大変に面白いので、今日は何も書きません。読みふけるのであります。感想も書きません。その必要がないのです。
(2002.12.6)-1
 この子はほんとにひとだろうか。ひとに見えるかしら。この子がひとなら、ほんとにこんなことを思うかしら。こんなことをするかしら。つまらなくて、下手くそな話を書いていると、書いているものがそれを信じているというところにしか、次の一行をつなげる根拠がないんだ。もっと面白い話が書けたらいいし、もっと上手に書けたらいい。ほんとうは、ぼくがひとであれば一ばんいい。けれども、そう言ってみても、ぼくの思念は面白くないし、書く文もうまくない。頭もよくない。うろうろしたって書けるようになるわけではないのだけれど、画面をにらんでいたって書けるわけではないのだけれど、どうでもぼくはこれを書いてしまいたいから、最近は部屋でこうしている時間が一ばんいやな時間だけれど、仕方ないじゃない。他にうまい方法も思いつかないよ。
 この子はひとに見えるのかしら。この子のこころはちゃんとこころになっているかしら。ぼくにもそんなことができるかしら。
(2002.12.7)-1
寒いね。冬は空気が透き通っているからでしょうか。通りを行き交う車のサーっという音がやけに耳に残ります。歩き煙草も、ポケットから手を出して灰を落すのがちょっとおっくうです。寒い中、連れ立って犬を散歩している二人が居ました。犬は胴の長い小さな犬で利発そうな様子で、紐はつけられていませんでした。飼い主の周りをちょろちょろと歩いては、ときどき歩調を合わせるためにか、立ちどまって振り返り、飼い主を見上げて追いついてくるのを待っていました。ぼくにはさしあたって特にいいことはありません。昨日ちょっと書けましたが、今日は駄目です。二日落ち着いて書けたためしがありません。きっと馬鹿なのでしょう。そんな普通のことがどうやらできないようなのです。時間もないので、これには少し腹が立ちます。こんなどうでもいい話も、文字にすると多少深刻味が出てくるような気がするから不思議です。まずはこいつをどうにかしないといけないのかもしれません。ぼくがぼくの見たものを見たように書くことと、ぼくが思ったことを思ったように書くことにはどれだけの違いがあるのでしょうか。どれだけ違って見えるのでしょうか。並木の銀杏の木は黄金色に、本当に鮮やかに染まって、どうにも色が褪せてしまう冬の街中で目だって輝いて見えます。ぼくはその下を、つまらん、全くどうにもつまらん、などぐじぐじやりながら歩いているわけですが、それとこれとはどれだけ違って見えるものなのか。文字でやるとみんな一緒くたにできてしまうので、これにはほとほと困ります。一緒くたにできるのに、その間にある違いをぼくはわかっていない。これはきれいな感情?これは醜い感情。どれがどれやら、自分で使い分けてみせるほどにはどれもわかっていない。ある人のある凝りかたまった観念ははたして美しくみえることがあるのだろうか。いや、多分あるのでしょうが、ぼくにはその見分けがつかない。見分けはつかないけれども、それでもぼくは少しだけそれについて知っています。ひとの持つもののうちで、本当に書くに足るのはそのような「どうしても」という言葉を含んだものだけだということを知っています。表面を撫でるだけならぼくにだってできる。「わあ、きれい」と書けばいい。いや、書く必要も無い。ただ言うだけでいい。「わあ、きれい」言葉はきっと発散して、どこかへ飛んでいく。そうして、ふたり手をつなげばいいじゃあないか。実にいい画だ。それを積んで行くのならそれでいい。それはひどく楽しい作業だ。生きているという気がするだろう。死ぬ気にはなるまい。でも、ぼくにはそれはない話なので、ぼくは、「銀杏の葉が黄金色だ」と書かなければならない。それで満足しなければならない。そうしてその無内容に呆れかえって、そこに幽かな、本当に幽かな重さを持たせるべく、その下を俯いてうろついているぼくのことと、ぼくの考えたことを書く。でも、ぼくにはそれをしたことが、銀杏の黄金色に重みを附け得たのか、それとも、逆に上に墨を塗りたくることだったのか、判断することができない。これには全く困ってしまう。色を失いつつある街中で、寒い寒いと呟きながら歩いているぼくを書くことは加算なのか減算なのか、全然わからない。しかも、それを文章の上から判断しないのであれば、これは全く減算以外の何ものでもなくて、即座に「君は要らないだろう。はやくどこかへ行きたまえ」という声しか聞こえてこない。だから、それに較べたら、わからないというのはだいぶ素晴らしいことではある。そう言うことはできる
(2002.12.7)-2
酔っぱらって書いていると、どうもろくでもない方へ話が進んでゆくようなので、そんなのは今までにもういくらもやってしまっているので、もうやめ。寝る。
(2002.12.8)-1
おはようございます。今日は、夜から雪になるようです。


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