tell a graphic lie
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(2003.3.18)
目を閉じても見えてくるもの。耳をふさいでも聞こえてくるもの。日没によってあらわれ、夜明けとともに消えるもの。ブラウン管内に照射された電子線によって画かれる文字は、レントゲンのように投影する。有は白く、無は黒く。写実的な嘘をつく。シャジツテキナウソヲツク。文字は黒く、嘘をつく。真白なページを、埋め尽くす。最後に余白の白だけが残る。本当のことだけが、白い色になる。
(2003.3.19)
今日は白紙。前後は、問わず。応えず。情けをかけて下さい。
(2003.3.21)
ウィスキーを頭から浴びたい。
(2003.3.22)
家族が来る。安い飲み屋チェーンで夕食にする。ひどくまずい。苦笑する。家族はみな、自分たちの新しい家を無邪気に喜んで、面白がっているようだ。ぼく自身は何となく、長くは居れないな、と思っている。これは、違う。漠然としているけれど、拡がった霧のように大きくある。
(2003.3.23)
時間が食い込んでしまったので、タクシーで帰ってみる。仕事へ出て、5000円以上のマイナスである。運ちゃんは釣り好きで、故郷近くへも何度か釣りに来たことがあると言っていた。運がよければ、ひらめが釣れたそうである。
(2003.3.24)-1
やっぱり戦争のこと、ちょっとだけ。

(2003.3.24)-2
もう、ひと月ばかり前だろうか、米国はよく堪えている、というような事を思って、そんなような事を少しだけ書いたのだけれど。あれは、間違い。米国が始めなかったのは、堪えていたのではなくて、単に始める準備が整っていなかっただけだったのでした。まさか、28万も集めてから始めようとしていたなんて、ぼくは思っていなくて、てっきり、ということでした。始まってみれば、こういう戦争の形式は、昔からよくある形で、贅沢にも軍を三方にも四方にも割いて、そのどれもが相手を圧倒するという、英雄小説の一章になりそうな、まさに征服戦争なのでした。歴史もの、戦場ものの好きな人間などは、みな、胸おどらなければならない。我等が総大将は、優秀な筆頭参謀殿方の進言を十分に吟味して、我等が覇道に相応しい、最も派手なものを選択されました。この時代にご丁寧に騎馬戦までなさって、傍で見守っております私どもも非常に満足しております。帝都陥落の吉報、お待ち申し上げております。きっと、ぼくらはそう言わなければならない。
(2003.3.24)-3
反戦運動というものをぼくは信用していない。人類の永遠の願いというものを軽く見すぎている。せめて、"No War" と "No More This War" を明確に区別して展開すべきだ。銃弾が放たれた後の "No War" の叫びに付き合えるほどのゆとりはぼくにはない。
(2003.3.24)-4
正義とか善意とかいう言葉は、こういう事態に遭ってはたわいないものでしかないのだが、これを責任の範囲というものに置き換えて見てみると、少し鮮明に見えてくるのではないかと、最近思っている。範囲というのは、勿論、明瞭な境界線を有するものではなく、丘のようになだらかな傾斜から成る領域なのであるが、それが存在する限りは、十分に細分化された事象においては、真理値が成立する。即ち、こちら側かあちら側か、妥協か決別か、友好か敵対か、共存か支配か、その他、大小、勝敗、責任の有無、ぼくかあいつか。9/11を経験した、そこに対して明確な責任を有し、またそれに対応する実効的な力を有する者に、問題を放置する事が許されるか、また可能か。その立場にある者は、おそらくはっきりとした自覚を持っているはずである。今後、同様の事件に依って新たにもう三千人の自国民が死傷する危険を排除する際に、一万人の自国民以外の人間が死傷する事態が予測されても、それは為されなければならない。死傷者数を抑える為に最大限の努力が払われるべき事は当然であるが、それを断念する事は決してない。それに対しては、最もプリミティヴな責任というものがかけられているのである。国家という形態、様式、機構、制度、機能等の存立の根拠の一なのである。今日の事態の発生そのものを無くそうと意図すれば、国家というものを何か全く別のものに変えなければならない。その意志と覚悟と行動が必要である。例えば The European Union のような。
(2003.3.25)-1
古尾谷雅人が自殺した。
(2003.3.26)-1
「人道」という言葉は、なにやら大変に気にくわない。その欺瞞こそが、まさにそれである、と言わんばかりである。自身等の現在為している事は、その一部のみが「人道」であり、その余のものはひとのみちに非ず。鬼の道、悪魔の道、
(2003.3.26)-2
三宅島はまだ帰る人のあるようである。きっと土と強く結びついた生活があったのだろう。
(2003.3.27)
早朝三日月、余命短し 白む春空、雲の影 しっ、音を立てないでください 耳をすませば、陽の昇る音がする 街の息吹が四方から立ち昇りはじめる おはようございます よく眠れましたか
(古典風)-こんな小説も、私は読みたい。(作者)

 A

 美濃十郎は、伯爵美濃英樹の嗣子である。二十八歳である。
 一夜、美濃が酔いしれて帰宅したところ、家の中は、ざわめいている。さして気にもとめずに、廊下を歩いていって、母の居間のまえにさしかかった時、どなた、と中から声がした。母の声である。僕です、と明確に答えて、居間の障子をあけた。部屋には、母がひとり離れて坐っていて、それと向かい合って、召使いのものが五、六人、部屋の一隅にひしとかたまって、坐っていた。
「なんです。」と美濃は立ったままで尋ねた。
 母は言いにくそうに、
「あなたは、私のペーパーナイフなど、お知りでないだろうね。銀のが。なくなったんだがね。」
 美濃は、いやな顔をした。
「存じて居ります。僕が頂戴しました。」
 障子を閉めもせず、そのまま廊下をふらふら歩いていって、自分の部屋へはいった。ひどく酔っていた。上衣を脱いだだけで、ベッドに音高くからだをたたきつけ、それなり、眠ってしまった。
 水を飲みたく、目があいた。夜が明けている。枕もとに小さい女の子がうつむいて立っていた。美濃は、だまっていた。昨夜の酔が、まだそのままに残っていた。口をきくのも、物憂かった。女の子には見覚えがあった。このごろ新しく雇いいれたわが家の下婢に相違なかった。名前は、記憶していた。
 ぼんやり下婢の様を見ているうちに、むしゃくしゃして来た。
「何をしているのだ。」うす汚い気さえしたのである。
 女の子は、ふっと顔を挙げた。真蒼である。頬のあたりが異様な緊張で、ひきつってゆがんでいた。醜い顔ではなかったが、それでも、何だか、みじめな生き物の感じで、美濃は軽い憤怒を覚えた。
「ばかなやつだ。」と意味なく叱咤した。
「あたし、」下婢はふたたびうなだれ、震え声で言った。「十郎様を、いけないお方だとばかり存じていました。」そこまで言って、くたくた坐った。
「ペーパーナイフかね?」美濃は笑った。
 女は黙って二度も三度もうなずいた。そうして、エプロンの下から小さい銀のペーパーナイフをちらと覗かせてみせた。
「ペーパーナイフを盗むなんて、へんなやつだ。でも、綺麗だと思ったのなら仕様が無い。」
 女の子は声を立てずに慟哭をはじめた。美濃は少し愉快になる。よい朝だと思った。
「母上がよくない。ろくに読めもしない洋書なんかを買い込んで、ただページを切って、それだけでお得意、たいへんなお道楽だ。」美濃は寝たままで思いきり大袈裟に背伸びした。
「いいえ、」女は上半身を起し、髪を掻きあげて、「奥様は、ご立派なお方です。あたし、親兄弟の蔭口きくかた、いやです。」
 美濃はのそりと起き、ベッドの上にあぐらをかいた。ひそかに苦笑している。
「君は、いくつだね?」
「十九歳になります。」素直にそう答えて、顔を伏せた。うれしそうであった。
「もうお帰り。」美濃は、下婢のとしなど尋ねた自分を下品だと思った。
 女は、マットに片手をついて横坐りのまま、じっとしていた。
「誰にも言いやしない。いいから、早く出て行って行って呉れないか。」
 女の子には、何よりもナイフが欲しかった。光る手裏剣が欲しかった。流石に、下さい。とは言い得なかった。汗でぐしょぐしょにになるほど握りしめていた掌中のナイフを、力一ぱいマットに投げ捨て、脱兎の如く部屋から飛び出た。

 B

 尾上てるは、含羞むような笑顔と、しなやかな四肢とを持った気性のつよい娘であった。浅草の或る町の三味線職の長女として生まれた。かなりの店であったが、てるが十三の時、父は大酒のために指がふるえて仕事がうまく出来なくなり、職人をたのんでも思うようにゆかず、ほとんど店は崩壊したのである。てるは、千住の蕎麦屋に住込みで奉公する事になった。千住に二年つとめて、それから月島のミルクホールに少しいて、さらに上野の米久に移り住んだ。ここに三年いたのである。わずかなお給金の中から、二円でも三円でも毎月かかさず親元へ仕送りをつづけた。十八になって、向島の待合の下女をつとめ、そこの常客である新派の爺さん役者をだまそうとして、かえってだまされ、恥ずかしさのあまり、ナフタリンを食べて、死んだふりをして見せた。待合から、ひまを出されて、五年ぶりで生家へ帰った。生家では、三年まえに、勘蔵という腕のよい実直な職人を捜し当て、すべて店を任せ、どうやら恢復しかけていた。てるは、無理に奉公に出ずともよかった。てるは、殊勝らしく家事の手伝い、お針のお稽古などをはじめた。てるには、弟がひとりあった。てるに似ず、無口で、弱気な子であった。勘蔵に教えられ、店の仕事に精出していた。てるの老父母は、この勘蔵にてるをめあわせ、末永く弟の後見をさせたい腹であった。てるも、勘蔵も、両親のその計画にうすうす感づいてはいたが、けれども、お互い、いやでなかった。十九歳になった。てるも追々お嫁さんになれるとしごろになったのだから、ただ行儀見習いだけのつもりで、ひとつ立派なお屋敷に奉公してみる気はないか、と老母にすすめられ、親の言う事には素直なてるは、ほんとうに、毎日こうしてうちで遊んでいるよりは、と機嫌よく承知した。店のお得意筋に当るさる身分ある方のご隠居の口添で、奉公先がきまった。美濃伯爵家である。
 美濃家は、淋しい家であった。てるは、お寺に来たような気がした。奉公に来て二日目の朝、てるは庭先で手帖を一冊ひろった。それには、わけのわからぬ事が、いっぱい書かれて在った。美濃十郎の手帖である。
 ○あれでもない、これでもない。
 ○何も無い。
 ○FNへチップ五円わすれぬこと。薔薇の花束、白と薄紅がよからむ。水曜日。手渡す時の仕草が問題。
 ○ネロの孤独に就いて。
 ○どんないい人の優しい挨拶にも、何か打算が在るのだと思うと、つらいね。
 ○誰か殺して呉れ。
 ○以後、洋服は月賦のこと。断行せよ。
 ○本気になれぬ。
 ○ゆうべ、うらない看てもらった。長生する由。子供がたくさん出来る由。
 ○飼いごろし。
 ○モオツァルト。Mozart.
 ○人のためになって死にたい。
 ○コーヒー八杯呑んでみる。なんともなし。
 ○文化の敵、ラジオ。拡声器。
 ○自転車一台購入。べつに使途なし。
 ○もりたや女将に六百円手交。借銭は人生の義務か。
 ○駱駝が針の穴をくぐるとは、それや無理な。出来ませぬて。
 ○私を葬り去る事の易き哉。
 ○公候伯子男。公、候、伯、子、男。
 ○銭湯よろし。
 ○美濃十郎。美濃十郎。美濃十郎。初号活字の名刺でも作りますか。
 ○H、ばか。D、低能。ゴルフのカップは、よだれ受け。S、阿呆。学校だけは出ました。U、半紙。あの若さで守銭奴とは。O君はよい。男ぶりだけでも。
 ○昼は消えつつものをこそ思う。
 ○水戸黄門、諸国漫遊は、余が一生の念願也。
 ○私は尊敬におびえている。
 ○没落ばんざい。
 ○パスカルを忘れず。
 ○芸娼妓の七割は、精神病者であるとか。「道理で話が合うと思った。」
 ○誰か見ている。
 ○みんないいひとだと私は思う。
 ○煙草をたべたら、死ぬかしら。
 ○机に向って端坐し、十円紙幣をつくづく見つめた。不思議のものであった。
 ○肉親地獄。
 ○安い酒ほど、ききめがいい。
 ○鏡を覗いてみて、噴きだした。所詮、恋愛を語る顔でなし。
 ○もとをただせば、野山のすすきか。
 ○あたりまえの人になりたい努力。
 ○所詮は、言葉だ。やっぱり、言葉だ。すべては、言葉だ。
 ○KR女史に、耳環を贈る約束。
 ○人の子には、ひとつの顔しか無かった。
 ○性欲を憎む。
 ○明日。
 読んでいって、てるには、ひどく不思議な気がした。庭を掃き掃き、幾度も首をふって考えた。この、謂わば悪魔のお経が、てるの嫁入りまえの大事なからだに悪い宿命の影を投じた。

 C

 私をお笑い下さいませ。毎夜、毎夜、私は花とばかり語り合っております。あなたさまも含めてみんなを、いやになりました。花は、万朶のさくらの花でも、一輪、一輪、おそろしいくらいの個性を持って居ります。私は、いま、ベッドに腹這いになって、鉛筆をなめなめ、考え考えして、一字、一字、書きすすめ、もう、死ぬるばかりに苦しくなって、そうして、枕元の水仙の花を見つめて居ります。電気スタンドの下で水仙の花が三輪、ひとつは右を向き、ひとつは左を向き、もうひとつは、うつむいたまま、それぞれ私に語りかけます。右を向いている真面目の花は、わかっているわよ。けれども、生きなければなりませぬ。左を向いている活發の花は、どうせ、世の中って、こんなものさ。うつむいている少し萎れかけた花は、おひめさま、あなたは花ほどのこともないのね、申しました。生まれながらの古典人、だまっていても歴史的な、床の間の置き物みたいな私たちの宿命を、花さえ笑って眺めて居ります。床の間の、見事な石の置き物は、富士山の形であって、人は、ただ遠くから讃歎の声を掛けてくださるだけで、どうやら、これは、たべるものでも、触るものでもないようでございます。富士山の置き物は、ひとり、どんなに寒くて苦しいか、誰もごぞんじないのです。滑稽の極致でございます。文化の果てには、いつも大笑いのナンセンスが出現するようでございます。教養の、あらゆる道は、目的のない抱腹絶倒に通じて在るような気さえ致します。私はこの世で、いちばん不健康な、まっくらやみの女かも知れませぬけれど、また、その故にこそ、最も高い、まことの健康、見せかけでない、たくましい朝を、知っているように存ぜられます。
 なぜ生きていなければいけないのか、その問いに思い悩んで居るうちは、私たち、朝の光を見ることが、出来ませぬ。そうして、私たちを苦しめて居るのは、ただ、この問いひとつに尽きているようでございます。ああ、溜息ごとに人は百歩ずつ後退する、とか。私はことごろ、たいへん酷烈な結論を一つ発見いたしました。貴族は、エゴイストだ、という動かぬ結論でございます。いいえ、なんにもおっしゃいますな。やっぱり、ご自分おひとりのことしか考えて居りませぬ。ご自分おひとりの恰好のためにのみ、死ぬるばかりに苦しんで居ります。ご存じでございましょうけれど、私の枕元には、三輪の水仙のほかに小さい鏡台がひとつ置かれてございます。私は花を眺め、それから、この鏡のなかを覗いて、私の美しい顔に話しかけます。美しい、と申しあげました。私は、私の顔を愛して居ります。いいえ、哀惜して居ります。白状なさい、あなたさまも全く同じような一夜をお持ちなさいましたことを。私たちの不幸は、私たちの苦悩はみんなここから、この鏡の中から湧いて出ているのでございませぬか。ひとのため、たいへんつまらぬ、ひとりの肉親のため、自身を泥に埋めて、こなごなにする盲動が、なぜ私たちに、出来ないのでございましょう。それが出来たら。ゆるがぬ信仰を以てそれが、出来たら。きざな事ばかり言って居ります。軽蔑なさいませ。私は、やぶれかぶれなの。私、いま、頬をあかくして書いて居ります。私は、あなたさまを愛しています。
 鉛筆を噛んだまま、永いこと考えました。愛しています、と書いて、消そうか、けれども、これは、やっぱりこのまま消さずに置いたほうがいいのだ。とまた思い直し、ああ、もうどうでも、御勝手になさいませ、けれども、やっぱり私は、あなたさまを愛して居ります。言葉がいけないのでございましょう。愛しています、というこの言葉は、言葉にすれば、なんとまあ白々しく、きざっぽい、もどかしい言葉なのか、私は、言葉を憎みます。
 愛は、愛は、捕縛できない宇宙的な、いいえ先験的なヌウメンです。どんな素晴らしいフェノメノンも愛のほんの一部分の註釈にすぎません。ああ、またもや甘ったるい事を言いました。お笑い下さいませ。愛は、人を無能にいたします。私は、まけました。
 教養と、理智と、審美と、こんなものが私たちを、私を、懊悩のどん底の、そのまた底までたたき込んじゃった。十郎様。この度の、全く新しい小さな愛人のために、およろこび申し上げます。笑われても殺されてもいい、一生に一度のおねがい、お医者さまに行って来て下さい、わるい男に抱かれたことございます、或る朝、十郎様に泣き泣きお願いしたとかいう、その愚かしい愛人のために、およろこび申上げます。おゆるし下さい。私は、それを、くだらないと存じました。そうして、そのような愚直の出来事を、有頂天の喜悦を以て、これは大地の愛情だ、とおっしゃる十郎様のお姿をさえ、あさましく滑稽なものと存じ上げます。私も、もう二十五歳になりました。一年、一年、みんな、ぞろぞろ私から離れて行きます。そうしてみんな、あの平民的とやらの群衆の中にまぎれこんで行きます。私は、せめて、此のおばあちゃんひとりを、花火のように、はかなく華麗に育ててゆきます。さようなら、おわかれの、いいえ、握手よ。私、自惚れてもいいこと?あなたは、きっと、私のところおに帰ってまいります。
 お達者にお暮らしなさいまし。
KR。

 D

 雨降る日、美濃は書斎で書きものをしていた。仔細らしく顔をしかめて、書きものをしていた。
 あそび仲間の詩人が、ひょっくりドアから首を出した。
「おい、何か悪い事をしに行こうか。も少し後悔してみたい。」
 振り向きもせず、
「きょうは、いやだ。」
「おや、おや。」詩人は部屋へはいって来た。「まさか、死ぬ気じゃないだろうね。」
「いいかい?読むぞ。」美濃は、机に坐ったままで、自分の労作を大声で読みはじめた。
「アグリパイナは、ロオマの王者、カリギュラの妹君として生れた。漆黒の頭髪と、小麦色の頬と、痩せた鼻とを持った小柄の婦人であった。極端に吊りあがった二つの眼は、山中の湖沼の如くつめたく澄んでいた。純白のドレスを好んで着した。
 アグリパイナには乳房が無い、と宮廷に集う伊達男たちが囁き合った。美女ではなかった。けれどもその高慢にして悧撥、たとえば五月の青葉の如く、花無き清純のそそたる姿態は、当時のみやび男の一、二のものに、かえって狂おしい迄の魅力を与えた。
 アグリパイナは、おのれの仕合せに気がつかないくらいに仕合せであった。兄は、一点非なき賢王として、カイザアたる孤高の宿命にも聡くも殉ぜむとする凄烈の覚悟を有し、せめて、わがひとりの妹、アグリパイナにこそ、まこと人らしき自由を得させたいものと、無言の庇護を怠らなかった。アグリパイナの男性侮辱は、きわめて自然に行われ、しかも、歴史的なる見事さにまで達した。時の唇薄き群臣どもは、この事実を以て、アグリパイナの類まれなる才女たる証左となし、いよいよ、やんやの喝采を惜しまなかった。
 アグリパイナの不幸は、アグリパイナの身体の成熟と共にはじまった。彼女の男性嘲笑は、その結婚に依り、完膚無きまでに返報せられた。婚礼の祝宴の夜、アグリパイナは、その新郎の荒飲の果の思いつきに依り、新郎手飼の数匹の老猿をけしかけられ、饗宴につらなれる好色の酔客たちを狂喜させた。新郎の名は、ブラゼンバート。もともと、戦慄に依ってのみ生命の在りどころを知るたちの男であった。アグリパイナは、唇を噛んで、この陵辱に堪えた。いつの日か、この目前の男性たちすべてに、今宵の無礼の悔いをさせてやるのだ、と心ひそかに神に誓った。けれども、その雪辱の日は、なかなかに来なかった。ブラゼンバートの暴圧には、限りがなかった。こころよい愛撫のかわりに、歯齦から血の出るほどの殴打があった。水辺のしずかな散歩のかわりに、砂塵濛々の戦車の疾駈があった。
 相剋の結合は、含羞の華をひらいた。アグリパイナは、みごもった。ブラゼンバートは、この事実を知って大笑した。他意は無かった。ただ、おかしかったのである。
 アグリパイナは、ほとんど復讐を断念していた。この子だけは、と弱草一すじのたのみをそこにつないだ。その子は、夏の真昼に生れた。男子であった。膚やわらかく、唇赤き弱々しげの男子であった。ドミチウス(ネロの幼名)と呼ばれた。
 父君ブラゼンバートは、嬰児との初の対面を為し、そのやわらかき片頬を、むずと抓りあげ、うむ、奇態のものじゃ、ヒッポのよい玩具が出来たわ、と言い放ち、腹をゆすって笑った。ヒッポとは、ブラゼンバートお気にいりの牝獅子の名であった。アグリパイナは、産後のやつれた頬に冷たい微笑を浮べて応答した。この子は、あなたのお子ではございませぬ。この子は、きっとヒッポの子です。
 その、ヒッポの子、ネロが三歳の春を迎えて、ブラゼンバートは石榴を種子ごと食って、激烈の腹痛に襲われ、呻吟転輾の果死亡した。アグリパイナは折しも朝の入浴中なりしを、その死の確報に接し、ものも言わずに浴場から踊り出て、濡れた裸体に白布一枚をまとい、息ひきとった婿君の部屋のまえを素通りして、風の如く駈け込んでいった部屋は、ネロの部屋であった。三歳のネロをひしと抱きしめ、助かった、ドミチウスや、私たちは助かったのだよ、と呻くがごとき囁き、涙と接吻でネロの花顔をめちゃめちゃにした。
 その喜びも束の間であった。実の兄、カリギュラ王の発狂である。昨日のやさしき王は、一朝にしてロオマ史屈指の暴君たる栄誉を担った。かつて叡智に輝ける眉間には、短剣で切り刻まれたような無慙に深い縦皺がきざまれ、細く小さい二つの眼には狐疑の焔が青く燃え、侍女たちのそよ風ほどの失笑にも、将卒たちの高すぎる廊下の足音にも、許すことなく苛酷の刑罰を課した。陰鬱の冷(とう)、吠えずして噛む一匹の病犬に化していた。一夜、三人の兵卒は、アグリパイナの枕頭にひっそり立った。一人は、死刑の宣告書を持ち、一人は、宝石ちりばめたる毒杯を、一人は短剣の鞘を払って。
『何ごとぞ。』アグリパイナは、威厳を失わず、きっと起き直って難詰した。応えは無かった。
 宣告書は手交せられた。
 ちらと眼をくれ、『このような、死罪を言い渡されるような、理由は、ない。そこを退け、下賎の者。』応えは無かった。
 理由は、おまえに覚えがある筈、そう言ってカリギュラ王は、戸口に姿を現した。今朝おまえは、ドミチウスめを抱いて庭園を散歩しながら、ドミチウスや、私たちは、どうしてこんなに不仕合せなのだろうね、と恨みごとを並べて居った。わしは、それを聞いてしまった。隠すな、謀反の疑い充分。ドミチウスと二人で死ぬがよい。
『ドミチウスを殺しては、いけません。』アグリパイナの必死の抗議の声は、天来のそれの如く厳粛に響き渡る。『ドミチウスは、あなたのものではない。また、私のものでもございません。ドミチウスは、神の子です。ドミチウスは、美しい子です。ドミチウスは、ロオマの子です。ドミチウスを殺しては、いけません。』
 疑懼のカリギュラは、くすと笑った。よし、よし。罪一等を減じてあげよう。遠島じゃ。ドミチウスを大事にするがよい。
 アグリパイナは、ネロと共に艦に乗せられ、南海の一孤島に流された。
 単調の日が続いた。ネロは、島の牛の乳を飲み、まるまると肥えふとり、猛く美しく成長した。アグリパイナは、ネロの手をひいて孤島の渚を逍遥し、水平線のかなたを指さし、ドミチウスや、ロオマは、きっとあの辺だよ。早く、ロオマに帰りたいね、ロオマは、この世で一ばん美しい都だよ、そう教えて、涙にむせた。ネロは無心に波とたわむれていた。
 その頃、ロオマは騒動であった。蒼ざめた、カリギュラ王は、その臣下の手に依って弑せられるところとなり、彼には世嗣は無く全く孤独の身の上だったし、その後、誰が位にのぼるのか、群臣万民ふるえるほどの興奮を以て私議し合っていた。後継は、さだめられた。カリギュラ王の叔父、クロオヂヤス。当時すでに、五十歳を越えていた。宮廷に於ける諸勢力に対し、過不足ないよう、ことさらに当らずさわらずの人物が撰定せられたのである。クロオヂヤスは、申し分なき好人物にして、その条件に適っている如く見えた。ロオマ一ばんの貝殻蒐集家として知られていた。黒薔薇栽培にも一家言を持っていた。王位についてみても、かれには何だか居心地のわるい思いであった。恐縮であった。むやみ矢鱈に、特赦大赦を行った。わけても孤島に流されているアグリパイナと、ネロの身の上を恐ろしきものに思い、可哀そうでならぬから、と誰にとも無き言いわけを、頬あからめて呟きつつ、その二人への赦免の書状に書名を為した。
 赦免状を手にした孤島のアグリパイナは狂喜した。凱旋の女王の如く、誇らしげに胸を張って、ドミチウスや、おまえの世の中が来た、と叫び、ネロを抱いて裸足のまま屋外へ駈け出し、花一輪無き荒磯を舞うが如く歩きまわり、それから立ちどまって永いことすすり泣いた。
 アグリパイナはロオマへ帰って来て、もう恐ろしい人はいないぞ、とのびのびと四肢をのばして、ふと、背後に痛い視線を感じた。クロオヂヤスの后メッサライナ。メッサライナは、アグリパイナの瞳をひとめ見て、これは、あぶない、と思った。烈々の、野望の焔を見てとった。メッサライナには、ブリタニカスと呼ばれる世子があった。父のクロオヂヤスに似て、おっとりしていた。ネロの美貌を、盛夏の日まわりにたとえるならば、ブリタニカスは、秋のコスモスであった。ネロは、十一歳。ブリタニカスは、九歳。
 奇妙な事件が起った。ネロが昼寝をしていたとき、誰とも知られぬやわらかき手が、ネロの鼻孔と、口とを水に濡れた薔薇の葉二枚でもって覆い、これを窒息させ死にいたらしめむと企てた。アグリパイナは、憤怒に蒼ざめ、----」
「待て、待て。」詩人は、悲鳴に似た叫びを挙げた。「ひとの忍耐にも限りがある。一体、それは何だね。」
「ネロの伝記だ。暴君ネロ。あいつだって、そんなに悪い奴でも無かったのさ。」不覚にも蒼ざめている。美濃は自身のその興奮に気づいて、無理に、にやにや笑いだした。「これから面白くなるのだがな。アグリパイナは、こんなに、ネロを大事に、大事に育て、ネロを王位にまで押し上げてやりたく思って、あらゆる悪計を用いる。はては、クロオヂヤスの后になりすまして、そうしてクロオヂヤスを毒殺する。それから、もっともっと悪いことをする。おかげでネロは王位についた。それから、----」
「ネロも悪い事をする。」詩人は落ちついて言った。
「いや、アグリパイナは、ネロの恋の邪魔をして、----」
「うむ、なるほど。」詩人、煙草をふかしながら、「ネロは、それゆえ、母をなくした。お母さん、おゆるし下さい。私は、あなたのものじゃない。母は、苦しい息の下から囁く。おまえ、お母さんが憎いのかい?」
 美濃は興覚め顔に、「まあ、そんなところさ。」椅子から立ちあがって部屋の中を歩きまわり、「追い詰められた人たちは、きっときっと血族相食をはじめる。」
「よせよ。どうも古い。大時代だ。」詩人は、美濃の此のような多少の文才も愛しているし、また、こんな物語を独りでこっそり書いている美濃の身の上を、不憫にも思うのだが、けれども、美濃のこんどの無法な新手の恋愛には、わざと気づかぬ振りをしていようと思った。
「まるで、映画物語じゃないか。」
「呑むか?」美濃は、机上のウイスキイの瓶に手をかけた。
「敢えて辞さない。」詩人も立ちあがった。
 これでいいのだ。
「ロオマ人のために。」ふたり同時に言い、かちっとグラスを触れ合わせる。「滅亡の階級のために。チェリオ。」

 E

 人のこころも
 まこと信じてもらうには
 十字架に
 のぼらなければ
 なるまいか
(イブン・ゴル)

 F

 てるは、解雇された。美濃とのあいだが露見したからでは無い。ふたりは、ひとめを欺く事には巧みであった。てるは、その物腰の粗雑にして、言語もまた無礼きわまり、敬語の使用法など、めちゃめちゃのゆえを以て解雇されたのである。
 美濃は知らぬ振りをしていた。
 三日を経て、夜の九時頃、美濃十郎は、てるの家の店先にふらと立っていた。
「てるは、いますか?僕は美濃です。」
 出て来たのは、眼のするどい痩せがたの青年であった。勘蔵である。
「あ、」勘蔵は吃っとなって、「てる坊!」と奥のほうへ呼びかけた。
「しつれいします。」そのまま美濃は、店先から離れて、蹌踉と巷へひきかえした。ぞろぞろ人がとおっていた。
 息せき切って、てるが追いかけて来た。美濃のからだに、右から左からまとわりつくようにして歩きながら、
「え?なぜ、来たの?あたしは、手癖がわるいのよ。追い出されたのよ。あたしの家、きたなくて、驚いたでしょう?でも、おねがい、ばかにしないで、ね。家の人たち、みんあやさしいのだもの。一生懸命やっているのよ。笑っているの?なぜ、だまっているの?」
「君には、おむこさんがあるのだね。」
「あら、あたし、こんな恰好して、みっとも無いのね。」急に老けた口調でそんな事を呟き、顔を伏せた。「このごろ、ろくすっぽ髪も結わないのよ。」
「あの人と、わかれること、出来ないか。僕は、なんでもする。どんな苦しい事でも、こらえる。」
 てるは、答えなかった。
「いいんだ、いいんだ。」美濃は、逃げるように足を早めた。「いいんだ、だいじょうぶだ。お互い死なない事だけは、約束しよう。なんて言いながら、危ないのは、僕のほうなんだからなあ。」
 ふたり、まっすぐを見つめたまま、せっせと歩いた。ただ、歩いた。歩いた。千里も歩いた。

 G

 美濃十郎は、実業家三村圭造の次女ひさと結婚した。帝国ホテルで華麗の披露宴を行った。その時の、新郎新婦の写真が、二、三の新聞に出ていた。十八歳の花嫁の姿は、月見草のように可憐であった。

 H

 みんな幸福に暮した。
太宰

(2003.3.29)-1
「斜陽」の雛型である。その完成には、更に五年の歳月を待たねばならなかった。
(2003.3.29)-2
抑制に就いて。男の抑制というものは、どうもみな、このような滑稽の悲喜劇の様相を呈するもののようで、実によろしくない。抑える事で輝きを放つのは、女性だけのようである。
(2003.3.29)-3
途中の C の手紙の部分は、なにやら大変にむずかしきもので、これは一体誰の書いたものとしてここにあるのだろうか、両手で頭を覆って量の増えてきた髪をぐるぐる掻きまわしてみても一向にわからず、何度か読み直しても、そのたびに、これは太宰の独白に過ぎず、作中人物のどれにも当てはまらぬ、はて、これは一体、なんの趣味だ、との見方が強まるばかりで、首をくるくるひねり、酒を飲みたいと思い、それでも、この一人称の手紙文が話の流れを少しも害わずにいることを発見して、文章というものの不可解さに再見、また何をどう書いていいのかわからなくなる。やはり、酒が飲みたい。「古典風」は傑作ではないが、重要なる位置付けを持った作品であるし、十分に面白い。ちなみに、アグリパイナの話の部分を写すのは、実に疲れた。密度が濃いのである。
(2003.3.29)-4
花粉症かと思っていたら、どうも風邪をひいていたようである。多少の寒気を感ずるが、熱を測らないので詳しいことはわからぬ。桜は三分咲きである。
(2003.3.29)-5
わかってくれ。実に苦痛なんだ。君がぼくと逢っている数時間のうちにもたらして呉れる自身の情報なんて実に僅かなものだ。ぼくは人を信じないんだ。いや、少なくとも、他人に心をゆるすのに非常に多大なる時間を要する人間なんだ。ぼくは未だに、両親をすら、兄弟ですら、信用してはいないんだよ。確かに、確かにはじめの直感は在った。ぼくは自身のその直感というものには多少の自信を有してもいる。けれども、それでもやはり、君は他人だ。ぼくは未だに君をきちんとは識らないから、つまり、ぼくの意思する事柄に関して、君の抱くであろう見解の予想を立たせる事が現在はできないのであるから、ぼくはぼくの一切の行動を封ぜざるを得ないのだ。その封ずる、という事も君に示す行動の一であり、態度の一種である事は知っているつもりだ。そして、それは良い印象をもたらすものでは無い事も。けれども、やはり、ぼくはそれを選ぶのだ。間を取り繕うとは思わぬのだ。そのようにしてまで、君の笑顔を見たいとは、望まぬのだ。わかってくれ。ぼくは君とぼく自身とを完全に操りたいんだよ。安全が、欲しいのだ。ただ、その安全だけを、ぼくは望んでいるのだ。母の胎内、その再現のみがぼくの希求するただひとつのものだ。
(2003.3.29)-6
明日は、話の続きがうまくいかなければ、Chara の新しいアルバムについて少し書きたいと思います。彼女は芸術家というものの王道を歩みつつあります。ぼくはこのアルバムで、ようやくにその事に気付きました。そうか、Chara は芸術家だったのだ。少し驚きました。
(2003.3.29)-7
ぼくは両親が死んだら泣くだろうか。それは映画を見たりして、流す涙とは異なるものであるだろうか。よく泣く人間は、本質的には冷たく薄情な人間なのかもしれない。感情が単調で、浅いのである。全部、泣けば済むと思っているのである。また、それを実行しているのである。涙は、底の深いところに少しずつ蓄積され、その分だけ感情が浅くなる。そうして、そのうち、生きて居なくても、別に変らなくなる。事象の意味を軽視した罰である。躰が固形に近づいてゆく。ミイラ、即身仏である。


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