tell a graphic lie
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(2003.1.4)-1
あけましておめでとう。何かいい言葉をはじめに置きたかったんだけれど、何も置く事ができなそうだ。ぼくはぼくのしている事は家族をも無くす事だと今更認識してビビっているよ。はじめから持っていたものも段々と棄てていってぼくは本当にひとりになる。きっと今年はそんな年だろうと思う。どこにいても地獄だ。地獄はぼくの内にある。一月二月三月四月五月六月七月、、、ひどい真っ暗闇だ。わかっている。それでもさあ新しい年を始めよう。随分と惨めな身体になって来たけれどもぼくはまだ生きているし、やる事も少しはある。我慢したって誰も誉めては呉れないよ。好きなだけ泣けばいい。何にも変らない。真っ暗闇のままだ。闇は闇、ぼくはぼくだ。まだ死んでない。
(2003.1.4)-2
力を尽して狭き門より入れ
(2003.1.4)-3
実は昨日試しに文化してみたのだが、十戒にはひとつ足らなかった。書いてみたものを眺めてみて、思ったとおり実に陳腐なので苦笑して引っ込めてしまったのだが、考えてみればここ以外にこれを保存しておく場所などありはしないのだと思い返した。この内の幾つが真に正当なのかはぼくは知らない。勿論ぼくは全てを真面目に信じている。ぼくの行為凡てにはいつも何らかの罪を伴っており、その自覚のためにぼくは楽しむということを失ったというわけだ。実際何をしても虚しい、どころの騒ぎじゃあない。死ね死ねばかり言われる。うるさいから九割方は無視しているが、気を抜くといつも聞えてくる。「お前はまだ死なないのか」ぼくは苦りきった笑いを浮べていちいち弁明し、酌量を乞わなければならない。「怖くて死ねないんです」これが二十四歳の人間を生涯で尤も痩せこけさせ蒼白い相貌にし、肌を老化させ眼球の周囲に青黒い疲れた隈を作り、両親を以て老人のようだと歎息せしめる我が聖なる義である。こんなものでも無いよりは余程増しである。守ろうとしているだけでぼくは生存を許可される。死ねと言われるだけで済むのである。
(2003.1.4)-4
一、他人に理解されることを望むな。言ってもわからぬ。笑って誤魔化せ。そもそも喋るな。
一、他人に関心を持たれるな。心が在ると思われるな。生物だと意識させるな。お前が他人を思いやる法にそれ以上のものは無い。
一、他人より金を稼ぐな。お前の行為の結果がそのようになる筈が無い。
一、可能な限りものを食うな。お前の一口は一千の殺戮と等価である。
一、お前は屑だ。お前の考えは総て欺瞞であり、詭弁に満ち満ちている。
一、やるからには負けねばならぬ。正義は此方にではなく、必ず彼方にある。
一、眠る事だけは唯一つお前に許された事である。祈りも懺悔も要らぬ。唯今日一日生きてまた眠りに就くその恥を心臓に擂り込んでから就け。
一、生まれてこなければよかったのである。忘るな。唯呼吸するだけでお前はマイナスなのだ。
一、一日生きることは一日の敗北である。お前に今日よりよき日は来ない。早う死ね。
(2003.1.4)-5
残念な事には今此処で個々の戒律についてのぼく自身の十分な論拠を提出することは出来ないが、少しずつそれを明らかにして行きたいとは願っている。これからぼくの書くものはどんなものでも、切り口もその手法も異なるだろうが、全てその目的の下に書かれることになる。いや、これまでもそうだったのだが、ここで改めて明示しておこうと思う。ぼくが書くことはぼくの死のうという努力と完全にイコールである。自身の意が完全に書き尽くされた時自殺の為ると信じている者のぼくも亦一人である。その先が天国だろうと地獄だろうとそれ以外だろうと興味が無い。ぼくは此処に居てはいけない気がする。唯それだけだ。
(2003.1.5)
変なところへ出た。場所を変えなければ。此処は一日中夜なのか、いつも暗い。明るい陽射しの気配もするにはするが、気配ばかりで一向信じられない。狭い部屋、限られた空間を照らす灯りには事欠かないが、その外は何時も暗闇が拡がっているのが見える。身体を温める火にも事欠かないが、少し緩めてみれば忽ち寒が背筋まで沁み寄って来る。周囲のあらゆる事物にへばり付いた影は皆冷たくて本当に真っ黒だ。深淵の死霊と闇鼠は恐らくそこを幾らでも飛び廻り歩き廻る事ができるだろう。此処に在ってぼくは何を問い叫べばいい。何も叫ばなくてよいか。何を聞き、何を伝えればいい。無音を聞き続け、今日の闇の陰影が昨日のそれと寸毫も違いの無かった事を書き記せばいいか。その余の言葉は全て脳裡にて寿命を完結せしめ、眺める闇の向うへ差し込んで溶かせばいいか。此処では白熱電球の光は貴重で浮惑なものだ。闇には非ずといった程度のもので信ずるに足りない。此処に確かに在るのは闇だけだ。確実なのはそれだけだ。闇の色は黒だ。当に黒だ。それだけが唯はっきりと認知せられる。世界に秘密は無い。世界は闇だ。応えは無い。闇は笑いどころか、身じろぐ素振りすらぼくには顕さない。変なところへ来た。どこか違う場所へ歩いて移らねばならない。ぼくは周囲の闇をじっと覗き込みながらそう考えている。朝の記憶は何処に在ったか。
(2003.1.6)
ひとりで出て行く。強いからではない。何といって助けを乞えばよいかわからないからだ。引きずり込むとどんなよいことがあるのかも全くわからない。ともすると他人の歪んだ顔は見れるかもしれないが、それには興味が無い。強いからではない。世の総ての事物にはそれを享ける資格を持つ者と持たぬ者が居る。星、それを認めるだけだ。明日からまた続きを書く。やることは決まっている。そこに意志の力は必要でない。端坐して待っても首から血は零れ出さない。偽物の笑顔でも構わず捧げたくなる人が現れるわけでもない。世界は変らず闇だが、住めなくは無い。ぼくの血圧はまだ身体に熱を巡らせ切るだけの力強さはある。ぼくの眼は光を放たないが、まだ光を受ける事はできる。ぼくがひとりで来た処だ。ぼくは完結している。ひとりで出て行く。
(2003.1.9)-1
朝と夜の硬質の寒さにあってのみ、わずかに自身の感覚の存在を識る。ぼくは意識を主に大股に歩く事に対して向け、上空の巨大な空虚を知覚しないように努める。極限までその色を削いだ真冬の空は、自ら空という事物である事を半ば放棄している。空は空隙そのものになり透明すら超越する。吸い込まれそうな空という表現が気障なものでない場合、それは恐怖だ。一気圧が零気圧、真空に向って疾走する。重力に勝る場面が或は在るかも知れない。ぼくは意識を歩く事のみに向け、そういう妄想じみた考えに取り付かれるのを避けようとする。そして「閉ざしている」という事を認識する。それによってぼくは自身の感覚の存する事を確認する。ぼくは失ったのではなくて閉ざしているのだ。その裏付を僅かに得る。
(2003.1.9)-2
はだか並木、向うの空も剥がれている
家を取り壊して穴を掘る音の
皮のコートにヘッドフォンまで枯葉を踏む
前の壁に背をつけて友の出を待つ冷たさ
根雪の塊の大きさを測る朝の
私が手をこすれば寒がりのあんたは鼻をすすって
(2003.1.9)-3
例えば恐怖そのものを如何にして文で表すか。勿論「恐怖」と書けばよいのではない。「恐怖」という語からは人は実際には何の恐怖も感じない。では、ホラー小説のような話を書くのはどうか。これは恐怖の連想を読み手に誘起するだけで文章自体が恐怖を表現しているわけではない。文章の内容は恐怖を表しているかも知れないが。
ピカソのゲルニカは空爆によるゲルニカの町の凄惨な状況の恐怖を直接に表現したもので、空爆の凄惨な状況の恐怖を見るものに連想させるわけではない。真に或るものを表現するという事はつまりはそういう事である。公開当初、ゲルニカの価値を最初に発見したのが幼子であったという事実は一目に値する。その子にはゲルニカの町が空爆で焼かれた事を知るはずがないどころか、空爆というものや焼かれるということ恐ろしいものであること、いや事によると、恐怖というものを認知してすらいなかったかも知れない。それでもその子はゲルニカを見て恐怖し泣いた。恐怖の表現とはつまりそういう事だ。そしてその幼子が泣くのを見てようやく大人たちはその絵が名画である事を識ったのである。連想を用いてのみ鑑賞する人間たちにゲルニカは如何なる連想をも誘起しなかった。何故ならば、本当の空爆による凄惨な状況の恐怖を経験した者はそこには居なかったからだ。経験が無ければ連想はできない。連想する事を拒絶するその絵を見た連想に頼る者たちは自身にその経験のストックが無いためにそこで立ち往生し、その幼子がこれは恐怖を表現しているのだと教えるまで、「駄作だ」などという見当違いのコメントを吐いてその場を後にしていたのである。そしてその後からようやくそれぞれ自身の内から適当な恐怖の連想を引っ張り出して来て、ゲルニカのもたらすインパクトと比較したのである。けれども自身の恐怖の経験が空爆の恐怖と伍さない者はやはりゲルニカを理解できなかった。それで今度は名画だという連想を引っ張り出して、つまりは自身にはよくわからない点に於いてまさに名画だと納得し、満足してその場を去るようになったのである。そして今日のぼく等は彼等と同じようにゲルニカを名画だという視点で見る。ゲルニカは名画だが、その事はどこにも表現されていない。ゲルニカを見ての印象がゲルニカの空爆の恐怖以外であった者は注意しなければならない。自身の眼は連想という実に狭い範囲に留まり、曇りきっているのかも知れない。
文字による表現に於いても実際は全く同じ事だが、取り扱うにあたっては絵の場合よりもより一層注意しなければならない。文字は「恐怖」と書く事すら可能なのだ。その誘惑は常に書くものを惑わす事だろう。読み手に「恐怖」そのものを伝えるのに「恐怖」という語はなんら寄与しない。むしろ弊害となるだろう。そして更にまた、細かな事象を並べ立てる事によって恐怖の連想を誘う事も文字の場合、より柔軟に行う事ができる。書き手は十分に恐れなければならない。自身の目的は一体何なのか、連想を誘起する事か、それともそのものを表現する事か。それには
(2003.1.11)-1
大きくて黄色い月が出ていた。そのためか空はとても明るく、そこに漂う雲たちがネガのように浮かび上がっていた。風呂上り、すぐに着換えて外へ出たぼくには何も言うことがなかった。星がひとつ、ふたつ、と数えてみるくらいだった。気温は低くないようで、通りかかった家の灯りのともった居間の、カーテンと窓がわずかに開かれて中の中年の婦人らしきシルエットが庭の犬(だろうと思う)に何かやっていた。ぼくは黙って通り過ぎた。何を思っていたかはここには書かない。なに、極く下らないことだ。部屋に戻ってからは、話の続きを書き始めた。千字ほど書けた。今ひと休みをして湯を沸かし、正月に買ったアールグレイを飲んでいる。それだけだ。感謝を思う際に対象は必要か否か。光の穴を思っている。
(2003.1.12)-1
ジイド「背徳者」を読む。途中から苛々する。七年がかりの作品だろうがなんだろうが、残念な事にはそれを読むぼくには預かり知らぬ事だ。太宰が「意余って絃響かず」と評したのにぼくは全く同意する。意は伝わる。が、くどい。
けれども、おかげで「狭き門」の表題の言葉がぼくには残った。ルカ伝第十三章二十四節「力を尽して狭き門より入れ」
彼の作品の主人公たちは皆実に純化された人格ばかりである。理由は単純だ。ジイドは金持ちだった。生存のために割かなければならない時間と意思とは、彼の作品の主人公等には皆無だ。次の一秒呼吸をするために支払わなければならない金銭を生まれた瞬間から既に所有しており、意志のみに従い行為する事の可能な彼等はほとんど抽象化され観念化された人格になっている。理学物理学の理想化と同じだ。その挙動は明確で興味深く、問題を取り扱うのには実に有用だが、現実には有り得ない。
「背徳者」は「自由」について取り扱ったものだが、その在りかたに苦悩する主人公は、自身の所有する類まれなる自由を行使して自由について悩んでいる、というような甚だ馬鹿馬鹿しい状態の人間で、始めの半分はその取り扱われている内容に惹かれて読んでいたが、仕舞いに向うにつれてその馬鹿馬鹿しさの臭気が鼻について堪らなくなってきた。主人公は随分と陳腐な矛盾にはまり込んだらしい。そこが厭なら自力で出て来い。自分で出るより他ないのだ。ぼくは「狭き門」を思い出していた。
解説によるとジイドにあっては「狭き門」と「背徳者」は、仁王門の両脇のそれぞれの仁王に相当するものであるらしい。そしてその二人の仁王が教えるのは、結局のところ一ばん愚かなのはそんな事を考えているお前らなのだ。後戻りできぬのなら、せいぜいその愚を識り、忠実であれ。ぼくは苛々した。
(2003.1.12)-2
金銭についてはぼくもいずれはやはり書いて行かなければならないだろう。生きる資格の無い人間が次の一日生きるために今日金を稼ぐ。永遠の悲喜劇だ。しかもその理由ときたら実におかしくて、唯「怖いんです」馬鹿だ。悲喜劇だ。
(2003.1.12)-3
今日書いているところは全部手直しだけなので、詰まらないので広末涼子のことでも書こうか。年末年始、実家へ帰っているときにテレビで広末涼子を見た。相変わらず、実にきれいだった。出演していた番組はさんまのトーク番組で、深田恭子と一緒だった。見たのはほんの二三分だったが、彼女は驚くほど何も喋らなかった。
さんまの軽はずみな言葉で深田恭子がなんと涙ぐみだしたのでさんまは狼狽し、一緒にドラマをしたことがあり比較的気軽に話せると思われる広末にとりなしを頼んだが、彼女はそれには応じなかった。また深田涼子の庇いだてもほとんどしなかった。つまり彼女はそのやりとりをただ眺めていた。ぼくはそういう三人のやりとりを面白く眺めた。なんという不器用さだろう。これがもう何年も芸能界に居る人間の動きだろうか。そこらの若者となんら変りがないじゃあないか。まるで必死に身を守っているハリネズミだ。見ろ、あの表情の失い方を。実にマヌケだ。でも、きれい。そんなような事をぼくは思って、何年か前にNHKの番組で、「ソフィーの世界」の著者のなんとかという学者が来日した際に対談していた事を思い出した。そのときも、広末涼子はやはりきれいだったが、その発言の月並みな事にぼくは少なからず驚いた。彼女はまるで何も知らないままで、あれだけの事をやっていたのだ。
今ぼくは別に広末涼子を馬鹿にしているのではない。ただ彼女にはまだいろいろと知らなければならないことが依然としてあるのだということを思うのである。そして、実際にはそれを知らなくても全然構わないのだとも思うのである。そして、彼女が「女優、女優」と連呼することも、フランス映画に出ることになって不安で泣き出したのも全然そこいらのまだ何の実績も持たない若者の感覚と同じだという事を知ったのである。彼女は歳相応に片端で、歳相応の不安を抱えている。それはぼくには少々驚くべき事だった、というだけだ。賢くあるのはとても難しい。
ぼくはこんな感じでときどき広末涼子を観察する。ときどきしか見ないので、見る度に彼女は必ずどこかが見違えるほど成長している。それはとても面白い。それにしても、あんなに何も喋れないで大丈夫だろうか。ちゃんと恋人がいるだろうか。大変に心配である。あんな眉間に皺の寄った感じでは、気詰まりで男も逃げてゆくのではあるまいか。折角きれいなのだから、仕事ばかりやっていないでもう少し楽しんで生きたほうがいい。大きなお世話だが。
(2003.1.12)-4
広末涼子はスッピンがきれいである。化粧をすると実に悪くなる。あと媚びた表情もよくない。笑っていない方がよい。自分の好きなことをしているときの顔の方がずっといい。どうもぼくは素顔のきれいな人が好きなようである。「初恋」のジャケットの写真の Chara は若い頃よりもずっときれいだが、これもスッピンである。この写真は、ときどき眺めて、きれいだなあ、と思っている。他、小谷氏も化粧気がどうにも感じられないし、Cocco などは化粧をしたら、ママの化粧道具、口紅を盗んでつけた八歳の女の子のようになるのではないかと心配される。新居昭乃氏だけはきちんと化粧をしているが。この人もスッピンでギターを弾いて歌っているときの方がおそらく魅力的であろう。実生活に近い方では、、、言わない。下らんな。まあ、いいか。
(2003.1.13)-1
昨日、現在のいい文がとても読みたくなって、書店の文庫棚をさんざ探し回って結局町田康「夫婦茶碗」を買ってきた。他に買ってきたのは結局現在のものではなくて、川端康成「雪国」「舞姫」「伊豆の踊り子」「愛する人達」、大岡昇平「野火」、有島武郎「小さき者へ・生まれ出づる悩み」、ドストエフスキー「地下室の手記」だ。
書店の文庫棚にはいい文が全然無かった。ぼくは棚の端から手当たり次第に各小説家の適当なものを抜き出しては、書き出しやら中の一節やらを読んだが、現代作家の文はみな何やら同じような文ばかりのように見えた。仕方なくぼくは前から興味のあった川端康成に手を出した。川端康成の文は明らかにうまかった。ぼくの古臭い文の趣味の持主なのだろうか。それとも現代小説を読みなれていないせいなのだろうか。きっとそうだろう。ぼくはまた他の作家の文庫本と抜き取ってはぱらぱらめくり、めくっては幻滅してまた元の隙間に戻した。腹立たしかった。あいにく時代小説やらミステリーは読む気がしないので、池波正太郎やら何やらは飛ばしたが、或はそれがよくなかったのか。ぼくは結局町田康を見つけることしか出来なかった。
この新潮文庫「夫婦茶碗」には、筒井康隆が解説を書いていて、面白いことを言っている。
「これから町田康「夫婦茶碗」の解説を書くわけであるが、解説というものはだいたいにおいて、褒めねばならなんものである。したがってわしはこれから町田康「夫婦茶碗」を褒めることになる。褒めるといっても、何の根拠もなしに褒めるわけではない。わしが現在翻訳途上にある A・ビアス著「悪魔の辞典」(まだ「G」を翻訳中であって、前途遼遠)の一頁目に、こんなのがある。
ADMIRATION [称賛] 名 他人が自分に似ていることを馬鹿ていねいに評価すること。
これはだいたい的を得ていて、作家が作家を褒める場合は、相手の、自分にない資質だの、自分にはとても手の出ぬ技法などには気がつかず、または気づいていても言及せず、その作家の自分に似た部分ばかりを、手を替え品を替えて称揚する。だから、前記ビアスの文中で訂正すべき部分といえば「馬鹿ていねいに」の部分であり、ここは「手を替え品を替え」にすべきであろう。つまり手を替え品を替え遠まわしに自分を褒めるのである。こんなことは今まで解説書の誰も書かなかったことであるが、なぜ書かなかったかというと、恥ずかしくて書けなかったかアホであるかのどちらかだったからである。あるいはわしが、恥ずかしいことも平気で書くアホなのかもしれぬのだが。
以下、解説に移るが、云々」
「夫婦茶碗」はなかなかよい文だった。太宰の方がだいぶうまいけど。町田康は二千年の芥川賞で、これは一九九七のものだから当然だが。太宰は第一創作集「晩年」中「逆行」で既に芥川賞の次席である。今だったら「猿面冠者」か「道化の華」で文句無く取っているだろう。「逆行」や「陰火」はちょっと短い。
話が逸れた。なんでまた筒井康隆の解説を持ち出したかと言えば、つまりこれから筒井康隆を読み始めるかも知れない、ということを書きたかったのである。ぼくはいい文が読みたいのである。それは受け取るのにクソ手間のかかる小説というものを読む際の前提なのである。けれども、いい文を書いて小説家になっている人間というのはもしかしたらそんなに居ないものなのかしらん。それともぼくの基準が良くないのかしら。
ついでに昨日の続きで、ジイドはノーベル賞作家だけれども、「背徳者」はぼくには大変に不満である。特におしまいの第三部が実に不満である。そこはたったの三十数頁で書いてよい部分ではない。「背徳者」は後半に行けば行くほど記述の密度が上がる。この作品が主人公の独白形式であることをかんがみれば納得すべきことかも知れないが、「見たまえ、そこに白い石がある。僕はこれを日影に冷して置く。それから、そのひやりとした心を鎮める冷たさが抜けるまで、長い間掌に握りしめる。冷たさの抜けた石は、また日影に戻して、石を取り替えてはまた繰り返す。そんなことをしているうちに、時間が過ぎて夜になる・・・・・・。」というような状態に陥っている者の独白としては第三部は余りに性急な息の詰まるものである。それまでの自身の行為に対する細かな評価の記述が第三部では一気に消えてしまう。それは無くしていいのか。独白だから無くすべきなのか。それならば独白という形式をむしろ放棄すべきでないか。代案があるわけではないが、何かすべきではなかったか。それとも、ぼくの基準が良くないのか。間違っているのだろうか。やはり「背徳者」はぼくを苛立たせる。
(The Ghost of What Should've Been)
What else in this room reminds me of you?
The window sill
where the crucified pit of an avocado
still sits in water.
What else in this room reminds me
of the relationship i've ruined?
The tables I made --
strong enough to hold your magazines
but not your tired legs.
One more week in this apartment.
One more week of being haunted
by the ghost of what should've been.
What else in this empty room
reminds me of you?
The orphaned couch
where I spent some long nights
while you went out with our friends.
What i wouldn't do
to be a ghost like you,
to be somowhere new,
to leave everything the way left everything
that reminded you of me.
One more week in this apartment.
One more week of being haunted...
Owen
♪
(在るべきだったものの死霊)
他に何か、この部屋に君の想い出はあるだろうか。
窓枠がある。
括りつけられたアボカドの種核のまだ水に浸かっている。
他に何か、ぼくが害った繋がりの残滓はあるだろうか。
ぼくの作ったテーブルがある。
雑誌は積めたけれど、疲れきった君の脚は支えられなかった。
もう一週間だけ、このアパートで。
もう一週間だけ、在るべきだったものの死霊に憑かれて。
この空っぽの部屋にまだ君の想い出は転がっているのか。
孤児になった寝台がある。
君が友だちと出かけた永いひとりの夜を寝転んで過ごした寝台。
ぼくがしなかっただろうもの。
君みたいな幽霊になること。
新しい場所へゆくこと。
君がしたような、ぼくを想わせる全てのものから遠ざかるようにして全てを遠ざけること。
もう一週間だけ、このアパートで。
もう一週間だけ、憑かれたぼくはここで。
(2003.1.18)-1
「雪国」を読む。芥川が見たら激しく嫉妬するだろう。文字による油彩の風景画。所謂XY座標とは多少異なる二次元に描かれた恐ろしく端正な油絵だ。額はついておらず、重さを持たないので宙に浮いている。けれどもホログラフィというような空疎さは持たない。質感はあるが厚みはゼロだ。彼の用意したカンバス(或はフィルム)は無垢な真摯さに触れる事に依ってのみ着色する事のかなう。そういうカンバスに実際に色づけする事のできたのは二人の女の薄刃の短刀のような研ぎ澄まされた精神とそれらを象徴する身体の部位、体温、言葉、幾つかの行為、その歌声と湯だ。いや、用意したカンバスという言い方は間違っているかも知れない。カンバスは彼自身の裡にあり、彼自身とほとんど同義である。では、彼とは誰か。それは主人公島村であるかも知れぬし、作者川端の方かも知れない。そこに区別があるものか、無いものか。ぼくにはよくわからない。途中、半ばに差し掛かった辺りでぼくは堪らず製作時期を巻末の年表によって調べた。三十八歳。太宰「斜陽」と同じ時期である。確かめて一息つく。こんなものを三十前後で書かれた日には堪らない。以降ぼくは無心にこの作品を楽しんだ。よい話であった。終わりも、よかった。読み終えたぼくは溜息ひとつつかず、ここに書いたような事を柱に寄りかかって考えた。いい文が書きたいとしみじみ思った。いい文が書きたい。
(2003.1.18)-2
そういえば、新居昭乃氏もそろそろこの歳である。己の仕事を丁寧にして生きて来た人間には、ここいらで一度、実をつける機会を与えられるものらしい。春には氏のアルバムもおそらく出ることだろう。とても楽しみである。
(2003.1.18)-3
それから散歩に出たぼくは、街灯の一本と一緒に植えられた、裸の街路樹の枝の先々に硬い小さな芽の無数に生れているのを見とめて立ちどまった。街灯に照らされて鈍い銀色に光るその厚い肌を見上げるとその先には満月があった。ぼくの真上だった。月は白く、薄い雲の流れる中に漂っていた。そのまましばらく立って見上げていた。自身の吐く息が微かに白い水蒸気になっているのが一緒に見えた。散歩の足を少し伸ばしてみること決めた。
(2003.1.18)-4
晩年のガウディがあの聖堂にとり殺された事はぼくを落胆させた。ニーチェが言葉を閉ざしてからの十一年もぼくに吐気を催させる。そして、どこぞのキリスト教系の団体の拡声器を通しての演説はぼくをニヤつかせた。「主キリストは我々の罪を一身に背負って磔になって下さいました」その代り供物を要求します。主は人の肝がたいそうお好きなようだ。偶像になるに値するのは何もお前だけでないのだぞ。そんなような皮肉が脳裡に浮んだのである。正月にテレビで見たハムレットは、再びぼくに沙翁への関心を呼び起こした。あれは舞台脚本なのである。小説としても超一流だが決して小説ではない。なぜ今も相変わらず演出家があれを材に取るのかが少しわかった気がした。演出家は常によい脚本とよい役者の与えられる事を願っている。完璧な脚本が与えられれば演出家は自身を直に評価する事が可能である。うまくいっても、またそうでなくても、それは彼自身の力の結果である。そのような脚本はおそらくほとんどないのだろう。ぼくが見たのは映画のそれだったが、しきりにそんなような事が思われた。これは舞台のためにある。それ以外では決して充分になり得ない。なんと素晴らしい事だろう。まったく素晴らしい。
(2003.1.18)-5
ぼくの言葉はみんな半日遅れる。
(2003.1.16)
はんぶんで生きて見せてくれ。
(2003.1.19)-1
川端康成「舞姫」手に余るので、コメントは短く。不快な話なので、不快になる。「仏界、入り易く、魔界、入り難し」という一休和尚のものだという言葉が出てくるが、まどろっこしい。「力を尽して狭き門より入れ」どちらも同じ事だ。ぼくは十分に青いので、こちらの方が好きである。巻末の三島由紀夫の解説が非常にいい。おかげでこの不快な気分が、この作品に対する素直の反応である事を識る。確かにそうだ。やつはまさに小説家だ。
(2003.1.19)-2
ああ、不快だ、不快だ。不快だ、実に不快だ。ほのかな、けれども暗闇の水面に落ちる水滴の音のような拭い難い不快だ。川端康成は大したものだ。危ない無気力が移った。おかげで休みがいちにち丸つぶれだ。これだから大家は嫌いだ。ああもう、不快だ、実に不快だ。うんん、、、
(2003.1.20)-1
くそ、川端康成。川端康成、川端康成、川端康成、川端康成、川端康成、川端康成、川端康成、川端康成、川端康成、川端康成、川端康成、川端康成。悪魔だ。人間じゃねえ。脳みそのばけものだ。なんということだ。まったく、なんということだ。
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