tell a graphic lie
This document style is copy of
h2o
.
(黄金風景)
海の岸辺に緑なす樫の木、その樫の木に黄金の細き鎖のむすばれて
-プウシキン-
私は子供のときには、余り性質のいい方ではなかった。女中をいじめた。私は、のろくさいことは嫌いで、それゆえ、のろくさい女中を殊にもいじめた。お慶は、のろくさい女中である。林檎の皮をむかせても、むきながら何を考えているのか、二度も三度も手を休めて、おい、とその度毎にきびしく声を掛けてやらないと、片手に林檎、片手にナイフを持ったまま、いつまでも、ぼんやりしているのだ。足りないのではないか、と思われた。台所で、何もせずに、ただのっそりつっ立っている姿を、私はよく見かけたものであるが、子供心にも、うすみっともなく、妙に疳にさわって、おい、お慶、日は短いのだぞ、などと大人びた、いま思っても脊筋の寒くなるような非道の言葉を投げつけて、それで足りずに一度はお慶をよびつけ、私の絵本の観兵式の何百人となくうようよしている兵隊、馬に乗っている者もあり、旗持っている者もあり、銃担っている者もあり、そのひとりひとりの兵隊の形を鋏でもって切り抜かせ、不器用なお慶は、朝から昼飯も食わず日暮頃までかかって、やっと三十人くらい、それも大将の鬚を片方切り落としたり、銃持つ兵隊の手を、熊の手みたいに恐ろしく大きく切り抜いたり、そうしていちいち私に怒鳴られ、夏のころであった、お慶は汗かきなので、切り抜かれた兵隊たちはみんな、お慶の手の汗で、びしょびしょ濡れて、私は遂に癇癪をおこし、お慶を蹴った。たしかに肩を蹴った筈なのに、お慶は右の頬をおさえ、がばと泣き伏し、泣き泣きいった。「親にさえ顔を踏まれたことはない。一生おぼえております」うめくような口調で、とぎれ、とぎれそういったので、私は、流石にいやな気がした。そのほかにも、私はほとんどそれが天命でもあるかのように、お慶をいびった。いまでも、多少はそうであるが、私には無智な魯鈍の者は、とても堪忍できぬのだ。
一昨年、私は家を追われ、一夜のうちに窮迫し、巷をさまよい、諸所に泣きつき、その日その日のいのち繋ぎ、やや文筆でもって、自活できるあてがつきはじめたと思ったとたん、病を得た。ひとびとの情で一夏、千葉県船橋町、泥の海のすぐ近くに小さい家を借り、自炊の保養をすることができ、毎夜毎夜、寝巻をしぼる程の寝汗とたたかい、それでも仕事はしなければならず、毎朝々々のつめたい一合の牛乳だけが、ただそれだけが、奇妙に生きているよろこびとして感じられ、庭の隅の夾竹桃の花が咲いたのを、めらめら火が燃えているようにしか感じられなかったほど、私の頭もほとほと痛み疲れていた。
そのころのこと、戸籍調べの四十に近い、痩せて小柄のお巡りが玄関で、帳簿の私の名前と、それから無精鬚のばし放題の私の顔とを、つくづく見比べ、おや、あなたは・・・・・・のお坊ちゃんじゃございませんか?そう言うお巡りのことばには、強い故郷の訛りがあったので、「そうです」私はふてぶてしく答えた。「あなたは?」
お巡りは痩せた顔にくるしいばかりにいっぱいの笑をたたえて、
「やあ。やはりそうでしたか。お忘れかも知れないけれど、かれこれ二十年ちかくまえ、私はKで馬車やをしていました」
Kとは、私の生れた村の名前である。
「ごらんの通り」私は、にこりともせずに応じた。「私も、いまは落ちぶれました」
「とんでもない」お巡りは、なおも楽しげに笑いながら、「小説をお書きになさるんだったら、それはなかなか出世です」
私は苦笑した。
「ところで」とお巡りは少し声をひくめ、「お慶がいつもあなたのお噂をしています」
「おけい?」すぐには呑みこめなかった。
「お慶ですよ。お忘れでしょう。お宅の女中をしていた----」
思い出した。ああ、と思わずうめいて、私は玄関の式台にしゃがんだまま、頭をたれて、その二十年まえ、のろくさかったひとりの女中に対しての私の悪行が、ひとつひとつ、はっきり思い出され、ほとんど座に耐えかねた。
「幸福ですか?」ふと顔をあげてそんな突拍子ない質問を発する私のかおは、たしかに罪人、被告、卑屈な笑いをさえ浮かべていたと記憶する。
「ええ、もう、どうやら」くったくなく、そうほがらかに答えて、お巡りはハンケチで額の汗をぬぐって、「かまいませんでしょうか。こんどあれを連れて、いちどゆっくりお礼にあがりましょう」
私は飛び上がるほど、ぎょっとした。いいえ、もう、それには、とはげしく拒否して、私は言い知れぬ屈辱感に身悶えしていた。
けれども、お巡りは、朗らかだった。
「子供がねえ、あなた、ここの駅につとめるようになりましてな、それが長男です。それから男、女、女、その末のが八つでことし小学校にあがりました。もう一安心。お慶も苦労いたしました。なんというか、まあ、お宅のような大家にあがって行儀見習いした者は、やはりどこか、ちがいましてな」すこし顔を赤くして笑い、「おかげさまでした。お慶も、あなたのお噂、しじゅうして居ります。こんどの公休には、きっと一緒にお礼にあがります」急に真面目な顔になって、「それじゃ、きょうは失礼いたします。お大事に」
それから、三日たって、私が仕事のことよりも、金銭のことで思い悩み、うちにじっとして居られなくて、竹のステッキ持って、海へ出ようと、玄関の戸をがらがらあけたら、外に三人、浴衣着た父と母と、赤い洋服着た女の子と、絵のように美しく並んで立っていた。お慶の家族である。
私は自分でも意外なほどの、おそろしく大きな怒声を発した。
「来たのですか。きょう、私はこれから用事があって出かけなければなりません。お気の毒ですが、またの日においで下さい」
お慶は、品のいい中年の奥さんになっていた。八つの子は、女中のころのお慶によく似た顔をしていて、うすのろらしい濁った眼でぼんやり私を見上げていた。私はかなしく、お慶がまだひとことも言い出さぬうち、逃げるように、海浜へ飛び出した。竹のステッキで、海浜の雑草を薙ぎ払い薙ぎ払い、いちどもあとを振りかえらず、一歩、一歩、地団駄踏むような荒んだ歩きかたで、とにかく海岸伝いに町の方へ、まっすぐに歩いた。私は町で何をしていただろう。ただ意味もなく、活動小屋の絵看板見あげたり、呉服屋の飾窓を見つめたり、ちえっちえっと舌打ちしては、心のどこかの隅で、負けた、負けた、と囁く声が聞えて、これはならぬと烈しくからだをゆすぶっては、また歩き、三十分ほどそうしていたろうか、私はふたたび私の家へとって返した。
うみぎしに出て、私は立ち止まった。見よ、前方に平和の図がある。お慶親子三人、のどかに海に石の投げっこしては笑い興じている。声がここまで聞えて来る。
「なかなか」お巡りは、うんと力をこめて石をほうって、「頭のよさそうな方じゃないか。あのひとは、いまに偉くなるぞ」
「そうですとも、そうですとも」お慶の誇らしげな高い声である。「あのかたは、お小さいときからひとり変って居られた。目下のものにもそれは親切に、目をかけて下すった」
私は立ったまま泣いていた。けわしい興奮が、涙で、まるで気持よく溶け去ってしまうのだ。
負けた。これは、いいことだ。そうでなければ、いけないのだ。かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与える。
太宰
(2003.2.2)
シャトルが燃えた。コメントは差し控える。どうも軽薄でいけない。美しく童話的な悲劇がしきりに想起されてならない。
(2003.2.3)-1
でも、それよりもいいものは彼の中にはなかったんだ。自身の大袈裟な虚栄の放つ悪臭の酸鼻は彼自身がもっとも強く感じていたはずだから。彼女はそれを自己肯定に用い、彼はそれをそのように用いる事はない。勝負ははじめから決まっていたし、またそうでなければならないんだ。そういうことを言っているだけだよ。
(2003.2.3)-2
自身が他に許容され得る場合は唯ひとつしかない。負けることだ。これより外に他に対して自己の重みを附加し得る術は無いんだ。これは決して概念論ではない。経験則だ。
(言葉)
本居宣長に、「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という言葉がある。(国歌八論斥非再評の評)ここで姿というのは、言葉の姿の事で、言葉は真似し難いが、意味は真似し易いと言うのである。普通の意見とは逆のようで、普通なら、口真似はやさしいが、心は知り難いと言うところだろう。普通の意見に別段間違ったところもなさそうであるが、意見が世に行われるという事は、意見が世人に反省されているという事とは違う。むしろ反省されていないから行われるので、便利で実用的で、少なくともそれで事がすむという意見なら、世に行われる十分な理由を持つだろう。本当は何を言っているのだか知らずに、意見を言うという事は、私達には極めて普通な事である。言葉というのものは恐ろしい。恐ろしいと知るのには熟考を要する。宣長は言葉の性質について深く考えを廻らした学者だったから、言葉の問題につき、無反省に尤もらしい説をなす者に腹を立てた。そんな事を豪そうに言うのなら、本当の事を言ってやろう、言葉こそ第一なのだ、意は二の次である、と。
宣長の言葉はそういう言葉である。或る人が宣長に当てつけて、近頃世の才子どもが古を学ぶと称して、古歌の姿詞を真似して歌をよんでいるが、そのよみ出すところを見れば、なるほど姿詞は古歌に似ているが、心は俗に近く、古とは大違いであり、誰にも一見して似せ物とわかる、笑止な事であると言ったに対し、宣長は答えた。試みに私の詠んだ万葉風の歌を、万葉集の中に、ひそかに交えて置いたら、君にはこれを弁ずる事が出来まい。これが予の歌、これが万葉の歌と言って見せれば、必ず予が歌を似せ物と言わん。姿は似せ難く、意は似せ易し。併し、そう言っても、お前さんのような尤もらしい説の好きな男には、何の事やらわかるまい。「姿詞の彷彿たるまで似せんには、もとより意を似せん事は何ぞ難からん。これらの難易もわきまへぬ人の、いかでか似ると似ぬとをわきまへん。」
宣長の片言には、その著作から推して、含蓄の深いものがあり、一と口には言えないが、彼に先ず何が気に食わなかったかは明瞭なのである。当時の学者は、大義という事をしきりに言った。宣長を難じた学者も、詩と歌とは言葉こそ異なれ、大義に於いて同じ事だと考える。古を学ぶとは古の大義を学ぶことだ。上世の大義をわきまえぬ今世の薄俗な心が、古歌の姿詞にかかずらい、古歌の似せ物をよんでも仕方がない。この種の俗論を説得するほどむつかしい事はない。その証拠には、俗論の頑強には、徳川時代昭和時代の別はないのであって、民主主義の大義を学んだものには、民主主義と言おうとデモクラシイと言おうと、そんな事は問題ではないだろう。世間がもっと利口で、大義をわきまえているなら、今すぐ minshushugi と書いてよい。宣長もこれには弱ったのである。そこで冗談めいた話を考えたのだが、実は言葉について熟考した人に、初めて言える真面目な話だったのだ。いずれ論者には冗談ととられるのが落ちだ、と宣長は考えていたであろうか。試みに非常によく似た自分の万葉風の歌を、万葉歌のうちに交えて置けば、君に弁別出来るか、という宣長の質問にはあまり易しくない意味が含まれている。
万葉の歌の調べを真似る事は難事であって、実際には先ず不可能な事であるが、理論上、この真似の極まるところ、誰にも似せ物である事を看破出来ぬような歌になる道理である。不思議な事ではないか。君はこの言葉の持つ不思議な性質に気附いているか、気附いていまいと宣長は言いたいのだ。何故かというと、試みにこちらは宣長の歌と名を明かしてみれば、こちらは似せ物だと君は言うであろうが、君の眼前にあるのは、全く類似した感動を君に経験させている二つの言葉の姿だけではないか。こちらが似せ物であると言うが為には、歌の姿とは直接に何の関係もない宣長という別の言葉が是非とも必要だ。君のこれは似せ物と言う言葉は、君の大義には関係しているであろうが、歌については何も語らぬ。歌は歌以外のものを語ってもいないし、意味してもいない。歌は、言わばその絶対的な姿で立って、一人歩きしている。恐らく、そんな事実は、君の眼には這入らぬであろう。這入っても、言葉をそのように見るのは、歌人の習癖に過ぎぬと言うであろう。
意は似せ易い。何故か。意には姿がないからだ。意を知るのに、似る似ぬのわきまえは無用ではないか。意こそ口真似の出来るものだ。言葉に宿ったこの意という性質こそ、言葉の実用上の便利、特に知識の具として万能の由来するものだ。君が、言葉の姿を軽んずるのも無理はない。君の古の大義は口真似で得たものだ。さような大義から、今世の人の心の薄俗を言うのはおこがましい。今世の薄俗な心のままに、古を学ぼうと努める自分の真意が、君にわかろう筈がない。宣長の歌論が、当時として(敢えて今日でもと、私は言いたいのだが)比類なく優れていたのは、歌は言葉の粋であり、歌の発生を極める事は、言葉の本質をきわめる事だという、はっきりした意識があったところにある。彼の論証は必ずしも詳しくないが、その直覚にはまことに鋭敏なものがあった。
宣長は、「歌は言辞の道なり」と言う。歌は言葉の働きの根本の法則をおのずから明らかにしている、という意味である。彼が歌で言葉を第一とする理由は、歌は情を述べるもので、先ず情があって詞があるには違いないが、詞は求めて得るもの、情は求めずとも自然にあるもの、と考えたからだ。歌の発生を考えてみると、どんなに素朴な情が、どんなに素朴な詞に、おのずから至るように見えようとも、それはただ自然の事の成り行きでない。形のないものから形が、不安定なものから安定が求められているのだ。これは生きとし生ける物の努力であって、鶯は鶯、蛙は蛙で、その鳴声にも文がある。世間には、万物にはその理があって、風の音水のひびきに至るまで、ことごとく声のあるものは歌である、というような、歌について深く考えた振りをした説をなすものがあるが、浅薄な妄説である。自然は文を必要としない。言って文あるのが、思うところを、ととのえるのが歌だ。思うところをそのまま言うのは、歌ではない、ただの言葉だ。而も、そのただの言葉というものも、よく考えてみたまえ、人はただの言葉でも、決して思うところをそのまま言うものではない事に気が附くであろう。
宣長は、理より情を重んじ、人為より自然を重んじた人だが、彼の歌論を感情主義、自然主義と言い去るのは、大きな誤解である。又、歌には歌の独立した価値があるというだけの説なら、彼の嫌った当時の儒者達も既に言っていた事だ。彼の並外れた認識は、もっと深いところを見ていた。彼に言わせれば、歌人達は歌の独立的価値を知らぬどころではない、むしろ知り過ぎて孤立している。技芸の一流と化して社会から孤立し、仲間同士の遊びを楽しみ、社会の常識も歌の事は知らぬですましている、悲哉と考えるのである。彼の歌の道とは、歌をこの誤った排他性から解放する事にあった。歌の道を知るとは、歌は言葉の粋であると知る事だ。言葉は様々な価値意識の下に、雑然と使用されているが、歌は凡そ言葉というものの、最も純粋な、本質的な使用法を保存している。それを知る事だ。これが宣長の根底の考えであったと私は考えている。
自然の情は不安定な危険な無秩序なものだ。これをととのえるのが歌である。だが、言葉というも自体に既にその働きがあるのではないか。悲しみに対し、これをととのえようと、肉体が涙を求めるように、悲しみに対して、精神はその意識を、その言葉を求める。心乱れては歌はよめぬ。歌は妄念をしずめるものだ。だが、考えてみよ、諸君は心によって心をしずめる事が出来るか、と宣長は問う。言葉という形の手がかりを求めずしては、これはかなわぬ事である。悲しみ泣く声は、言葉とは言えず、歌とは言えまい。寧ろ一種の動作であるが、悲しみが切実になれば、この動作には、おのずから抑揚がつき、拍子がつくであろう。これが歌の調べの発生である、と宣長は考えている。この考えからすると、彼の歌論で好んで使われている、「おのづから」という言葉は、自然の動きにつかず離れず、これを純化するという意味合いに自然となって来る。その点で、彼の歌論には、アリストテレスの詩学にあるカタルシスの考えと大変よく似た考えがあると言える。
歌とは情をととのえる行為である。言葉はその行為の印しである。言葉は生活の産物であり、頭脳の反省による産物ではない。定義として生れたものでもなければ、符牒として生れたものでもない。これが、宣長が、「古事記伝」を書いた時の根本の言語認識である。「その意も事も言も相称う」とはそういう意味だ。彼は何も不明になった語義の解釈に三十年もかけたのではない。死んだ文字による記述と飜訳との裏に、生活され経験された言葉の一大組織のある事をはっきり見定めたかったからだ。
彼は、生活され経験される言葉にしか興味を持たなかったし、言葉とは本来そういうものと確信していた。一人で生活するものはない。生活するとは人と交わる事である。無論、社会という言葉は彼の語彙にはなかったが、言葉の社会性は彼には深く見抜かれていた。歌は人に聞かすものである。人に言い聞かせでは止み難きものが歌である。人が聞いても聞かなくても、そんな事はどうでもよい、むしろ真実の歌は、そのような事を考えぬ歌である、というような説を尤もらしく言う者があるが、説は、「ひとわたりは、げにと聞ゆれども、歌といふ物の真の義をしらぬ也」と言い、この問題は「かりそめの事にあらず」と言っている。秩序のないものの動きに、秩序をもたらそうとする言葉本来の働きを、歌は継承しているものだ。独りで合点している秩序とは無意味なものだろう。宣長は歌を礼にくらべている。歌は一種の礼だと言えば、愚かな事と思うかも知れないが、それはこれを考えた人の真意を解しないからだ。礼は人々の実情を導く、その導き方なのであって、内容を欠いた知的形式ではなかった。もろこしの聖人の智慧を軽蔑しないがよい。喪を哭するに礼があるとは、形式を守って泣けというのではない。秩序なく泣いては、人と悲しみを分つ事が出来ない、人に悲しみをよく感じて貰う事が出来ないからだ。人は悲しみのうちにいて、喜びを求める事は出来ないが、悲しみをととのえる事は出来る。悲しみのうちにあって、悲しみを救う工夫が礼である、即ち一種の歌である。
ここは、詳しく言う場所ではないから、言わないが、私は、宣長の片言を決して任意に解釈出来るままに解釈して来たのではない。姿は似せがたく、意は似せ易し。言葉は、先ず似せ易い意があって、生れたのではない。誰が悲しみを先ず理解してから泣くだろう。先ず動作としての言葉が現れたのである。動作は各人に固有なものであり、似せ難い絶対的な姿を持っている。生活するとは、人々がこの似せ難い動作を、知らず識らずのうちに、限りなく繰り返す事だ。似せ難い動作を、自ら似せ、人とも互いに似せ合おうとする努力を知らず識らずのうちに幾度となく繰り返す事だ。その結果、そこから似せ易い意が派生するに至った。これは極めて考え易い道理だ。実際、子供はそういう経験から言葉を得ている。言葉に習熟して了った大人が、この事実に迂闊になるだけだ。言葉は変るが、子供によって繰返されている言葉の出来上がり方は変りはしない。子供は意によって言葉を得やしない。真似によって言葉を得る。この法則に揺ぎはない。大人が外国語を学ぼうとして、なかなかこれを身につける事が出来ないのは、意から言葉に達しようとするからだ。言葉は先ず似せ易い意として映じているからだ。言うまでもなく、子供の方法とは逆である。子供にとって、外国語とは、日本語と同じ意味を持った異なった記号ではない。英語とは見た事も聞いた事もない英国人の動作である。これに近附く為には、これに似せた動作を自ら行うより他はない。まさしく習熟する唯一つのやり方である。 広く言語の問題を考えるにせよ、国語問題という目下の問題を扱うにせよ、言葉の機能は、大人風のものであると思い込むのは浅薄な考えである。何故かというと、言葉に関する子供のやり方は、社会に生きているあらゆる言葉に、その歴然たる印を残しているし、誰も言葉に対し、子供のやり方を止めるわけにはいかないし、実際止めてもいないからだ。例えば、「お早う」という言葉を、大人風に定義して誰が成功するか。「お早う」という言葉は、平和を意味するのか、それとも習慣を意味するのか、それとも、という具合で切りがあるまい。その意を求めれば切りがない言葉とは即ち一つの謎ではないか。即ち一つの絶対的な動作の姿ではないか。従って、「お早う」に対し、「お早う」と応ずるより他に道はないと気附くだろう。子供の努力を忘れ、大人になっている事に気附くだろう。その点で、言葉にはすべて歴史の重みがかかっている。或る特殊な歴史生活が流した汗の目方がかかっている。昔の人は、言霊の説を信じていた。有効な実際行為と固くむすばれた言葉しか知らなかった人々には、これほど合理的な言語学はなかった筈である。私達は大人になったから、そんな説を信じなくなった。しかし、大人になったという言葉はまずいのである。何故かというと、大人になっても、やっぱりみんな子供である、大人と子供は人性の二面である、と言った方が、真相に近いとも思われるからだ。これに準じて言葉にも表と裏とがある。ただ知的な理解に極めてよく応ずる明るい一面の裏には、感覚的な或は感情的な或は行動的な極めて複雑な態度を要求している暗い一面がある。
歌の言葉は、知的理解を容れぬものだ、そんな事なら誰でも言うが、歌が言葉の生活のうちで、どんな位置を占めているものかを反省するものは少い。歌人にも少い。だから歌は技芸の一流に堕して了ったのだ、と宣長は言うのである。歌は読んで意を知るものではない。歌は味わうものである。似せ難い姿に吾れも似ようと、心のうちで努める事だ。ある情から言葉が生れた、その働きに心のうちで従ってみようと努める事だ。これが宣長が好んで使った味うという言葉の意味だ。宣長が、言葉というものの働きについて開眼したのは契沖の仕事によってであるが、ある人が、ろくな歌も詠めなかった坊主に、歌道のわけがわかった筈はないと言ったに対し、歌を読んでも歌の味を知らぬ者もあるし、歌の道の味をあまり深く知ったので、歌が詠めなかった人もあった、と宣長は答えた。何々風が正風と教えられれば、いくらでも歌を詠める歌人がある。これは意から詞に、宣長の言い方では、「飛ばんとする」愚かな人々である。人々には、歴史的な言葉の姿の、めいめいの似せようがある、今世の人には今世の人の似せようがある。それが歌人の個性である。勿論、宣長は、個性という言葉を用いていない。「歌道ばかりは、身一つにあることなり」と言った。
もう止める。久松潜一博士の「契沖伝」から、契沖の手紙の一節を引いて結んで置く。彼は、世間から離れて、古い言葉の姿の吟味に没頭していた人だが、晩年、自分の家で、万葉の講義を開こうと思い立った。世辞多端で、残念乍ら聴講出来ぬと言いよこした人に、言い送った。「あはれ御用事等何とぞ他へ御たのみ候而御聴聞候へかしと存事候。世事は俗中の俗、加様之義は俗中の真に御座候。」
小林秀雄
(2003.2.4)-1
これは彼自身の業である批評というものに対する否定でもある。小林秀雄は自己否定を恐れない。はっきりとした自覚で以て、全てを等価に見積もる。しかし、耳がいたい。ぼくは浅薄であるらしい。
(2003.2.4)-2
ちなみに、太宰は小説家らしい言葉でこのことを言った。曰く、「人工の極致」
(2003.2.5)-1
「姿は似せ難く、意は似せ易し」というのは、その社会性、もう少し狭義に言えば、言葉や歌を礼に比している辺りの話の方面から見れば、小林秀雄の言う事は、いちいちごもっとも、わたくしの意識は浅薄、怠惰極まりない、ということになるのだろうけれど、一日経って、もう少し詳細に論の展開を調べてみれば、これにはいくらか反論ができそうなのである。
ここでは、「歌は情を述べるもの」であるとも、「歌は言葉の粋」であるとも、書かれているけれど、この場合の「述べる」は、「人によく感じて貰う」と同じものなのか。「分つ事」と同義なのか。この辺りにこの論の間隙があるように思われる。おそらく小林秀雄は、これらを基本的には同じものであるとの認識の上で書きすすめているが、ぼくはそれに対して異を称えるのである。言葉というものは、それだけでは決してないのだ。小林秀雄は批評家だ。それから、内部に深い孤独の闇を秘めて持ちながら、外に対して大きく開かれた人物、手っ取り早く言えば、天才を最も好むひとである。彼の興味は、基本的にマジョリティに向いているのである。そういう人が、言葉を、シェアするツールとして(外来語御免。けれどもここは、「大衆」でなく、「マジョリティ」だし、「分つ・共有する」でなく「シェア」、「手段・道具・用途」のどれでもなくて「ツール」だ)認識するというのは道理なのだが、ぼくはそれとは多少違う意識でいる。「述べる」ことは「分つ」ことではないのである。少なくとも「言葉の粋」とは、それだけではないのである。「述べる」とは「伝える(充分な語でない)」ことであり、究極的には複製し、再現させることを目指している面も確かにあるのである。何を再現させるのか。それは勿論「情」である。それ以外には、無い。これには全く同意する。情を分つのではなく、複製し、相手のうちに完全に再現する。言葉から社会性を取り去ることは不可能か。ぼくは可能だと言いたい。言葉から社会性を取除くと、一対一になるのである。この関係の間に生ずる言葉には、確かに「分つ」以外の何ものかが存している。「社会とは、結局一対一の争いのことではないか」と太宰は叫んだが、この「結局」で繋がっている両者の間には、やはり「結局」で結び付けなければならない程の相違があるように見える。太宰は自身の小説を読んでいる相手を全て一対一として認識していただろうか。甚だそれは疑問なのである。「ある情から言葉が生れた、その働きに心のうちで従ってみようと努める事だ。」とは書かれている。これは「礼」と同じ役割を担う「言葉」とは違うものだ。「世間には、万物にはその理があって、風の音水のひびきに至るまで、ことごとく声のあるものは歌である、というような、歌について深く考えた振りをした説」「人に言い聞かせでは止み難きものが歌である。人が聞いても聞かなくても、そんな事はどうでもよい、むしろ真実の歌は、そのような事を考えぬ歌である、というような説」「歌が言葉の生活のうちで、どんな位置を占めているものかを反省するものは少い」「歌には歌の独立した価値がある」「歌の言葉は、知的理解を容れぬものだ」彼が指弾するこれらのありふれた説も、この点からもう一度見直してみる必要がある。なるほど、そのどれもが結局のところ、つまらぬ俗説に過ぎぬ、という結論に落ち着くのかも知れないが、その幾つかについては、書かれたものとは異なった認識を得るのではないかと思う。更には「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」というのも、案外全然違った意味に見えてくるのではないかと思う。「ほんとうに、言葉は短いほどよい。それだけで、信じさせることができるならば」と言って小説を書きつづけた人間のあることを忘れてはならない。彼の目指したところは、「分つ」では決して無かったはずだ。
(2003.2.6)-1
昨日の話、脱字もありましたし、わかりにくかったかしら。まあ、もう何度も何度も馬鹿みたいに吠えたてている事だから、またか、と思って、それで終わりだったかもしれないけれど。意余って弦響かず。ひとつ、負け惜しみの皮肉を言ってみるならば、小林秀雄の詩は下手くそだ。ぼくと五十歩百歩だ。ぼくらがそれなら、中原中也は十万歩だ。けれども、よく似た興奮は彼の「モオツァルト」から受ける事ができる。
(2003.2.9)-1
先週あたり、ジョアンジルベルトというポルトガル人のCDを買おうと書いて、翌日渋谷のタワーレコードを覗きに行った事を思い出す。確かそのとき、ジャンルなんてなんだっていい、というような事を書いたような気がしたが、、、いま確かめた、確かに書いている。あれは間違っていた。ジャンルとは、実に大切なものであったのである。ジャンルを軽視した愚かなぼくは、おかげでタワーレコードの中で路頭に迷う羽目になったのである。路頭に迷うというのは、この場合に用いるべき言葉ではないようであるが、広辞苑を調べると、『ろ-とう [路頭] みちのほとり。みちばた。路傍。 -- に迷う 生活の手段を失って困窮する。「一家の主を失い、---」』という事で、この先の生活の保証を失するというような事をいうような言葉であるようだが、あのときのぼくの、さてタワーレコードに来てみたものの、はて何階へ行ったらいいものか、ジョアンジルベルトのCDさんは何処におはす、とりあえず、ジャズ/フュージョン/ワールドムジーク の階へ行ってフロアを三周してみても、いらっしゃらない。だんだんと訳なく心細くなり、「ジャンルなんて」など昨日豪そうに書いた事もちらりちらりと頭の上を行き来して、変に意固地な心もちにもなって、店員さんに助けを求める事もせずに、Joao Gilberto Joao Gilberto... Joao で日本ではジョアンと呼ばれるのである。確かミロも名はジョアンといったけれど、あれもやっぱり Joao と書くのかしら。それにしても、ジョアンジルベルト、実にありきたりの名前ですな。うぬ、そんなありきたりの名前のくせに見つからないとは、生意気なやつだ。いや、それともありきたりの名前だけに埋もれてしまっているものなのかしら。など、何やら悪態雑じりの馬鹿な連想がふわふわと昇ってきたりなどして、フロアの中をふわらほわらと右往左往している様は、字面からいけば、まさに路頭に迷うといった態であった。
今またなんでそんな事を書くのかといえば、これは、そのようにして HMV でも同じような醜態を晒したのち、探し出すことは諦めて素直にネットで購入する事に思い決め、本屋へ立寄って、川端康成の新潮文庫をあるだけがばと掴んで買って帰り、早速その品定め、次は何を読もうか、「掌の小説」などはおそらく日々気楽に読むことのできるものであろう。ううむ、ここはやはり「雪国」に附属されていた年表を漁って、若い時分のものからひとつずつこなしてゆくのが良かろう、などまたしたり顔してうんうん頷きながら、その片手間、タワーオンラインなる、便利至極なサービスに登録いたして、めでたくジョアンジルベルトを注文し、「チョーカンタン」なる、今は親父ですら言わぬような奇声を発し、満足して眠りについたのであったが、今日、「スズキキヨト様 @TOWER.JPをご利用頂きありがとうございます。 お客様のご注文のxxxxxxxxxxxxxxについてですが、ご注文の中で在庫状況の確認がとれない商品があり、配送が遅れております。大変申し訳ございませんが、お届けまで今しばらくお待ち下さい。 インディーズ、クラシック商品をご注文の場合、発注先の都合により、お取り寄せに2週間から1ヶ月ほどかかる場合がございます。何卒ご了承ください。 また全商品キャンセルが確定した場合は、メールにてご連絡致します。 ご連絡が遅くなりまして申し訳ございませんでした。 何かご不明な点がありましたらご連絡下さい。 よろしくお願いします。」なる、遅延の通知が届いたのである。で、なんでこんな事を書いているのかといえば、つまりは「見つからなかったのも無理はない」と言いたいからである。「あのときの醜態も、ぼくがジャンルを軽視して、ジョアンジルベルトの音楽の属するところを前もって調べて行かなかった事にあるのではなく、ぼくという購入希望の者が存していながらジョアンジルベルトのCDを用意できなかったタワーレコード渋谷店、HMV渋谷店にあるのであり、ひいては自身の音楽の成果物をひろく世間一般に流布せしめる努力を怠っているジョアンジルベルト本人や、ジョアンジルベルトなる優れた音楽家を認知する努力を怠っている世間にあるのである」と言いたいからである。
(2003.2.9)-2
こんな馬鹿な話を書いていないで、さっさと話を終らせたらどうなのか、とは言ってはいけない。なんだかうまく書けないから、こんなものを書き始めているのである。困ったものだ。
(2003.2.10)-1
お元気ですか。ぼくは相変わらずです。そうです。相も変わらず、毎日くさくさしています。習性、というやつです。御飯を食べることと、似ています。夢を見ることとも、よく似ています。そのくらいに、相変わらずです。相変わらずなのですけれども、今日はひとつ、小さなひと助けをしました。いや、ひと、でなかった。間違えました。そんな大それたこと、ぼくにできるはずが、なかった。もっと小さな小さな、ごく僅かなことです。動物を一ぴき、救ったのです。たしかに、そうだったと、思っています。もしか、おおきなお世話、というやつで、助けた助けたと、勝手にひとりで合点し有頂天、いい気になっているだけなのかも知れませんけれど、相手は動物で、助けたことをどう思っているのかなんて、そんな細かいことまでは、よくわかりません。けれども、かえってそれで、気兼ねもなしに、今はただ嬉しく思っているのです。助けたというのは、一ぴきの蛙です。
今年の東京も、十二月にいちど、観測史上何番目かに早い積雪があって、その時分には今年の冬は一寸違うなど、厳冬をみな覚悟していたようですが、それからはまとまった雪を見ることはなく、朝方や暮れどきにぱらぱらと霙のようなものが降り落ちてきた事が何度かあったくらいで、気づけばもう春の気配が街のそこかしこに顔をのぞかせ、いつもながら気の早い洋服屋では明るい色した春物が華やかに店先を飾りはじめ、人々もそろそろ重たいコートやら、うっとおしいマフラーやらにも倦んで、どうやらまあ穏当な、例年並みの東京の冬であったなど、この冬最後の鍋をつつきながら話しあっているようで、今日なども、日中は雲って、日暮れ過ぎから霧雨が音もなく降り出してくる生憎の天気でしたが、そのような日の街頭にあっても、上着を羽織っておれば、もはや寒さに苛立つようなこともなく、挨拶は相変わらず「寒いねぇ」であっても、その調子にはどことなく余裕が含まれ、かえって一ころの厳しい寒さを懐かしんでいるように感ぜられる程の、冬の終わりのなんでもない一日で、ぼくもまた、やはりなんでもないようにして、いつもの路地を歩いていたのでした。
街灯の光の筋が一本二本と等間隔に伸べられた路地を、冴えない面してぽてぽて歩いていたぼくは、その光の筋のうちの一本を跨ごうとする際に、ふと何気なく脇へ眼を逸らしますと、そこに少しばかり大きな石ころくらいの大きさの物体を見とめましたので、これまたふと何気なく立ち止まって、その物体をしげしげと眺めてみたのです。物体は、石ころでも紙屑でも空き缶でも誰かのお財布でもなくて、日暮れ過ぎに降りはじめたその雨のせいでしょうか、往来にのこのこと這い出した一ぴきの牛蛙でした。いぼがいくつもついたその背は、街灯の光としっとり濡れる雨によってつやつやと照って、皮膚の厚みが感ぜられ、それから妙にひらべったく見えました。牛蛙はぼくに背を向けて、じっとしていました。ぼくは「牛蛙だ」と、何のへんてつもない感慨を憶えたきりでした。というのも、このあたりも夏の夜などは、時折どこからか「うー、うー」という、くぐもった牛蛙のあの鳴声が響いてくることがあったので、近くに牛蛙が住んでいる事は大分前から知っていたのですし、車に轢かれてできた痕を、一度ならず見かけたこともあったのです。
はじめは、その牛蛙は死んでいるのかと思いました。ぼくが脇を通りかかっても、まったく動く気配すらないのです。ぼくは息を殺して、照る牛蛙の背中を見つめました。かすかに、脇腹の辺りが、動いているような気がしました。呼吸をしている。生きているのだと、思いました。けれども、それにしては、まあなんという無防備、いくら怠惰な牛蛙とはいえ、このような往来の真ん中で、通行人に背を向けてどうどうとしているのは、この辺りに暮している小さな動物とは、とても思えません。試しに、そのすぐ後ろで、地面を足で強く叩いてみたのですが、一向に気にする様子もなく、相変わらずお腹の脇のほうをかすかに膨らませてはのんびりと縮ませて、実に泰然たるものです。ははあ、なるほど、これではぺしゃんこになるわけだ。しかしお前も、この雨につられて浮かれ、ついついこんな通りにまで出てきてしまったのであって、何もぺしゃんこになろうと思って、のこのこと這い出して来たわけでもあるまい。けれども、そこにいつまでもそうしていたのでは、いずれぼくの見かけた仲間と同じようにぺしゃんこにすり潰されて、アスファルトのしみにならねばならん。何事にも動じないのは悪いことでもないやも知れぬが、この場合はいのち取りだ。せめてもう少し道の端に寄ったがよかろう。など、仔細らしく考え、ぼくは牛蛙に動いてもらうことにしました。そのお尻を、足のつま先でつんつんとやったのです。けれどもなんと、それでも牛蛙は動こうとはしませんでした。なおも二度三度と繰返してみても、やはり動かない。ぼくは実に呆れて、そのまま蹴りあげでもしてしまわない限りは、動かすことはかなわないのではないか、ふと、そのような殺伐たる考えが浮んだりもしましたが、いやいやそれは、と尋常に堪えて、さらに二三度その尻をつつきましたら、ようやく、非常に面倒くさそうに、まるで「わかった。わかった。」とでも言いたげな風にして、牛蛙はびょこたん、びょこたんと重そうに跳ねて道の脇の電柱のたもとに移動したのでした。ぼくはなんだか、自分がお願いしてそこへ移ってもらったような気になって、大変に妙な気がしましたが、ともかくこれで安心と、牛蛙に別れを告げて、またうつうつぽてぽてと歩きだしたのでした。
二三歩も行かないうちに、向うから引越屋のトラックがキュラキュラと、エンジンのベルトの音を大きくさせて、ぼくと牛蛙の路地へ進入して来ました。トラックの車幅からみるに、その車輪はちょうど、牛蛙がいた場所をなぞって行きそうなものでした。ぼくは脇へ避けて、トラックをやり過ごしながら、牛蛙の方を見ました。牛蛙の居るはずの場所は、ちょうど暗い影になるところで、そこからは牛蛙を見とめることはできませんでしたが、ぼくはひと助けをしたと、そう思いました。ぼくは笑顔とも違う、実に曖昧な顔の歪め方をわずかに宙に浮べて、ポケットから、煙草を取り出して咥え、また歩き出しながら火を点けました。トラックが去った雨の路地はまた暗く静かで、そこを通る人影はただぼくだけでしたが、さみしいとはちょっとも思いませんでした。雨も、もう少し強く降ってもいいと思いました。きっと、もう冬も終りかけて、随分と温かい雨が降るようになってきたせいもあると思います。
(2003.2.10)-2
自身のこともわからずにいて、どうして他人のことが理解できようか、という考えはおそらく間違っている。
(2003.2.11)-1
荷づくりをおえると、ジャンヌは窓辺に寄った。だが雨はまだやんでいなかった。
大雨は、夜通し、窓ガラスと屋根にものすごい音をたてて降っていた。低くたれこめて水気をいっぱいに含んだ空が、まるで裂けでもして、地面にすっかり水をあけ、土を牛乳粥のようにどろどろにし、砂糖のように溶かすのではないかと思われた。突風が重苦しい熱気を含んでときどき吹きすぎていった。あふれた溝の水音が、人通りのない往来をみたしていた。往来に沿った家々は、海綿のように湿気を吸いこみ、その湿気は家のなかにまでしみこんで、地下の穴倉から屋根裏にいたるまで壁にすっかり汗をかかせていた。
(2003.2.11)-2
以上、今日たまたま読みはじめようとしたモオパッサン「女の一生」の書き出し。モオパッサンを読んでいていつも思うのは、この冒頭の情景描写のうまさ。あれだけ大量に書いた作品の、毎作毎作、必ず冒頭に、これくらいずつ書いているのだから、うまくて当然なのかも知れないのだけれど、よくもまあネタも尽きずにこれだけ書くなあ、と毎度ながら感心する。うまい。
でもね、これは訳のせいなのか、それともモオパッサンが実際にそう書いているからなのかは、ぼくには知れないのだけれど、「大雨は、夜通し、窓ガラスと屋根にものすごい音をたてて降っていた。」というのは日本語の文としては、どうなのだろう。「大雨は、夜通し降りつづいて、家々の窓ガラスや屋根はひどい音を立てていた。」という風に二文に分けないといけないんじゃあないでしょうか。とかね、何だか知らないけれども、文やら文章やらの構造ばかりに目が行ってね、「そして」が多すぎるし、指示代名詞も濫用されているような気がする。とかなんとか、最近自分が拘っている事柄が、引っかかって引っかかって、全然まともに読めないから、最初の十ページで止めちゃったの。もう、駄目だね。末期的だ。助けてくれえ。川端康成が、うますぎるんだ。
(2003.2.11)-3
心中ね。心中。旅は道づれ、世は情け、ってね。。。軟らかいね、人のこころは。
(2003.2.13)-1
「何故わざわざ死のうとするのか。世の中には生きたくても生き続けることの適わぬものもあるというに」
「ぼくもそのひとりだと自覚しています」
(2003.2.13)-2
「生を求めるにあたいするのは、生が稀薄なものほど、そう言えるものなのではないでしょうか。生きた証とは何を指しているのでしょうか。ぼくには、それは「死んだ事」であるようにしか見えません」
(2003.2.13)-3
「あなたの疑問は、あなたの傲慢と直結しています。それがぼくを死に追い立てるのです。それがぼくを殺す 」
(2003.2.13)-4
「死なない事が正しいというのは、生き続けているから言う事です」
「ならば、君もそうではないのか」
「おっしゃるとおりです。ぼくは堪らなく恥ずかしいのです」
「悪の自覚かね」
「それはとても美しい言葉です。亀鑑とするにするに足る」
「偶像崇拝」
「それとは異なるものであるはずです。信ずるのは、最後の内なる美です」
「なるほど、ナルシストというわけだ」
「そちらの方がより近いと思います」
「どうりで、何を言っても無駄なわけだ」
「はじめに問うたのは、ぼくではなかった筈です。ですから、ぼくはあなた方の所有する他の善意にすがりたい。確か、「尊重する」という言葉だったと思います」
(2003.2.13)-5
生れて来たのだから生きる、というのは足りない。
(2003.2.13)-6
「あなたは全く正しい」
(2003.2.14)-1
仕事が忙しいのです。毎日、終電の勢いなのです。休みにも、ときどき出たりはしているのです。暮れあたりから、ずっとそうなのです。はい、もちろん、いいわけです。あの、まじめに取乱している一人称の文というのは、どのように書けばいいのでしょうか。一語も、書けないのです。どんどん、戻ってゆくのです。
(2003.2.18)-1
同期のひとりが会社を辞める。送別会に行けなかった。教えて欲しい。この間抜けな気分は一体何処からやってくるのか。働くために生きることと、生きるために働くことが一致しない生活は苦しい。いいわけはたくさんだ。何を守るためかもわからずに減らず口をたたくのはよせ。お前の時がへどろの中に沈んでいるぞ。薬中よりも、まだ悪い。煩悶が無いからだ。野良犬より、まだ悪い。諦観が無いからだ。今、体温があると自信を持って言えるか。今のお前に意識が在ると言えるのか。
(2003.2.18)-2
色のない生活。こころが要らないのだ。きっとぼくは機械でも構わない。
(2003.2.18)-3
あまりに月並みな発想で、反吐が出る。
(2003.2.18)-4
洋食屋は昼から主婦の群で、飲み屋ばりにやかましい。酒などもはやこの人たちには必要でないのだ。ぼくらは口を歪めて微かに、声も立てずに笑い、「つまり、」と、それに続く言葉を探す。
「つまり、俺らは馬鹿だってことか」
「。。。そうだ。残念ながらな」
辛うじて、それだけのやりとりをする。6本目の煙草に火を点ける。煙を吐いてからうずくまると、ノイズが睡眠を誘う。諦めて、起きる。それから、カップにミルクを大量に入れてひとこと
「うまいコーヒーが飲みたい」
「。。。馬鹿だってことか」
(2003.2.18)-5
NHK ARCHIVES は利用時間制限があるという極めて間抜けな施設だ。半年篭って神の眼を得るための施設ではないらしい。
(2003.2.20)
スズキです。
たくさんの質問、ありがとうございます。いちいち、考えさせられています。そのほとんんどに対して、二年経つ今にあっても、残念ながら私は十分な回答を得るに至っていません。けれどもとにかくは、現在の私にできる範囲で答えさせていただきます。
・会社の理念について
私は弊社におけるこれを、よく知りません。ぼんやりと眺めている限りにおいては、無いも同じと言えそうに思えます。実際、あまり興味は、ないのです。多少よく言えば、そこまでを視野に入れて仕事をする余裕が無い、ということになるでしょうか。
・個人の希望について
ソフトウェアの会社に勤務する個人の希望としては、より自然なプログラムを書けるようになりたいと日々願っています。まだ、知らないこと、知っていはしても試していないことが腐るほどありますので、今はとにかくそれらをどうにかものにしてゆきたい、というのが実際の気分でしょうか。その先のことは、よくわかりません。もしかしたら、企業理念に関心を持つようになるかもしれません。順序としては、そのようになるかと思っています。
・職場の雰囲気
少なくとも、表面的には平穏です。気合さえ入っていれば、何でも言えますし、大概のことはできます。勿論、言うだけのことはしなければならないので、それは注意する必要があります。これはどこへ行っても同じでしょう。また、個々の腹のうちにはいろいろとあるとは思われますが、これもおそらくどこへ行っても同じことでしょう。
・スーツについて
モノ作りに関心を持たれていることですから、某国営放送の大人気番組を観たことがおそらく一度はあるかと思いますが、あれに登場する人間たちが、スーツを着る着ない、というようなことで、自身の仕事を中断したり再開したりしているように見えましたでしょうか。一日7.5時間働いて、そうして仕事が終れば、仕事のことは忘れてしまう人間の作ったものと、一日中、有形無形に、それをし続けている人間の作ったものとでは、どちらがよいかは、実にはっきりとしています。これはあくまで、理想的な話でしかないのですが、まだ二年ほどですが、私がプログラマをしてみて感じていることです。
ちなみに、お客様のところへ出向くときには、スーツを着ます。礼儀です。
・一日の作業の流れ
この質問は適当ではないかも知れません。一日にできることは限られています。せめて一週間単位で見るべきことかもしれません。
10時から11時、出勤。
昨日、部屋に戻ってから考えたものを、実際にやってみる。
昼食。
6時くらいまで、何をしているのだかよく思い出せない。作業をし続ける。ミーティングがあることもある。まわりの人に相談したりする。雑談とも、言う。
6時過ぎ辺りから調子がで始める。先へ進んでいる、というような気がする。
10時〜12時に帰宅。今日作ったものを思い返してみて、いろいろと考える。
はじめにもどる。
×5日
・仕事の厳しいところ
自身の能力を上まわる仕事の量・質が発生することです。
・仕事の楽しいところ
修行中なので、まだあまり見出せません。ただ、確実にうまくなっていっているという気だけはします。けれども、終わりは見えません。
・教育について
誤解なさっているようですが、優れた教育システムは弊社にはありません。資金・時間に余力の無い中小企業の類型に洩れず、完全に個人の気合に依存しています。けれども、優れた人はやはりいますので、プログラミングに関してだけを言えば、そのような方と徒弟制に近い関係が築ければ、へたな教育システムなどよりも、よほど速く成長できます。
・就職活動をソフトウェア系に絞ることについて
コンピュータを触ることはお好きでしょうか。何かをするためにパソコンを使っている、というのであるならば、その「何か」の分野へ行くことをお勧めします。それにはこだわるべきかも知れません。
「モノを作る喜び」とはいいますが、この場合に重要なのは、「作る」でも「喜び」でもないことを念頭に置くと良いかも知れません。例えば、洋服のデザインをするのも、「モノを作る」なら、家を建てることもそうですし、映画を撮るのも、出演するのも、監督するのも、やはり「モノを作る」ですし、法律を整えることも「モノを作る」ことだと言えそうです。絵を描くことも、曲を作ることも、みな、そうです。レポートを書くことも、また然りです。「モノ」が自身にあっていることがまず前提です。理由は単純で、より長い時間、それに関わることができるからです。
ちなみに、これにあげたものの中で、ソフトウェアを作ることに最も似ているのは、法律を整えることです。ソフトウェアを作るとは、規律を考えて、それをコードで表現するということであるようです。
よいものを作るには応分の手間が要求されます。手間、というのは、人ひとりよりも大きなものであることも、あるいはある知れません。世界一のアニメ作家は、制作の最中には、「もういやだ。次なんて絶対、いくら頼まれたって作らない」など散々愚痴るようですが、世界一の人間ですら、そうなのです。他の塵芥のごとき者については、推して知るべし、というような気がします。
以上が、ご質問いただいた項目別の私の現在の回答になります。おそらく、参考にはならないと、書いていてひしひしと感じました。随分と、大口を叩いたようにも思いますが、読み返す気すら起こりません。ただ今は、あなたが希望し、実際に一年後に入ってゆく「モノ作り」の現場がこれとは異なるものであることを、祈りに似た感情で思っています。
それでは、失礼致します。
<
>
kiyoto@gate01.com