tell a graphic lie
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(2002.12.8)-2
 今日は谷崎潤一郎の「文章読本」を読み、ぼくの書いたものにいい文がなぜないのかについて、解答の一をどうやら得たようでございまして、いくらもともと詰まらんものだと知りながら書きすすめていたとは言え、こうも直接的に、ご丁寧に例証まで附加されて、過ちを指摘せられるのは面白いものであるはずもなく、さすがにげんなり、今日続きを書く気力はどこからも湧いてこないようで、今日は違うことを書こう、そうしよう、など空を低く埋め尽くした湿っぽい白灰色の雲を見上げながらひとり頷いていた次第でございます。ちなみにこの「文章読本」実によくまとまっております。一頁ほどの例文をとりあげて、そこに出てくるある単語の出現回数を数え上げ、いちいちそれらを吟味したり、英語や支那語(中国語)と日本語との言語的な特性の差異について、飜訳の例題を挙げて(源氏物語の一節 -> 英訳 -> 更にそれを和訳)英語による文章の特性と日本語によるそれとの間の差異を実に明瞭に指摘し、それを以て日本語の文章とはかくの如くあるべきであるというような話が延々と続くという、大変に太っ腹な書物であります。そんなわけでございまして、ありがたいことには、ぼくの書いたものにいい文がないというのも、実にすんなりとわかってしまったのであります。ぼくは谷崎ほど太っ腹でも、明確な方法論を持っているわけでもありませんので、ちょっと抽象的な言い方をいたしますと、それはこんなようなことになります。「主格を書かなければ収まりがつかないような文はだめだ」これはひどく偏った見方であることは知っているつもりですが、まあ、どうもそういう方へ流れがちなぼく自身を引き留めるにはこのくらいの方がいいのではないか、と思ってとりあえず言っているのであります。
 まあ、そんな個人的な戒律の話などはどうでもよろしい。今日はもう、読み返してもどこをどうしていいのやら、さっぱりわからないような文の群を何度かいやいや見直して、「これはいらないのではないか。でも、無くしたらあとが続かないし、書き直すといっても、さしあたり他にやりようが思いつかない。さてどうしたものか」など、うんうんやって、五分後には放り出してちょろちょろと他のサイトを見たり、湯を沸かして紅茶を入れてみたりし始める。そういうことをやるつもりはありませんので、今日は久しぶりに、また新居昭乃氏の話でもしてみようと思います。他には、梶井基次郎の「檸檬」を写したり、中原中也の詩篇のいくつかをピックアップして、喧嘩を売ってみたりなどしてみたいのですが、どちらもまだ読みきったわけではありませんので、もう少し保留することにしまして、今日は新居昭乃氏の話をするのであります。
 「降るプラチナ」をピックアップした際にも書きましたが、はじめの頃に持ち出してきた「抑制」については、今回もまた直に何かを言うことはできないようです。今も毎日聴いていますが、やっぱりまだよくわからない。思うにこれはぼくの方に基本的なところでの力不足があるのではないかと思われますが、それを嘆いても仕方がありませんので、とりあえずできるところからやって行く、刻むことを今回もしようと思います。ということで、今回のテーマは「空想と少年」についてです。実際には「少年」は「青年」という方がより近いのでしょうが、「青年」というと、プラトニックな感じがちょっと薄れますので、「少年」とさせていただきたく思います。実際にはその中間くらいの、年齢でいいますと、高校生くらいでしょうか、その辺の男の子を思い浮かべていただけるとありがたく思います。今回は、現在のところ、3曲ピックアップの予定です。一曲は一ばんはじめに取り上げました「空の青さ」です。それから、アルバム「降るプラチナ」から「ガレキの楽園」、そしてこの二週間あまりの病的ルーピングで聴き続けてまいりました「覚醒都市」でございます。あまり面白くもないベタなチョイスですので、できればもう一曲くらい引っぱってこれると嬉しいのですが、多分それはかなわぬことなのではないかなと思っています。まあ、ともかくやってみましょう。
(2002.12.8)-3
 こんなことをいちいち断るのは馬鹿馬鹿しいかも知れませんけれども、新居昭乃氏は女性でありますので、当然のことながら、女性の視点から見た作品がそのほとんどを占めています。これらの作品は、まあ氏のように、空想をたくましゅうしてひとつの世界なりお話なりを頭の裡に作って、そこから詩を取り出してくるような方の作品では当然のことではありますが、実にさまざまの年齢、さまざまの環境における女性の視点があらわれております。それらは最終的には、ひとりの人によって作られたものの持つある統一性を固く保持してはいるのですが、それらの中から共通する特性をピックアップしようとすると、なかなかうまくいってくれない。何かある、ということは、これは自明なのですが、残念なことには、ぼくは男であることですし、なかなか。それに対して、今回ピックアップ致します男性が主人公であります三曲は、だいぶわかりいい。年齢も環境も思考も意思も、随分と似通ったものであります。即ち、少年期と青年期の狭間の、あまり恵まれない環境に育ち、自身のおかれた社会なり世界なりに憤り、閉塞した心理状態の中で、あるひとりの女の子を愛して、その子に依存している。というようなものであります。まあ、要するに、同情には特に値しない典型的なアニメファンタジーの主人公ですな。こういう人種には、大概ろくなのがございません。物語の神さまのご加護がなければ、開始そうそうにおっちんでいるはずの男であります。ぬ、氏の曲の少年に悪口を言うためにこんなものを書いているのではありませんでした。話を戻しましょう。氏の作品のうちで男性が主体となっている作品には、非情に似通ったところがあるという話でした。そして、ぼくはこの三曲がひどく好きなのです。けれども、その理由がよくわかりませんので、それでこれから並べてみて、何か言ってみようということであります。
 ということで、これから新居昭乃氏の少年が主人公であります三つの作品について、なにやらだらだらと話をさせていただくわけですが、とりあえず、この三曲を制作された順に並べますと、「ガレキの楽園」「空の青さ」「覚醒都市」という順序になります。「ガレキの楽園」と「空の青さ」の間にはアルバム「鉱石ラジオ」などを挿んでおりまして、時期的にはちょっと間が空くのですけれど、「空の青さ」「覚醒都市」の制作された時期は、恐らくそんなに離れてはいないのではないかと思われます。どちらも今年の前半に作られたもので、つまりせいぜい六ヶ月の範囲内に収まるものと思われます。そのせいかどうかは判然とはいたしませんが、「空の青さ」と「覚醒都市」は同一人物を思い浮かべていたのではないかと思われるほど似通っています。そして、それは「ガレキの楽園」にてあらわれた荒削りの人物モデルをフィックスし、より氏の本道に近いものになっているもののように思われます。まあ、そんなことを言っていても始まりませんから、まずは最初の「ガレキの楽園」から見ていきましょう。例のごとく、氏のサイトから曲の一言解説も引っぱってくることにします。

(2002.12.8)-3
 君はみつめている
 こわれた屋根に上って
 この街のすべてを
 それから僕のすべてを
 好きなものはきれいな色の時計
 君のためなら手にいれるよ
 どんなことをしても

 僕は戦う
 形のないものと
 君のためだけ戦う

 工場の煙もガレキも味方なのに
 人の思惑から逃げられない君の気持ち
 同じ夢を見たね
 君が呼んでた
 どの時計よりきれいな
 魚が光る海で

 僕の心に浮ぶ雲のように
 君は静かに眠ってる 無垢なまま

 その未来半分をくれるのなら
 灰色のやせた絶望が遠く遠くなるよ

 僕は戦う
 形のないものと
 君のためだけ戦うよ
 そして誰も知らない楽園の海に
 いつか行こうね ふたりで
 ふたりきりで
新居昭乃「ガレキの楽園」

(2002.12.8)-5
友達は純粋で、人が考えているだけのことにさえ傷ついてしまう。鏡のように、透明なガラスのように物事をみせてくれる。この友達のためなら、自分はどんなめにあってもいいと思える。そういうことを歌いたくて書いた曲です。このアルバムの中で一番力強い曲だと思います。
from the liner notes about "FURU PULATINUM"

(2002.12.8)-6
 あら、これって特に恋の歌というわけではないのね。わたくし、当然のことのように相手は女の子と決めてかかっておりましたが、別にそういうわけではない。やれやれ、思いつきだけで書き始めるとこういうことになるのであります。まあ、とりあえず、ここはあととの繋がりを保つため、主人公は男で、主人公に三日前に一緒に出かけた街中のショウウィンドウに飾ってあった時計を強奪するという決意までさせてしまう相手は、やはり女の子とということにしておこうと思います。
 一読してわかりますように、この詞は氏にしてはめずらしく、過激な言い回しとなっておりまして、「僕は戦う 形のないものと 君のためだけ」などは聴いていて、「おやおや、まあ」など面映い心地がするほどであります。また、「その未来半分をくれるのなら」などという発想は、エゴイスティックで幼い正義と奉仕の精神が剥き出しのまま記述されているという点で、なかなかに秀逸であろうと思います。
 ちょっとこれ単体ではそんなに言うようなこともありませんので、「こわれた屋根に上って この街のすべてを」「工場の煙もガレキも味方なのに 人の思惑から逃げられない君の気持ち」など、描写の部分をちょっと記憶して頂いて、次へ行くことにしましょう。次は、「空の青さ」です。以前一度写していますが、再度置くことにしようと思います。別に特に意図があるわけではありません。ぼくが読みやすいという理由からです。こちらも一言解説をあとにつけようと思います。

(2002.12.8)-7
 空のあの青さは
 この胸に残るだろうか
 すべて失う今でも
 心は君に

 そばにいる いつもそばに
 風が肩を抱くように守るよ

 日射し強すぎたら
 この腕をかざしてあげよう
 愛に包まれる日には
 白い花咲かそう

 夢を見て 僕の夢を
 そうしてもう振り向かず歩いて・・・

 君が涙を流す時には
 好きだった蜜の香り 届けよう
 君の指に光っていた・・・

 そばにいる 黙ってそばに
 君のその笑顔が僕のしあわせ
 空のあの青さに映る
 君が そう信じてる未来の道が
 続くよ
新居昭乃「空の青さ」

(2002.12.8)-8
決して結ばれることのない人への永遠の愛を誓う歌。そんな悲しくてストイックなこと私にはできないけれど、そういう気持ちになりきって作りました。オンド・マルトノのハラダさんとのセッションは、とってもあたたかく、楽しく、しかも勉強になりました...
from the liner notes about "RGB"

(2002.12.8)-9
 こちらも解説はあまり役に立たないようです。この「私にはできないけれど」というのは、真っ赤な嘘であります。などと断案を下して面白がるくらいしかできません。まあ、よろしい。詞は前にも申しましたようにベタ過ぎるにベタであります。よく赤面もせずにこんなものが作れるものだといつもわたくし感心しております。
 「ガレキの楽園」と比較しますと、表現は多少落ち着いているようにも思えますが、「そして誰も知らない楽園の海に」というような彼岸への憧憬が消え、「君が涙を流す時には 好きだった蜜の香り 届けよう」「君のその笑顔が僕のしあわせ」などからわかりますように、自身のエゴも消えて、無償のなんたら、というような大変にありがたいものが垣間見え、その決意の苛烈さは却って増しているようであります。
 さて、この二つをみていただいて、はたしてこんな適当に書き飛ばしている文をお読みのお暇な方々にも、ぼくのように二つの詞における主人公に共通する点が浮かび上がってきたでしょうか。完全に同じ、というわけにはいかないとは思いますが、ふたり同じような顔、同じ目をしているように思える。或はそれは年齢の違いなのかも知れません。「ガレキの楽園」の主人公の方が多少若い。「空の青さ」は、その主人公の一年ほどあとの姿だと思ってみると、ふたりが一致して楽しいかも知れません。そのような視点で見ますと、冒頭の、「空のあの青さは この胸に残るだろうか すべて失う今でも 心は君に」という一フレーズが何やらいろいろな想像を掻き立ててくれるのであります。「ガレキの楽園」の激情のまま行動した主人公は、無念みじめに敗残致しまして、ふたりは一生結ばれない間柄になってしまうのであります。ああ、実に運命とは残酷なものであります。云々
 さて、馬鹿な陶酔に浸っていないで、どんどん行きましょう。そろそろ洒落にならん量になって来たので、わたくしくたびれてきております。それに、今回主になにかを書きたかったのはこれから置きます「覚醒都市」なのであります。この二つについては、言ってみれば、助走にあたるものでありまして、どうやら助走で頑張りすぎて、いざジャンプのところでは、すでにへたばり失速、墜落というような態のようでして、いつものことながら情けないの一言でございますが、それでも一応は飛んでおきましょう。えい。
(2002.12.8)-10
 きょうも
 嘘のように磨かれる街並を
 目的があるように歩く 僕

 泣いているの?
 ほんのささやかな過去たちよ
 見上げれば
 デジタルのスクリーンに
 空が・・・

 風の歌を
 高い階段を上り
 聞こうとした
 抱いて
 甘く傷ついた夢がもう
 覚めてもいい
 泣かないで

 病んだ都市
 いびつなゆりかごで育った
 僕たちは知らない
 愛し合う意味を

 痩せた腕を
 強く引き寄せた
 騒音が襲う舗道を
 ただ駆け抜けるだけの
 人波の奥深くへ
 隠れよう

 冷たく白いアルミのキスは
 いつでも引き出せるよ
 ディスペンサーから
 それでいいね?

 風の歌が
 地上の果てから届く
 この世界へ
 まだ君のことさえも
 信じないこの心へ

 だけど甘く傷ついた夢を
 抱しめる
 ただ駆け抜けるだけの
 僕たちの愛おしい今を
 抱しめる
新居昭乃「覚醒都市」

(2002.12.8)-11
「東京アンダーグラウンド」は東京の地下深くにもうひとつの都市があるという設定のお話。東京は、近未来的な建造物と、いつでも廃墟になり得る危うさ、かろうじて守られてる緑と土と、都市そのものが人間の手に負えなくなっていく感覚とが混在してるような、見方によっては神秘的なところ。そんなイメージで作りました。 しばらく離れてて帰って来た時など、モノレールから見える人工的な風景が私にとってはやっぱり生まれて育った故郷なんだっていう、どうしようもない懐かしさに襲われます。 堀越さんのギター以外は保刈くんによる打ち込みです。保刈くん的にはイントロ4小節のシンセの音色に命をかけてたようですが、成功だったんでしょうか・・・。リズムトラックは松林さんもエディットしてくれました。
from the liner notes about "kakusei toshi"

(2002.12.8)-12
 はじめに、このCDを買う前日に、ぼくはこの曲の前半三つを繰り返し繰り返し聴いて、これこそ氏の「抑制」の表現を最も端的に具現したものであろう。などというコメントを出してひとり大袈裟に頷いていた(しかも、そのときに書き取った歌詞が間違っていた)のですが、まあ、翌日に買ってきて、改めて通して聴いてみれば、まあ、そんなでもない。というようなことになったことを、これは自分への言い訳のために書いておこうかと思います。
 さて、この曲まで来ますと、物語のイメージはより一層はっきりとしてまいりまして、舞台設定なども「ガレキの楽園」と組合せますと、実に明瞭な画になってまいります。即ち「君はみつめている こわれた屋根に上って」「工場の煙もガレキも味方なのに」「好きなものはきれいな色の時計」「今日も嘘のように磨かれる街並を」「デジタルのスクリーンに」「風の歌を 高い階段を上り 聞こうとした」「病んだ都市 いびつなゆりかごで」「騒音が襲う舗道を」などがキーワードとなるものと思われます。つまり典型的なSFの一派の描き出す舞台ですな。産業革命時のロンドンや、現在の東南アジアの主要な大都市、バンコクやら、ジャカルタやら、上海やらの、下町やスラム街を思い浮かべるとよいのではないかと思われます。で、その空は巨大な液晶のスクリーン、と。
 また、「ガレキの楽園」の決意も、「空の青さ」の覚悟も、どちらも結局のところは一人の裡のみで行われていることでありますが、この「覚醒都市」におきましては、具体的な行為とまでは行きませんが、投げかけられた言葉がしるされております。そして、「空の青さ」の覚悟は、確かに本物ではありますが、実際の言動となればこのように多少ひねくれた形を取らざるを得ない。というように解釈をすれば、この二つの詞の主人公はひとつになり得るのであります。

(2002.12.8)-13
 すいません。ほんとに限界。このあと、この三つの作品に共通するモチーフ、空への憧憬と氏のイメージする世界についてや、氏の夢想しますこれらの物語の十代の主人公と、氏の考える理想化された男性像などについて、それから、ぼくがこれらの曲をどうして好きなのかについてなどの、二三の短いコメントを連ねたいと思うのですが、どうにも、思考があちこちに発散してしまって、これ以上最低限の話の整合性を保ち続けることを許しませんので、今日はここまでにしたいと思います。なんだか、書きたかったことは何一つ書いていないような気がしますが、仕方がありません。気を緩めると、「今朝も鉄錆の臭いがする茶色い風がこの一帯を吹き抜ける。僕は窓の隙間から吹き込むそれの臭気でいつも目を覚ます。目を開ければ、やはりいつもの煤だらけの天井。聴きなれた僕の微かな雑音の混じった呼吸音。云々」など、書き出してしまいそうでして、頭の中の収拾がつかないのであります。そういうわけですので、今日はここでひとまずおしまいであります。言い残したことは、いずれ書くかもしれませんし、書かないかもしれません。まあ、長ったらしい割には何の内容もないようなものにしかならないので、どちらでもいいのですが。それでは皆さんごきげんよう。あー、疲れた。
(2002.12.8)-13
余談。今日の夜、NHKで下記のようなドラマがやっていたようであるが、こんなの見た日には落涙に及ぶ事必定、しかも見ている間中泣き続ける事必定である。更に勢い余って、見終えた後、わけのわからぬ義憤めいた感情のまま、下手な檄文のひとつでも草してしまうかもしれない。現にこの予告の文を見ただけで、泣きそうなのである。とてもぼくには書けない。テレビはまさに劇物である。

 重松清の直木賞受賞作『ビタミンF』から6編をドラマ化。

 極めて現代的な6つの家族像。郊外のニュータウンに住むごくごく平凡な家庭。共通することは、家族の絆が揺れていること。同じようでいて、決して同じではない悩み。どの家庭も、思春期の子どもを持ち、夫婦・家族の問題を抱えている。どこにでもあるトラブルだが、解決方法は1つではない。

 そんな切実な共感できる物語を、時には切なく、時には明るく描いていくのが、ドラマ「ビタミンF」である。


 フィギュアショップに勤める高木雄介(役所広司)は、妻の和美(森下愛子)、娘の加奈子(谷口紗耶香)の3人家族である。加奈子は両親にセッちゃんという転校生のことを話す。クラス中に嫌われるセッちゃんは、運動会の創作ダンスの練習で振り付けが変更になったことを知らされていなかった。ひとりだけ踊りが違うセッちゃんの姿は惨めなものだったらしい。

 運動会の日、加奈子には来るなと言われたが、こっそり学校に出かけた雄介が見たのは、ダンスでほかの生徒たちから取り残され、必死にまわりの動きを真似て踊る娘の姿だった。セッちゃんとは加奈子のことだったのだ。帰宅した加奈子は、セッちゃんの哀れなダンスについて話す。雄介には嘘をつく娘がいたたまれないが、その嘘につきあうことしかできない。

 ショップの店員の吉田(藤谷文子)が、流しびなを店に持ってきた。傷ついた人間の身代わりとなって川に流されるひな人形らしい。日曜日、雄介は一家でサイクリングに出かけ、川縁で流しびなを加奈子に渡して、「傷ついているセッちゃんのために流してあげよう」と言う。加奈子はひな人形を抱え、流れの中に歩みを進めると、夕陽のきらめく水面にそっと人形を流し、家族はいつまでもそれを見送るのだった。

(2002.12.8)-14
外は雪に変っただろうか。
(2002.12.9)-1
昨日のものは、量ばかり稼ごうとするとどういう目にあうのか、を端的にあらわしていますようで、大変に恥ずかしいのですが、まあ、仕方がありませぬ。こんなもんでやんす。
(2002.12.9)-2
「文章読本」読み終えました。恐れ入りました。「ほんとうに、言葉は短いほどよい。それだけで、信じさせることができるならば」ぼくはどうやらこれをはきちがえていたようです。けれども、もうあれはあそこまでやってしまっており今更どうにもなりませんので、こちらでは再び h2o の本道に立ちかえり書いてゆく所存でございます。
(2002.12.9)-3
今日は久しぶりに雪を踏みました。サクサク踏みました。靴が地面に被さった白い雪に埋まるのはとても楽しい。そこだけわざと小股に歩いたりなどしました。身体についた雪をこまめに払いながら、舞い落ちるのを見上げました。ポケットに入れた手は、指先がそれでも冷たくて、ぎゅっと固く握っていました。どうもこういうことをしているときのぼくは、顔が自然ににへらりんとしてしまってよくありません。これが確か、東京に来てはじめての雪です。
(2002.12.9)-4
雪ゆき、さくさく、さくさく。
(2002.12.9)-5
お、よくなった。主語をカットするだけで、見違えるほどによくなった。素晴らしいぞ、谷崎テクニック。文化勲章は伊達じゃあねえ。太宰ではこうはいくめえ。なんせ、てめえの皮膚感覚だけでどーのこーのだからよ。


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kiyoto@gate01.com